147.月下の来訪者
ざわり、と、ざらついた何かがカミラの心臓を撫でていった。
俗にそれを、胸騒ぎと言う。
思わず鳥肌が立ってしまうほど不快で不可視で不吉な〝何か〟。
その感触に足を止め、カミラはふと振り向いた。背後に敵でも迫っているのかと思ったが、そんなことはない。案内役のマシューが通路の隅で腰を抜かし、青い顔で震えているのが見えるだけだ。
(……気のせい?)
しかし確かに肌を這った感触を思い出し、眉をひそめる。まあ、気のせいなら別にいい。むしろいま気にすべきなのは根拠のない虫の知らせなどではなく、眼前の──
「──カミラ、下がれ!」
「えっ……」
ヴィルヘルムの怒声で我に返った。驚いて振り向いた瞬間、視界を右から左へよぎる剣光。あわや胸を引き裂かれるかというところで、カミラは辛くも切っ先を躱した。──今のはやばかった。ぶわっと全身に汗が滲んだところで、目の前の敵兵の胸から剣が生える。
「がっ……」
一葉(五センチ)ほど覗いた剣はすぐに引き抜かれ、敵兵は頽れた。すると後ろから血剣を携えたヴィルヘルムが現れ、カミラは安堵の息をつく。
「あ、ありがとう、ヴィル……助かったわ」
「怪我は?」
「大丈夫、平気よ」
「ジェロディのことが心配なのは分かるが、今は戦いに集中しろ。たとえ相手が雑魚だとしても、気を抜けば痛い目を見るぞ」
「ちっ──」
違うわよ! と慌てて否定しようとして、いや待て、何をムキになっているんだ私は、と冷静になった。確かにジェロディのことは心配だし、その感情は仲間であれば当然のものだ。なんたって彼は救世軍のリーダーだし、神子だし、強いし優しいし頼りになるし……。
(って、何を考えてるの私は)
何だか余計な雑念が混じったような気がして、知らず額に手を当てる。頬が熱いような気がするのはアレだ、つまり、ええと、そう、直前まで戦闘で動き回っていたから。だから体温が上がって汗までかいている。まああれだけ激しく戦ったのだから無理もない。これはあくまで生理現象だ。そうに違いない……のに何だろう、このひどくいたたまれなくて落ち着かない感じは。
「マシュー、お前は? 怪我はないか?」
「い……いえ……ぼくも、大丈夫、です、けど……」
と、背後でそんな会話が聞こえて、カミラは改めて振り返る。そこにはいつの間にか移動したヴィルヘルムと、未だ腰を抜かしたままのマシューがいた。
彼は廊下のあちこちに散らばる死体を見るやますます顔面蒼白になり、「うっ……」と呻いて口を押さえる。恐らくこんな血なまぐさい現場を目撃するのは生まれて初めてなのだろう、眼鏡の向こうの双眸には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「こらえるな。吐け。その方がずっと楽になる」
それを見たヴィルヘルムが突っ立ったまま、しかし常になく優しげな声をかける。あの男にもあんな声が出せたのか、とカミラが面食らっている間に、嘔吐の咽びが聞こえ始めた。胃のあたりを押さえて嘔吐くマシューを、ヴィルヘルムはただ傍で見守っている。
「す、すみません……お見苦しいところをお見せしました……」
そうして廊下の隅でしばらく喘ぎ、胃の中のものをすべて吐き出してしまうと、ようやくマシューも立ち直った。未だ足取りはふらふらと頼りないが、母を助けるという意思が彼を支えているのだろう。
ヴィルヘルムが手巾を差し出せば、礼を言って口元を拭った。ただ、白い手巾を己の吐瀉物で汚してしまったのを気にしたのか、やがて上目遣いにヴィルヘルムを見上げて言う。
「あ、あの……すみません、これはあとで洗ってお返ししますね、将軍」
「必要ない。いらなければ捨ててしまえ。ついでに言うと、俺はもう将軍ではない。呼ぶなら名前で呼んでくれ」
「じ、じゃあ、〝ヴィルヘルムさん〟とお呼びすれば……? でも、何だかしっくりきませんね」
「ジェロディも初めはそう言っていたが、慣れだ。で、マヤウェルのいる塔はどっちだ?」
「あ、え、えっと、あっちです。あと少しで出口に着きます……!」
散らばる死体をなるべく見ないようにしながら、マシューは現在カミラたちのいる廊下の奥を指差した。途中左へ折れる道があるがそちらではなく、このまま直進するようだ。
彼の案内に従って、カミラとヴィルヘルムは郷庁の東を目指した。マヤウェルが幽閉されている塔は庭園の中に佇んでいるそうで、辿り着くには一度外へ出る必要があるらしい。
「だけど何だって郷庁にそんな塔が? 別に見張りのための物見台ってわけじゃないのよね?」
「は、はい。ぼくも一度しか入ったことはないんですけど、塔の最上部はちゃんとした部屋になっていて、寝台とか机とか、人が暮らすためのものが一通り揃ってました。それが気になってこっそり調べたんですが、どうもあの塔はこの町がピヌイスと改名するよりずっと昔に、郷守さまがご自分の奥さまを閉じ込める目的で建てたものなんだそうです」
「じ、自分の奥さんを閉じ込めるって、どうして?」
「郷庁に残されていた文献には、当時の郷守さまの奥さまは都でも噂になるくらいの美しい人で、横恋慕する男性があとを絶たなかったと書かれていました。だから郷守さまは、自分以外の男性が奥さまに近づけないよう塔の天辺に閉じ込めて、死ぬまで外に出さなかったんだとか……」
「うわ……何それ気持ち悪い。郷守って昔からろくなのがいなかったのね」
「だがその記録が本当ならば、マヤウェルを監禁するにはうってつけだな」
「え、なんで?」
「お前も行けば分かる」
意味深な言葉を残して、ヴィルヘルムはぐんと歩調を速めた。どうしたのかと思ったら、行く手に扉らしきものが見えてくる。
ずらりと並んだ窓の外に見える、庭へと出るための扉だ。鍵はかかっていたがごく普通の戸締まり用のもので、内側から開ける分には楽勝だった。
仮漆のきいた扉を潜ると、そこには美しい庭園が広がっている。地方軍の軍事拠点でもある郷庁に、こんな憩いの場があるのかと驚くような壮麗な庭だ。
「す、すごい……これ、リチャードさんのお屋敷の庭にも負けないんじゃない?」
「そうかもしれませんね。ここにはとても腕のいい庭師さんがいますから。そもそもこの庭園自体も、塔に閉じ込めた奥さまが退屈しないようにと、昔の郷守さまが工夫して造られたものだそうですよ」
「だったら初めから閉じ込めなきゃいいだけの話じゃない? 歪んでるって言うか、はっきり言って税金の無駄だわ」
「さ、さすが、救世軍の方は目のつけどころが違いますね……」
羨ましいくらいサラサラの髪を夜風に撫でられながら、マシューが複雑そうな笑みを浮かべた。同時に道に沿って植えられた庭木がざわざわと鳴り、微かな花の香りも漂ってくる。
遠くで聞こえているのは水路のせせらぎだろうか。この庭は確かに美しいが、郷庁という施設の役割を考えるとむしろ醜悪だ、とカミラは思った。
裏口から伸びる道は正面に見える円形の花壇を迂回し、再び直進して塔まで続いている。闇の中に黒々と聳え立つそれを見上げて、カミラは最上部の窓に明かりがともっていることを確認した。
「マシュー。あなたのお母さん、起きてるみたいよ」
「えっ?」
「明かりがついてる。きっと騒ぎを聞きつけて起き出したんだわ。ヴィル、行きましょう。……ヴィル?」
他の二人を促して一歩踏み出し、しかしカミラはすぐに立ち止まった。
何故なら名前を呼んだにもかかわらず、ヴィルヘルムがまったく何の反応も示さなかったからだ。
どうしたのかと振り向くと、彼は何もない虚空をじっと睨んでいた。視線の先には細い三日月があるだけだ。夜空が微笑んでいるようなその月とヴィルヘルムとを見比べて、カミラは怪訝な顔をする。
「ヴィルってば、どうかしたの?」
「……嫌な気配がする」
「え?」
「さっきから薄々感じてはいたが……これは想定以上にまずい事態かもしれんな」
「ど、どういうこと?」
「一刻も早くジェロディと合流すべきだということだ。行くぞ。恐らく向こうも俺たちに気づいている」
いつになく深刻な面持ちで、ヴィルヘルムが駆け出した。が、カミラにはさっぱりわけが分からない。気づいている? 誰が? 私たちに?
「ちょ、ちょっとヴィル、待ってよ……!」
まったく要領を得ないまま、とにかく彼を追いかけた。どうかわたしたちを見て下さいと言わんばかりに咲き誇っている花々の横を素通りし、水路を飛び越えて塔へ至る。ところが待ち構えていた鉄の扉に手をかけようとして、異変に気づいた。
「開いてる……?」
たぶんカミラの腕力では開けるのも一苦労な、重厚な扉。それがほんのわずか口を開け、まるでカミラたちを誘うように上階からの明かりを吐き出していた。
鍵がかかっているかどうか確かめようと手を伸ばしたのに、そもそもそんな必要はなかったようだ。しかし人質を監禁している塔の出入り口を、こんな無用心に開け放っていてもいいものだろうか。いや、いいわけがない。
「入るぞ」
嫌な気配とやらが確信に変わったのか、ヴィルヘルムが押し入るように扉を潜った。彼が軽々と押し退けた扉の隙間をカミラも通り、マシューが後ろからついてくることを確認する。
上階から漏れ出る明かりを頼りに、螺旋階段を駆け上がった。ところが塔を半ばまで登ったところで、カミラは言い争う声を聞く。
「──ええい、見かけによらず強情な女だ……! いいから来いと言っている!」
「参りません。郷守様にお伝え下さい。夫はあなた様に忠誠を誓っており、謀反など起こすはずがない。ですのでどうぞご安心下さいと」
「ハッ、それで旦那を守っているつもりか? だがこれは他でもない、その郷守様のご命令なのだ。忘れているようだから忠告しておくが、まだ余計な手間を取らせるつもりなら、郷庁にいる息子がどうなっても知らんぞ!」
「ならば息子を連れて町へ下りればよろしいでしょう。夫も息子を愛しておりますから、あの子もまたわたくしと同等の人質と成り得るはずです。しかしそうなさらないのは、息子があなた方の手を逃れたからではありませんか?」
「な、何をぅ……!」
「親馬鹿を申し上げるようですが、マシューは賢い子です。あなた方に利用されるくらいなら、わたくしを見捨ててでも逃げ出すことを選ぶでしょう。あの人を縛りつける足枷を、少しでも減らすために」
「ごちゃごちゃとくだらんことを……! 貴様は大人しく我々に従っていればいいのだ! 人質の分際で、偉そうに口答えをするな!」
「あっ……!」
あと数段で塔を登りきる。そう思った矢先、行く手に見えた扉の向こうで、兵士が誰かを殴り倒す現場を目撃した。
顔面を打たれ、黄砂岩の床に倒れ伏したのは髪の長い女だ。マシューと同じビスケット色の髪は殴られた拍子に髪紐がほどけて、踝まで届く白い長衣の上に散らばっている。
「母さん……!」
それを見たマシューが、部屋へ飛び込むなり悲鳴を上げた。やはりあれがマシューの母か。瞬間、怒りに燃えたカミラは鞘走り、低い姿勢から床を蹴る。
「なっ、なんだお前らは──!?」
地方軍の兵士たちが気づいて振り向く頃には、カミラは彼らの懐にいた。最も近くにいた男の腹を躊躇なく斬り裂き、さらに返す刃で隣の兵も叩き伏せる。
「あ、赤い髪……! まさか、お前は……!」
まるで悪魔でも見るような顔ね、と思いながら、カミラは素早く剣を引いた。泡を食って得物を抜くことも忘れている一人に狙いを定め、迷わず剣鋩を突き入れる。
「まったく失礼しちゃうわ」
ぼやきながらくるっと柄を拈り引き抜けば、敵兵は目を剥いたまま膝を折った。女を殴るようなろくでなしが相手だと、斬るのをためらわずに済むから有り難い。
ひゅっと剣を振って血を払った頃には、残りの二人をヴィルヘルムが片づけていた。マシューは一瞬で血の海と化した部屋に顔色を失いながらも、うつぶせに倒れた母へと駆け寄っていく。
「母さん、母さん、しっかりして! ぼくだよ、マシューだよ……!」
瞳いっぱいの涙を浮かべたマシューは、懸命に母の肩を揺さぶった。するとマシューの母──名は確かマヤウェルと言った──が小さく呻き、やがてゆっくりと顔を上げる。
「マシュー……? ああ、マシュー、よく無事で……!」
これだけ近くにいながら、母子はどれほどのあいだ引き裂かれていたのだろうか。マヤウェルは目の前にいるのが我が子だと気がつくと、飛び起きて抱き締めた。
マシューもそんな母の胸に顔を埋めて泣いている。カミラたちを案内している間は必死に平静を保っていたのだろうけど、本当はどんなにか早く母の無事を確かめたかったに違いない。
(お母さん、か)
自分にはまったく縁のない響きに、カミラは剣をしまいながらちょっとした憧憬を覚えた。チッタ・エテルナでジョンとロザンナの姿を見ていた頃にも思ったけれど、自分もあんな風に、母のやわらかな腕に抱かれてみたかった……ような気がする。
カミラの母はカミラを産んで間もなく命を落とし、物心ついた頃には父と兄だけが家族だった。父が他界してから親代わりになってくれた族長も妻には先立たれていたし、つくづく女親というものに縁のない幼少期を過ごしたのだ。
(だからお前は女のくせに気性が荒いんだって、イークにはよく嘆かれたけど)
強いて言うならイークの母のテナミアが、唯一触れ合った母親に近い存在だった。彼女がもう少し長生きしてくれていたら、自分はこんなところで敵の返り血を浴びたりしていなかったのかもしれない。
そんなことを思いながら頬についた血を拭っていると、ときに母子へ歩み寄ったヴィルヘルムが、さりげなく手を差し出した。
「助けに来たぞ、不死鳥の姫。遅れてすまない。もう少し早く到着していれば、やつらの好きにはさせなかったんだが」
──不死鳥の姫?
なんだそれは、とカミラが呆気に取られていると、マヤウェルがついに面を上げた。そうしてヴィルヘルムを見上げた彼女の横顔を見るなり、カミラは思わず絶句する。
(わっ……わっ、わっ、若……っ!?)
あのリチャードの妻だと言うから、てっきりそこそこ年齢を重ねた人なのだろうと思っていたのに。ヴィルヘルムの呼び声に応えて顔を上げた女は、まだ三十にも届かぬくらいのうら若き娘だった。
いや、だけど待ってほしい。
彼女の息子であるマシューはジェロディと同い年だと言っていたから、十五歳。
彼を出産した年齢から逆算すると、見た目が若いだけで年齢はもう少しいっているのだろうか。でないと彼女は十二か十三くらいでマシューを産んだ計算になってしまう。そのくらいの年齢で初妊を迎えるという話も聞かなくはないが、リチャードが現在四十七歳と言っていたことを考えたら、正直言って犯罪だ。
「あなたはもしや……ヴィルヘルム様、でいらっしゃいますか?」
おまけに彼女の唇から零れる声の麗しさと言ったら。
マヤウェルの白い喉が紡ぐ声は余韻まで耳にやわらかく、言葉という概念が光を帯びて吐き出されているかのようだった。
加えて華やかな印象の顔は、黄都にある女神像を彷彿とさせるほど整っている。ヴィルヘルムが発した〝姫〟という形容がまさにぴったりな、深窓のご令嬢といった印象だ──兵士たちに殴られた頬が、痛々しく腫れ上がっていることを除けば、の話だが。
しかしカミラは、彼女が紡ぎ出す言葉の端々に、何か懐かしさにも似たものを覚える。どうしてこんなに耳に心地好いのだろうと考えて、思い至った。
──そっか。似てるんだ。
マヤウェルの言葉の抑揚や発音は、どことなくカミラのそれと似ている。つまり俗に言うトラモント訛りとはまた違う、異国の訛りで話しているということだ。
(かと言ってうちの郷の訛りともまた微妙に違うわね……あんな不思議な瞳の色、見たことないし──)
深い沼を思わせる緑の上に、美しく踊る赤や青、紫のきらめき。
玉虫色、とでも形容すればいいのだろうか。燭台の明かりが人間の瞳をあれほど幻想的な色合いに見せるのなら、カミラの瞳だってきっとああなっている。けれどそうでないからには、あの未知なる輝きも彼女の持ち前と考えていいだろう。
「久しぶりだな、マヤウェル。再会の挨拶と詳しい説明は塔を出ながらすることになるが、立てるか?」
「はい、もちろんです。お懐かしゅうございます、ヴィルヘルム様。もしや夫が、わたくしとマシューのためにあなたをここへ?」
「まあ、そうだな……半分正解と言ったところか。この兵士たちは、お前をここから連れ出そうとしていたようだが?」
「ええ。どうやら郷守様が夫の謀反を疑って、屋敷へ人をやろうとしていたようなのです。その際夫が抵抗しないよう、わたくしを人質として連れていく心算だったのでしょう」
ははあ、なるほどね、とカミラはマヤウェルの美貌に見とれつつ納得した。ヴィルヘルムがこの塔は彼女を閉じ込めるのにうってつけだと言っていた理由にも、郷守が彼女を攫った理由にもだ。
これほど美しい妻を人質に取られたとあっては、リチャードが身動きを取れなくなるのも無理はなかった。肌の色も雰囲気も、艶めく真珠のような彼女に微瑕ひとつつこうものなら、彼は永遠の後悔に苛まれ、きっと己を許せなくなっていたことだろう。
郷守もそれを分かっていたからマヤウェルを手元に置いた。今夜彼女を道具のように使おうとしていたのはカミラたちの脱走を受け、リチャードの手引きを疑ったからだ。
そんな卑怯なことばっかり考えてるから罰が当たるのよ、とカミラは口の端を持ち上げた。マヤウェルも無事に救い出せたことだし、あとは仲間たちと合流して郷守のもとへ乗り込むだけ。
そこでこの町の郷守は、真の天誅を受けることになるだろうとカミラは予感した。そして予感を現実のものとする用意が、カミラにはある。
「──そうですか、夫がそのようなことを……わたくしたちのせいで、皆様には多大なご迷惑をおかけしたようですね」
「いいえ。そりゃもちろん最初は裏切られたと思いましたけど、マシューから事情を聞いて、今はむしろ感謝してます。だってリチャードさんが私たちを郷庁に送り込んでくれたおかげで、救世軍の仕事がまた一つ捗ることになったわけですから」
「そうおっしゃっていただけると、わたくしも胸のつかえが下りますわ。ですがこれほどの騒ぎを起こしておきながら、皆様のご好意に甘えてお詫びの一つもしないわけには参りません。無事にここを出られたなら、きっと……」
と、長い階段を下りながら、カミラは優しい雨のようなマヤウェルの声を聞いていた。雨は苦手なのについそんな形容をしたくなってしまうのは、安全確保のためにカミラが先頭を歩いていて、それに続くマヤウェルの声がちょうど頭上から降ってくるためだ。
雨がいつもこんなだったら悲しくないのに。
そう思って微笑みながら、カミラは開きっぱなしだった鉄の扉から外へ出た。
郷庁から少し離れた庭園は、静寂に包まれている。庁内にいる間はあんなにうるさかった怒声も悲鳴も喊声もない。
しかし自分たちは今からまた、混沌の渦中へ戻らなければならないのだ。その覚悟を決めるため、カミラはすうっと夜気を吸い込んだ。
花の香りで胸がいっぱいに満たされたところで息を吐き、少し遅れてやってくるマヤウェルたちを顧みる。そこから喋りかけようとして、
「──ほう、これは何とも僥倖だ」
不意に、頭上から声がした。
ぞわりと全身に粟が立つような、不気味でざらついた声だった。
ちょうど先刻カミラが感じた胸騒ぎを、音で表現したような。
同時に一定のリズムで降ってくるこの音は……羽ばたきの、音?
「同族のにおいを嗅ぎ取って来てみれば、まさか彼奴らが血眼になって探していた運命の片割れと出逢えるとはな」
奇妙な抑揚を携えて、声はさらに降ってくる。マヤウェルの声を優しい雨と譬えるならば、こちらは汚泥が降っているかのようだ。
カミラは全身をこわばらせたまま、ゆっくりと喉を反らした。鼻先に風が吹きつけてくる。カミラの頭上を舞う者が、黒き翼によって生み出す風が。
「……うそ、でしょ……?」
カミラは目を疑った。口の端をいびつな形に持ち上げて、無理矢理笑い飛ばそうとするが上手くいかない。
月を背にカミラを見下ろしていたのは、魔物、だった。
それはもう疑いようもなく、全身毛むくじゃらで羚羊のような角を生やした、異形のモノ。けれど、
「ま……魔物が、しゃべっ……た──?」
牙の生えた口がニタリと裂けた。次の瞬間、急降下の勢いを駆って魔物がカミラの喉元を掴み、そのまま豪快に吹き飛ばされる。
「カミラ!!」
ヴィルヘルムの呼び声が聞こえた。けれど喉元を掴まれ連れ去られたカミラは返事もできず、背中から花壇に叩きつけられる。
無数の花びらがあたりを舞った。カミラは体を打ちつけた痛みと気道を圧迫される苦しみに悶えながら、何とか逃れようとするも敵わない。
「美しく育ったな、守護者の娘。頃合いだ。そろそろ汝を、我らが魔界へ招待しよう」




