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149.目覚めのあしおと

 つるぎを地面につき、膝を折って動かないヴィルヘルムを見ていたら、立ち上がらないわけにはいかなかった。

 恐怖と疲労と混乱で、両足がガクガク震えている。だけどこのままヴィルヘルムが永遠に動かなかったら、カミラは自分を責めても責めきれない。

 だってヴィルヘルムは自分のために、あの化け物へ立ち向かっていったのだ。得体の知れない魔術に苦しみ、尾で腹を貫かれても、カミラを救おうと繰り返し立ち上がってくれた。


「ヴィル」


 庭木の幹に手をつき、全身に走る痛みをこらえる。息を詰めながらぐっと両足に力を込め、掴み立ちを覚えたばかりの赤子のようにどうにかこうにか腰を上げた。

 ふらふらとおぼつかない足取りで二歩、三歩と芝を踏む。そのあたりでようやく足腰がしっかりしてきた。もう走れると思ったカミラは、迷わず地を蹴って走り出す。


「ヴィル……!」


 遠くで少年と女性の声がした。一瞬視線を向けた先には、塔から転がり出てくるマシューとマヤウェルの姿。

 どうやら二人は塔の中に身を隠して、何とか魔物をやりすごしたようだった。恐らくそれもヴィルヘルムの指示だったのだろう。彼は守った。あれほど強大な敵から、この場にいた全員を。


「ヴィル、ねえ……! しっかりして……!」


 ようやく傍らに辿り着いたカミラは、膝をついて彼の肩に取り縋る。血と瘴気と汗の臭い。見ればヴィルヘルムの右手は、穴の開いた横腹を押さえている。


「……ダンケ・フュエ・ダイネ・ヒルフェ」

「え?」


 そのときヴィルヘルムが、小さく何か呟いた。

 しかしカミラは聞き取れず、懸命に耳を澄ます。


「アレス・ミト・ブルート・フェブンディン、グロース・ガイスト、ズ・メイナ・グリーブテン・フラルダ……」


 聞き取れるはずがなかった。

 ヴィルヘルムが呟いた言葉は、カミラの知らない言語だった。

 先程魔物が喋っていた言語にもちょっと似ているが、たぶん違う。濁音こそ多いものの、抑揚や発音がまったくの別物だから。


「……感謝する、マナ」


 そして最後に吐き出された言葉だけは、きちんとしたハノーク語だった。

 今のはたぶん無意識に譫言うわごとを吐いていたのではなくて、誰かに語りかけていたのだろう──フラルダ、という人の名前が聞こえたような気がするし。


「ねえ、ヴィル? 大丈夫?」

「……お前は? 俺ごときを庇って、手酷くやられていたようだが」

「ごときとか言わないで。本当に死んじゃったのかと思ったんだから……ところで今の、ゲヴァルト族の言葉?」

「ああ、そうだ。生きるか死ぬかの戦いを生き延びたとき、先祖の霊に捧げる感謝の言葉だ」

「みんながハノーク語を話すこのご時世に、ゲヴァルト族も自分たちの言葉を残してるなんて知らなかった」

「同族同士なら今もゲヴァルト語で話すがな。生憎俺にはもう仲間がいない」

「仲間ならいるでしょ。残念ながらゲヴァルト語は話せないけど、ちゃんとここに」


 言って、カミラは安堵のあまりヴィルヘルムの肩へ額を預けた。他愛もない会話が生きていることを実感させてくれて、知らず笑いと涙が込み上げてくる。

 今度という今度は駄目かと思った。あんな強大な敵を前にしたのは生まれて初めてで、戦っているときは無我夢中だったのに、今更恐怖が込み上げてきた。


 おかげで下手くそな笑い泣きをする羽目になっている。あとは郷庁にいる腐れ郷守を討つだけと思っていたら、とんだ死闘に巻き込まれたものだった。

 もしもヴィルヘルムが傍にいなければ、自分はきっとあの魔物に為す術もなく連れ去られていたことだろう。感謝してもしきれない。

 そう思っていたら、音もなく彼の腕が伸びてきて抱き竦められた。ちょっと驚いたけれど、同時に自分もそうしてもらいたかったのだと気づく。


「ありがとう、ヴィル……」

「ああ」


 聞きたいことは山ほどあった。というより自分は自分が思っている以上に無知で無力で、知らないことだらけなのだと思い知った。

 だけど今は、こうして互いに生きていることを確かめ合えたらそれでいい。生きてさえいれば、いくらでも言葉を交わすことはできる。

 もしかしたらヴィルヘルムも、そういう実感が欲しかったのかもしれなかった。

 二人は束の間体温を分かち合い、そして離れた。


「カミラさん、ヴィルヘルムさん、大丈夫ですか……!?」


 ほどなくマシューとマヤウェルが、血相を変えて駆け寄ってくる。安否を尋ねる言葉を口にしつつも、ボロボロの二人の姿はとても無事には見えなかったことだろう。実際カミラはまだ何とか動けるが、ヴィルヘルムの傷は深そうだ。急所こそ外れているものの、未だに血が止まっていない。


「ヴィルヘルム様、血が……! 急いで手当てしませんと……!」

「ああ……大丈夫だ、問題ない。この程度の傷なら、まだ動ける」

「そ、そんなわけないじゃないですか!? あんな恐ろしい魔物にやられたんですよ……!? と、というかあれは魔物……だったんですか? 何だか人の言葉を話していたみたいですけど……」

「あれは〝魔族〟……魔物は魔物でも、やつらを統べる上位の魔物だ。魔族は人を喰らうしか能のない通常の魔物とは違い、知性を持ち、言葉を操り、魔術を行使する。俗に魔人や魔女などと呼ばれる人間を生み出すのも、あいつらだ」

「つ、つまり魔女や魔人は、ああいう魔物と契約して魔力をもらう……?」

「そういうことになるな。さっきあのクルデールとかいう魔物がお前に与えようとしていた、魔族の血……あれが契約の触媒だ。やつはお前を強制的に魔女にして、魔界へ連れ去ろうとしていた」

「え……」

「一度魔族の血を飲めば、人間でも瘴気に耐えられるようになる。ゆえに魔界へ連れ込むことも可能になる……というわけだ。もちろん血を飲むだけでは不完全で、肉体の変化が引き起こす拒絶反応に耐えられれば、の話だが」

「じ、じゃあ、もしもあいつの血を飲んでたら私、死んでたかもしれないってこと……?」

「ああ。そして仮に生き延びたとしても──お前はその時点で、人間ではなくなっていた」


 ぞっ、と全身から力が抜けて、カミラは再び地面に腰をついた。あの魔物がやたらと血を飲ませたがっていたのはそういうことだったのか。

 クルデールはカミラを同志と呼んだ。一体カミラの何をもってそう呼びかけてきたのかは分からない。けれどあと一歩で、自分は本当にやつらの〝同志〟にされてしまうところだった。いや、そうなる前に、ヴィルヘルムの言う拒絶反応とやらで命を落としていたかもしれないけれど。


 どちらにしろ想像するだに恐ろしく、カミラは蒼白な顔で全身を震わせた。

 どうして自分が魔界の者に狙われるのか分からない。あるいはクルデールが言っていた、父の死が関係しているとか……?


(だけどお父さんはあの日、自分を庇って賊にやられたんだって、族長が)


 七年前のある朝の記憶が甦る。郷の至聖所であるコリ・ワカで兄のエリクやイークと目覚め、駆けつけた族長に父の死を告げられた朝……。

 だけど、思い出せない。そもそもどうして自分はあの日、普段は近づくことすら許されないコリ・ワカの中にいたのだっけ? 父も共にいたような気がするのに、目が覚めたときには死んだと告げられたのは何故?

 唯一はっきり覚えているのは、眠りに落ちる前に見たいつもの父の笑顔だけ──


『カミラ、大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい……カミラのことは、父さんたちが必ず守ってやるからな』


 守って、やる?


 父は確かにそう言ったのか?


 幼い日の記憶はひどくあやふやで頼りない。

 縋ろうとすればするほどにか細くなって消えてしまう。でも。


(イーク、なら、何か、知ってる……? あの日、一緒にいたイークなら──)


 にぶい頭痛がしてきて、カミラは額を押さえた。同時に混乱する頭で考える。


 何故だろう。


 郷でも一、二を争うくらい強かった父の死について、自分はどうして深く考えることをしてこなかったのだろう?


すべては眠りの彼方へ(ティク・イル・カフア)


 しわがれた声が耳元で囁いた。


『ミトル・チ・マリ。ミトル・チ・マリ。神のまにまにイウ・テオ・ティクィ・トア──』


「──おい、カミラ!」


 額に当てていた手をいきなり掴まれ、カミラはびくりと震え上がった。我に返ってみれば、目の前にこちらを覗き込むヴィルヘルムの隻眼がある。


「あ……ヴィ……ヴィル……」

「どうした。何故返事をしない」

「ご……ごめ……ちょっと、考え事を……」

「……」

「ねえ……ヴィルは、知ってるの……? 私のお父さんが、どうして、あの日──」


 カミラがそう言いかけた時点で、ヴィルヘルムはすべてを察したようだった。

 現に彼は眉を曇らせ、カミラから目を逸らす。あ、と思っている間に、地面に刺さった剣を杖代わりにして、ヴィルヘルムはゆっくり立ち上がった。


「……魔族の言葉など真に受けるな。やつらは人間の心の隙を突き、言葉巧みに籠絡する。あれだけ異端と説かれていながら、未だ魔人や魔女になる者がいるのもそのせいだ」

「でも」

「それより今は、ジェロディたちの無事を確かめるのが先だろう。ウォルドは郷守の執務室に集まれと言っていたな。マシュー、執務室の場所は分かるか?」

「は、はい……! えっと、郷守さまの執務室は、三階の東側に……」

「ならばそこまで案内してくれ。お前たちを先に逃がすことも考えたが、まだ魔物の気配がする。こうなると別々に行動するより固まっていた方が安全だ。俺たちの傍を離れるな」


 ついに地面から剣を引き抜き、鞘に戻しながらヴィルヘルムは言った。彼の剣の鍔に埋め込まれた緑色の石が、何の光を弾いたのか、チカリと閃いたような気がする。カミラはその瞬きを見て、ようやく理性を取り戻した。何もかも問い質したい衝動は確かにあるが、今はジェロディたちの安否も気がかりだ。

 生きてさえいれば、いくらでも言葉は交わせる。

 もう一度自分にそう言い聞かせ、立ち上がった。少し離れたところに転がる自分の剣を拾い上げてから、再びヴィルヘルムの傍へ戻って、彼の左腕を勝手に掴む。


「……おい。何のつもりだ」


 掴んだ腕は自らの首に回し、肩を差し込むようにして彼を支えた。ヴィルヘルムはそんなもの不要だと言いたげに眉間をしわめたが、カミラだって馬鹿じゃない。彼がマヤウェルたちを不安にさせまいと多少無理をしていることくらい、分かる。


「まだ魔物がいるかもしれないんでしょ。だったら体力は少しでも温存しないと」

「俺はお前が思っているほど軟弱ではないつもりだがな──うッ……!?」

「ほらあ、ほんとは痛いんじゃない。だったら澄ました顔してないで甘えなさいよ。かわいい女の子が傍で支えてあげるって言ってるんだから」

「ひ……肘で人の傷を抉る女が本当に〝かわいい〟か……?」

「え? 何? 何か言った?」

「……」


 カミラが素知らぬ顔をして歩き出すと、ヴィルヘルムもついに観念したようだった。これ以上傷をつつかれるよりは、女に担がれる屈辱をこらえた方がマシだと考えたに違いない。

 それでいいのよそれで、と思いながら一歩踏み出すと、途端にずしりとヴィルヘルムの体重がのしかかってきて、「んっ……!?」と声を上げそうになった。

 どうやら〝甘えろと言うからには甘えてやろう〟という気になったらしい。ヴィルヘルムの腹の傷は体の左側面にあって、足をつくと痛むから、その分をカミラに支えてもらおうという魂胆のようだ。


「どうした。足が止まったようだが」

「……」

「重いなら離れてやっても構わんが?」

「いや全然平気ですマジで」

「ならば早く行くぞ。マリステアと合流できれば、傷は癒やせる」

「ほ……他にいるかもしれない魔物って、さっきみたいな化け物じゃないわよね……?」

「それは遭遇してみなければ分からん。俺もそうでないことを願うがな」


 これじゃあヴィルヘルムの体力を温存する代わりに自分の体力が底を尽く。そんな危機感を覚えながらも、カミラは意地と根性でどうにか一歩踏み出した。

 そうした一歩を何度も積み重ね、庭園を縦断して郷庁へ帰り着く。裏口の扉を潜った時点でカミラは既に汗だく、息も絶え絶えだったが、何とかここまで来ることはできた。


「で……で? 郷守の執務室は、三階とかおっしゃってましたっけ……?」

「ああ。向こうからここへ来る途中、階段があったな。そう遠くはないはずだ。あの角を曲がればすぐに見える」

「あ……あんたほんとにピンピンしてるわね……なんか腹が立ってきたわ」

「誰かさんの心遣いのおかげでな。杖の代わりをするのはここまででいい。あとは壁を伝って──」


 と言いかけたところで、ヴィルヘルムがにわかに殺気立った。何事かと驚くと同時に突き飛ばされ、カミラは転びそうになりながら壁に手をつき立ち止まる。


「ちょ、ちょっとヴィル……!?」


 これにはさすがに文句を言おうと思ったところで、気がついた。ちょうどヴィルヘルムが示した通路の先、曲がり角。そこからバタバタと足音がする。

 そうだった。自分たちの敵は何も魔物の類だけではないのだった。ここは敵地のど真ん中で、そろそろ騒ぎを聞きつけた地方軍が集結してくる頃合いでもある。けれどこのまま戦闘になったりしたら、自分はともかくヴィルヘルムが──


「──あ、いた……! カミラ、ヴィルヘルムさん!」


 ところが剣把を掴んだ刹那、聞こえてきたのは耳慣れた少年の声だった。

 暗闇の中目を凝らせば、見える。今から一刻ほど前に別れたケリーとマリステア、そして──郷庁に来てから行方が分からなくなっていた、ジェロディが。


「ティノくん」


 無事だった。彼ならきっと無事でいるはずだと信じていたけれど、本当に。


「カミラ、ヴィルヘルムさん、怪我は……!?」


 そう言って駆け寄ってくるジェロディの姿を見たら、不覚にも泣けてきた。死を覚悟した戦いのあとで安堵して、気がゆるんでしまったのかもしれない。

 たった数刻顔を合わせていなかっただけなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。まっすぐな彼の眼差しも、声も、頭で揺れる金細工の音色さえも。


「ヴィ、ヴィルヘルムさま……!? そのお怪我は……!?」

「ああ、ジェロディ、無事だったか。ケリーとマリステアもいいところに来たな。助かったぞ」

「カミラ、あんたもボロボロじゃないか! 一体何が……って、そちらにいるのはマシューとマヤウェル殿で?」

「まあ、ケリーさん。ヴィルヘルム様からお話は伺っておりましたけど、本当にご立派になられて……!」


 無事に合流を果たした七人は、各々の無事と再会を喜び合った。ヴィルヘルムは座り込んでマリステアの治療を受け始め、ケリーは旧知だというマヤウェルと、ジェロディはマシューと久闊を叙す。

 どうやらジェロディもマシューの面立ちは記憶に残っていたようで、こんな状況ながら八年ぶりの再会に束の間笑い合っていた。

 「会えて嬉しいよ」と頬を上気させて言うマシューに、「僕もさ」と笑ってジェロディが手を差し出す。そうして握手を交わす二人の姿が、何故だかかつて見たエリジオとのそれと重なった。


「だけど、ティノくんたちがどうしてここに? 集合場所は郷守の執務室ってことになってたでしょ?」

「ああ。そうなんだけど、地下を出てきたら……何て言うか、すごく嫌な感じがしてさ。どうしても、ここへ来なきゃいけないような気がしたんだ。誰かに急き立てられて……」

「急き立てられた?」

「う、うん……なんて言えばいいんだろうな。変なんだ、僕。特別房を出てから、頭の中で声が……いや、声と呼べるほどはっきりしたものでもないんだけど……」

「その声がここへ来るよう言ったの?」

「ああ。〝このままだとまずいことになる、急げ〟って、そう急かされてるような気がして……だから様子を見に来たんだよ。自分でもおかしな話だと思うけど」


 我がことながら半信半疑なのか、ジェロディは事情を説明しつつも納得がいっていない様子で首を拈った。これが平時であれば、カミラもさすがに心配したかもしれない。たとえば特別房に入ったことで変な呪いにでもかかったんじゃないかとか、まだ意識が混濁してるんじゃないかとか。

 けれど理由に思い当たったカミラは息を飲み、思わずヴィルヘルムを顧みた。

 目の合ったヴィルヘルムは、深刻な表情をしている。

 まるでジェロディを憐れむように。


「……ジェロディ。それは恐らく『神託』だ」

「え?」

神刻エンブレムというのは大抵の場合、ときをかけて術者に馴染む。カミラのように生まれつき神術の素質に恵まれた者であっても、刻んだばかりの神刻とは呼吸が合わず、すぐには強力な術が使えない。神刻を使いこなすには、時間をかけて馴らす・・・必要があるということだ。そして同じことが、お前の右手に刻まれた大神刻グランド・エンブレムにも言える」

「えっ……!? ぐ、大神刻って……!?」


 驚愕を隠しきれない様子のマシューが、語り部であるヴィルヘルムと立ち尽くすジェロディとを見比べた。しかしすぐにマヤウェルが彼の肩を叩き、「しっ」と人差し指を立てる。

 話の腰を折っては悪いと思ったのだろう。彼女のそんな気遣いのおかげで、カミラたちはヴィルヘルムの説明に没入することができた。


「ごく普通の神刻も大神刻も、宿主の体に馴染めば馴染むほど強力な力が使えるようになっていく。だが普通の神刻が〝神の力の断片〟であるのに対し、大神刻は〝神の魂そのもの〟だ。ゆえに大神刻には意思がある。お前の右手にあるものは、お前の・・・体に寄生した・・・・・・別の生き物・・・・・ということだ」

「じ……じゃあ、ティノさまがお聞きになった声というのは……」

「十中八九、生命神ハイムの声だろうな。神子というのは、力が強まれば強まるほど神に近づく。それはつまり、神の声がする方へ徐々に歩み寄っていくということ──そしてジェロディ・ヴィンツェンツィオという一個の人間が、同じ体を共有している神の人格に塗り潰されていくということだ」

「そ、そんな……!」

「急に神の声が聞こえるようになったということは、《命神刻ハイム・エンブレム》がまた一段階お前の体に馴染んだのだろう。その様子だと、特別房で何かきっかけがあったようだな。それが神とお前の同化を促進させた。ハイムがお前を急かしたのは、カミラと俺が魔族の襲撃を受けていたからだ」

「ま、魔族ですって? やつらが何故郷庁に……!?」


 さすがは元軍人と言うべきか、魔族という言葉に真っ先に反応したのはケリーだった。彼女も知性と魔術を持つ魔族の厄介さは認識しているのか、表情がたちまち青ざめていくのが分かる。


「詳しい理由までは分からんが、やつはここに呼ばれたと言っていた。神子たるジェロディを始末するために」

「よ、〝呼ばれた〟……? ではまさかこの郷庁内に、魔人か魔女が……?」

「可能性は否定できん。魔物らしきものの気配が未だ郷庁内にあることだしな。ジェロディ、それについてハイムは何も言っていないか?」

「い……いえ……僕には、何も……ここに来るまで感じていた嫌な気配も、今はもうまったく感じませんし……」

「そうか。ではハイムが焦っていたのは、カミラを連れ去られては計画が狂うからだろう──マリステア、治療はもういい。助かった。礼を言う」


 立ち上がる直前、ヴィルヘルムが何か気になることを口走ったような気がしたが、カミラは茫然としていて問い質すことができなかった。


 だってジェロディの人格が、時間と共に神に塗り潰されていく、だって?


 その話が本当だとしたら、大神刻の力が最大まで高まったとき──


(ティノくんは、どうなるの?)


 そうなったジェロディは、もうジェロディではないということだろうか。

 ジェロディの皮を被ったまったく別の生き物、ということだろうか。

 そこに彼の心は少しも残らないのだろうか──?


(それが、神子になるっていうこと?)


 いいや、違う。〝神子になる〟ということは、〝神になる〟ことと同義なのだ。

 器として不完全な間は〝神子〟として神の代弁者を名乗り、完熟した暁には〝神〟と呼ばれるようになる。そうしてすべての神が神子の人格を淘汰し、その肉体を借りてこの世に復活すること、それこそが、


(《神々の目覚めエル・シャハル》──)


 カミラは足から力が抜けて、座り込んでしまいそうだった。どうして自分がこんなにもショックを受けているのか分からない。神々の復活の予言が果たされ、エマニュエルが再び浄化されることは人類が古来から渇望してきた未来のはずだ。


 でも。


(その世界に、ティノくんはいない)


 そう思ったら、足が竦んだ。胸が張り裂けそうだった。

 この感情をなんと呼ぶべきなのか、カミラはまだ知らない。


「とにかく、それについてはのちほどまた検討するとして、だ。そろそろ警鉦を聞いた地方軍が集まってくる。そうなる前に郷守を討たなければ、俺たちは取り囲まれてなますにされる運命だ。麓へ行ったウォルドたちの首尾がどうなっているのか分からんが、今はあの二人がリチャード殿を無事に逃したものと信じて、このまま郷守のところへ乗り込むべきだろう」

「そ……そう、ですね。郷守もまさか、我々がこの状況で本陣に攻め入ってくるとは思っていないはず……今なら敵の裏を掻けます。やつを討てるチャンスがあるとしたら、今だけでしょう」

「その好機を逃す手はない。どうする、ジェロディ。あとはお前次第だ」


 六アレー(三〇センチ)ほども高い位置から見下ろされて、ジェロディは立ち竦んでいるようだった。彼を見やるヴィルヘルムの眼差しに温度はなく、どうすべきかは総帥おまえが決めろ、と突き放しているようでもある。

 だけどあんな話を聞いたあとでは、ジェロディだって混乱しているはずだ。難しい判断を迫られたところで、まともに考えられないに決まっている。だったら自分が提案を──と進み出たところで、ヴィルヘルムに視線で制された。


(……何? 全部ティノくんに決めさせろっていうの?)


 今の彼がそんな状態にないことは、ヴィルヘルムだって承知のはずだ。なのに?


「ちなみにこれは俺の勘だが」


 と、カミラの疑問に答えるように、ヴィルヘルムが口を開いた。


「魔物の気配は上からする。つまり郷守の傍に魔物か魔人か──あるいは魔族がいる可能性が高いということだ」

「……!」

「もしも郷守を守っているのが魔人や魔族だとしたら、ジェロディ、お前の力が鍵になる。さっき魔族と戦ったカミラなら分かっていると思うが、並の戦士では到底やつらに敵わない。こちらの攻撃も神術も、すべて魔術で防がれるからだ。だがいかなる魔物も、お前の持つ大神刻の力だけは防げない」

「……なら、僕が戦わなければ、その魔物を祓うことはできないかもしれない……ということですか?」

「そうだ。しかしお前が力を使えば使うほど、ハイムとの同化は進むだろう。やがて神の魂はお前の魂と結合し、分かつことは不可能となる」


 再び悪寒が背中を舐めた。

 マリステアたちも一様に言葉を失い、立ち尽くしている。

 ヴィルヘルムの言葉はどこまでが真実なのか、カミラには分からない。けれどこんなときに嘘をつく必要などどこにもないし、ジェロディ自身が神の声を聞いている以上、紛れもない事実なのだろう。


(だけど、どうして今そんな話を──)


 と、ヴィルヘルムの行動を疑ったところでふと気づく。

 果たして彼は、大事な戦いの前に味方を混乱させて喜ぶような人間だろうか?

 いいや、違う。そもそもヴィルヘルムは口数が多い方ではないし、日頃から必要のないことは話さない。彼が口を開くのは、いま告げる必要があると認識しているからだ。つまり、


「──それでも、行きます。マクラウドを……郷守を討つチャンスが今しかないなら、戦わないと。あいつが郷守の座にふんぞり返っている限り、リチャードさんやこの町の人々は苦しみ続けることになる。僕には救世軍のリーダーとして、彼らを救う義務があります。だったら逃げません。目の前の敵からも、運命からも……」

「ティ、ティノさま……」


 口元に手を当てたマリステアが、みるみる瞳を潤ませた。ジェロディはそんな彼女に目をやって、こわばっていた表情をふっとゆるめる。

 まだ混乱が解けたわけではないだろう。もっとじっくり考えたいことが彼には山ほどあるはずだ。しかしジェロディは、選んだ。

 救世軍のリーダーとして、ピヌイスを解放する道を。


「……よく言った。では行くとしよう。マシュー、案内を頼む」

「は、はい……!」


 ヴィルヘルムに名を呼ばれ、きゅっと表情を引き締めたマシューが駆け出した。皆の視線が彼に集まっている隙に、ヴィルヘルムがぽんとジェロディの肩を叩く。

 たったそれだけの仕草で、ヴィルヘルムの意図はジェロディにも伝わったようだった。すなわち彼は、試したのだ。ジェロディの覚悟と、総帥としての器を。


「さすがはガルテリオの息子だ、とは言わんぞ」

「……はい。ありがとうございます、ヴィルヘルムさん」


 そう告げると小さく笑い、ジェロディも駆け出した。マシューを追って郷庁の奥を目指す彼の背中を見送って、カミラはしばし立ち尽くす。


「俺たちも行くぞ、カミラ。そう言えばお前、マリステアの治療は受けたか?」

「……え? あ、そうだ、忘れてた……」

「郷守のところへ行く前に治せるものは治してもらえ。仮に魔族がいるとしたら、小さな傷でも命取りになるぞ」

「う、うん……」

「そしてもう一つ──ジェロディに神の力は使わせるな。そうすれば《神蝕しんしょく》は止められる」

「え?」

「神との同化を完全に止めることは不可能だが、遅らせることは可能だ。現にほとんど力を使ってこなかったロクサーナは六百年もの間、元の人格を保っている」

「……!」

「俺は阻むぞ、《神々の目覚め》を。それがお前を守ることになるならな」


 頭の中が真っ白になっているうちに、ヴィルヘルムも身を翻した。魔族との戦いでところどころ破れた黒の外套を靡かせて、彼が遠ざかっていく。

 自分も行かなければ、と思った。

 けれど足が床に縫いつけられたみたいに、しばらくのあいだ動けなかった。


 遠のいていく仲間の足音とは裏腹に、何かが少しずつ、近づいているような気がする。



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