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150.ピヌイス解放作戦

 心まで人間であることを辞めてしまうのか、と彼女は言った。

 この先どんな苦難が待ち受けていようとも自分は味方だ、と彼女は言った。

 だから自分はここまで来れたのだ。ひとりの人間として、自分の意思で。


 彼女が傍にいてくれなかったら、ヴィルヘルムの問いに答えられたかどうかも怪しい。だから彼女には感謝している。


 ただ、置いていかないで、と言われたあの言葉だけ、叶えてやれないかもしれないのが、悲しいだけだ。



              ◯   ●   ◯



 目を開けると、全身を包んでいた青い光がすうっと消えた。

 その光と共に、体中を駆け巡っていたにぶい痛みも霧散していく。

 カミラは利き手である左手を持ち上げて、拳を握っては開くのを繰り返してみた。──異常なし。

 体力はいくらか消耗しているが、戦えないほどじゃない。コンディションが整ったことを念入りに確認すると、カミラは視線を上げ、笑顔を作った。


「ありがとう、マリーさん。おかげでもうしばらくは戦えそうよ」

「ほ、本当に大丈夫ですか? 他にどこか痛むところは……?」

「んー、それがあちこちぶつけすぎてよく分かんないのよね。でもヴィルほどひどい怪我はしてないし、たぶん骨折もしてないから大丈夫」

「そ、そうですか。でもあまりご無理はなさらないで下さいね。カミラさんだけでなく、皆さんも……」


 マリステアが不安そうに胸を押さえて言えば、仲間たちが銘々に頷き返す。そこは郷庁二階のとある部屋。目指す郷守の執務室は部屋を出てすぐの階段の上にあるとかで、カミラたちは突入前の最後の調整にかかっていた。

 扉の向こうでは先程から慌ただしく足音が行き交っている。「やつらはどこだ!?」とか「見つかったか!?」とか喚いているのが聞こえるから、ここに捜索の手が及ぶのも時間の問題だろう。


「じゃあ、カミラの傷も癒えたことだし、そろそろ行こうか。みんな、準備はいいかい?」

「いつでもどうぞ」

「右に同じく!」

「さっきも話したとおり、マヤウェルとマシューは騒ぎが治まるまでここにいろ。俺たちが上階へ突入すれば、敵の目がこの部屋に向くことはない。だが万一のときにはすぐに階段を上がって俺たちと合流するように。マシュー、お前も男なら母親をしっかり守れ」

「はい……!」


 ヴィルヘルムの言葉に頷いたマシューの表情は、顔面蒼白と言って差し支えなかった。何せ彼の手の中には今、カミラが貸した短剣がある。いざというときの護身用にと、彼にも武器を持たせることにしたのだ。


 だがマシューは父のリチャードとは違い、戦いの場に出ることはおろか刃物を握るのもこれが初めてという有り様だった。さっきもカミラたちが斬り伏せた敵兵の死体を見て嘔吐していたし、そんな彼を母親と二人、残していくことに不安がないと言えば嘘になる。


 けれどマヤウェルの方はしっかりしたもので、震える息子の肩に手を置くや、たおやかに微笑んだ。この状況で笑えるというだけでもすごいのに、宝石のような玉虫色の瞳には迷いや怯えの影がない。


「どうかわたくしたちのことはお気になさらず。まずは皆様のご無事のお戻りを最優先にお考え下さいませ。あとのことは神々にお任せすれば、すべてよしなにお取り計らい下さるでしょう──ご武運を」


 透き通るような声で紡がれた見送りの言葉に頷いて、カミラたちはついに部屋を出た。扉にはジェロディが《命神刻ハイム・エンブレム》の力で鍵をかけ、無人を装って走り出す。


『ジェロディに神の力は使わせるな』


 とヴィルヘルムに言われた手前、ジェロディがハイムの力を借りる姿を見るのには抵抗があったが、こればかりは仕方なかった。鍵の開け閉め程度の力ならきっと微々たるもの、ジェロディとハイムの同化には影響しない──と言い聞かせ、階段を駆け上がる。


 問題はここからだ。ジェロディは先程の様子からして、戦いの中でハイムの力が必要だと感じたら迷わず《命神刻》を使うだろう。

 彼の性格を考えれば、止めても無駄だということは分かる。ならば彼が《命神刻》に頼らずに済む方法は一つだけ。


(ティノくんの力を借りずに、私たちだけで一気に片づける……!)


 ついに階段を上がり切った。途端にわっと驚きの声が弾ける。

 右。見えた。扉だ。

 マシューが言っていた太陽のレリーフ。あれが郷守の執務室。

 その前に二十からの地方軍兵が固まっている。郷守も一応、万一の事態に備えて準備はしていたということだろう。だけどあれくらいの敵なら蹴散らせる。カミラはぐんと走る速度を上げ、右手に神力を集中した。


火焔嵐タブエラ・セアー!」


 祈唱を省略することで神術の威力を調節する。渦巻く火炎が床と水平に走り、直線に伸びる廊下を貫いた。

 一瞬にして炎に呑まれた官兵たちは、悲鳴を上げてのたうちまわっている。どうやら彼らの中に神術使いはいないらしい。

 幸運に感謝しながら、カミラは扉の前へ滑り込んだ。足元で兵士が燃えているが、構っている暇はない。


「マリーさん、火の始末をお願い……!」

「は、はい……!」


 水刻ウォーター・エンブレムの使い手であるマリステアに任せれば、ひとまず延焼は防げるはず。そう判断したカミラは火の海から意識を切り離し、目の前の扉を蹴破った。

 幸い鍵はかかっていなかったようで、派手な音が轟き渡る。すぐに「ヒィッ!?」と情けない声が聞こえた──あの趣味の悪いキノコ頭が、マクラウド。


「見つけたわよ、毒キノコ!」

「どっ、毒キノコ……!? そんなものがどこに生えていると言うのだ……!? というか、貴様は──」


 と、見るからに毒々しい色合いの上着を着た男が立ち上がり、青い顔であとずさった。彼の周りには十人ほどの地方軍兵。どうやら兵を外に置くだけでは心配で、中にも護衛を連れ込んでいたらしい。

 だがその中に、一際目を引く長身の男がいた。

 紫黒色の長い髪に、ヴィルヘルムによく似た黒ずくめの装い。この状況にも動じた様子なく、長柄武器にも匹敵する大剣を背負った男──


「オーウェン……」


 男の名を呼んで、ジェロディが拳を握り締めた。

 オーウェンと呼ばれた裏切り者は、体を横に向けたまま冷ややかな目でこちらを見ている。黄都で見かけたときとは違い、今日は腰まで届く長髪を一つに結い上げているが、おかげであらわになった横顔が余計に冷酷そうな印象を助長している。


「じ、ジェロディ、貴様ァ……! 一度ならず二度までも、よくも私の計画を邪魔してくれたなァ! 貴様らを黄都へ連行することが叶えば、私は憲兵隊長以上の座を約束されているのだ! それを貴様はことごとく……!」

「お前の身勝手な事情なんて知るもんか。僕たちは救世軍、ピヌイスの町を救うためにここへ来た。この町には──いや、この国には、お前みたいな薄汚れた官僚は要らないんだ、マクラウド」

「黙れ黙れェ! ルシーン様の手に渡るはずだった《命神刻》を奪い、神子を騙る卑怯者が私に偉そうな口をきくな!」

「卑怯者はあんたの方でしょ。目障りだったティノくんに濡れ衣を着せて追い出しただけじゃ飽き足らず、人質を取って無理矢理人を従わせるなんて真性のゲスがやることよ。どんな言葉を並べたって、あんたのクズっぷりは表現しきれないわ。というわけで、そろそろ天罰を受けなさい!」

「こ、こ、こ、小娘ェ……! 言わせておけば勝手なことを……! いいだろう、ならばどちらの言い分が正しいか天に訊いてやる! お前たち、何としてもやつらを打ち払え……!」


 青筋を走らせたマクラウドの号令一下、室内に控えていた兵たちが一斉に武器を抜いた。そうして攻めかかってくる敵に対し、カミラたちも応戦の構えを取る。


「ケリー、君は一人受けつつ後続を警戒して!」

「了解です、ジェロディ様」

「カミラ、ヴィルヘルムさん、僕らは敵を後ろへ通さないように……!」

「お安い御用だ」

「お任せあれ!」


 さすがは郷守の執務室と言うべきか、その部屋は多少派手に暴れても同士討ちを心配しなくていい程度には広い。だからカミラは傍にあった机を蹴倒し、存分に剣を振り回せるだけの空間を確保してから勢い良く床を蹴った。

 机を倒した拍子に舞い上がった無数の書類が、いい感じに死角を作る。カミラは一人目の視界がほんの一瞬遮られた隙に横へ回り、ヒュッと剣を振り抜いた。


 敵兵の首から血が噴き出し、相手は悲鳴を上げる間もなく倒れていく。二人目は上段から斬り下ろしてきたのをなし、返す刃をかわされたが、相手が体勢を崩した刹那に回し蹴りをお見舞いした。

 吹っ飛んだ兵士はジェロディの背後に迫っていた敵を巻き込み、壁際まで転がっていく。それを見届けたカミラの右からも敵が来たが、すかさずヴィルヘルムが斬り伏せた。


 こちらは四人、相手は十人だった形勢が一気に逆転する。やはり地方軍の兵は強くない。ロカンダの地下で戦った中央軍とは大違いだ。

 ただそんな兵たちの中にも一人、警戒すべき男がいた。

 オーウェン。

 彼は味方が劣勢に追い込まれたと見るや否や、おもむろに背中の剣を掴む。


「──ヴィル、交替スイッチ!」


 オーウェンの赤い瞳は、寸刻もブレることなくジェロディを見ていた。ゆえにカミラは自分の敵をヴィルヘルムへ回し、フリーになったところでオーウェンの射線上に飛び出していく。

 危なかった。カミラがオーウェンの動きに気づかず、あと一歩行動が遅れていたら、ジェロディは鍔迫り合っていた敵兵ごと両断されるところだった。

 だがオーウェンの大剣をカミラがとっさに弾いたことで、最悪の事態は免れる。オーウェンの膂力が想定を遥かに上回っていたせいで、攻撃を受け止めた拍子に壁際まで吹き飛ばされる羽目にはなったが。


「カミラ……!」


 敵兵と刃を交差させたまま、ジェロディが声を上げた。だけど彼はこちらの心配なんてしている場合じゃない。背後にはまたオーウェンが迫っている。


(最後の一本……!)


 体勢を崩したまま、しかしカミラは左腿の鞘から飛刀を抜いた。抜くと同時に投げ、今にも大剣を振り下ろそうとしていたオーウェンを妨害する。


「チッ……!」


 瞬時に後退したオーウェンの口から舌打ちが漏れた。カミラの狙いはわりと正確だったはずだが、最後の飛刀は彼の頬を浅く掠めただけに終わる。

 けれど束の間時間を稼げたおかげで、ジェロディがいよいよ敵兵に押し勝った。彼は相手の剣を巻き取るように捩伏せると間髪入れず突き殺し、直後に降ってきたオーウェンの大剣を回避する。


「オーウェン、君は……!」


 ジェロディが何か叫んだようだが、カミラは最後まで聞き届けることができなかった。何故って後方のケリーに新手の敵兵が殺到するのが見えたからだ。

 通路の先から現れた数人の敵勢を、ケリーはたった一人で凌ぎ切っていた。カミラは室内の敵が残りわずかであることを確かめると、ジェロディを気にかけつつケリーの援護へ向かう。


「ケリーさん、大丈夫ですか……!?」

「ああ、だけど案の定敵の数が増えてきたよ……!」


 ケリーは槍を横にして相手の攻撃を防ぎ、カミラはその後ろに回って彼女の背中を狙う輩を斬りつけた。この執務室が面する廊下は左右に長く伸びていて、どちらからも敵兵が押し寄せているらしい。


「いいぞ、いいぞ! 多勢に無勢だ、押し込め!」


 と、執務室の隅でマクラウドが気勢を上げているのを一瞥し、カミラは小さく舌打ちした。ガニ股のちょび髭キノコがはしゃいでいるのを見るとつい火弾を撃ち込んでやりたくなるが、今度はこちらの射線上にジェロディとオーウェンが割り込んできて神術を使えない。


「オーウェン、どうして君がルシーンのために……! あの女は《命神刻》を奪うだけじゃなく、父さんの失脚も狙ってるんだ! 君だってそれは分かってるはずだろう!? なのに……!」

「往生際が悪いですよ、ティノ様。地下で大人しくしていれば、まだ数日は生きられたものを……あなたがどうしてもルシーン様に降りたくないと言うのなら、もういいです。神の捕獲は諦めて──あなたには、ここで死んでもらいます」


 禍々しい紅眼を閃かせ、オーウェンがジェロディに斬りかかった。彼の大剣はブンッとにぶい音を立て、寸分の迷いなくかつての主を殺そうとする。

 対するジェロディはオーウェンの武器のリーチを熟知していて、攻撃を躱すのはさほど難しくなさそうだった。

 ただ大剣を振り回されると相手の懐に飛び込むことができず、終始逃げに徹している。小柄なジェロディが普通の剣で放つ攻撃は、長身で大剣を装備したオーウェンにどうしても届かないのだ。


「ヒャハハハハッ! いいぞ、オーウェン! この際その生意気なガキを黙らせることができるなら何でもいい! 殺せ! 全員殺し尽くすのだ……!」


 ところが刹那、喚くマクラウドがとんでもない行動に出た。

 どうやら彼は計画が水泡に帰したと知るや自棄を起こしたようで、机に乗っていた角灯を手に取ると、ジェロディめがけて投げつけたのだ。

 敵を一人斬り伏せながら、カミラは思わず息を飲んだ。突如真横から飛来した攻撃を避けきれなかったジェロディが、左腕で角灯を受け止めている。

 だが次の瞬間、衝撃で硝子製の火屋ほやが割れ、破片がジェロディに襲いかかった。ついでに中の油もぶちまけられ、ジェロディの左腕を濡らしていく。


「ジェロディ様……!」


 角灯の火がジェロディに燃え移った。存分に油を吸った衣服が炎をまとう。

 あまりの火勢にジェロディが怯むのが分かった。

 そしてその一瞬の隙を、オーウェンが見逃すはずもない。


「ティノく──」


 とっさに神術で援護しようとした。

 だが背後から殺気を感じ、カミラは前方に転がった。

 敵兵の剣が空振りし、虚しく床を叩く。

 しかしオーウェンが振り上げた剣は正確に、確実に、ジェロディを、捉えた。


 炎に照らされたジェロディの肩をめがけ、大剣が空を斬る。

 ジェロディは、避けられない。

 燃え盛る彼の左腕が、今にも斬り落とされるかに見えた、瞬間、


「──オーウェンさん、やめて下さい!!」


 甲高い悲鳴がこだました。

 叫んだのは、部屋の隅に避難していたマリステアだった。

 彼女は泣いている。かつて家族として共に過ごした男の裏切りに。だがそんな制止など無駄だと思われたその男が──突然、ぴたりと動きを止めた。


「……マ、リー?」


 オーウェンの薄い唇から声が漏れる。


「マリー……なのか……?」


 反応した。真の主であるジェロディや、長年の戦友であるケリーの言葉にも聞く耳を持たなかった、あのオーウェンが。

 彼はジェロディの直上で刃を止めたまま、泣いているマリステアを振り返ろうとする。ところが寸前で剣光が閃き、彼の長躯が飛びずさった。


「ぐっ……!?」


 背後に跳躍したオーウェンの胸から血が噴き出す。

 斬ったのはヴィルヘルムだった。

 見れば執務室内にいた敵は、オーウェンを除いていつの間にか片づいている。

 隻眼の剣士は得物についた血を軽く払うと、まっすぐオーウェンを見据えたまま、言った。


「ヴィント・ズィンクト」


 彼の剣に嵌め込まれた宝石が瞬く。かと思えば突如ジェロディの腕に風が巻きつき、激しく燃えていた炎を瞬時に掻き消した。

 全員の目が驚きで見開かれる。だって今のはどこからどう見ても神術だ。

 風刻ガスト・エンブレム

 けれどそんなもの、ヴィルヘルムは体のどこにも刻んでいない。


(あれは、さっきの──)


 郷庁の庭で見たのと同じ、神術であって神術でないモノ。

 そう言えば前にヴィルヘルムは言っていた。


『心配するな。俺も風使い・・・だ』


 と。


「お、まえ……今の力、逆神の術ヴァスタニエか……!」


 それを見たオーウェンが片膝をつき、忌々しげに顔を歪める。彼が押さえた胸の傷は浅いようだが、服がバッサリ斬られて、血で濡れた胸板が覗いていた。


「ほう。ヴァスタニエ、か。やはりお前もコレ・・をそう呼ぶのだな」

「ハ、神の法に逆らう者が神子のお守りとは笑わせる……! しかもお前、その気配は同類プラウダだな?」

「……」

「お前のような男が何故神子の肩を持つ? 殺せ! テヒナは我らの敵だ!」

「ああ、それには俺もおおむね同意するがな──貴様には個人的な怨みがあるんだ、憑魔コクアヴォート


 そう言ってヴィルヘルムが剣を構えると、オーウェンの口がニタリと裂けた。


 ヴィルヘルムから溢れる殺気を浴びて開花した、魔界の花のようにおぞましい笑みだった。


 カミラがその笑みを見てぞっとしている間に、ヴィルヘルムとオーウェンの剣が激突する。すさまじい勢いで衝突する二つの刃は火花を生み、先刻のクルデールとの斬り合いを彷彿とさせた。


「ハ! そうか! そりゃそうだよな! お前は最初から気づいてたわけだ、このオレの正体に!」

「……」

「だがいいのか? 正体を知っていてオレを殺す? コイツ・・・の家族の目の前で!? そいつは大した友情だなァ!」


 オーウェンは人が変わったように狂笑しながら、大剣を軽々と振り回す。あの剣でヴィルヘルムと渡り合っているのだから、脅威的な膂力の持ち主と言っていい。

 それはもはやウォルドの腕力をも超える──人外の域。

 そこでカミラははっとした。


 人外?


 そう言えばヴィルヘルムはさっき、郷守の傍に魔物がいる・・・・・と──


「ヴィント・ウィルベルン」


 ヴィルヘルムの短い呪文に応え、再び宝石いしが閃いた。かと思えば室内に激しい旋風が巻き起こり、オーウェンを足元から呑み込んでいく。


「ぐうっ……!?」


 肌をも切り裂く風の刃に包まれて、オーウェンは両腕を交差させた。そうして頭を庇った矢先、そこそこ重量のありそうな長身がいともたやすく吹き飛ばされる。

 壁に背中を打ちつけ、彼は膝をつくかに見えた。しかし両足を踏ん張ってこらえ、ほどけて散った黒髪かみの内側から、狂気の笑みを覗かせる。

 自らの間合いに踏み込んできたヴィルヘルムを、大剣が迎え撃った。

 だがヴィルヘルムは迫り来る刃を難なく去なし、さらに一歩踏み込んでいく。


「オーウェンさん……!」


 ジェロディの火傷を癒やしながら、マリステアが悲鳴を上げた。

 そのときにはもう、オーウェンの上体にヴィルヘルムの剣が吸い込まれている。


「がっ……」


 ヴィルヘルムの放った一撃はオーウェンの腹を貫き、石の壁にはりつけにした。

 大剣が床に落ちて硬い音を立て、狂気の幕引きを告げる。


「カミラ!」


 直後、いきなり名を呼ばれてカミラは「えっ……!?」と飛び上がった。

 敵の攻撃を受け流しつつ振り向くと、オーウェンを壁に縫い止めたままのヴィルヘルムが叫んでいる。


「さっきの小瓶だ! アレの中身をオーウェンに……!」


 小瓶?


 ああ、そうか。クルデールとの戦いの中、ヴィルヘルムが身を守るのに使えと渡してくれた水晶の小瓶──


 その存在を思い出したカミラは、とっさに腰の物入れへ手を回した。中から取り出した小瓶を手に、身を翻して床を蹴る。

 背中に追い縋ろうとした敵は、ケリーが引き受けてくれた。彼女の勇戦に感謝しつつ、カミラは小瓶の栓を抜く。


「えいっ……!」


 左手に瓶を持ち替え、思い切り腕を振り抜いた。途端に瓶の口から溢れた透明の液体が、光を弾きながら放物線を描いて飛び散っていく。

 燭台の明かりの下、それはごくごく普通の水のように見えた。

 ところが水滴がオーウェンの額を濡らした刹那、彼の瞳が見開かれる。


「ぐあああああああああっ!?」


 この世のものとは思えぬ絶叫が轟いた。かと思えばいきなり黒い旋風が吹き荒れて、カミラもヴィルヘルムも吹き飛ばされる。

 何が起きたのかさっぱり分からなかった。風の音がバタバタと暴れ回る中、カミラはどうにか受け身を取って顔を上げる。

 そこでは額を押さえたオーウェンが、身を屈めて苦しんでいた。彼の全身からは黒い靄のようなものが立ち上ぼり、それが風に乗ってあちこちを飛び回っている。


「な、何なの、あれ……!?」


 敵味方を問わず、居合わせた全員の目が釘づけになった。

 ほどなく暴れ狂っていた風がふっと消え、静寂が戻ってくる。


 皆の息遣いが聞こえそうなほど静まり返った室内に、オーウェンの倒れ込む音が響いた。


 倒れた彼の背中から、黒いなにか・・・が顔を出す。



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