156.価値ある場所
目を閉じると、今も耳元で魔物の囁きが聞こえる気がした。
──オーウェン。お前は弱い。お前は愚かだ。お前は未熟だ。お前は無力だ。
どうせ何も守れやしない。諦めろ。
暗い暗い地の底で何度も聞かされた嘲笑を思い出し、思わずぎゅっと眉を寄せた。皮膚が裂け肉が抉れるほどに鞭打たれた背中がズキリと痛んで、無意識に肩へ手を回す。
傷はとっくの昔に癒えているはずなのにこんな錯覚を覚えるあたり、自分がまだあの魔物の支配下に置かれているような気がして嫌になった。
打ち明ければ目の前でのんきに茶を啜っているケリーが思い詰めるだろうから、黙って墓まで持っていくつもりでいるけれど。
「ふうん、なるほどな。つまりガルテリオ・ヴィンツェンツィオは連座刑こそ免れたものの、当分のあいだ黄都に戻ることを禁じられたってわけか。俺の予想としてはルシーンあたりがここぞとばかりにガルテリオを召喚して、公衆の面前でとことんまで扱き下ろすんじゃねえかと踏んでたんだが、まあある意味丸く収まったのかもな」
と、ケリーの隣で顎を擦りながらそんなことを言っているのはウォルドという大男だ。過去に手配書で人相書きを見た記憶があるが、本物のウォルドは想像していたよりずっと大柄で威圧感がある。
何せオーウェンは自分より上背のある人間に、これまであまり縁がなかった。竜族である竜父などは別として、純潔の人間でここまでの巨躯を誇る相手にはなかなかお目にかかれない。
印象としては竜人や牛人など、そっちの方に近かった。話してみると意外に大雑把で、見かけほど気性が荒いわけではないようだけど。
(ていうかこいつ、ガル様を堂々と呼び捨てかよ……)
と内心複雑な感想を抱きながら、顔に出ないよう白磁のカップへ手を伸ばす。相手はもう何年も前から反乱軍に身を置いている異邦人、ならば敵方の将軍を呼び捨てにするのはむしろ当然だと分かっていても、何となく抵抗を覚えて目を泳がせた。
「ふむ……確かにガルテリオ殿が公に罰せられずに済んだというのは喜ばしいことですが、それにしたところで謹慎による上洛禁止というのはいかがなものですかな。私にはガルテリオ殿の顔も見たくないと、陛下が釈明の機会を剥奪したように思えるのだが……」
「……あるいは黄都にいる反体制派の貴族たちを黙らせようという意図があるのかもしれません。彼らが頼みの綱としているガル様が不在となれば、自浄を唱える貴族たちの結束は難しくなる。というより今ガル様に黄都へ入られると、体制派と反体制派の全面衝突が起こりかねないのですよ。そうなれば体制派は内にも外にも敵を抱えることになる。そのような事態はさすがに避けるべきだと判断されたのでしょう」
「そういうまともな判断が下せる人間が黄都にもまだいるってこった、喜ぶべきことじゃねえか。救世軍としてはできるだけ派手に揉めてくれた方がやりやすくて助かったんだがな」
「……」
この男はまたさらりと恐ろしいことを言う、と思いながら、オーウェンは黙って香茶を啜る。一方のケリーは既に諦めてしまったのか何なのか、憤るでもなく窓の外へ視線を投げて、それ以上は何も言わない。
そこはアラッゾ屋敷の大食堂。オーウェンたちは現在その食堂の一角に集って、食後の香茶を馳走になりつつ、互いが持っている情報の交換を行っていた。
同席しているのはオーウェンとケリーとウォルド、そして屋敷の主であるリチャードの四人だけだ。ジェロディは現在マリステアと出かけていて、昼食は外で食べてくると言っていたから、まだ当分は戻らないだろう。
主が不在の間にこんな重要な話をしてしまっていいのかという疑問はあるものの、提案したのは他でもないオーウェンだ。ジェロディが謀反人の濡れ衣を着せられたあの日以降、ガルテリオがどのような帰趨を辿ることになったのか話しておかねばなるまいと思った。
ただ決して気分のいい話ではないので、できればジェロディやマリステアの耳には入れたくなかったのだ。いずれは知られることだとしても、自分の口から二人に告げる勇気がなかった。どんな言い方をしたってジェロディが傷つき、マリステアも泣き出すであろうことは容易に想像できたから。
「だがまあ、正直俺も驚いた。まさかティノ様が本当に国を裏切って、反乱軍につくとはな。おまけに三代目総帥なんて……」
「不服か? あいつが俺たちの仲間になったのが」
「いいや。ティノ様が自分で決めたことなら、俺は何も言うつもりはない。ただちょっと心配なだけだ。だっていくらトリエステ・オーロリーが生きてたとは言え、今のところ救世軍はたったの八人で、唯一の味方もあのライリー一味だってんだろ? そんな状態で黄皇国に戦争を吹っ掛けるのかと思うと、胃が痛くなると言うか何と言うか……」
「へえ。あんたに胃を痛めるほど繊細な神経があったとは意外だね。というかそれ、ヴィルヘルム殿に刺された傷が癒えきってないだけじゃないのかい?」
「ケリー、お前な……」
「第一、救世軍はあんたを入れて九人だ。めでたいじゃないか、これでちょっとは勝てる気がしてきたろう?」
「ああ、そうだな。何たってお前みたいな暴力女がいるんだもんな。敵によっちゃお前がひと睨みするだけでビビッて逃げ散るんじゃないか?」
はははは、とオーウェンが乾いた笑いを零しながらそう言えば、向かいからぎろりと殺気の籠もった視線がきた。ケリーも笑みを浮かべてはいるが、互いの間にバチバチと対抗の火花が散る。
……しかし彼女とこんなやりとりをするのも久しぶりだった。
ケリーだけじゃない。ジェロディに笑って名前を呼ばれるのも、マリステアからあれこれと世話を焼かれるのも。
(……やっぱり俺の居場所はここだよな)
そう、再認識した。
いつの間にか背中の痛みは去って、代わりに満たされた思いがある。
ガルテリオを裏切ることへの戸惑いがないと言えば嘘だった。この場に彼もいてくれたらと、内心ではそう願っている。
しかし彼の立場と矜持とが、それを許さないことも知っていた。あの人はそういう人だ。だからこそ自分もいつか追いつきたいと、死に物狂いで戦ってきた。その夢を救世軍で叶えられるかどうかはまだ、分からないけれど。
『──オーウェン。息子を頼んだぞ。あれは女に囲まれて育ったせいか、少しばかり女々しいところがあってな。男とはかくあるべきと、お前が傍で手本になってやってくれ。お前になら、安心して任せられる』
いつか聞いた彼の言葉を思い出した。
あのとき自分に向けられた微笑みも思い出した。
憑魔に取り憑かれている間、ずっと心の奥底に押し込められていた記憶だ。それをようやく取り戻した実感と、彼との約束を果たしたいという想いに、知らず拳を握り締める。
(……ま、俺がちょっと目を離した隙に、ティノ様はずいぶんご立派になられましたけどね、ガル様)
心の中でそう呼びかけて、オーウェンは小さく笑った。何せジェロディにグーで殴られるとは思っていなかったから。
一体誰の影響でああなったのかは気になるところだが、オーウェンはただただ嬉しかった。殴られて嬉しいというのも妙な話ではあるものの、そうとしか言いようがない。
『どうかもう一度、僕と一緒に戦ってもらえないだろうか』
そう言って差し出された彼の手を思い出す度、頬がゆるみそうだった。あの晩のジェロディの姿をガルテリオにも見せてやりたかった、と思う。
だってそっくりだったのだ。
十年前、共に来いと手を差し伸べてくれた若き日のガルテリオに。
「そうそう、その話なのですがな」
と、そこでリチャードが口を開き、ケリーとの啀み合いは中断された。何事かと目をやれば、無冠の獅子は立派な口髭を扱きながら考え込んでいる様子で言う。
「実は地方軍の兵の中に、自分も救世軍に加わりたいと申告してくる者がおりましてな。総帥のジェロディ殿が神子であると知り、その事実を伏せていた国の在りようにみな疑問を持ったようです。今、隊長格の者に言いつけて正確な数を把握させておりますが、恐らく二十人か三十人か……いえ、あるいはもっと増えるやもしれません」
「それは願ってもみなかったお話です。ですが我々救世軍に加勢するということは、親類縁者全員を危険に晒すということでもあります。彼らは反逆罪の重さを承知で申し出てくれているのでしょうか?」
「そこも含めて、現在慎重に話を進めております。既に意志の固い者の名簿は取り寄せてありますが、あとでご覧になりますかな?」
「ええ、ぜひお願いします。しかし一度に大勢連れ出すとなると船が足りないね……ウォルド、あんたあとで港へ行って、待機してる湖賊たちに事情を伝えてきてくれないかい?」
「島から船を呼び寄せるのか?」
「そうするしかないだろう。スッドスクード城から軍使が来るまでまだ時間がある。今日中に町を発たせれば、島まで行って帰ってきても間に合うはず──」
「──その必要はございませんぞ。こう見えて私も輸送用の中型船を三隻ほど所有しておりましてな。積荷を満載にしていく予定ではありますが、ある程度の人数であれば乗せていくことも可能です。それでは不足ですかな?」
と、ときにリチャードの口を衝いて出た言葉に全員が喫驚した。当のリチャードはさも当然と言いたげに不敵な笑みを浮かべているが、これにはケリーも動揺をあらわにしている。
「り、リチャード殿、船を出していただけるということは……」
「はい。先日頂戴しました救世軍へのお誘い、受けようと思います。家内と息子も了承済みです。店は休業という扱いに致しますが、工房からは織工を何人か連れてゆきます。コルノ島からの流通網を構築できれば、ピヌイス織りを鬻いで救世軍の活動資金とすることができるでしょう」
「ですがそれでは、屋敷や店で働く奉公人はどうするのです? 工房の織工とて、全員を連れていけるわけではないでしょう」
「ええ。彼らには恨まれるでしょうが、充分な退職金と紹介状を渡して解雇することに致します。ただ、共に行きたいと言う者については本人の希望を尊重したいと考えているのですが、構いませんかな?」
「戦闘員でも非戦闘員でも、人手が増えるに越したことはねえ。だが一応言っておく。俺たちはそういうつもりであんたを助けたわけじゃねえぞ」
ウォルドがきっぱりとそう言えば、リチャードは呵々と大笑した。彼とほとんど交流のなかったオーウェンでも分かる、打算などかけらもない笑顔だ。
「無論、承知しております。ですが私には、今の商工組合の在り方に不満を抱いている商人の知り合いが大勢おりますぞ。あなた方にとって彼らとのコネは、喉から手が出るほど欲しいものなのではありますまいか?」
「そりゃそうだが……」
「ならば私も喜んで馳せ参じましょう。求める者がいるところに求められるものを送り届ける、それが我々商人の矜持です。何より私自身、あなた方の理念と行動に感服致しました。年老いてすっかり腕も鈍りましたが、救世軍のために今一度、剣を取らせていただきたいと存じます」
何の迷いもなくそんな風に言われたら、余計な口を挟むのは野暮というものだった。向かいの二人もそう思ったのか、食い下がらない。
ケリーは手にしていた香茶のカップを皿に置くと、常にないくらい穏やかに微笑んだ。
「歓迎します、リチャード殿」
「記念すべき十人目の誕生だな」
逆にウォルドがカップを手に取りながらそう言えば、リチャードが嬉しそうに破顔した。ジェロディが聞いたら驚くだろうなと思いつつ、オーウェンも笑って香茶を啜る。
(救世軍ってのも、存外悪くなさそうだ)
今ならジェロディが彼らと共に戦うと決めた理由も分かる気がした。ガルテリオの下にいた頃は反乱軍の存在を憎んですらいたが、あのケリーがあれだけ穏やかに笑うのだ。きっとそれに値するだけの何かが、ここにはある。
カミラ、ウォルド、ヴィルヘルム、トリエステ。
果たして彼らと上手くやっていけるのかどうか、実を言うと少しだけ不安だったものの、こうして話を聞いていると何とかなりそうな気がしてきた。金髪で細身の、どこか猫っぽい少年──確か名前はカイルと言った──も最近入った新入りだというし、存外話が合うかもしれない。
問題はヴィルヘルムが今も目を覚まさないことだなと思いながら、オーウェンは残りの香茶を飲み干した。憑魔の支配から自分を救ってくれたのはあの男だと聞いたのだが、救世軍が郷庁を制圧した晩以来、彼はずっと昏睡状態にある。
おかげでいつまで経っても礼が言えなかった。彼とは一応正黄戦争時代に面識がある。が、向こうは自分を覚えているだろうか──などと考え込んでいると、不意にケリーが口を開く。
「そう言えば、オーウェン。奉公人の話で思い出したが、ヴィンツェンツィオ屋敷はあれからどうなってる? 前に黄都へ戻ったときは貴族街の門を潜れなくて、結局確かめられなくてね」
「あー、ティノ様が俺を追ってきたあのときか。俺も憲兵隊に捕まってからは戻ってないが、屋敷は無事だよ。一旦別の屋敷に移った使用人たちも、ガル様の放免が決まって何人か戻ったみたいだ。やっぱりメイド長を一人にしてはおけなかったんだろう」
「そうか。ということはメイド長も無事なんだね」
「ああ。一度公務執行妨害とかであの人も捕まったんだが、ちょうど黄都に滞在中だったファーガス将軍が便宜を図って下さってな。おかげですぐに解放されたよ。俺はマクラウドの前で剣を抜いちまったんで、さすがに無理だったが……」
「ファーガス将軍? あのとき将軍はまだ黄都にいらっしゃったのか? 私たちがクアルト遺跡の調査から戻った日に城で会って、そろそろ領地に戻ると話しておられたじゃないか」
「それが例の騒ぎのあと、俺のところにも面会に来て下さってな。城の中で色々とキナ臭い動きがあって、もうしばらく黄都に留まることにしたんだとそう言ってた。どうも将軍はルシーンの動きを監視してたらしい。ガル様を失脚させたがってるあの女の思惑を、将軍も察知してたんだろう」
「そうか……しかしシグ様と言いファーガス将軍と言い、何だか我々は将軍方に助けられてばかりだね。国に反旗を翻した途端コレとは、皮肉なもんだよ」
「あ、そうだ。シグ様と言えば一つ気になってることがあるんだが、あの方のところに──」
「──父さん、ただいま」
と、そのとき食堂の入り口から声がして、オーウェンは思わず言葉の先を呑み込んだ。見ればそこにはジェロディとマリステアを連れて出かけたはずのマシューがいて、二人の姿も後ろに見える。
「おお、マシュー。もう戻ったのか? ずいぶんと早いではないか」
「う、うん。ちょっと町で色々あって……母さんは?」
「マヤウェルなら工房へ行っている。私もこれから行くところだが、お前、ジェロディ殿をちゃんとご案内したのだろうな?」
「いえ、すみません、リチャードさん。僕がマシューに頼んで引き返してきたんです。カミラは?」
「カミラなら昼食も部屋で取ると言って、ヴィルヘルム殿につきっきりですよ。そう言えばさっきカイルが様子を見に行ったはずですが、戻ってきませんね……」
とケリーが何気なく答えた、瞬間だった。
突然ガタリと音を立て、ウォルドが席から立ち上がる。彼が手をついた拍子に跳ねた卓上のカップ同様、オーウェンたちも驚いた。
一体どうしたというのだろう、さっきまで飄々としていたはずのウォルドの表情は一変している。身を翻す際に見えた双眸は、殺気すら帯びているように見えたが気のせいだろうか。
「お、おい、ウォルド? あんた、どこに──」
というケリーの問いもみなまで聞かず、ウォルドはさっさと食堂を出ていってしまった。ジェロディたちも無言で立ち去る彼の剣幕に気圧されたようで、壁際に寄って道を開けている。
「あ、あの……ウォルドさん、どうかされたんですか? とても怖い顔をしていらっしゃいましたけど……」
「さ、さあ……カミラとカイルが全然顔を見せないから、様子を見に行ったのかもね……?」
まったく自信がなさそうにケリーが言い、ジェロディたちも顔を見合わせた。彼らがみな意外そうな反応を示しているところを見ると、実はカミラとウォルドは恋仲でカイルを牽制に……ということでもないらしい。
「旦那様」
ところがオーウェンたちが混乱している間に、今度は屋敷の使用人がやってきた。あれは恐らく執事だろう、小柄で老齢だが背筋は伸び、軽く一礼するだけの仕草にも深い教養が滲み出ている。
「ご歓談中のところ申し訳ございません。表にお客様がいらしているのですが、お通ししても構いませんか?」
「客? 私は誰も招いていないが」
「ええ。ですが旅のお医者様だとおっしゃるので、一応お伝えした方がよろしいかと思いまして……」
旅の医者とはまた奇妙な客だった。執事の話によればその医者は、リチャードの妻子が長らく病に臥せっていると聞き、助手を連れて遥々訪ねてきたらしい。
しかしリチャードの家族が病床にあるというのは、彼がマヤウェルたちの不在を誤魔化すためについた嘘だ。ゆえに本来であれば、既に快癒したと伝えてお帰り願う場面なのだが。
「そうか、ヴィルヘルムさん……!」
と思い立ったようにジェロディが言い、隣で執事が首肯した。ヴィルヘルムのことは昨日、町の医者が診ていったのだが原因不明と言われ、解熱薬を飲ませるくらいしか手の打ちようがなかったのだ。
執事は恐らくそれを気にして声をかけに来たのだろう。何とも気の利くいい執事だ。主人であるリチャードも重々しく頷くと、椅子を引いて立ち上がる。
「行きましょう、ジェロディ殿。執事、その医師をただちにお通しするように」




