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152.長い夜の終わり


 『千刃の計』と呼ばれる神話がある。


 神界戦争の時代、生命の神ハイムによって残された神話だ。


 魔の軍勢が勢いを増し、神界側が劣勢に追い込まれたある日のこと。ハイムは魔軍を引きつけ兄神たちの窮地を救うべく、たったひとりで地上のとある城に籠もった。その城には千本のつるぎがあり、ハイムはそれらに魂を与えることで、命ある兵士と変わりない働きをさせることにしたのだ。


 結果として、ハイムは勝利した。


 籠城しているのはハイムとほんのわずかな兵士だけ。そう聞いて集まった一万の魔物の群を、千のつるぎと身一つでものの見事に撃退した。

 ゆえにこれを『千刃の計』と呼ぶ。

 およそ人の身では真似できぬ、〝神業〟という言葉がぴったりの偉業である。


 カミラが不意にそんなことを思い出したのは、視界の端でハイムの神子たるジェロディが立ち上がったためだった。

 彼がまっすぐ見つめる先には、マクラウドに率いられた数十人の兵士がいる。いや、もっと正確には──彼らが構える数十本の剣がある。

 それに気がついた刹那、駄目だ、とカミラは思った。今だけはジェロディが何を考えているのか手に取るように分かる。先程聞いたヴィルヘルムの言葉が甦った。


『お前が力を使えば使うほど、ハイムとの同化は進むだろう。やがて神の魂はお前の魂と結合し、分かつことは不可能となる──』



『──ジェロディに神の力は使わせるな』



「……っ!」


 《神々の目覚めエル・シャハル》を止める、とヴィルヘルムは言った。

 たったひとりの大切な誰かを失わないために、世界中の人々が望む神の復活を阻むのが本当に正しいことなのか、カミラには分からない。

 けれどやっぱり、彼を失いたくなかった。

 だとしたら自分が戦わなくては。そう思い立ち上がろうとしたが、途端に負傷した右腕を電撃のような痛みが駆け上がる。


「か、カミラさん、待って下さい! 今、傷の治療を……!」

「そ……それより今は、あいつらを何とかしないと……っ」

「無理ですよ、そんなお体では……! お願いです、すぐに済みますから……!」


 ヴィルヘルムの治療を終えたマリステアに押し留められ、立ち上がりかけていたカミラは再び壁際に座り込んだ。だけど今は、こんな小さな傷にかかずらっている場合じゃない。向こうではオーウェンだって死にかけているし、何よりマクラウドが、すぐにも部下たちへ号令しようとしている──


「いい仲間を持ったな、ジェロディ。だがいくら腕の立つ者を募ったところで、反乱軍など所詮は弱小勢力。強大な国家の前には為す術もなく敗れるしかないというわけだ。その摂理をロカンダ陥落から学ばなかったことが貴様らの敗因だな」

「……」

「なあ、ジェロディ。反乱軍を率いれば、自分も父親のように戦えるとでも思ったか? ヒャハハッ、無理に決まってるだろう! 貴様のような世間知らずのガキにできることなどたかが知れている! ガルテリオの息子という肩書きを鼻にかけ、思い上がった結果がコレだ! 呪うなら己の愚かさを呪うのだな!」

「……自分の無知や無力さなら、もう何度も呪ったさ。だけど、だからこそ、僕は──」


 言って、ジェロディが右手の手套をするりと取った。あらわになった甲の上で、青銀色の《星樹ラハツォート》が輝いている。

 それを目にした兵たちの中からどよめきが上がった。ジェロディが神子であることは対外的には伏せられていたから、動揺するのも無理はない。

 神子には神子であるというだけで人をひれ伏させる力がある。

 そして従わぬ者の心を手折り、屈服させるだけの力も。


「ティノくん、ダメ……!」


 その力は安易に使ってはいけない力だ。

 だからカミラはマリステアを押しのけ、止めようとした。

 けれどわずかこちらを振り向いたジェロディは、微笑わらったような気がする。

 これでいいんだ、とでも言うように。


「──そこまでだ」


 ところが《命神刻ハイム・エンブレム》からいのちの光が溢れるかに見えた、瞬間。

 突如廊下から低く威厳ある声が響き、官兵たちが面食らった。かと思えば自然と人垣が割れ、ざわめきが広がる。異変に気がついたらしいマクラウドも、声のした方へ怪訝そうな目を向けた。


「何だ、こっちは今取り込み中──へぶゥッ!?」


 直後、マクラウドの醜い髭面にいわおのような拳がめり込む。顔が歪むほどの力で殴られた彼の体は、変な回転を帯びて執務室の中まで吹っ飛んできた。

 あまりの勢いに怯んだジェロディが道を開け、止めるもののなくなったマクラウドは自分の執務机へ激突する。衝撃で積まれていた書類の山が雪崩を起こし、バサバサと彼の頭上へ落下するのが見えた。


「り……リチャードさん……!」


 マクラウドを殴り飛ばした、筋骨隆々の大男。彼の名を呼んだのはカミラでもジェロディでもマリステアでもなく、愕然と立ち竦む地方軍の兵士たちだった。

 なるほど、彼らの中にはピヌイス出身の者も多いのだろう。だから皆リチャードを知っている。貧しかったこの町の名を、たった十年足らずで世界に知らしめた偉大な男を。


「り、リチャード殿、どうしてこちらに……!? まさかウォルド、あんたたちが……!?」

「いや、まあ、なんつーかな。俺たちが麓を目指したときにはこのオッサン、もう山を登ってきてたんだよ。で、郷守に話があるっつーからここまで連れてきたわけだが……」

「かたじけない。皆様を救い出し、己の罪を償うつもりでここへ来たというのに、かえって私の方が救われてしまいましたな。まさか皆様が自力で牢を脱出し、その足で郷守を討ってしまうとは……」

「いやー、実際郷守に手を下したのはオレたちじゃなくて、リチャードさんだけどね?」

「か……か……勝手に殺すなァッ……!」


 刹那、崩れ落ちた書類が舞い上がり、中からマクラウドが飛び出してきた。自慢のキノコヘアーはぼさぼさに乱れ、顔も半分潰れてしまっているが、本人はまだまだ元気なようだ──しぶとい。ゴキブリ並みに。


「お、おいリチャード、貴様ァ! 自分が何をしたか分かっているのか!? 前任の郷守を殺した上に、私にまで手を上げるなど……!」

「先代の郷守を殺してやりたいと思っていたことは認めるがな。何度も言うように、アレは事故であって私の意図したことではない。どうしても私が犯人だと言い張るつもりなら、それ相応の証拠を揃えて法廷に提出してもらおうか」

「だ、黙れ黙れェ! 貴様、私に向かってそんな口をきいていいのか? ここには貴様の妻子がいるのだぞ!? 貴様が陰で反乱軍に同調する動きを見せているというから、万一に備えて人質を取ってみたが正解だったようだな! かくなる上は貴様の妻子を……!」

「あ、マヤウェルさんとマシューのことなら、とっくに救い出して安全な場所に避難させたわよ?」

「なぬーッ!?」


 マリステアのおかげでようやく傷が癒えたカミラは、立ち上がると同時にけろりと告げた。それを聞いたマクラウドは目を剥いて腰を抜かし、わなわなと全身を震わせている。


「き……貴様ら……人の計画をとことん踏み躙りおって……! 私を本気で怒らせたらどうなるか、分かっていないようだな……!」

「へー。それはぜひどうなるか見てみたいものだけど、実は私たちもそろそろ堪忍袋の緒が切れそうなのよねー」

「フン! ならば貴様らの怒りと私の怒り、どちらが上か試してやろうではないか! おい、お前たち! ただちに反逆者どもを引っ捕らえろォ!」


 と、性懲りもなくマクラウドが吠えた。カミラはまた乱戦になることを覚悟して、手にした剣を握り直す。

 ところがマクラウドの城であるはずの執務室には、シン……と静寂が降り積もるばかりだった。まったく戦いになる気配がなく、カミラたちが目を点にしていると、同じくきょとんとしたマクラウドが改めて声を張り上げる。


「お、おい、貴様ら、私の命令が聞こえなかったのか!? 黄帝陛下の名に懸けて、今すぐそこの反乱分子を拘束しろ……!」

「……」


 だがマクラウドがいくら語気を強めても、兵士たちは互いに顔を見合わせるばかり。勇ましく室内に踏み込んでくる者もなく、廊下には厭戦の空気が漂っている。

 かと思えば先頭にいた兵の一人が、突然床に得物を投げた。

 その行動の意味を理解しかねたマクラウドがまたも目を見開いている。武器を捨てた兵はまだ若く、緊張した面持ちで、しかしきっぱりとこう告げた。


「郷守様。おれは、あなたの命令には従えません」

「な……何だと……!?」

「おれはピヌイスの出身です。ここで生まれ育った人間は皆、リチャード殿にひとかたならぬ恩義を感じています。この人はひもじい思いをして育ったおれたちに、腹いっぱいの暮らしと誇りをくれた。おれはピヌイスの町が好きです。愛しています。だからたとえあなたの命令でも、リチャード殿には手を上げられません」

「き、貴様……その言葉が何を意味するか分かっているのか? 貴様は今、軍令に背いて国に反旗を翻すと──」

「お、おれもこいつに賛成です。そもそもこんな戦い、馬鹿げてる……! 魔物を連れて偉ぶってた男なんかに、どうしておれたちが従わなくちゃならないんだ? おれは魔界に堕ちるなんてごめんだぜ……!」

「そ、そうだ。そっちにいるガルテリオ将軍の息子さん……あの人の右手にあるのは《命神刻》だろ……!? どうして国は神子さまを罪人扱いして、魔人を重用したりしてるんだ? こんなのおかしい! オレたちは騙されてたんだ……!」

「ち、違う! あの魔物はルシーン様が……私は魔人などでは……!」


 マクラウドの弁解は、もはや兵たちの耳に届かなかった。真実を知った彼らは次々と武器を捨て、降伏を宣言し始める。投げ捨てられた剣はあっという間に山となり、ついにこの場で武器を持っているのはカミラたちだけになった。

 流れに乗りそびれた一同は顔を見合わせて、互いの意思を確認する。


「え、えーっと、これって……」

「ムジョーケンコーフクってやつじゃない? つまりそこにいるキノコのオッサン以外には、もう戦う意思がないってこと」

「だ、誰が〝キノコのオッサン〟だ! 貴様、発言を訂正してお詫びしろ……!」

「つーことはだ。あとはうるせえルシーンのいぬさえやっちまえば、今度こそ真の一件落着ってことになるんじゃねえのか?」


 マクラウドの抗弁をまるっと無視し、ウォルドが親指の先で彼を示した。すると全員の視線が彼に集まり、四方八方から突き刺さる。

 そこでようやく、マクラウドも事の重大さに気がついたようだった。

 この場にはもう、彼の味方をする者はいない。

 ついでに言えば郷守のくせに丸腰で、抵抗する手段もない。

 きっと司令官である自分が武器を取って戦う展開などあるはずがないと、頭からそう思い込んでいたのだろう。皆の冷然たる眼差しに晒された哀れな男は、顔面蒼白になって震えている。


「ば……馬鹿な……まさか、こんなことが……」

「……。リチャードさん。あの男の処遇は、この町で最も辛酸を舐めさせられたあなたに決めていただきたいのですが」


 腰を抜かしたまま放心し、ついに譫言うわごとを呟き始めたマクラウドを一瞥して、ジェロディがリチャードを顧みた。彼の申し出が、リチャードは意外だったようだ。太い眉を上げて驚くと、目の前にいる二人の軍主を見比べて、おもむろに口を開く。


「お許し下さると言うのですか。あなた方を欺き、危険に晒したこの私を」

「許すも許さないもありませんよ。事情はすべてマシューから聞きました。あなたは僕たち救世軍に代わって、ご家族とピヌイスに暮らす人々を守ろうとして下さった。だったら感謝することはあっても、非難するなんてありえません。そうだろ、みんな?」


 リーダーからの問いかけに、カミラたちは迷わず頷いた。その一瞬、ジェロディの答えを聞いたリチャードが涙ぐんだような気がする。

 けれど一拍ののち、彼は天井を仰ぐや呵々と笑った。そうしてこちらを向いた顔にはもう、悲嘆や失意の影はない。


「あっぱれです、ジェロディ殿。あれほど頑なだったトリエステ殿があなたを認めた理由が、私にもいま分かり申した。あなたのようなお方に率いられるのならば、救世軍の勝利は既に約束されているも同然でしょう。こう申し上げるのは失礼やもしれませんが──私はあなたに、過日の陛下の面影を見ましたぞ」

「光栄です」


 かつてリチャードが、金色王と呼ばれた男に見た希望。それと同じものを今、ジェロディにも見出してくれたのだと思ったら、何だかカミラまで誇らしかった。

 あんなに血なまぐさかったはずの戦場が、心なしか輝いて見える。ところがリチャードはマクラウドへ向き直ると、腰の剣に手をやりかけて、しかし──やめた。


「……リチャードさん?」

「ジェロディ殿。お言葉は大変有り難く、甘えたいのは山々なのですが……やはり私には、この男を裁く資格がありません。ここはどうか、救世軍の総帥であるあなたがご決断を」

「いいんですか?」

「はい。どのような事情があったにせよ、私もまた民を裏切り、苦しめる原因を作っていたことは事実です。その罪のすべてをこの男に押しつけて処断することはたやすいが、そうすれば私は二度と民に顔向けできません」


 そんな、と口を挟もうとしたら、ウォルドに目だけで止められた。……周りがどんなに許すと言っても、リチャード自身が自分で自分を許せない、ということだろうか。だとしたら確かにカミラの出る幕じゃない。話の規模はまったく違うけれど、フィロメーナの一件で、同じような想いはカミラの中にもずっとある。

 だからここはリチャードの意を汲んで、大人しく引き下がることにした。あとはすべてを託されたジェロディの決断次第だ。


「……」


 ジェロディはリチャードの言い分を解すると、剣を手にマクラウドを振り向いた。彼の視線に気づいたマクラウドは「ヒッ」と息を飲み、逃げ場もないのにあとずさる。彼の背中は執務机に当たって止まった。もっと見苦しく逃げ惑うのかと思ったが、依然腰が抜けていて立つこともできないらしい。


 ジェロディの青い瞳が、改めてあたりを見渡した。


 血を流して倒れているオーウェン。気を失ったままのヴィルヘルム。

 連戦でボロボロのカミラとケリー。そして、泣いているマリステア。


「や……やめろ……来るな……」


 怯えたマクラウドの声を聞きながら、ジェロディは一歩踏み出した。

 静まり返った執務室に、彼の靴音とマクラウドの悲鳴だけが聞こえている。

 皆が固唾を飲んでなりゆきを見守った。マクラウドの足は何とかジェロディから逃れようと床を掻いているが、今更どこにも行けるわけがない。


「ち、ち、違うんだ、ジェロディ……! わ、私が貴様やガルテリオを侮辱したのは……《命神刻》を狙ったのは、全部ルシーン様の命令で……! あ、あの方に逆らえば、我々に未来はなかった! 仕方がなかったんだ! わ、私だって、好きであのようなことをしていたわけでは──」


 ヒュッと刃が風を切る音がした。ジェロディの頭上高く剣が振り上げられ、マクラウドが女のような悲鳴を上げる。

 これまで散々いたぶり、苦しめ続けた神子に見下されて、マクラウドは頭を抱えた。死にたくない、という彼の叫びを遮って、刃が振り下ろされる。


「……え、」


 ところが次に聞こえたのは、肉が断たれる音でもマクラウドの絶叫でもなかった。タンッと鉄が硬いものに当たる音がして、一同が息を飲む。

 ジェロディが振り下ろしたつるぎはマクラウドの直上、彼の執務机にめり込んでいた。唖然としてそれを見上げるマクラウドに、生命いのちの神子は抑揚もなくこう告げる。


「光の神子に感謝するように」


 マクラウドの背中が机からずり落ち、そのまま床にへたり込んだ。もはや恐怖の感情が飽和してしまったのか、魂が抜けたような顔をして喚きもしない。

 地方軍の兵士から、わっと歓呼の声が上がった。カミラたちも顔を見合わせて剣をしまう。


 救世軍の勝利だった。


 窓の外ではゆっくりと、夜が、明けようとしている。



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