160.あの人のいない世界で
駄目だ、と分かっているのに、体の震えを止めることができなかった。
凍りついた手の中で、ヴィルヘルムの剣がカタカタと鳴っている。これじゃ彼の左眼に恐怖していることが丸分かりだ。
けれどこの震えはたぶん、本能的な畏怖。
何故って彼が眼帯を外す前には何も感じなかったのに、ヴィルヘルムの素顔があらわになった途端、とんでもなく禍々しい気配が二人のいる部屋を支配した。
(こ、れは、魔族、の──)
あの晩、クルデールと名乗った魔物から感じた気配と同じ。強大にして強烈な魔の波動だ。しかも彼の左眼はひとつの独立した生き物のごとく、ギョロギョロと単独で動き回っている──まるで何かを探し求めているかのように。
「ヴィ……ヴィル、それって……」
「……これはただの呪いとは違う。フラルダに取り憑いていた憑魔が、呪いの力で俺の左眼に宿ったものだ」
「ど……どういう、こと、」
「魔物憑き、とでも言えば分かりやすいか。レイ曰く、呪いの効力がこういう形で表れるのは非常に稀な事例らしいがな。つまり俺の体内には、俺という人間の他に魔物が一匹棲んでいる。俺とはまったく別の意思を持つ生き物だ。ある意味、ハイムと体を共有しているジェロディと似たような状態だな」
「じ……じゃあヴィルは、魔族、なの?」
「……半分は、そうだ。この左眼を使えば一時的にではあるが、憑魔のように人を操ることができる。チッタ・エテルナの亭主からお前たちの居場所を聞き出したのも、コルノ島へ向かう際にサラーレの漁師を一人従わせたのも、コレの力だ」
「……!」
「だが一方で、魔物は絶えず俺の体を支配しようとしている。呪いが広がり、やがて脳まで到達すれば、俺は人ではなくなるそうだ。そのときが来れば理性を失い、人間の姿で人間を狩る化け物になる」
ガシャ、と重い音がして、膝の上にシュトゥルムが落ちた。けれどすんでのところで抱き留め、縋るように体へ引き寄せる。震えはまだ止まらなかった。自分の怯えが、ヴィルヘルムを傷つけると分かっていても。
だって彼の体内に棲むという魔物が、蠢動の末にカミラの姿を見つけると──ニタリと細く、せせら笑った。
「……っ、カミラ、俺の荷物はあるか?」
瞬間、左眼をきつく押さえながらヴィルヘルムが言う。はっとしたカミラはシュトゥルムを抱いて立ち上がった。
ヴィルヘルムの荷物なら、確かシュトゥルムが置かれていた棚の陰にまとめておいたはずだ。彼が常に身に帯びている革の物入れからそれ以外の荷物まで、全部そこに保管してあった。
「に、荷物ならここにあるけど、どれを取ればいい?」
「俺が、いつも腰に提げている……赤い房のついた物入れだ。その中にある、瓶を……」
──赤い房。あった。物入れの口からはみ出している。
カミラは急いでしゃがみ込み、物入れの口を開けた。と同時に目を見張る。
だって小さな物入れには、あの晩ヴィルヘルムがカミラに渡したのと同じ、色とりどりの水晶の小瓶が入っていた。
中身はたぶん、聖水だ。全部で四、五本はある。カミラはどうするべきか迷ったあげく、青色の小瓶を手に取るとヴィルヘルムのもとへ引き返した。
「ヴィ、ヴィル、これ?」
中身がちゃんと聖水であることを祈り、手にした瓶をヴィルヘルムへ差し出す。途端に彼が呻きを漏らした。どうやら左眼の魔物が聖水の聖気を感じ取り、逃れようと暴れているらしい。ヴィルヘルムは魔眼を掌で押さえ込むと、額に汗を浮かべながら、右眼だけをカミラへ向けた。
「……その一本は、お前にやる。肌身離さず持っていろ。お前は、魔族に狙われているから……」
「ど……どうして? あのクルデールとかいう魔物も言ってたけど、あいつらはどうして私を狙うの? 私、あいつらの同志なんかになったつもりは……!」
「それは、お前が……エマニュエルの命運を左右する存在だからだ」
「え──」
「お前は、神子と同じか……いや、あるいは神子にも勝る、常人とは比べ物にならないほどの運命を背負って生まれてきた。マナはその宿命からお前たち兄妹を救おうとしたが、力及ばず……だから俺は、お前を追ってこの国へ……」
「待って」
「マナはお前の父親を……ヒーゼルを、慕っていた。あの男の子供たちが、自分と同じ運命を辿るのを黙って見ていられなかったんだ。だから俺は、あいつに代わってお前を……」
「ヴィル、待って」
「……魔族もすべてを知っていて、お前を利用しようとしている。お前を地上から奪い去ることで、神の計画を狂わせようと……俺の中にいる魔物も、隙あらばお前を攫えと騒ぐ。だから、聖水を……俺が我を失ってお前を襲う日が来たら、迷わず使って、俺を殺せ」
ガシャン、と。
今度こそシュトゥルムが床に落ち、鐺を支点にくるりと回った。
おかげで倒れた剣に足を踏まれることはなかったが、カミラは、動けない。
言葉を発しようとして、喉が引き攣った。必要なことはすべて話したということなのか、ヴィルヘルムはもう、何も言わない。
「分からない」
だからカミラは、そう告げた。
「ヴィルが何を言ってるのか、全然分からないわ」
「……分からなくていい。だが、この顔だけは覚えておけ。いつかお前を襲うかもしれない魔物の顔だ。そうなったとき、迷わず心臓を貫けるように」
俺を恐れろ、と。
ヴィルヘルムはそう言っているのだろうか。
自分は人間ではない。ゆえに恐れ、距離を置け、と。
けれどあの晩、彼は言った。
『俺は初めから人間で、これからも人間だ』
「……分かったわ」
言って、カミラは先程まで座っていた椅子の上に聖水の小瓶を置いた。直後、ヴィルヘルムのいる寝台の上へ身を乗り出し、膝をついて体重を乗せる。
ギシリ、と微かに寝台が鳴った。面食らっているヴィルヘルムの懐へ入り、真っ黒な彼の左頬へ手を伸ばす。
「おい、カミラ──」
「じっとしてて。あなたの顔を、覚えてるんだから」
ヴィルヘルムは呆気に取られていた。また鼻と鼻とが触れそうな位置に互いの顔があるものの、今度は気にならない。恐る恐る触れたヴィルヘルムの左頬は、ザラついていた。見た目からして人間の皮膚ではないが、感触までまったくの別物だ。
譬えるならば、薄く砕いた木炭が皮膚の上に貼り合わされているような。見た目も感触も、そんな感じ。とにかく硬くて、体温を感じない。見つめていると吸い込まれそうなほど黒い眼は、先程からずっとカミラを凝視していた。
「……この黒いのって、どんどん広がってるの」
「ああ。魔物の力が強くなるほどに、皮膚の変質も進行している」
「昔はもう少し小さかった?」
「そうだな。呪われた当初は、本当に眼の周りだけという感じだったが……フラルダを亡くした直後、俺は自暴自棄になっていた。こいつがもたらす破壊衝動と、魔物に対する憎しみでやつらを狩りまくっていたんだ。その度に傷を負い、死にかけ……俺の力が弱まる度に、こいつは力を増していった」
「今のヴィルからは、想像もつかないけど……」
「だとしたらマナのおかげだな。あいつが眼帯の裏に縫った希術の法陣が、魔物の力を弱めている。あの眼帯がある限り、よほどのことがなければ魔物化は進行しない」
「マナさんって希術を使えたの。だったらそれで魔物を取り除くこともできたんじゃ──」
「いや。あいつの力をもってしても、魔物を俺から引き剥がすことだけはできなかった。二人で旅した八年間、ありとあらゆる方法を試したが……この呪いを解くのは不可能だということを、証明しただけに終わったよ」
そう言って浅く笑ったヴィルヘルムはまた、遠い目をしていて。けれど彼の表情は何かを恨んでいるとか諦めているとか、そういった類のものには見えなかった。
たぶん彼はただ、懐かしんでいる。
呪いに苦しみながらも、そんな自分に寄り添ってくれたマナとの日々を。
だけどそのマナはもういない。
いないのだ、どこにも。
カミラが愛してやまなかったフィロメーナを失ったように。
「……おい」
と、不意に至近距離で彼が言った。
「おい、カミラ。何故泣く」
ヴィルヘルムは突然のことに多少戸惑っているようで、しかしカミラは彼を直視できなかった。
瞳からひとりでに溢れてくる涙が、ぼろぼろと零れ落ちていく。カミラが嫌いな雨みたいに降り注いだ雫は、白い掛布の上にいくつものシミを作った。
「もういい。そこまでして無理に触らなくても──」
「違うわよ、馬鹿!」
「ばっ……」
「マナさんは、死んじゃったんでしょ? もうずっと前に……何年も前に……!」
「あ、ああ……」
「その間、ヴィルはずっと……ずっと、一人で……大切な人を、二人も亡くして……濡れ衣まで着せられて……なのに、ひとりで……!」
何故だろう。カミラはそう思うと悲しくて仕方がないのだ。
愛する人を手にかけ、呪いに苦しみ、いわれのない罪を背負いながら。それでも生きて、ようやく手にした平穏も失って、彼はもう何年もひとりきりだった。
そんな日々に思いを馳せたら、悲しくて悲しくて仕方がない。ヴィルヘルムが再び黄皇国の土を踏むまで過ごした歳月は、きっと自分が故郷で感じていたものとは比較にもならないほど孤独なものだったろうから。
だのに彼は生きることを投げ出さず、会いに来てくれた。
マナの遺志を継いで、他の誰でもない、自分に。
「……確かにマナを失ってからの七年は、長かった」
と、耳元で彼が言う。
「俺はひとりで、マナがもういないことを痛感する日々を……あの女は鬱陶しいくらいに賑やかだったからな。あいつのいない世界は、静かすぎた」
喉がまたきゅうと狭まって、苦しい。
彼の味わった孤独を思うと、涙が溢れて止まらない。
けれどそのとき、カミラは背中にぬくもりを感じた。
同時にぐいと頭を引き寄せられ、ヴィルヘルムの肩に顔を埋める格好になる。
「だがもう違う。今の俺には仲間がいる。生憎とゲヴァルト語は話せないが、ちゃんとここに、な」
あ、とカミラは思い出した。
あの晩、自分がヴィルヘルムに投げかけた台詞。
あれはただ、互いが生きていることを確かめ合うために紡いだ言葉だったけど。
ヴィルヘルムは、ちゃんと覚えていた。覚えていてくれた。
そう思ったらカミラはまた泣けてきて、そんな自分に笑ってしまう。
「じゃあ今度、ゲヴァルト語を教えてくれる? こう見えて私、二ヵ国語話せますし。何ならゲヴァルト語も話せるようになって、ハノーク語しか話せない人たちをあっと言わせてやりたいわ」
「それはまあ、構わんが……確かにお前なら、ゲヴァルト語も習得できるかもしれないな。何せ父親はゲヴァルトの血筋だろう?」
「……え?」
「違うのか? 〝ヒーゼル〟というのはゲヴァルト族の名で、一族の中でも一、二を争うくらい多い名前だが」
カミラは顔を上げ、唖然としてヴィルヘルムを見つめてしまった。気づけば涙も引っ込み、ただただ彼の目の前で座り込んでいるだけになる。
「そう……なの? でも、お父さんは正真正銘、郷の生まれだって……」
「なら、お前の祖父か祖母がゲヴァルトだった可能性は? 俺の一族は常に移住を繰り返しているから、余所の人間と子を設けることも珍しくない。そうなった場合、大抵は所帯を持ってその土地に留まるしな」
「わ……分かんない。お父さんはおじいちゃんとおばあちゃんのこと、ほとんど話さなかったから……なんて名前だったのかも、どんな人だったのかも、全然」
「そうか。ではお前も祖父母とは面識がないんだな」
「う、うん……お母さんが郷の外から来た人ってことは知ってるけど、それ以外は──」
──何も、知らない。
思えば父のことも、母のことも。
父のヒーゼルは陽気な人だったが、同時に自分のことはあまり喋りたがらない人だった。カミラがあの人について知っていることと言えば、若い頃ルエダ・デラ・ラソ列侯国で傭兵をしていたということと、そこで出会った母をかの国の貴族から奪って妻にしたということと、クィンヌムの儀に出るまでは相当な悪たれだったが、郷に戻ってからはだいぶ丸くなったらしいということだけ。
最後の情報に至っては、去年初めてイークの口から聞いた話だ。代わりに父は母の話はよくしたが、それも大抵が思い出話という名ののろけ話で、母自身の過去──たとえば母の家の名前や彼女が本来結婚するはずだった許嫁のこと──についてはほとんど聞かされた覚えがなかった。
(ていうか、ちょっと待って)
そう言えばこの一両日、本当に色々ありすぎて記憶から消し飛んでいたけれど。
確かクルデールとかいう魔物は、父が神子に仕えていたとか言わなかったか? 何の神子と言ってたっけ? 運命? 正義……?
「あ、あの、ヴィル……もし、知ってたらでいいんだけど」
「何だ?」
「わ、私のお父さんって、神子に仕える戦士だったの……?」
「……そこからか」
尋ねられたヴィルヘルムは心底呆れている風だった。困り果てたように額を押さえ、されど空いた手で落ちた眼帯を掴み取ると、改めて身につけながら言う。
「俺も詳しく知っているわけではないが、マナから聞いた話によれば、ヒーゼルはかつて正義神ツェデクの神子に仕える騎士だったそうだ。これは比喩ではなく、本物の『騎士』だな。ヒーゼルは国の外から来た余所者でありながら、類稀なる剣才を見込まれて騎士の位を与えられた。まあ、当然ながら古き良きルエダ貴族たちには、あまり歓迎されなかったらしいがな」
「お……お父さんが、騎士……ていうか、ツェデクの神子って……」
「だがやがてツェデクの神子は、列侯国内で起きた内乱の責任を取らされ流刑に処された。その際、ヒーゼルも処刑されるはずだったが紆余曲折あって斬首を免れ、家族と共に列侯国を離れたと聞いたぞ」
カミラは呼吸も忘れて放心していた。様々な情報が一気に流れ込んできたせいで処理能力が追いつかず、頭が機能を停止している。
父は、正義の神ツェデクの神子に仕えた騎士。
それでいて本来は、列侯国で処刑されるはずの身の上だった。
いつもへらへらと笑っていて、親バカで、適当なことばかり言ってはしょっちゅう族長に叱られていたあの父が?
「あ……ありえない……」
「……お前は自分の父親が嫌いなのか?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……だって、あのお父さんが……そりゃ、お父さんはヴィルにも負けないくらい強かったけど、でも……しょ、正直、信じられないっていうか……」
「……」
呆れてものも言えないのか、ヴィルヘルムはついに黙り込んでしまった。内心では一体どういう親子関係だったんだと疑問に思われているかもしれない。
でも、カミラにとって父のヒーゼルはそれくらい〝どこにでもいる普通の父親〟だった。早くに母を亡くし、男手一つで自分と兄を育ててくれたということ以外には、特筆すべきことなど何も思いつかないくらいの。
(お父さんが自分の若い頃のことを黙ってたのは、もしかしてそういう〝普通の父親〟でいたかったから……?)
特別なことなんて何もない、子供たちとただ平々凡々な暮らしを送る父親。
父は、そういう自分でありたかったのだろうか。郷で変に目立ちたくなかったから? はたまた余生はごく平穏な暮らしを望んだから?
(お兄ちゃんやイークなら、何か)
知っていたのだろうか。父の過去も、父の想いも──父の死の真相も。
『疑いはしなかったか? 七年前のあの晩、どうして己の父だけが郷で命を落としたのか』
クルデールの言葉が脳裏を掠めて、息が詰まる。
『汝の父を殺したのは、賊などではなかったのよ。カミラ、あの晩汝の父親は、愛する娘を守るために──』
「──カミラ」
にわかに腕を掴まれて、カミラはびくりと震え上がった。汗をかいて座り込んだカミラを、ヴィルヘルムが覗き込んでいる。顔の左半分を眼帯で覆ったいつもの顔で。
「大丈夫か。顔色が悪いぞ」
「あ……う、うん……大丈夫、だけど……」
「けど?」
「……最後に二つだけ、質問していい?」
ヴィルヘルムに掴まれた腕が震えているのを自覚しながら、カミラは言った。彼からの答えはない。たぶん、この沈黙は肯定だ。
「ヴィルは……私の家族のこと、どこまで知ってる?」
「……」
「お……お父さんが、どうして死んだのか、とか……お兄ちゃんが、今どこにいるのか、とか──」
「──その質問には答えられない」
カミラは目を見開いた。……答えられない?
ヴィルヘルムは今〝答えられない〟と言ったのか?
〝分からない〟でも〝知らない〟でもなく。
「どう、して……どうして答えてくれないの。知ってるでしょう、私が郷を一人で飛び出してきたのは、お兄ちゃんを見つけるためだって──」
「分かってはいるが、答えられない。……すまない」
「どうして」
「お前が真実を知ることを、魔族たちが望んでいるからだ」
巨大な氷の塊が、頭の上に落下してきたような衝撃があった。
カミラは目を見張ったまま声も発せず、ただ茫然とヴィルヘルムを凝視する。
「クルデールは手順を逆にしてもいいと考えているようだったが……やつらが何故、お前が真実を知ることを望んでいるか分かるか」
「わ……分から、ない」
「それを知ればお前が世界を憎悪し、魔界に与することを是とするかもしれないからだ」
「分からない」
「分からなくていい、と言った。分かってしまえば、きっとお前はお前ではいられなくなる。やつらの狙いもそこだ。お前の心を掻き乱して、その隙に取り入ろうとしている」
「でも、私はお兄ちゃんと……お兄ちゃんに会うために郷を出たの! もう二度とお兄ちゃんに会えないなら、私は……!」
「エリクのことは忘れろ」
カミラは言葉を失った。
「……忘れてくれ。頼む」
そう告げるヴィルヘルムの表情が、あまりにもつらそうで。
「……無理よ、そんなの」
だけどカミラは、そう返すことしかできなかった。
「お兄ちゃんは……私のすべてだったの。お兄ちゃんのいない世界で、私が生きる意味なんて、ない」
左目から零れ落ちた涙が、するりと頬を滑っていった。
透明な雫はやがて顎まで達し、音もなく滴り落ちていく。
ヴィルヘルムは、やはりつらそうだった。
カミラの腕を掴んだまま目を伏せて、じっと何かに耐えている。
「……だが今のお前には、救世軍があるはずだ」
「ええ、そうよ。でも、私にとって救世軍は、フィロそのものだった」
「……」
「そしてフィロも、もういない。私はフィロの思い出と踊ってるだけ。そんな滑稽な話がある?」
「ならばお前は、今の救世軍はどうなってもいいと?」
「違う! だけど私は……本当に大切なものは、もう、全部……!」
兄も、イークも、フィロメーナももういない。
自分が思い描いていた幸せは、跡形もなく壊れてしまった。
それでも未来を信じられるほど、カミラは強くないのだ。
この先には何もない。
救世軍に留まることで、ただその事実から目を背けていたかっただけ。
(分かってるわ)
何もない、なんてことはない。今の仲間たちと共に戦い続ければ、また新しい未来を、幸せを思い描けるかもしれない。
だけどそんな保証がどこにある? ジェロディだって、マリステアだって、ウォルドだってケリーだってヴィルヘルムだって、近い将来、目の前からいなくなってしまうかもしれない。そうなったら自分は誰のために戦えばいい?
何のために、生きればいい?
「だったら俺が守ってやる」
泣きじゃくるカミラの上に、予想外の言葉が降ってきた。
「もう一度本当の居場所を見つけられるまで、お前のことは俺が守る。だから何もないなんて言うな。ジェロディたちが悲しむ」
仲間たちの顔が目に浮かんだ。フィロメーナを失い、空っぽになった自分に、もう一度立ち上がる力をくれた仲間たち。
その顔がひどく滲んで、カミラは嗚咽を零した。
──分かっている。
彼らがどうして、今も自分と共にいてくれるのか。
「ごめんなさい……」
うつむき、手の甲を目元に押し当ててカミラは言った。今にも掻き消えそうなほどか細い声はしかし、ヴィルヘルムに届いたようだ。
「いいや。俺の言い方が悪くて動揺させただけだ。お前はそんなやつではないとちゃんと知っている。俺もジェロディたちもな」
そう言ったヴィルヘルムの手が、カミラの腕を離れた。かと思えば今度は頭に降ってきて、ぽんぽんと軽く叩かれる。
その手のぬくもりにまた泣かされた。自惚れかもしれないけれど、俺にはお前が必要だ、と言われた気がして。
同じように自分も必要としている。今いる救世軍の仲間たちを。
「それで? 二つ目の質問というのは?」
「あ……え、と、話が、前後するんだけど……あのラファレイって人は、ヴィルの左眼のことを知ってるの?」
「あ? ああ、そうだな。レイはすべて知っている。あいつもマナと共に呪いの解き方を調べていた一人だからな。というか今も研究を続けているらしい。医学による呪いの克服はもちろんだが、魔物との共存が人体に及ぼす影響についてもやつは興味津々でな……」
「じゃ、じゃあ、あの人の研究を手伝えば、その魔物を追い払う方法が見つかるかもしれないってこと? ヴィルが聖水のせいで弱ってたのも、すぐに解決してくれたし……」
「ああ……そんな方法が本当にあればの話だが」
「分かった。じゃあ私、行ってくる」
「は? 行くってどこへ──」
「ラファレイを救世軍の軍医になってくれるよう説得するの! 近々救世軍にも医者が必要になるし、仲間にするなら断然早い方がいいでしょ? 私、あいつ嫌いだけど、腕はいいみたいだから。ティノくんたちがなんて言うかにもよるけど、やるだけやってくるわね!」
言うが早いか、カミラはサッと寝台から飛び降りた。
そうしてシュトゥルムを拾い上げ、高速でヴィルヘルムに押しつけると、椅子に置いていた青い瓶を手に走り出す。
まさに電光石火、思い立ったら一瞬も迷わず飛び出していくカミラを、ヴィルヘルムは茫然と見送った。彼女が去ったのち、残った春一番のような風に吹かれながら、しばしのあいだ沈黙する。
「……なるほど。渡り星、か」
やがて完全な静寂が戻ってくると、ヴィルヘルムは一人呟いた。
左眼を覆う眼帯を押さえ、その裏に魂の一部を遺した先代のことを思い起こすと、つい小さく笑みが零れる。
「ペレスエラの言ったとおりだな。あいつはどこかお前に似ているよ、マナ」
耳の奥に、懐かしい笑い声が甦った。
彼女は星界へ昇らなかったけれど、今もどこかで自分たちを見守ってくれていると、そう信じている。




