158.夢のつづき
遠雷が聞こえた。
空は暗く、淀んでいて、時折稜線の向こうがチカリと光る。
低く唸る天の声を聞きながら、血まみれの彼女の頬に、ぱたりと雨粒が落ちるのを見た。
──ああ。雨が来る。
「ありがとう、ヴィル」
と、掠れた声で彼女は言った。死人みたいな顔色で、全身から腐臭を垂れ流し、されど眩しそうに微笑みながら。
「あんたの、おかげで、一族は……私が、滅ぼしちまう、ところだった」
「もういい。喋るな、フラルダ」
「シュトゥルムを」
いつも、そうだ。いつもそうだった。
彼女はこちらの忠告なんて聞きやしない。自分の勘や正しいと信じたものに向かって脇目も振らず突き進み、いつだって周りをヒヤヒヤさせる。
あのときも彼女は最後まで、ヴィルヘルムの忠告を聞かなかった。けれど魔物の死骸に埋もれるようにして落ちている剣を指差し、見たこともないくらい穏やかな瞳をしていたのを、今でもはっきりと覚えている。
「持っていって。次の族長は、あんたよ、ヴィル」
「俺は」
「分かってる。こんな形になって、不服だろうけど……だけど、それが、私らゲヴァルトの掟。違う?」
いまわの際に、そんな顔で微笑まないでほしかった。
自分が彼女を殺す未来など、想像してもいなかった。
誰にも彼女を殺させないために、今日まで生きてきたというのに。
赤い涙が左頬を伝った。フラルダの手が、伸びてくる。
「ごめんね、ヴィル」
彼女の指先が頬に触れた。
大地に落ちて弾ける雨粒が、次第に数を増している。
「私は、あんたを……このさき一生、苦しめるのね……こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ、なかったのに……」
「フラルダ、俺は」
「だけど……それでも、一つだけ、最後にわがままを言っていい?」
再び空が瞬いた。雷鳴が轟き、井戸桶をひっくり返したような雨が降る。
視覚も聴覚も、五感をすべて奪うような雨の中で、フラルダの唇が動いた。
彼女の最期の言葉はたぶん、誰にも聞き取れなかったと思う。
しかしヴィルヘルムには分かった。分かってしまった。
分かりたくなんて、なかったのに。
叩きつける豪雨の中、ヴィルヘルムは動かなくなった彼女を抱き締めた。数えきれないほどたくさんのものを背負っていたはずの肩に顔を埋め、声を殺す。
そのときすべての覚悟を決めた。
一族を捨てることも、二度と許されることのない裏切り者の名を背負うことも。
「──ヴィル」
雨の音が膨れ上がって、ついに意識を塗り潰した頃。
ヴィルヘルムは閉ざしていた隻眼を静かに開いた。
視界が白い。真っ白だ。真円を描く白い部屋の真ん中に、自分を〝共犯者〟と呼んだ女が横たわっている。
「ヴィル、来て」
目も当てられないほど細くなった体をユニウスに支えられ、彼女は微笑んでいた。別れはもう済ませたつもりでいたのに、残りわずかな命の力を振り絞って、彼女はヴィルヘルムを呼ぶ。
その透明な微笑みがあの日のあの人を彷彿とさせて、できれば逃げ出したかったが、如何せん長くつるみすぎた。おかげでヴィルヘルムはいつの間にか、彼女の呼ぶ声をすっかり無視できなくなってしまったようだ。
「何だ、マナ」
傍らに立ち、今にも消えてしまいそうな彼女を見下ろす。マナは笑って、目だけで座るよう促してきた。だからそっと片膝をつく。彼女が唇を開いたが、何も聞こえなかったので顔を近づけた。
すると左右から白い手が伸びてきて、ヴィルヘルムの両頬を包み込む。
マナは瞳を細めていた。
やっぱり、眩しいものでも見るみたいに。
「私、あなたに呪いをかけるわ」
掠れた声で、囁くような声で、最期の言葉を、彼女はヴィルヘルムのために紡いだ。
「生きてね、ヴィル」
呪い。
そう、あれは呪いだったのだろうと思う。
ヴィルヘルムがフラルダにかけられた呪いを知っていて、マナは最期に同じものを上書きした。そういう女だったのだ。どちらも、そういう女だった。
彼女たちに生かされて今、自分はここにいる。
だったら、と告げたヴィルヘルムの目の前で、赤い魔女は顔を上げた。
「七年後」
青い海と、青い空。それしか眺めるもののない最果ての塔の露台に立って、潮風に吹かれながら彼女は言う。
「七年後、トラモント黄皇国へ行きなさい。マナの願いを叶えたければ」
血のように赤い長衣と、血のように赤い髪がはためいた。ヴィルヘルムは風音の狭間に零れる予言を一言一句、漏らさず記憶に刻みつける。
「彼女が視た未来は、そこから始まる。一度動き出してしまったら、もう誰にも止められない」
魔女の名はペレスエラと言った。その名が意味するところに、ヴィルヘルムは立とうとしている。共犯者である彼女のために。
「けれど時の行き先は、すべてあなた方次第。お行きなさい、ヴィルヘルム。カミラ・バルサミナはマナに似た、明るい娘になりますよ」
◯ ● ◯
目を開ければまだ波の音が聞こえる気がして、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界に、落ち着いた色調の天井が映る。四方の壁を囲む壁紙とはまた違う、太陽を模したトラモント模様の天井だ。
ぼうっとしながら耳を澄ましてみたが、波の音は聞こえなかった。
代わりにパシャリと微かな水音がして、少しだけ頭を傾ける。そこではローズブロンドの髪に大きなリボンをくっつけた少女が、盥の水に浸した布を懸命に絞っていた。
「……誰だ?」
見るからに幼すぎて、リチャードの屋敷の者でもない。ゆえに浮かんだ疑問を口にすれば、細い肩がびくりと跳ねて、少女は驚いたようにこちらを向いた。
「彼女はラフィ。俺の助手だ。気分はいかがかな、百魔殺し殿?」
かと思えば視界の外から癇に障る声が聞こえて、寝起きだというのにヴィルヘルムはげんなりする。そう言えばさっき、ほんの一瞬だけ目が覚めて、懐かしいができれば見たくなかった顔を見たような記憶があった。だから今度はさほど驚かず、声のした方に目だけを向ける。
「……お前に助手がいたとは初耳だ。しかもこれは年齢的に犯罪じゃないのか、レイ?」
「同じくらい歳の離れた娘と、どさくさに紛れて抱擁を交わした貴様にだけは言われたくないな。ラフィは非常に優秀な助手だ、それ以上でもそれ以下でもない。下衆な勘繰りはやめてくれたまえ」
「おい、待て。何だ、その抱擁というのは?」
「覚えていないなら知らない方が幸せかもな。だが記憶が一部欠落している以外は正常そうだ。熱も無事下がったことだし、他に何か自覚できる症状はあるか?」
「熱……」
そう言えば自分は、郷庁で憑魔と戦ってからどうなったのだったか。
確か魔物に一瞬の隙を衝かれ、胸を貫かれたような気がするが、手を当ててみても痛みはなかった。
そこから先の記憶は曖昧で、思い出そうとしても靄がかかったように形をなさない。唯一脳裏をよぎったのは自分を呼ぶカミラの声と、どうやら俺は丸一日眠っていたらしいという、出処不明の情報だけ。
(……いや、待て。そう言えば、視界が……)
いつもは半分隠れて狭い視界が、今日はやけに広く感じる。試しに顔の左半分へ手をやれば、ザラリとした硬い感触が指に触れた──眼帯が、ない。
「……! おい、ラファレイ……!」
「安心しろ。貴様の左眼の経過が見たかっただけだ。他の者には見せていないし、ラフィは口がきけない。秘密を口外したくともできんさ」
「口がきけない……?」
「ああ。彼女は生まれたときから声帯に蒼淼刻が絡みついていてな。天授刻であることには違いないから、優れた神術回路の持ち主なのだが、その代償として声が出ない。それを生来の障害だと勘違いした貴族どもに、奴隷として使われていたのでな。俺が買い取って解刻の方法を探している、というわけだ」
「解刻……ならば神刻師に頼めば済むことだろう。神刻の取り外しはやつらの専門だ」
「ところが神刻師に頼んでも、何故か剥がれないからこうして旅をしている。曰く、ラフィの蒼淼刻は肉体だけでなく魂にまで絡みついているそうでな。ゆえに強引に神刻を剥がせば、命に関わる危険がある。俺は医師として、そんなリスクの高い手段には頼りたくない」
なるほど、と起こした体を壁に預けながら、ヴィルヘルムはおおよそ納得した。このラファレイというエレツエル人の医師は横柄で型破りなものの、医術に関しては類稀なる矜持と探求心を持つ男だ。
彼と最初に出会ったのはいつだったか、確かマナと旅するようになって間もない頃だと思うのだが、あの頃からラファレイは各地を巡り、世界中の医学の知識を集めていた。
それが亡き師との約束だとかで、彼自身ラフィと同じ蒼淼刻の使い手だ。医者としても神刻使いとしても優秀な彼には、ヴィルヘルムもこれまで度々戦場で世話になった──代わりに己の特異な体を知られ、研究対象としてしつこく追い回されるという嫌な代償を背負う羽目になったが。
「だったらアビエス連合国にいる口寄せの民か、俺の一族が連れている咒医に会うといい。そうすればすぐに解決するだろう」
「たわけたことを抜かすな。俺は魔術の類には頼らんと何度も言っているだろう。一応神領国の上級市民なのでな、魔術に手を染めたと知られれば即座に打ち首獄門だ。だが俺のような天才を失うということは、人類にとって大きな損失となる」
「……こんな男に拾われるとは、お前も不憫な娘だな」
と、寝台の傍らに立つラフィに目を向けてそう言えば、彼女はきょとんと首を傾げた。どうやら口がきけないという話は本当のようで、少女は先程から一度も声を発していない。
しかし『ラフィ』と言えば、このトラモント黄皇国で湖の名前にもなっている泉の神の名前だが──などと考えていると、そのラフィが水の入った杯を差し出してきた。飲めということか、と思い受け取れば、スンと鼻を抜ける薬草の匂いがする。……これはだいぶ苦そうだ。
「露骨に嫌そうな顔をするな。飲め。貴様が眠っている間に失った諸々を補うための水薬だ。あんなに長く眠っていたのは久しぶりだろう」
「ああ……しかし、この娘は俺の素顔を恐れないのか?」
「以前訪ねた国で、原因不明の皮膚病を患い、貴様よりひどい面相になった患者を何人も見ている。これくらいで怯える我が助手ではないさ」
「なあ、ラフィ?」とラファレイが尋ねれば、少女はこくりと頷いた。褒められたと思ったのだろうか、彼女の口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
まあ、本人たちがそう言うのなら気にする必要もないか──と思いながら、杯の中身を一気に飲み干した。途端に口の中を支配する苦味と渋味に思いきり顔を顰める。しばらく眉間を皺めて耐えていると、今度はごく普通の水が入った杯をラフィがくれた。誰に指示されたわけでもないのに、よく気の回る娘だ。
「……で? 俺の体は今、どうなっている」
「どうもこうもない。聞けばあれほど使用方法を考えろと忠告しておいた聖水を、まともに体に浴びたそうだな。化け物じみて頑丈な貴様が倒れる理由など他にあるまいとは思っていたが、まったく呆れて物も言えん」
「不可抗力だ。仲間に取り憑いた魔物を祓うには、ああするより他になかった。俺が至近距離で動きを止めておかないと、躱されるおそれがあったんでな」
「それはそれはご立派なことだが、己の死期を早めてまで取る方法か? 俺が偶然訪ねてこなければ、取り返しのつかないことになっていたやもしれんのだぞ」
「……」
椅子の上で腕を組み、不機嫌そうにふんぞり返っているラファレイから、ヴィルヘルムは目を逸らした。無論そうなることは承知の上でカミラに聖水を使わせたのだが、理由や経緯をいちいち説明するのが面倒で口を閉ざす。
「貴様は時折思いも寄らない無茶をやらかすが、その悪癖は今も健在のようだな。しかしこんな真似を続ければ、星界にいるマナが泣くぞ」
「……マナは星界にはいない。本人がそう望んだ」
「望むと望まざると、死せば天樹に召されるのが我ら人類の宿命だ。まあ、貴様は間違いなく魔界に堕ちるだろうが、既に半分魔物なのだから仕方がないな」
「……」
「貴様の容態を安定させるために、魔物の血液を輸血した。必要最小限の量に留めたつもりだが、やはりそれの進行は止められなかったようだ。恨むなら己の蛮勇を恨めよ」
「お前が現れなければ、俺は魔物の血を求めてしばらくさまようつもりだった。そうなれば必要以上の血を啜り、今度こそ人ではなくなっていたかもしれん。その僥倖に感謝こそすれ、お前を恨むつもりはないさ」
世話をかけたな、と最後にそう付け足せば、ラファレイはちょっと意外そうな顔をした。かと思えばいつものごとくフンと鼻で笑い、「普段からそれくらい殊勝でいてほしいものだな」とか何とか、また偉そうなことを言っている。
言い草に腹は立つものの、この男に逆らうとろくなことがないのは知っていた。妙な薬を打たれる前に機嫌を取っておくのが最善だ。
何よりラファレイのおかげで大事に至らずに済んだことは、動かし難い事実だった。彼がいなければ自分は数日救世軍を離れ、剣を振ることもおぼつかない体で魔物を探し歩かなければならなかっただろう。
そんなのは想像するだけでも億劫だったし、カミラの傍を離れることも避けたかった。何せ今や世界中の悪意が、手ぐすね引いて彼女を狙っているのだから。
(……たった十七の娘が、何も知らず反乱軍で命を削っているというだけでも哀れなのに)
彼女はそれを、自分の意思で選んだことだと思っているだろう。誰に命じられたわけでもいざなわれたわけでもなく、自分で決めてここにいる、と。
けれど真実はそうではないと知ったなら──すべては七年前のあの日から決まっていたことだと知ったなら、カミラは、どんな顔をするだろうか。
『は、はじめまして……カミラです』
初めて見る郷の外の人間を怖がり、父親の陰に隠れていた少女の面影を思い出す。
『あ、あの……おじさ……おにいさんは、ひだりめ、けがしてるの?』
忘れもしない。
マナとユニウス──そして自分の運命を変えたあの数日間のことは。
『だったら、ナワリさまのところに行くといいよ。ナワリさまならふしぎなちからで、どんなけがもなおしてくれるの!』
記憶の中でぱっと笑った、少女の顔が雑音で乱れた。
ザッ、ザザッ、と耳障りな音が頭の中で鳴り響き、追憶が黒く塗り潰される。
《──連れてこい》
魔物が耳元で囁いた。
鋭い耳鳴りと共に左眼が疼き、思わずきつく手を当てる。
《連れてこい、我らのために》
──うるさい。
頭の中でそう拒絶するも、魔物の声は止みそうにない。
《我らにはあの娘が必要だ》
うるさい、黙れ。
呪詛のように、何度も何度もそう唱えた。自分の意思と相反するものが自分の中にいるというこの感覚が、毎度不快で仕方がない。
だがこれは罰なのだ。彼女を、彼女らを救えなかった自分への。
だから、今度こそは──と息を詰まらせた刹那、右眼の前に黒い何かが降ってきた。
「使え」
息を切らしながら見やった先には、無表情のラファレイがいる。彼が鼻先にぶら下げているのは眼帯だ。ヴィルヘルムは無言で受け取った。礼を言いたいところだったが、言っている余裕がない。
いつも肌身離さず身につけている眼帯の裏には、蒼白く輝く糸で縫われた希法陣があった。マナが己の魂から紡いだ糸で、寿命を削って縫ってくれたものだ。
肉体、精神、魂。
それらを表す三つの円と、知らない文字で形取られた三角形。
円が重なりあう中心には、こちらを見つめる眼が縫われている。
ヴィルヘルムの左眼に巣食う魔物を、常に監視している〝真理の眼〟。
『感謝しなさいよー』
頭の片隅に、そう言って笑っていたマナの顔が浮かんで消えた。
……分かっている。彼女には感謝してもしきれない。
この左眼に棲む魔物を抑える力と、生きる道。
マナはどちらも与えてくれたのだから。
「治まったか?」
眼帯をつけてしばらく瞑目していると、ラファレイの声がした。
その頃には精神のざわめきも治まり、魔物の声は遠ざかっている。
「……ああ。ようやく本来の自分を取り戻した」
「それは結構。できることならそんな魔術には頼らず、医学の力で貴様と魔物を分離させたいところだがな」
心底不服そうにそう言って、ラファレイはふいっと顔を背けた。〝魔術〟ではなく〝希術〟だ、と思いながら目を開けて、ヴィルヘルムは苦笑する。
まあ、言ったところでラファレイが聞かないのは分かっているから、訂正するだけ無駄だろう。彼が希術の存在を頑なに認めないのはエレツエル人だから──というのはもちろん、医学を凌駕する希術への妬みと対抗心があるからだ。
ラファレイは昔からこの魔物を、どうにか医術によって取り除きたがっている。希術を用いても魔物化の進行を抑制するのが精一杯という現状を、医学で打開したいと考えているのだ。
彼がラフィの身柄を引き取ったのも、恐らく同じ理由だろう。ラファレイは医師としての誇りに懸けて、己に救えないものをひどく憎悪している節がある。
いずれはこの世の病のすべてを克服したいと思っているようで、彼にとっては〝魔物憑き〟もまた〝病〟なのだった。ゆえに内心では、ヴィルヘルムの魔物化の進行を苦々しく思っていることだろう。
「まあ、俺が死ぬのが先か、完全に魔物になってしまうのが先か、どちらになるかは分からんが。できればそうなる前には、お前に解決方法を見つけてもらいたいものだな」
「そう思うのなら今後はもう少し自重しろ。死期を早めて俺を焦らせたところで、解決策が降ってくるわけではないのだからな」
「善処する。ところで一つ頼みがあるんだが」
とヴィルヘルムが切り出せば、またも意外そうな顔をしたラファレイの鼻の上で、細身の眼鏡がずり落ちた。
彼はそれをすぐに直しながら、「ほう」と興味深そうな声を出す。処置が完了したためだろう、エレツエル神領国の国章が縫われた手袋を外しつつ、まるで貴重な実験体でも見下ろすみたいに目を細めた。
「貴様がこの俺に頼み事とはまた珍しいな。何だ?」
「ここへ人を呼んでほしい。大事な話がある」
「なんだ、そんなことか。体はほとんど回復したようだし、いいだろう。さっきのお仲間たちを呼べばいいのか?」
「さっきの……? いや、呼ぶのは一人だけでいい。赤い髪のカミラという娘だ」
「ああ……」
と気のない返事をするや否や、ラファレイは何故かじろじろとこちらを観察してきた。体に何か異変でもあるのかと思い、胸から下を見下ろしてみるが何もない。
「……何だ、その目は?」
「いや、別に。分かった、あの娘──カミラというんだな。彼女一人でいいというなら呼んでこよう。しかし数ある有色髪の中でも、赤い髪というのは珍しい。一体どういった色素によって構成されているのか、研究材料として毛髪を提供してもらいたいものだ」
「髪の一、二本でいいなら頼んでみるが、切れと言うならやめておけ。燃やされるぞ」
「貴様が切らせたくないからではなく?」
「どういう意味だ?」
「やれやれ。自覚症状なしか」
広げていた道具を手早く片づけながら、ラファレイは嘲笑うようにそう言った。それが何のことだかさっぱり分からず、怪訝な顔をしていると、彼はラフィを連れて部屋を出る間際にこちらを向く。
「では俺たちは失礼するが、その前に一つ言っておこう。ヴィルヘルム、覚悟しておけよ」
「は?」
「さっき貴様は一瞬だけ目覚めた際に、カミラを公衆の面前で抱き寄せ〝マナ〟と呼んだ。ついでに耳元で〝ここにいろ〟だの〝どこにも行くな〟だのとものたまっていたな。俺が鎮静剤を打たなければ、貴様はあのまま彼女を放さなかったことだろう」
「……………は?」
「というわけで我々はもう行く。せいぜい養生することだ」
「おい、レイ、待──」
呼び止めた声を遮るように、バタンと扉が閉められた。二人の足音はすぐに遠のき、部屋にはヴィルヘルムと静寂だけが取り残される。
だらだらと嫌な汗が流れてきた。あのクルデールとかいう魔物と遭遇して以来の危機的状況だ。
額を押さえ、うなだれたヴィルヘルムの黒髪を春風が笑うように撫でていった。
懸命に思考を巡らせてみるも、熱に浮かされていた間の記憶はやはり、ない。