157.知らないことだらけ
マリステアに頼んであんなに作ってもらった氷嚢が、もう底を尽いてしまった。
仕方がないので井戸から汲み上げてきたばかりの冷たい水に布を浸し、固く絞ってヴィルヘルムの額に乗せる。
けれどそれもすぐぬるくなってしまうので、また水を汲み上げてこなければならない。カミラはふーっと息をつきながら、手の甲で自分の汗を拭った。
昼食を取ってから動きっぱなしなせいで、さすがに暑い。手套を外し、脚衣も脱いで、さらには髪をまとめているのにこのザマだ。ようやく気候が春めいてきたのは喜ばしいものの、今は窓の外に広がる美しい庭園や、花の間を舞う蝶を眺めて癒やされている場合ではなかった。
眼前の寝台には、一昨日の晩に倒れてから一度も目を覚ましていないヴィルヘルムがいる。依然熱は高く、ずっと汗をかいていて、呼吸もかなり苦しそうだ。
昨日の朝、郷庁を下りてくるとすぐにリチャードが医者を呼んでくれたのだが、診察の結果、高熱の原因は分からないと言われてしまった。体温が異常に高く、意識が回復しないことを除けば至って健康で頑強な体だと言うのだ。
こんなに苦しんでるのにそんなわけないと、カミラは再三誤診の可能性を訴えたものの、町医者は途中で匙を投げるや、高熱によく効くという薬だけ置いて帰ってしまった。まずはこれを飲ませて経過を見て下さいと言われたが、もらった薬を飲ませても症状は全然良くならない。
だから仕方なく氷嚢や濡れ布巾も使い、一刻置きに水を飲ませて体も拭く──という世話までしているのに、いずれも効果は望めなかった。あまり長く高熱が続くと後遺症が残ることがある、とどこかで聞いたような気がして、カミラの不安はどんどん募る。
(このまま目を覚まさなかったらどうしよう)
ヴィルヘルムには何度も救われた恩がある。訊きたいこともたくさんある。だから今までの恩返しも兼ねて介抱しているつもりなのだが、ここまで何の進展もないとさすがに心が折れそうだった。
一体どうすればいいのか分からなくて、途方に暮れる。やれるだけのことはすべてやっているのに、まだ何か足りないのか。
とりあえずまた汗をかいているようだし、上衣だけでも着替えさせようと立ち上がったら足がもつれた。バランスを崩し、「わっ……!?」と悲鳴を上げかけたところで、横から伸びてきた腕に支えられる。
「──おっと。だいじょーぶ、カミラ?」
「カイル……」
一体いつの間に入ってきたのやら、振り向いた先にいたのはカイルだった。てっきりウォルドたちと一緒にいるのだろうと思っていたら、様子を見に来てくれたらしい。
「ご、ごめん、ありがと……ウォルドたちは?」
「んー、それが食堂でなんか難しい話をしててさ。どう見てもオレはお呼びでないって感じだったからこっちに来ちゃった。ヴィルヘルムさん、まだ起きないの?」
「ええ、まったく。時々魘されてるみたいなんだけど、呼んでも答えなくて」
「意外だなー。今いる面子の中ではウォルドの次に頑丈そうなのに。こういう人でも病気するときはするんだね」
「これが病気かどうかはまだ分からないけどね」
言いながら体勢を立て直し、ヴィルヘルムに歩み寄る。案の定服が汗で湿っているのを見て取って、胸元から順に留め具を外した。
そうしながら向こうの棚を示し、カイルに替えの服を取ってもらう。リチャードの屋敷の者が、昨日のうちに洗濯してくれたものだ。
鼻を近づけると微かな石鹸の香りがして、さすが大商人の屋敷は違うなあと感心した。こういういい香りのする石鹸は非常に貴重で高価なのに、惜しげもなく洗濯に使っている。
まあ、どうせそれもすぐ汗まみれになっちゃうんだけどね、と一抹の虚しさを覚えつつ、カミラは丁寧にヴィルヘルムの服を脱がせた。布地が汗で張りついているおかげでなかなかの重労働ではあるものの、三回目ともなればお手のものだ。
服を脱がせるや否や覗くヴィルヘルムの裸にも、もう慣れた。いや、もちろん年頃の娘があっさり慣れていいものではないのだが、背に腹は変えられない。
というか異性の裸うんぬんかんぬんという気恥ずかしさなんて、ヴィルヘルムの体中に走る古傷の数を見たら、一瞬で吹き飛んだ。たとえ本人が語らずとも、この体を見ればどれほど壮絶な人生を歩んできたのか一目で分かる。
(ウォルドもあちこち古傷だらけだけど、傭兵ってみんなこうなのかしら)
これは間違いなく命に関わっただろうと推測できる傷もいくつかあって、カミラは知らず眉をひそめた。新しい服を着せる前に体を拭いてやろうとするも、そういう傷痕の上はどうしても──痛みはもうないと分かっていても──布を持つ手が避けてしまう。
「わー。すっげえな、この傷。かなり深かったんじゃないの? ていうかヴィルヘルムさん、左肩に刺青なんか入れてたんだ? 黒い……鳥? 何の鳥だろ? 分かんないけどかっちょいー!」
「カイル、そんなこと言ってる暇があったら手伝ってくれない? ヴィルの体を横向きにしたいの、しばらくそっちで支えてて」
「えー。オッサンの裸なんか触ったって全然嬉しくないんですけどー」
「そっかー。じゃーしょーがないなー。手伝ってくれたら明日一緒にごはん食べに行こうと思ったのにー」
「ハイハイハイハイ! 手伝います! 超手伝います! 体をさ!? 横向きにしとけばいいわけだよね!? まーオレにかかれば楽勝だよね!」
カミラがカイルにのみ効く呪文を棒読みすれば、彼は光速でヴィルヘルムの体を横にした。さすがに鍛えられているだけあって、ヴィルヘルムの体重は一人で支えようと思うと結構つらいのだが、カイルは瞳をキラッキラさせて、微塵も苦しそうな素振りを見せない。
恋の力ってすごいなあと、カミラは微笑みながらそう思った。もちろん柵の向こうから、遠巻きに珍獣を見ているような心境で。
「てかさー、カミラ、昨日からずっとこんなことやってるわけでしょ? そりゃふらつきもするって、ちゃんと寝たの?」
「うん……夜はティノくんが看にきてくれたから、その間に三刻くらいは」
「たった三刻!? そんなんじゃカミラまで倒れるって!」
「でも、ヴィルがこうなったのは私のせいかもしれないし」
言いながら背中も拭い終えて、石鹸の香りがする上衣を手に取った。カイルにも手伝ってもらって袖を通し、今度は上から留め具を閉じていく。
そうする間もヴィルヘルムは熱い吐息を吐くばかりで、一向に目覚める気配がなかった。寝ている間にこれだけ体を触られたら気がつきそうなものなのに、彼の意識はそれだけ深い闇の底にあるということか。
「いや、けど、ヴィルヘルムさんが倒れたのは魔物にやられたからって言ってたじゃん? だったらカミラのせいってことはないっしょ?」
「……ううん。たぶん、原因は別にあるの。本人に聞いてみないと分からないけど……」
「……? つまり──ヴィルヘルムさんもついにカミラの魅力に気づいてしまって、恋の病をこじらせてるとか? それは困るね!」
「あんたっていいわね、悩みがなさそうで……」
遠い目をしながら吐き捨てて、ため息と共に腰を下ろした。飴色の椅子が億劫そうにギシリと軋み、ますますカミラを憂鬱にする。
──あの日、オーウェンから憑魔を引き剥がすために撒いた聖水。
誰にも言っていないけれど、カミラはあれがヴィルヘルムの不調の原因なのではないかと思っていた。だってカミラが聖水を撒いた直後から、ヴィルヘルムの様子が明らかにおかしかったのだ。
剣捌きは精彩を欠き、いつもなら簡単に避けていたであろう憑魔の攻撃もまともに喰らった。クルデール戦で消耗していたからと考えれば辻褄が合わないでもないが、直前まではピンピンしていたことを思うと、そうではないような気がする。
(あの魔物はヴィルのこと、〝呪われ者〟って言ってたけど……)
呪われ者とは、読んで字のごとく何かに呪われた者のことを指す。呪いの力というのは魔の力であって、人を呪うのはいつだって魔女か魔人か魔物の類だ。
しかしヴィルヘルムが所持していた聖水というのは本来、そうした魔の力を祓うためにある。実際、あれを浴びた憑魔はもがき苦しんでオーウェンの体を離れたわけだから、瓶の中身は本物の聖水だったと見てまず間違いないだろう。
(でも、だったらヴィルはどうして──)
神の力を帯びた聖水やその元となる神血石には、解呪の力もあると聞く。呪いの深さにもよるが、神血石の力をきちんと抽出した聖水ならば、大概の呪いは解けるのだそうだ。
なのにヴィルヘルムは、聖水を浴びて呪いが解けるどころか倒れてしまった。というかヴィルヘルムが本当に呪われていたとして、それなら聖水を手に入れた時点で我が身に振り撒き、さっさと体を浄化してしまえばいいだけの話だ。
(だけどヴィルは、聖水を自分に使わず大事に持ってた……)
その事実は一体何を意味するのか。カミラはヴィルヘルムの横顔をじっと見つめて考え込んだ。
彼の顔の半分を覆う、黒い眼帯。すべての答えはあの下にある……ような気がする。寝ているときも覚めているときも、彼が決して外そうとしないモノ。
『俺は人間だ。神でも魔物でもない、人間として生き、そして死ぬ』
……あの言葉の意味は?
彼は何を知っていて何と戦っている?
そもそもヴィルヘルムは、氏族一団で旅をするゲヴァルト族の生まれでありながら、何故一人で旅をしているのか?
自分の前に現れた理由は? 彼に護衛を依頼したという人物は誰──?
(……私、ほんとに何も知らない)
自分のことも、ヴィルヘルムのことも。己の無知と無力さに反吐が出る。
でも、真実はちゃんとヴィルヘルムの口から聞きたいのだ。勝手に眼帯の下を覗き見て、彼の秘密を暴きたくない。カミラがそう思った矢先に、
「……」
視界の端からそ~っと手が伸びてきて、ヴィルヘルムの顔面に触れた。その手がゆっくり彼の眼帯を外そうとしたところで、カミラは容赦なくカイルに足払いをかける。
「痛っ!? か、カミラ、何すんのさ!?」
「それはこっちの台詞なんだけど? あんた何勝手に人の秘密を覗こうとしてるわけ?」
「だ、だってさー、気になるじゃん!? ヴィルヘルムさんが眼帯外してるとこ、マジで見たことないわけだし!? かと言って普通に寝てるときにやったら殺されそうになって無理だったから、もうチャンスは今しかないんじゃないかなーと!」
「殺されそうになったんなら懲りなさいよ」
というか既に一回試みていたのか。命知らずというか何というか、この少年は本当にやりたい放題だなと、カミラは呆れを通り越していっそ羨ましくなってきた。
かく言うカミラもわりと好き勝手生きてきた方だが、これでも一応他人に迷惑をかけない範囲内に収めているつもりでいる。一方カイルはそんなものなどお構いなしで、興味のままに動き、言いたいことを言い、他人にどう思われようが知ったこっちゃないといった感じだ。
人から向けられる好悪の感情を気にしないというのはある意味すごい。カミラは今いる仲間たちに嫌われたらと思うと、怖くてそこまでできそうにない。
カイルはそういうのが怖くないのだろうか? というより──誰かを失ったところで、実は痛くも痒くもないと思っている、とか?
「……って、さすがに穿ちすぎか」
「へ? なんか言った?」
「本人が見られたくないと思って隠してるものを、勝手に暴こうとするなって言ったの。私たちだってあんたの神刻のこと、無理に聞き出そうとはしなかったでしょ」
「ウォルドには訊かれたけどねー、わりと根掘り葉掘り」
「は? そうなの?」
「うん。ウォルドはさ、カミラに悪い虫がつくのがイヤなんだって」
「……それ、どういう意味?」
「さあ、どういう意味だろうね?」
はぐらかしているのか、あるいは本当に知らないのか。どちらとも取れる笑みを湛えて、カイルは隣の椅子に腰を下ろした。
ところが次の瞬間、バンッ!と扉を蹴破るような音がして、カミラは思わず跳び上がる。竜騎士謗れば何とやら──驚いて振り向けば、そこにはいつになく険悪な顔をしたウォルドが佇んでいた。
「ウォ、ウォルド……!? は、入ってくるならノックくらいしてよ、びっくりするじゃない……!」
「あれー? どーしたのさ、ウォルド。そんな怖い顔しなくても、見てのとおりカミラは無事だよ」
未だバクバクと鳴る心臓を押さえたカミラとは裏腹に、カイルは何故かにこにこしていた。ウォルドはウォルドでカイルを睨み殺しそうな目をしているし、一体何なんだこの状況は。カオスだ。
「……おい、カイル。お前、俺の忠告をもう忘れたんじゃねえだろうな?」
「えー? もちろん忘れてないよ? でもここならヴィルヘルムさんもいるし、〝カミラと二人きり〟にはなってないでしょ?」
「意識のねえ人間を勘定に入れんな。カミラ、ヴィルヘルムは?」
「えっ? あ、えっと、ヴィルの方は相変わらず……熱も下がらないし、目も覚まさない。今朝も薬を飲ませたけど、全然効果がないみたい」
二人が何の話をしているのかはさっぱり分からなかったが、何となく今のウォルドを怒らせるのは得策ではないような気がして、カミラは素直にそう答えた。
というかウォルドが露骨に怒りをあらわにするなんて、未だかつてなかったことじゃないか? 少なくともカミラは彼が本気で怒っているところを見たことがない。以前、どこぞのこそ泥に自分の酒と肴を取られて怒り狂っていたアレは別件として。
「そうか。やっぱ昨日の医者はダメだったみてえだな。リチャードに頼んで別の医者を呼んでもらうか?」
「うん……その方がいいかも。違う薬があるなら試してみたいし、せめて熱だけでも何とかできれば──」
「──医者ならここにいるぞ」
「えっ……?」
刹那、突如として割り込んできた男の声に、カミラは目を丸くした。今度は誰が来たのかと思って顧みれば、まったく見覚えのない男が入り口に立っている。
すらりとした長身に、白い外套。撫でつけられた明るい色の髪と細身の眼鏡が、見る者に理知的な印象を与えた。歳は三十二、三だろうか。手にはトランクに似た大きめの鞄を提げていて、後ろにもう一人、かなり小柄な影がある。
そちらはまだ十二か十三歳くらいの、かなり愛らしい少女だった。顔の輪郭も頭の形も、華奢な肩もすべて丸みを帯びていて、やわらかそうな白い肌が何となくマリステアの外見と被る。
ぱっちりとした両目は珍しい山吹色で、ふわふわしたローズブロンドの髪によく似合っていた。彼女は裾にフリルがついたスカートの上で手を重ねると、丁寧にお辞儀をしてくる。
「え、えーと……どなた様?」
「名はラファレイ、医者だ。こっちは助手のラフィ。この屋敷の奥方とご子息が急病だと聞いて訪ねてきたんだが、今は別の患者を抱えていると聞いてな」
「別の患者、って──」
言うまでもなく、すぐにヴィルヘルムのことだと察しがついた。しかしラファレイと名乗った医者は、非常に抑揚の少ないハノーク語を喋る。
たぶんトラモント人じゃない。異国の医者がどうしてこんなところに? と戸惑っていると、ラファレイと名乗った彼に続いてジェロディたちが入ってきた。
ジェロディとマリステアは朝から出かけたと聞いていたのに、もう帰ってきたのかと三度目を丸くする。
「ティ、ティノくん? マリーさんやマシューと町を見に行ったんじゃ……」
「ああ。だけどちょっと色々あってね……確かめたいことがあって帰ってきたら、ちょうどラファレイ先生と鉢合わせたんだ。先生は医学の研究のために世界中を旅しておられるらしくて、この方ならヴィルヘルムさんの症状についても何か分かるんじゃないかと思って」
なるほど、どうりで異国の訛りで喋るはずだ。予想もしていなかった来客に目を見張って立ち尽くしていると、ときにラファレイが、カミラの後ろにある寝台へちらと切れ長の目を向けた。
かと思えば彼は重そうなトランクを足元へ置き、革の長靴を鳴らしてつかつかと歩み寄ってくる。こちらを避ける様子がないので、カミラが慌てて道を譲れば、寝台の傍らに立ったラファレイは、冷たい眼差しでヴィルヘルムを見下ろした。
「……なるほど。これは大変だ」
「えっ……ヴィ、ヴィルヘルムさま、やはりどこかお悪いのですか……!?」
「ああ、そうだな。とても悪い。とても悪い、が──」
と言いながら、ラファレイは突如懐に手を入れた。膝裏まで届く丈長の外套がひらりと舞って、彼の右手で何か閃く。
それは全身銀色の、食刀に似た小刀だった。ギラリと光る刃を目にしたカミラたちが「えっ」と息を飲んだ直後、医者は躊躇なく小刀を振り上げる。
「ちょっ……!」
あまりにも予想外すぎて反応が遅れた。慌てて止めようとしたが、ラファレイの右手はカミラが取りつくよりも早くヴィルヘルムの心臓目がけて振り下ろされる。
誰もが驚愕に固まった。直後、いきなり引き抜かれた枕が小刀の進路を遮り、切っ先がぶすりと布地に刺さった。
大商人であるリチャードの家の枕はすべて羽毛製で、切り裂かれた白い布の中からは、これまた白い鵞鳥の羽根が零れ落ちてくる。
それを見たラファレイが「チッ」と舌打ちした。忌々しさをまったく隠そうともしない、露骨すぎる舌打ちだった。
そんなラファレイの殺意を受け止めて、彼は荒い息をついている。
そう、枕を取って小刀を防いだのは、他でもないヴィルヘルムだった。
が、突如起き上がった彼に皆が驚く暇もなく、枕の向こうを見やったヴィルヘルムの隻眼が、みるみる見開かれていく。
「……レイ?」
「え?」
「お前──レイか? どうしてお前がここにいる?」
二日ぶりに聞くヴィルヘルムの声は痰が絡んでいるようだったが、しかし思いのほかしっかりしていた。その声が紡いだ「レイ」という名前は、もしや目の前にいるラファレイのことだろうか?
「なんだ、もう起きてしまったのか、ヴィルヘルム。今日こそは貴様を殺して解剖し、稀少な献体を隅々まで調べ尽くせると思ったのに」
「至極残念そうだが、それが医者の台詞か……? お前、ここで何をしている」
「見て分からんか、診察だ。貴様の今のお仲間に、ヴィルヘルムという男が倒れて目覚めんから診てやってくれと頼まれてな。これは好機だと思ったのだが……」
「何が〝好機〟だ……医者にあるまじき殺気を放っておいて、お前は──」
ぜえぜえと息をつきながらヴィルヘルムは言い、途中で声を詰まらせた。かと思えば身を折るように咳き込み出して、カミラはとっさに寝台の上に乗る。
今にもまた倒れてしまいそうなヴィルヘルムの肩を、必死で支えた。あの医者とヴィルヘルムが知り合いであるらしいことは分かったが、彼がこんな状態では、ゆっくり驚いてもいられない。
「ねえ、ヴィル! 大丈夫? 無理しないで、あなた丸一日以上寝込んでたんだから……!」
「ああ……お前か……ずっと俺の傍にいたのは……」
「気づいてたの?」
「何となく、気配は感じていたが──すまなかった、マナ……」
え、と聞き返したつもりが、上手くいかなかった。だって力なくうなだれたヴィルヘルムの額が、自分の右肩に乗ってきたから。
それどころか膝立ちした状態の腰に腕を回され、いきなり抱き竦められた。驚愕のあまり固まっていると、ヴィルヘルムはカミラの肩へ、さらに顔を埋めてくる。
熱を帯びた彼の吐息が肌にかかって、身震いした。ヴィルヘルムはカミラを「マナ」と呼んだきり何も言わず、寝起きの子供がぐずるような、甘えるような、そんな仕草でカミラを抱く腕に力を込める。
「ちょっ……ちょっと、ヴィル……!?」
「あー……想定より遥かに重症だな。だから用法用量を守れとあれほど……」
後ろでラファレイが何か言っているのが聞こえたが、耳には入ってきても、言葉として脳まで届くことはなかった。カミラはまるでヴィルヘルムの熱がうつったみたいに真っ赤になり、何とかその場を離れようと身をよじる。
けれど病人のくせにヴィルヘルムの膂力は相変わらずで、どんなにもがいても脱出させてくれそうになかった。というかもがけばもがくほど放すまいとでも言うように、ヴィルヘルムの大きな手が、カミラの衣服を握り締めてくる。
「ここにいろ、フラルダ……もうどこにも行くな……」
「は……!?」
「気にするな。熱に浮かされた病人の譫言だ。どうも今のヴィルヘルムは、高熱と心痛で記憶が混濁しているらしい」
「し、心痛って……」
「……マナが死んだとは聞いていたが、まさかそれがこの男をここまで腑抜けにするとはな。まあ、二度も生き甲斐を失えば、いかな百魔殺しと言えども人並みの傷は受けるか──ラフィ」
ラファレイに名を呼ばれると、待機していた少女がこくんと頷いた。彼の助手だという彼女は、しゃがみ込んでラファレイのトランクを開けると、中から一本の筒のようなものを取り出して医者に渡す。
先程の小刀と同じく銀色をした小さな筒は、先端にかなり細い針状のものがついていた。ラファレイはためらいもなくその針をヴィルヘルムの首にあてがうや、ぶすりと刺して中の何かを注入する。
「せ、先生、それは……!?」
「注射器だ。別に致死剤を打ったわけではないから安心しろ」
「ちゅ、ちゅーしゃき……?」
まったく聞き覚えも見覚えもない器具に、ジェロディたちまで唖然としているのが分かった。と、カミラの意識が一瞬そちらへ移った刹那、にわかにヴィルヘルムの体が弛緩する。
カミラを抱き竦めていた腕は力をなくし、寝台の上に落ちた。額もずり落ち、支えを失くして倒れ込むかに見えたので、カミラはもう一度ヴィルヘルムの体を受け止める。
「あ、あの、これって……!?」
「薬効だ、心配ない。血管に直接鎮静剤を注入したのでな。またしばらく眠るだろうが、その間に必要な処置を済ませておく。患者と助手以外は外に出ていろ。気が散るし治療の邪魔だ」
まったく横柄な物言いだった。医者というのはもう少し謙虚で誠実さが求められる職業だと思っていたのだが、どうやらラファレイが生まれた国では違うらしい。
ラファレイは使用したチューシャキとやらを再びラフィに預けると、ヴィルヘルムの身柄を奪い取るようにして寝台へ寝かせた。カミラは邪魔にならぬよう、あとずさって寝台を下りながら、しかしこの医者にわずかな不信感を募らせる。
「それはいいけど、まさかまたヴィルを殺そうとするんじゃないでしょうね?」
「そうしたいのは山々だが、俺は医者だ。死体を相手にすることはあっても、死体を作ることはしない」
「本当に?」
「まるで詐欺師でも見るような顔だな。さっきのことを言っているなら、あれは意識レベルを確かめるためのショック療法だ。この男の状態を診るならあのやり方が一番手っ取り早い。殺意を浴びても目覚めなければかなり重篤と判断していたところだが、まあ、今回は無事に目を覚ましたので何とかなるだろう」
言いながら、ラファレイの手が今度は外套の物入れをあさった。そこから取り出されたのは真白い手袋で、手の甲の部分に何かの紋章が縫われている。
美しい円を描き、己の尾を呑み込んでいるあの蛇の姿は──《尾を噛む蛇》?
「では改めて自己紹介しよう。俺の名はラファレイ・エルアザール。世界最高峰の医学を修めたアゾル・エルアザールの弟子にして──エレツエル神領国の翼爵だ」
 




