153.もう一度歩き出すために
夜明けがこんなに眩しいものだったなんて知らなかったな、とカミラは思った。
十六年間生きてきて、そのあいだ朝は繰り返し繰り返し巡ってきたはずなのに、朝日をこれほど眩しいと感じたのは生まれて初めてのような気がする。
(これが〝生きてる〟ってことなのかしら)
割れた窓から注ぐ旭日を眺めながら、カミラは改めて生の実感を噛み締めた。昨夜はもう駄目だと諦めそうになる瞬間の繰り返しだったから、こうしてまた朝を迎えられたことが不思議で新鮮で愛おしい。
(……この朝日を、ヴィルも一緒に拝めれば良かったんだけど)
と、膝の上にある彼の顔を見下ろしながら、思う。
そっと前髪を掬うように触れたヴィルヘルムの額は汗ばみ、相変わらず熱は高かった。憑魔の攻撃で受けた傷は癒えたはずなのにいつまでも目を覚まさないのは、たぶんそのせいだ。
顔の半分が眼帯で覆われているためはっきりとは分からないが、表情は心なしか苦しそうだった。早く麓へ下りて医者に診せてやりたいと思いつつ、昨夜の騒乱の事後処理が済むまでは無理だと承知していて顔を上げる。
向かいではマリステアが同じようにオーウェンへ膝を貸していた。向こうも傷は癒えたが目を覚ます気配がないそうで不安が募る。
魔物に体を乗っ取られていた人間が、魔物を祓われたらどうなるのだろう。中に入っていた魔物ごと魂を抜かれて抜け殻になってしまうんじゃないかとか、あるいは体内が瘴気に冒されて助からないんじゃないかとか。
嫌な予想ばかりが次々と、気泡のように浮かんでは消える。ヴィルヘルムが目覚めていれば答えを聞けたかもしれないのに、呼びかけても叩いても起きないのだから尋ねようがない。
(大丈夫よね、ヴィル)
──死んだりしないわよね。
心の中でそう呼びかけながら、静かに彼の黒髪を梳いた。今夜は果たして何度彼に救われたか分からないのだから、このまま借りも返さぬうちに死なれたら、困る。
「けどまあ、見直したぜ、ジェロ。てっきりあのキノコのオッサンを斬り殺すかと思ってたのにさあ。色々と因縁のある相手だったんだろ?」
と、ときにそんな話が聞こえて視線を上げた。ゆるりと首を回して見やった先には、ジェロディの肩に狎々しく肘を置いたカイルがいる。
リチャードやウォルドとこれからの対応について協議していたジェロディは、あからさまに迷惑そうな顔をしたが、いつものようにすげなく追い払うことはしなかった。一応憑魔との戦いで救われた恩があるから、今日くらいは大目に見てやろうと思ったのかもしれない。
「まあ、ね。前にも似たような状況に遭遇したことがあって、そのとき先輩の神子がしていたことを真似しただけだよ。マクラウドの身柄は黄都に差し戻して裁判にかけてもらう。そうすれば法廷でルシーンの悪事に対する証言が出るかもしれないし」
「ご英断ですな。先程信頼できそうな兵を選んで、スッドスクード城へ報告に向かわせました。此度の経緯をシグムンド殿にお知らせすれば、マクラウドの身柄はあのお方が預かって下さるでしょう。さすれば余人も簡単には手出しができません。万事上手くゆけば、法廷での証言も期待できるかと」
「まあ、証言云々についてはまだ何とも言えねえにしても、今回マクラウドがピヌイスで働いた悪事が表に出りゃあ、ビヴィオのときと同じかあれ以上の騒ぎになるだろう。何たって元憲兵隊長殿の不祥事だからな」
「でもさー、それって噂になる前に握り潰されたりしないのかな? 国としては、そんな人の不祥事が表沙汰になるのは避けたいわけじゃん? 何たってオレたち〝反乱軍〟の株が上がっちゃうし?」
「そうならねえよう工作が必要だ。島に戻ったらトリエステの智恵を借りようぜ。あいつなら黄都にコネも持ってそうだし……」
と、男四人の間で交わされる会話をぼんやり聞きながら、カミラは黄砂岩の壁に背中を預けた。今夜は色々なことがあったせいか、さすがに疲れ果てていて眠い。神力も血も垂れ流しすぎたし。
彼らの話題にのぼっているピヌイス郷守マクラウドは、先程部下だった者たちに両脇を抱えられ、連行されていった。何でもジェロディの提案で、スッドスクード城からの軍使が来るまで地下の特別房に拘束しておくことになったらしい。
マクラウドは別に神術の使い手でもないし、わざわざ特別房に入れる理由もないのになんで? とカイルが尋ねたら、ジェロディはにこりと笑って「あそこに刻まれている神聖文字は、思い上がった人間を捩じ伏せるためのものだからだよ」と答えていた。
それが一体どういう意味なのかカミラには分からないが、ケリーやマリステアがしきりに頷いていたところを見ると、何か深い理由があるのだろう。そんなことを考えながらふわあとあくびを零したら、突然聞き覚えのある少年の声が弾けた。
「──父さん!」
慌ててあくびを引っ込め、入り口の方へ目をやれば、そこにはケリーに連れられてやってきたマシューとマヤウェルの姿があった。
中でもマシューはリチャードの姿を見るなり、脇目も振らず駆け寄っていく。そうして懐に飛び込んできた息子を、リチャードはちょっと困惑した様子で抱き止めた。
「おお、マシュー……すまなかったな。私が不甲斐ないせいで、お前と母さんには苦労をかけた」
「ううん。不甲斐なかったのはぼくの方だよ。父さんを守ってあげられなくて……ごめんなさい」
父の分厚い胸板に顔を埋め、マシューは泣いているようだった。そんな息子の姿を見下ろしたリチャードもまた、感極まった様子で肩を抱く。
初めからそうやって素直に再会を喜べばいいのに、リチャードが戸惑いを挟んだのは、やはり拭い難い自責の念があるからだろう。
自分のせいで、民だけでなく家族まで不幸にしてしまった。あるいは彼はそう思っているのかもしれない。
だけどそれは違うわ、とカミラは思った。
だって窓から射す朝日に照らされ、夫を見つめるマヤウェルの瞳に、この時期のタリア湖のような輝きと穏やかさを見たから。
「……マヤ」
「おかえりなさい、あなた」
「何?」
「やっと帰ってきて下さいましたわね。わたくしの愛するリチャード」
そう言って微笑む妻の姿を映して、リチャードの緑眼が揺れた。
かと思えば彼は一粒の涙を零し、迷わず妻を抱き寄せる。
「すまんな、マヤ……長いこと待たせてしまった」
「いいんですよ。何があっても夫の帰りを信じて待つのが妻の役目であり、喜びなのですから」
カミラは素直に感動した。そうか。マヤウェルはずっと待っていたのか。リチャードがすべてのしがらみを振りほどき、自ら真帝軍に駆けつけたあの頃のように、もう一度正義のために立ち上がるのを。
それを促すでもなく、急かすでもなく、ただじっと信じて待っていた。そんな彼女の一途で健気な心を思ったら、何だかカミラまで胸がいっぱいになった。
(私もいつか誰かと結ばれたら、あんな奥さんになれるかしら)
と、柄にもないことを考えてしまって赤面する。
(いや、まあ、結婚なんてまともに考えたことないんだけど……)
十七にもなって浮いた話一つない自分に、一抹の虚しさを感じなくもない。故郷では十五を過ぎれば結婚の話題が出るものなのに、カミラは同じ年頃の娘たちが恋愛話に花を咲かせるのを後目に、ただひたすら剣の鍛練に明け暮れていた。
だってずっと決めていたのだ。兄やイークが三年経っても戻らなければ、そのときは二人を探しに行こうと。
そう考えたら恋だの結婚だの、そんなものはカミラにとって煩瑣な足枷でしかなかった。というかそもそも興味の範疇外だった。深い深い森と小さな郷しか知らなかったカミラの世界は、兄がいてイークがいればそれで完結していたからだ。
他に欲しいものなんて何もなかったし、また二人と笑って暮らすことができれば満足だった。自分の幸せがあるとしたらあの二人の間だと、そう信じて疑わなかった。
(でも、私は結局……二人を信じて待つことができなかった)
おかげで自分は今、ボロボロの姿で力なく座り込んでいる。
自分の血なのか他人の血なのか判然としないものにまみれ、望んでいたのとは遠くかけ離れた世界に身を置いている。
後悔しているわけじゃない。だけど時々分からなくなるのだ。
私はどうしてこんなところにいるんだっけ?
私の幸せは、どこに置いてきてしまったんだっけ?
『汝をテヒナの呪いから解き放ってやる』
耳元で魔族の声がした。
『知りたいか?』
『汝の父が何故死んだのかも、兄が帰らぬ理由も、汝自身がこれから辿る運命も』
『カミラ、あの晩汝の父親は、愛する娘を守るために──』
『──凶星が動いた。すぐに災いがやってくる』
『私たちはその子を隠さなくちゃならない。お前のためにも、その子のためにも……我々の未来のためにもね』
『隠された娘よ。神慮を拒む不届き者よ。貴様の存在は世界を乱す』
『いや。何もないさ、カミラ。大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい……』
『だから今夜はもうおやすみ』
『……教えて下さい、トラトアニ様。どうして、父は……どうして、こんな──』
『すべては眠りの彼方へ』
「──カミラ!」
刹那、いきなり肩を揺さぶられてはっとした。
記憶の深淵を覗いていた意識が引き戻され、少しのあいだ茫然とする。
何だか体が冷たかった。全身に汗をかいていたようだ。
目の前には眉をひそめてこちらを覗き込む、ケリーの姿。
「おいカミラ、大丈夫かい? あんた、顔が真っ青じゃないか」
「……え……?」
「呼びかけてもしばらく答えなかったし、どこか悪いんじゃないか? 痛むところがあるなら遠慮しないで言いな」
「あ……い、いえ……大丈夫、です……ただ、ちょっと、疲れちゃったみたいで……」
気づけば息も上がっている。カミラは額に手をやりながら、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
こんなあやふやな記憶や魔族の言葉なんかで、仲間を不安にさせたくない。真実を知っているのは恐らく郷の族長と巫女と二人の兄──そしてヴィルヘルムだけ。
だから今は、大人しくヴィルヘルムの目覚めを待つしかなかった。父とは一度会ったきりだという彼が、本当に真実を知っているのかどうかは定かでない。
でも、少なくとも真相に近い何かを知っているのは確かだと思えた。だってヴィルヘルムはあのとき、カミラに何か告げようとしていたクルデールの言葉を強引に遮ったのだから。
「えー!? なになに、カミラ、具合悪いの!? じゃーアレだ、特別にオレが膝枕してあげ──」
「だったら僕が。《命神刻》の力があれば、ある程度肉体の疲労も癒やせると思うし」
「……え!? い、いやいや、こんなのちょっと休めばすぐ良くなるから、わざわざティノくんの力を借りなくても……! そ、それよりずっと気になってたんですけど、リチャードさんはどうしてここに? ウォルドたちが迎えに行く前から郷庁を目指してたって言ってましたよね……!?」
何だか話が変な方向へ逸れつつあったので、カミラは慌てて軌道修正を試みた。どんな些細なことであっても、できればジェロディに神の力を使わせたくはなかったし。
すると話題を振られたリチャードが、「ふむ」といかつい顎に手を当てた。彼の背後、開け放たれた扉の向こうでは地方軍の兵士が忙しなく行き来して、カミラたちが暴れたあとの後始末に追われている。
「それが少々、込み入った事情がありましてな。実は皆様方のことをマクラウドへ引き渡し、屋敷へ戻ったあとに地方軍の兵士が一人、人目を忍んで私を訪ねてきたのです。彼は私と郷守にまつわるすべての事情を承知していたようで、こう持ちかけてきました。私にはこの町を救ってもらった恩がある、ゆえに自分と数人の仲間で援護するから、共に郷守を討ちに行こうと」
「えっ……つ、つまり、内通者ってことですか?」
「いかにも。彼は私が郷守の悪行を暴露すれば、味方する兵士はもっと増えると熱心に説いてきました。一方私も、皆様を郷守に売ってしまったという負い目がありましたのでな。そこで彼の言葉を信じ、共に郷庁へ向かうことにしたのです。ですが途中でウォルド殿とカイルに出会い、皆様が既に脱出されたことや、妻と息子の保護に向かって下さっていることを聞きました」
「では、リチャードさんを迎えに行ったその兵士はどうしたのですか?」
「それがウォルドがすごんだらビビッて逃げちゃってさー。追いかけようとしたんだけど山に入られちゃってね? まあ、こんなでっかいおにーさんに睨まれたら誰だっておっかないだろうし、オレも心底同情するけど」
「おい、事実を捏造するな。あれはお前がいきなりあの兵士に斬りかかったせいだろうが」
「いやいや、だってパッと見リチャードさんを連行してるようにしか見えなかったし、そもそも敵か味方かもハッキリしなかったし? だから見極めようと思ってカマかけただけで、殺す気なんて全然なかったんだよねー。ってことでやっぱ、あの人が逃げたのはウォルドの眼力のせいっしょ」
あははは、と気の抜けた声で笑っているカイルを見たら、何だかカミラの方まで脱力してしまった。せっかくリチャードを立ち上がらせようとしてくれた兵士がいたのに追い払ってしまうなんて……と呆れが募る。
でもその兵士の言い分は正しかった。この町の地方軍にはピヌイス出身の者が思ったよりも多くいて、彼らはリチャードが抱えていた事情を知ると、共に郷守に憤ってくれた。おかげでカミラたちも助かったのだ。もしもリチャードの到着があと少し遅れていたら、ジェロディは間違いなく神の力を解放し、ヴィルヘルムの言っていた〝神蝕〟というやつをより早めていたことだろう。
(兵士の中にピヌイス出身者がたくさんいるって分かっていたら、あんなに殺さなくて済んだんだけど……)
という悔恨の気持ちはある。
昨夜の騒動で、カミラたちはかなり多くの地方軍兵を手にかけてしまった。
もちろん向こうも殺す気で来ていたし、身を守るためには仕方なかったという言い訳は立つ。だけどできることなら、彼らとも分かり合いたかった。
かつてライリーが言っていたように、彼らもまたこの国の民であることに変わりはないのだから。
「あ」
と、カミラがそんな思考に沈んでいると、ときに向かいでマリステアが声を上げた。どうしたのかと振り向けば、彼女は目を見張って膝の上の彼を覗き込んでいる。
「オーウェンさん……!? 目が覚めましたか……!?」
「……マリー……? 俺、は……」
マリステアに答える掠れた声が聞こえて、ジェロディとケリーが顔色を変えた。二人はほとんど同時に身を翻すと、他のものなど何も目に入らない様子でオーウェンへと駆け寄っていく。
「オーウェン! 良かった、無事で……!」
「ティノ様……それに……ケリーも……? マクラウドの、野郎は……」
「あいつならとっくに牢獄送りにしてやったよ。まったくあんたってやつは、とことん私らに心配かけて……」
オーウェンの傍らに膝をついたケリーの表情は、カミラの位置からはちょうど隠れて見えなかった。けれど未だ横になったままのオーウェンを小突く仕草には、これ以上はないほどの親愛の情が溢れている。カミラはつい瞬いた。いつも冷静沈着なあのケリーが、あんなにも感情をあらわにするなんて。
もちろんケリーだけじゃない。彼に膝を貸すマリステアは安堵で泣き崩れているし、ジェロディも珍しくもらい泣きしている。
誰もが皆、一度は彼に裏切られたと思い込んでいたのだ。それが魔物の仕業であったと知り、またオーウェンが無事に目を覚ましたことで、彼らがどれほど安心したか、カミラには計り知れなかった。
「申し訳ありません、ティノ様。魔物に操られていた間の記憶は、途切れ途切れですが確かにあります。俺はティノ様に……守るべき主に剣を向けたんですね。ガル様からあんなに〝息子を頼む〟と言われていたのに……」
やがてマリステアが神術で生み出した水を飲むと、オーウェンはだいぶ息を吹き返した。魔物に体を乗っ取られてはいたものの、特に瘴気の影響などは受けていないようで、自力で起き上がって壁に背を預けている。
「そのことはもう気にしてないよ、オーウェン。さっき倒した魔物が言っていた。君は僕たちを守るために、捕らえられても決して口を割らなかったって……僕の方こそ、ごめん。君が屋敷に残ればマクラウドたちに捕まってひどい目に遭うかもしれないと、少し考えれば分かることだったのに……」
「いいえ、ティノ様に謝っていただくようなことは何も。それどころか俺は、主人であるあなたに剣を突き立てたんです。そんな大馬鹿野郎に、どうか頭を下げないで下さい。結果として俺はティノ様をお守りすることができなかったんですから」
(え、剣を突き立てた……?)
一体何の話か分からず、カミラは思わず聞き耳を立ててしまった。黄都で邂逅したときも、確かにオーウェンはジェロディを狙って剣を振り回していたが、結局彼を傷つけるような真似はしなかったはずだ。
ところがカミラがそう回想している間に、オーウェンがむくりと体を起こした。そうしてジェロディの前に膝を揃えると、唐突にガバッと頭を下げる。
これにはジェロディたちも、彼らの様子を見守っていた面々も面食らった。しかしオーウェンは床に額を擦りつけたまま顔を上げず、平伏されたジェロディの方が困惑している。
「ちょ……お、オーウェン、一体何を……!?」
「ティノ様──いえ、ジェロディ様。主を裏切り手を上げた俺の罪は、いくらお詫びしたところで許されることではありません。俺に魔物を振り払う力があれば、ジェロディ様をあんな目に遭わせることもなかった。ですから償いを……いかなる罰でも受ける所存です。どうかこの身を、ジェロディ様のお好きなようになさって下さい」
ジェロディは返す言葉を失っていた。相応の罰を言いつけられるまでそうしているつもりなのか、まったく顔を上げないオーウェンを唖然と見下ろしている。
彼は恐らく、悔いても悔いきれないのだろう。いっそ魔物に取り憑かれていた間の記憶なんて綺麗に消え去っていれば、仕方のないことだったと割り切ることができたかもしれないが。
(自分の大切な人を斬りつけた記憶なんて残ってたら、大概そうなるわよね……)
と、カミラは内心オーウェンに同情する。彼のジェロディに対する忠義のほどは知らないが、これがケリーなら無言で自害の支度を始めるくらいの大事件だろう。
だからカミラは、ジェロディの裁定を待った。今のオーウェンが抱えている苦悩を癒やしてやれるのは彼だけだ。ジェロディならきっと最善の方法でオーウェンを救ってくれるはず──と、そう思ったのだけれど。
「……分かったよ、オーウェン。では君には今から罰を与える」
と言うが早いか、ジェロディはその場に立ち上がった。オーウェンを見下ろす彼の瞳に感情はなく、見たこともないほど冷たい横顔にカミラは「あれ?」と思考が追いつかない。
「僕の好きなように、と言ったね。今の言葉に二言はないかい?」
「はい。ジェロディ様の気が済むのならいかようにも」
「なら、まずは顔を上げて。僕の正面で、膝立ちになってくれるかい」
「……膝立ち、ですか?」
「ああ。君は背が高すぎるから、そうしてくれないと困る」
淡々と吐き出されるジェロディの命令に、何が始まるのかとカミラは唾を飲み込んだ。他の仲間も彼の考えが読めないようで、緊張が伝播していく。
その間にもジェロディは、マリステアとケリーを下がらせた。マリステアの方は何か言いたそうにしていたが、ただならぬ空気を察したのかぎゅっと胸元を握ってあとずさる。
窓際の壁に背を預けているカミラの正面には、直立したジェロディと彼に向き合うオーウェンだけ、という構図ができ上がった。
後者は言われたとおり、両脚を折りたたんで膝立ちの状態になっている。長身の彼は膝をついてもすらりとしていて、背筋を伸ばせばジェロディの顎下くらいまで背丈があった。
「これでよろしいですか?」
「ああ。そしたら目を瞑って」
「はい」
「歯を食いしばって」
「はい」
「覚悟はいい?」
「はい」
「じゃあ、遠慮なく──」
と言いながら、ジェロディが突然右腕を振り上げた。
皆が「え、」と思ったときには、拳を作った右手が全速で突き出されている。
ジェロディが放った一撃は、先程リチャードがマクラウドに放ったそれと同じく、オーウェンの頬にめり込んだ。手加減はまったくしなかったようで、「ぶっ……!?」と驚愕の声を上げたオーウェンが吹き飛ばされていく。
「お、オーウェンさん!? ティノさま、何を……!?」
「いや、だってこうしないとオーウェンが納得しないって言うから……」
こともなげにそう答えてから、ジェロディは「いてて」と右手を振った。全力でオーウェンを殴り飛ばした彼の右手は、指の付け根のあたりが真っ赤に腫れてしまっている。
恐らく剣を振ったことは数あれど、人を殴った経験などほとんどなかったのだろう。ジェロディは「思ったより痛いな……」とぼやいてから、頬を押さえて目を白黒させているオーウェンに改めて向き直った。
「はい、これで痛み分け」
「い、痛み分け……!?」
「さっきも言ったろ。今回の件は、君に及ぶかもしれない危険を考えなかった僕の責任でもあるって」
「で、ですが、あのときはああするしか……!」
「そうでもない。僕がもう少ししっかりしていて、父さんのように勇敢だったなら、あそこでマクラウドたちの首を取るという選択肢もあった。多勢に無勢の状況だったとは言え、僕が持つ不死の力と君たちがいれば、不可能ではなかったはずだ。そしてあのとき僕がマクラウドを討っていれば、少なくともマシューやマヤウェルさんをこんな目に遭わせることもなかった」
「ティノ様──」
「だけど、それでも罰が欲しいと君が言うから、百歩譲って痛み分け。今のはリチャードさんがマクラウドに与えた罰と同じだ。だからやつの部下だった君にも同じ罰を」
「ですが、マクラウドは今後さらなる刑を受けます。だったら俺も……」
「もちろん今ので終わりじゃないよ。オーウェン、これから君には救世軍の一員として、僕と一緒に〝反逆者〟になってもらう。君が父さんの下で築き上げた数々の功績は否定され、階級も剥奪され、軍にいる多くの戦友たちは恩知らずの裏切り者と君を痛烈に罵るだろう。それでも共に来てもらう。当然ながら拒否権はない」
「……!」
「けれど同時に、それ以上の罰を僕は望まない。オーウェン。君に父さんを裏切らせるのは本意じゃないけど──だけどどうかもう一度、僕と一緒に戦ってもらえないだろうか」
ジェロディはそう言って、ゆっくりとオーウェンに歩み寄った。横顔にはもう、心を鬼にしていたときの冷たさはない。いつものジェロディだ。
彼は未だ腰を抜かしているオーウェンに笑いかけ、手を差し伸べた。《命神刻》が隠れてしまうくらい真っ赤になった右手を。
茫然とその手を見やったオーウェンの瞳が、刹那、じわりと滲んだような気がした。しかし彼はすぐに目元を拭って、差し出された主の手を握り返す。
「望むところです、ジェロディ様。その罰、喜んで受けましょう」
「罰を喜んで受けるって、あんまり聞いたことがないけど」
「オーウェンに学を期待するだけ無駄ですよ、ジェロディ様。何せこいつは昔から、本能と食欲と野生の勘だけで生きているような男ですから」
「人を野生児みたいに言うな! そう言うお前こそ、ちょっと見ない間に太ったんじゃないのか、ケリー!?」
「おっ、オーウェンさん、なんてことをおっしゃるんですか!? たとえそうだとしても、レディに面と向かってそんなことを言うのは失礼ですよ!?」
「マリー、今のはケリーに代わって否定してあげるところじゃないかな……?」
「はっ……!? ち、ちちちち違うんですよケリーさん!? わたしは別にケリーさんのこと、太ったなんて思ってないですからね……!?」
顔を真っ赤にして弁解するマリステアの慌てっぷりに、周囲からどっと笑いが起きた。つられて笑い出したジェロディのすぐ傍でも、次々と笑顔が咲いていく。
東の稜線を越えてきた太陽が、いよいよピヌイスの町を明るく照らし出した。すべての影が洗われ、執務室は目も眩むほどの光と笑い声で満たされてゆく。
そんな執務室の窓辺、外に向かってわずか突き出した天板に、先程から一匹のコウモリがぶら下がっていた。
彼はすべての会話を聞き届けるやついに翼を広げ、朝空へと飛び立っていく。
羽音に気づいたカミラの視線が、割れた窓へ注がれた。
されど白き太陽の腕が、その視線を遮っていく。




