151.憑魔
それがむくりと体を起こす様は、さながら蝶の羽化に似ていた。
オーウェンという名の蛹を割って頭を出した黒き影は、すぐさま人の形を取る。
そうして人間で言うところの顔面を両手で覆い、低い呻きを上げるそれに、カミラは息を飲んで目を凝らした。
バサッと音を立てて翼が開く。頭に角が生えていく。
だがそれの輪郭はいつまで経ってもはっきりしない。
黒い靄が人の形を真似ているだけで、実体を伴っていないからだ。
「あぁアあァああぁアアあぁあア!!!!」
靄の塊は絶叫した。背を反らせ、天井を仰ぎ、まるで天界への怨嗟のように。
その絶叫に肝を潰されたマリステアが耳を塞ぎ、真っ青な顔をしている。ジェロディやケリーも目を疑っているようだ。
何せ実体を持っていないとは言え、それはどこからどう見ても──魔物。
「人間……貴様ァ……!! このオレに何をした……!?」
「……今のは神血石の力を帯びた聖水だ。そこそこの教会にそこそこの金を払わなければ入手できない特注品でな。下手な酒より忘れられない味がしただろう?」
言いながら、すぐ脇の机に手をついてヴィルヘルムが立ち上がった。ついに姿を現した魔物を前にして、細い笑みを刻んでいる。
だが様子が何か変だ。額が汗で濡れていて、息が浅い。
まさか、とカミラは思った。
(もしかしてさっき、私が聖水を撒いたとき──)
「起きろ、シュトゥルム」
カミラの思考を遮って、ヴィルヘルムが誰かを呼んだ。
途端にぶわっと風が逆巻き、ヴィルヘルムの手にある剣を包み込む。
鍔に嵌め込まれた緑色の石。瞬いていた。
やはりヴィルヘルムが操る風の源はアレだ。
神刻の力によらない、神刻の力に似た、圧倒的な〝ナニカ〟。
「マリステア。ジェロディの治療が済んだらオーウェンの傷も癒やせ」
「は、はい……!?」
「やつはもう大丈夫だ。憑魔さえ討ってしまえば、元の人格を取り戻す……!」
言うが早いか、ヴィルヘルムは床を蹴って駆け出した。彼の殺気に呼応した魔物も雄叫びを上げ、宙を滑るように飛んでくる。
〝憑魔〟。
ヴィルヘルムはアレをそう呼んだ。その性質、読んで字のごとくであるならば、アレは人に取り憑く魔物なのか。いや、人語を操り会話が成立しているところを見ると、より正確には魔物よりも上位の存在たる『魔族』……。
とすればクルデールを呼び寄せたのもあの魔物か。ヴィルヘルムは初めからやつの存在に気がついていた。あるいは二ヶ月前に黄都で邂逅したときから気づいていたのかもしれない。オーウェンの人格が豹変したのは魔物に操られていたせいで、やつを祓うことさえできれば再び彼を取り戻せると。
「この……っ忌々しい半端者がァ! 今更人間ぶりやがって!」
「人間ぶっているつもりはない。俺は初めから人間で、これからも人間だ」
「ハ、そうかよ! だったらさっきより動きがにぶってるのはどういうわけだ!? お前、あの間抜けな長髪を救うためにヘマしたな……!? だから人間ってのは──チョロいんだよォ!」
刹那、ヴィルヘルムが繰り出した風の剣をぐるりと躱し、憑魔が一気に間合いを詰めた。懐に侵入されたと気づいたヴィルヘルムが後退するよりも早く、魔物が腕を振りかぶる。
実体を持たない憑魔の体はまさに変幻自在だった。突き出された彼の左手からにわかに鋭い爪が伸び、一瞬にしてヴィルヘルムの胸を貫いていく。
「ヴィル……!!」
彼の背中から五本の爪が生えるのが見えた。衝撃で吹き飛ばされたヴィルヘルムが壁に激突する。すぐ傍にあった窓が悲鳴を上げて粉々に割れ、頽れたヴィルヘルムの上に降り注いだ。床に転がった彼の剣からはたちまち風の鎧が消滅し、ごく普通の剣に戻ってしまう。
「ハハハハハハハハ!! みじめな呪われ者がァ!! ざまあみやがれ……!!」
魔物の絶笑を聞きながら、カミラはまろぶように立ち上がり、ヴィルヘルムへと駆け寄った。彼は胸を押さえて起き上がろうとしているが、ゴホッと咳き込んだ拍子に赤い血が飛び散るのが見える。
「ヴィル、ヴィル! しっかりして……!」
とっさに彼の体を支えると、たちまち腕が真っ赤に染まった。肺をやられたようで、明らかに呼吸音がおかしい。
だがヴィルヘルムの身に起きている異変はそれだけではなかった。服越しでも分かるほど肌が熱いのだ。つまり高熱を出している。一体いつから?
さっきカミラが横で彼を支えたときには、そんな異常は見られなかった──だとしたら、やはりあのとき。
「カ、ミラ……剣を……」
「馬鹿、喋らないで! マリーさん……!」
「剣、に……神気を……まとわせろ……そう……すれば……やつを……斬れ……る──」
血と共に切れ切れの言葉を吐き出して、ヴィルヘルムは隻眼を閉じた。途端に彼の体重がカミラの腕にのしかかる。
ずしりと沈む重みに体を持っていかれそうになり、けれどカミラは必死でヴィルヘルムを抱き締めた。肺をやられたならば傷口を塞がなければ。
彼の胸に自分の胸を押し当てて、さらに背中の傷も探る。そちらも可能な限り腕で塞ぐと、力を込めて彼の上半身を圧迫した。こんな止血方法は気休めでしかないが、だからと言って何もしなければ失血死させてしまう。
カミラは祈るような思いで振り向いた。もう一度マリステアを呼ぼうとした。
けれど顔を向けた先、鼻が触れるほどすぐ傍で、黒い魔物が笑んでいる。
「なあ、お前。カミラだな?」
ぞっと背筋が寒くなった。この魔物も自分を知っている。逃げなければ。本能がそう警鐘を鳴らしたが、傷ついたヴィルヘルムを置いていくなんて不可能だ。
「ちょうどいいや。クルデールの旦那はしくじったようだし──今度はお前の体を借りるぜ」
ぶわっと魔物の体が肥大化した。憑魔の姿を構成していた靄が布のように広がって、今にもカミラを呑み込もうとする。駄目だ。せっかくヴィルヘルムが命懸けで救ってくれたのに、今度こそやつらに捕まってしまう。
カミラは恐怖で体を震わせながら、しかしヴィルヘルムの傍を離れなかった。
迫り来る魔の手から目を背け、突如フラッシュバックしたあの日の光景に、心の中で、叫ぶ。
(お父さん……!)
触手のように伸びた黒い靄がカミラの体に巻きついた。何か形のないものがズッと内臓に入り込んでくる感じがして、全身をこわばらせる。
意識が真っ黒に塗り潰された。それでもヴィルヘルムを離すまいと腕に力を込めたところで、闇を裂く声を聞く。
「凍える牙!」
神気の塊として生まれた氷の刃が、カミラに取り憑こうとしていた魔物の体に撃ち込まれた。
途端に「ギャッ」と声がして、実体のない異物が体から飛び出していく。
数瞬忘れていた呼吸を取り戻し、カミラは大きく息を吸った。我に返って振り向けば、マリステアの神術で怯んだ魔物にジェロディが斬りかかっていくのが見える。
「カミラ、大丈夫かい!?」
「ティノくん──」
絶対的な暗闇から解放された安堵で、声が震えた。すぐにマリステアも駆け寄ってきて、跪くや否やヴィルヘルムへと手を翳す。
「カミラさん、あとはわたしが……!」
「だけど、オーウェンさんは」
「どちらも救ってみせます! 絶対に……!」
叫んだマリステアの瞳は濡れていた。けれど涙と共にあるのは怯懦でも悲愴でもない。必ず救ってみせるという、揺るがし難いほどの決意だ。
彼女もこんな顔をすることがあるのかと、カミラは内心驚いた。その間にもヴィルヘルムの体は神気に包まれ、ゆっくりと傷が癒え始める。
癒やしの術が発動したのを見届けたカミラは、ついに彼から体を離した。ヴィルヘルムの血でべっとりと汚れた外套は脱ぎ捨て、生成りのチュニックに赤いケープといういつもの身軽な姿に戻る。同時に剣を引っ掴んだ。ヴィルヘルムのことはマリステアに任せておけば大丈夫だ。
──死なせない。絶対に。
その決意はカミラも同じ。
ゆえに一度深呼吸して、先程のヴィルヘルムの言葉を思い出す。
「〝剣に神気をまとわせろ〟って──つまり、こういうことよね?」
構えた剣が熱を帯びた。
ボッと炎のともる音がして、左手から熱気が噴き上がる。
火刻が生み出す神気をまとい、カミラの剣は燃え盛る刃と化した。さっきヴィルヘルムが剣に風をまとわせていたのを再現してみたのだが、なるほど、神術にはこういう使い方もあったのかと感嘆する。
同時にヴィルヘルムが、どうしてわざわざそんな芸当を要求したのかもすぐに分かった。何故って視線の先で振るわれるジェロディの剣が、憑魔の体を擦り抜けている。相手に実体がないせいで、ただの剣では攻撃が当たらないのだ。だのに憑魔が放つ攻撃には実体がある。恐らくやつの全身は瘴気でできていて、先刻クルデールがしてみせたように、一部を魔術で固形化することができるのだろう。
「ハハハ、どうした、ハイムの神子! そんな攻撃、オレには当たらん──ぞォッ……!?」
と、得意気に高笑いしていた憑魔の体が、ぐにゃりと歪んで炎を避けた。上手いこと背後から虚を衝けたと思ったのだが、なかなかどうして、この魔族もだいぶ手強い。憑魔はカミラの剣が神気をまとっていることに気づくや否や、慌てて飛び退き距離を取った。その隙にカミラはジェロディの隣に並び、宙に浮かぶ靄の魔物と対峙する。
「ティノくん、平気?」
「ああ、何とか。だけどあいつには、普通の攻撃は効かないみたいだね」
「ええ。だからこうしろってヴィルが」
言いながらカミラはパチンと指を鳴らした。するとジェロディの剣もたちまち炎をまとい、彼の姿を照らし出す。ジェロディの左腕はさっきの一件で袖がなくなってしまっていたが、火傷は跡形もなく癒えていた。
問題は未だ治療を受けられていないオーウェンの方だ──と目を向けたが、彼の傍にはいつの間にかケリーが控えている。己の外套を当ててオーウェンの傷を圧迫し、止血を施しているようだ。
(なるほど、これはチャンスね)
と、状況を把握したカミラは執務室の入り口を見やる。そこには地方軍の兵たちがひしめき合っていたが、彼らは見たこともない魔物に恐れをなし、すっかり立ち竦んでいた。
つまり彼らが怯えている間は、目の前の魔物退治に専念できるというわけだ。カミラはそう頭を切り替えると、天井付近に浮かぶ魔物を睨みつけた。
「あんた、憑魔って言ったわね。私たちの仲間をあんな目に遭わせた代償は高くつくわよ」
「ハッ、人間風情が偉そうに。そう言うお前だって神の操り人形だろ? やつらがやってることはオレたちと何ら変わりない。なのにお前らはやつらばかりを持て囃す。まったく人間ってのは解せないな。高くつくのはその愚かさの代償の方だぜ」
「残念だけど、あんたらの戯言には耳を貸すなって言われてるのよ。意味のない押し問答を続けるつもりもないし、さっさと葬ってあげる」
「ハハハハハ! いいだろう! 矮小な人間ごときが、オレを倒せると言うならやってみろ!」
絶笑と共に憑魔の体が炸裂した。何本もの槍のように伸びた瘴気が飛来し、カミラとジェロディは別々の方向へ退避する。
黒い雨を掻い潜り、憑魔のいるあたりを狙って神術を放った。魔物は「おっと」と声を上げ、飛んできた火弾を回避する。
神術は天井に当たって砕け、ガラガラと石積みが崩れ落ちた。しかし憑魔が急降下して避けた先には、すかさず回り込んだジェロディがいる。
「む……!?」
下段からの斬り上げ。すんでのところでそれを察知した憑魔が、体を歪めて神の炎を回避した。ジェロディはそこからさらに踏み込もうとしたようだが、即座に魔物の腕が伸びて彼の右腕を絡め取る。
鞭のごとくしなる瘴気が、ギッチリとジェロディの腕を締めつけ動きを封じた。利き腕を押さえ込まれたジェロディはとっさに剣を左へ持ち替え、赤く燃える刺突を繰り出そうとする。
だが憑魔はまたも読んでいた。ゆえにジェロディが反撃の構えを取ると、瞬時にぐんっと腕を引っ張り、背負い投げのごとく彼を床へ叩きつけた。
背中から落下したジェロディは短く呻き、されど体を起こそうとする。
その一瞬の隙を憑魔が狙った。振り上げられたもう一方の腕がギラリと明かりを反射して、黒く磨かれた馬上槍のような見た目に変わる。
「させないって──のっ!」
憑魔がそれを振り下ろそうとした刹那、カミラは再び神術を放った。迫る火の玉を見た憑魔はジェロディから腕を切り離し、ただちに後ろへ飛びずさる。
しかし今度は、カミラの方が読み勝った。
「ぐあぁっ!?」
魔物の悲鳴が響き渡る。
何故なら神術を避けた先で、彼の体に燃える飛刀が突き立った。
先程オーウェンを狙った飛刀が床に落ちていたのを見つけて利用したのだ。飛刀の切っ先は憑魔に刺さる寸前で燃やした。おかげで憑魔は飛刀の飛来を読み切れず、左腕を燃え上がらせる。
「こ、の、アマァ……!!」
劇毒に近い炎に身を焼かれながら、咆吼した憑魔が突っ込んできた。カミラはとっさに横へ跳躍するも、直進したまま魔物が腕を伸ばしてくる。
左から来た腕を斬り落としたら、その隙に後ろから来た別の腕に捕まった。体を巻き取られ、足が宙に浮き、窓の方へと投げ捨てられる。
「カミラ……!」
硝子の砕け散る音がした。カミラは腕を使って破片から顔を守りつつ、自分の体が重力に引かれていることを知る。見下ろした先には奈落のように口を開ける闇。もちろん地面はあるのだろうが、ここは郷庁の三階だ。どんなに上手く受け身を取ったって、擦り傷程度で済むはずがない。
「いっ……つ……!」
このまま落ちるのと割れた窓を掴むのならどちらがマシか。ほんの束の間迷った結果、カミラは腕を伸ばして窓枠へと手をかけた。
おかげで落下は免れたが、掌に鋭い痛みが走る。革の手套を貫いて、ギザギザに割れた硝子が刺さったせいだ。
どうにかぶら下がるカミラの腕を、赤い血がゆらゆらと伝ってくる。何とか体を持ち上げなければ。けれど痛みで右腕が言うことを聞かず、ずるり、と、体が闇に引かれる音がする。
(あ、)
自重でずり落ち、指まで切れて、耐えかねた右手が窓枠を離れた。
再び体が宙に浮く。
今度という今度はもう、落ちるしかない。
(でも、私が死んだらティノくんの剣が)
と、こんなときにそんなことを考えた。だってジェロディの剣から炎が消えたら、他にどうやってあの魔物と戦えばいいのか。マリステアはヴィルヘルムとオーウェンの治療で手一杯だし、ケリーは神術を使えない──
「カミラ!」
そう思ったら、いきなり腕を掴まれた。
ガクンと肩が外れそうな勢いで落下が止まり、カミラは再び宙吊りになる。
割れた窓から身を乗り出し、カミラの墜死を食い止めたのはジェロディだった。
見開かれたカミラの目に、外壁を伝ってゆっくりと滴る青い血が見える。体を引っ張られ、胸を窓枠についているせいで、今度はジェロディの肌に硝子が食い込んでいるのだ。
「ティノくん、ダメ……! これじゃティノくんが狙われて──」
「──ああ、そうだな。それはさすがに悪手だぜ、神子さんよ。お前、自分の立場を分かってねーだろ?」
ジェロディの頭上にゆらり、黒い影が広がるのが見えた。その影から頭部のようなものが生えて、角が伸び、口らしきものがニタリと裂ける。
三日月の形を描く二つの窪みは、どう見ても嗤っていた。
ジェロディもすぐそこに魔物が迫っていることは分かっているようだが、カミラの体重を支えるので精一杯で、動けない。
「人間同士の友情ってのは美しいねェ。そうやってどいつもこいつも他人のために身を滅ぼすんだ。あのオーウェンとかいう長髪も、それはそれはイイヤツだったぜェ? どんなに拷問してもお前らの行き先を吐かなかったくせに、答えないなら屋敷の人間を一人ずつ殺していくって脅した途端、急に取り乱しやがってよォ」
「……!」
「おかげでオレ様が心に入り込む隙ができた。あんなに必死にお前を守ろうとしておきながら、結局そのお前を捕らえて殺す羽目になってるんだから世話ねえよなァ? まったくお前ら人間の友情ごっこには──ほとほと反吐が出るぜェ!!」
嘲笑と共に振り上げられた憑魔の右腕が、槍の形を取って降ってきた。胸を貫かれる寸前、ジェロディは、カミラを掴む手に力を込めたような気がする。
(また、なの)
死の間際、カミラは思った。
(救世軍はまた、目の前でリーダーを失うの──?)
「──雷槍!」
聞き覚えのある声がした。
直後、郷守の執務室から閃光が溢れ、カミラたちの網膜を灼く。
雷鳴がはたたいた。同時に憑魔の体を稲妻が貫き、絶叫が谺する。
「え、」
カミラは目を疑った。今の雷撃は、違う、でも、
「ティノ、カミラの手を放すな──よっ……!」
「うわっ……!?」
瞬間、ぐんっと体を持ち上げられ、カミラとジェロディは悲鳴を上げた。ジェロディの頭が部屋の中へ吸い込まれるのと同時に、カミラも窓から飛び込む形になって床を転がる。受け身を取り損ね、全身をしたたかに打ちつけて苦悶しながら、しかしカミラは自問した──生きてる?
急いで顔を上げた先には、ウォルドがいた。彼に首根っこを掴まれたままのジェロディはゴホゴホと咳き込んで、未だ何が起きたのか分かっていない様子だ。
「ウォ、ウォルド……!? あなた、麓から戻って──」
「──あーあ、手札一枚切っちゃったー。せっかく隠してたのに台無しじゃん? こんなのってアリ? ないよね普通に考えて? というわけでそこのなんかモヤモヤしたやつには全力で責任取ってもらいたいんですけど?」
「おいカイル、やっぱりお前隠してたんじゃねえか」
「は? あ、いやいや違う違う、今のは言葉のアヤって言うか? 隠してたのは神刻のことじゃなくて、神刻の種類のことだし? ね?」
「まあいい。その件は追々問い詰めるとして、だ。俺たちがちょっと席を外してる間に、ずいぶん楽しそうなことになってるじゃねえか。カミラ、状況を説明しろ」
「え、えっと……ヴィルが魔物にやられてピンチです?」
「分かった。じゃあまずはアレを倒しゃあいいんだな?」
今の説明でどこまで把握したのかは知らないが、ウォルドはそう言ってジェロディを放すや、代わりに落ちていた彼の剣を拾い上げた。ジェロディの剣もカミラの剣も未だ刀身は燃えたままで、それさえあれば魔物は斬れる。
一方憑魔はと言えば、先程の雷撃をまともに喰らって空中で痺れていた。どうやらあの魔物はクルデールとは違い、神気を察知する能力にあまり優れてはいないようだ。いや、あるいはカミラが振りかけた聖水の影響かもしれないが──
(さっきの神術って、カイルの、よね)
腕を押さえて座り込んだまま、カミラはカイルに目をやった。彼の右手にはバチバチと黄色い雷気が宿っていて、独特のリズムを刻んでいる。
──あれは、違う。イークの雷刻が立てるのとは別の音だ。
最初に閃光が弾けたときから、気がついていた。
だけどほんの少しだけ期待してしまった自分に嫌気が射して、胸が痛い。
「ウォ、ウォルド、その剣は僕の……」
「いいからお前は休んでろ。俺とカイルは半分しか仕事をしてねえんだ。体力なら有り余ってる」
「は、〝半分〟……?」
「見たことのねえ魔物だが、人の言葉を喋ってたってことは魔族だろ? だったら確実に、今ここで仕留めねえとな」
燃え盛る剣を携えて、ウォルドは一歩踏み出した。未だ雷刻の神気に囚われた憑魔は低く呻き、もがきながらウォルドを睨んでいる。
だがやつもそろそろ限界だった。何せ聖水の聖気に当てられ、カミラの神術を喰らい、さらにはカイルの放った雷槍まで受けたのだ。
そもそもあの魔物は、同じ魔族でもクルデールほど強くない。
カミラがそう確信した刹那、雷の縄に縛られたままの憑魔が咆吼した。
「くそ、くそ、くそ、くそ!! 人間風情がナメくさりやがって!! どんなに足掻こうと、てめえらは滅びる運命なのによォ!!」
「そう思いたいなら思えばいい。だがてめえらに大人しく滅ぼされてやるほど、人間は無能でも無力でも──無知でもないぜ」
言いながら、ウォルドがジェロディの剣を構えた。彼の長身をもってすれば、天井付近に浮いている憑魔にも刃が届く。
相手もそれを察したのだろう、再び咆吼すると体を炸裂させた。雷気の間を塗って降り注ぐ瘴気の矢が、ウォルドへと襲いかかる。
「火焔斬……!」
だからカミラは自らの剣を真横に構え、思いきり振り抜いた。刃から生まれた風が炎を帯びて弧を描き、ウォルドの頭上に降り注ぐすべての瘴気を吹き飛ばす。
驚愕した魔物が仰け反った。そこに助走をつけて跳躍したウォルドの斬撃が肉薄する。
「れ……劣等種どもが……!! ルシーン、こいつらを殺せ──!!」
憑魔の最期の叫びが、燃え盛る炎に掻き消された。
火炎に包まれた剣が闇を裂き、魔物の体を両断する。
二本の角の間に刃を受けて、真っ二つにされた憑魔は爆散した。あとには霧のような瘴気の残滓だけが残り、ウォルドが着地する頃にはそれもサラサラと消えていく。
「や……やっと終わった……」
安堵で全身から力が抜け、カミラはへなへなと座り込んだ。
同時に刀身を燃やしていた炎が消え、カミラの剣もジェロディの剣もごく普通の武器へと戻っていく。
張り詰めていた空気がようやくゆるみ、銘々の口からため息が漏れるのが聞こえた。ふと見れば治療の方も完了したのか、ヴィルヘルムを包んでいたマリステアの神気がゆっくり引いていくのが分かる。
これで一件落着だった。あとはオーウェンの傷さえ治れば丸く収まる──と思ったところで、乾いた拍手の音がする。
「お見事、救世軍の諸君。ではそろそろお縄についてもらおうか?」
あ、とそこで我に返った。
……そう言えばここってまだ、敵地のど真ん中なんでしたっけ?
いつの間に移動したのやら、振り向けば執務室の入り口を背にして、やにさがったマクラウドが手を叩いていた。開け放たれた扉の向こうには、大勢の黄皇国兵が見える。彼らの手には磨き抜かれた武器、武器、武器。
加えて執務室に閉じ込められたカミラたちには、逃げ場がない。
「あれー? これってもしかして、絶体絶命ってやつ?」
と、場違いなほどにこやかに笑ってカイルが言った。
そのときカミラの視界の端で、ジェロディがゆらりと立ち上がる。




