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143.奪い尽くされた男

「ど、どうしてマシューくんがここに……!? いえ、それよりもこの痣……! こんなに大きな痣を作ったりして、大丈夫ですか!?」


 マリステアが思わず跪き、痣へ手を伸ばすとマシュー・アラッゾは慄いた。

 こちらが誰だか認識できていないのか、床に尻をついたまま高速であとずさっていく。その仕草がまた年齢より幼く見えるのだが、間違いない。この少年はかのリチャード・アラッゾの一人息子にして、幼き日のティノの友人だったあのマシューだ。


 ティノに似て年齢のわりに背が低いところや、線が細くて頼りない印象なのは相変わらず。顔のサイズと比較してやや大きすぎる眼鏡も昔のままだ。

 当時幼かったティノはオヴェスト城での暮らしや共に過ごした人々のことをあまり覚えていないようだが、マリステアは今でもちゃんと覚えていた。

 戦いの中でどんどんガルテリオと意気投合していったリチャードのことも、とても美人で優しかった彼の妻マヤウェルのことも、彼らの愛息子にしてティノの良き遊び相手だったマシューのことも。


「……マシュー? マシューだって? だがそう言われてみれば、確かに昔の面影が……」

「わたしたちのこと、覚えていませんか? 正黄戦争の頃、一緒にオヴェスト城にいたマリステアです。こちらにいるケリーさんとヴィルヘルムさまも、過去に面識があると思うのですが……」

「ヴィル……ヘルム……ヴィルヘルム……? あ……ああっ! む、昔ぼくと一緒に悪戯したティノくんを、ものすごい剣幕で怒って泣かせてたあのヴィルヘルム将軍ですか……!?」

「……そうなの、ヴィル?」

「いや、まあ……確かに、思い返せばそんなこともあったかもな……」


 ようやく警戒を解いたヴィルヘルムが、カミラに訊かれて気まずそうに目を逸らした。マシューが言っているのはたぶん、先程リチャードの屋敷で聞いたあの(・・)悪戯のことだ。

 そう言えば当時、悪戯が失敗したと知るやマシューを置いてさっさと逃げたティノを捕まえ、ヴィルヘルムは珍しく本気で怒っていたっけ。奸智を使って眼帯の下を覗こうとしたこともそうだが、そもそも友を置いて逃げ出すとは何事だ、と。

 あのときのことは、散々叱られたティノが「ごめんなさい」と泣きじゃくっていたからよく覚えている。あまり感情の起伏を見せないヴィルヘルムが常にないくらい怒っているのを見て、マリステアも怖かった記憶があるし。


「お、思い出しました……! そちらにいらっしゃるのは、ティノくんのお姉さんのマリーさんとケリーさん……ですよね? ぼくの記憶違いでなければ、ですが……」

「ああ、そうとも。よく覚えていてくれたね、マシュー。あんただってあの当時はジェロディ……いや、ティノ様と同じくらい幼かったのに」


 たぶんマシューがティノの成名を知らないと思ったのだろう、このところ彼をずっと「ジェロディ様」と呼んでいたケリーが、久しぶりに幼名の方を口にした。

 どうもケリーはティノが救世軍の総帥となった今、いつまでも幼名で呼び続けるのは失礼だと考えたようだ。幼名というのはトラモント黄皇国独自の風習で、親しい間柄の者は大人になっても幼名で呼び合うものだから、別にそんなこと気にしなくていいのに、とティノはちょっと寂しそうだったけど。


「だ、だけど、どうして皆さんがこんな時間にこんなところに……? 新しい郷守さまに会いにいらした……というわけではない、ですよね?」

「新しい郷守? ここの郷守は着任してまだ日が浅いのかい?」

「は、はい。前の郷守さまが先月急死してしまって、急遽ソルレカランテから新しい郷守さまが赴任されてきたんです。と、都会から来たからって、威張り散らしててちょっとヤな感じの人ですけど……」


 と、肩を竦めながらぽつりと付け足し、マシューはサッと顔を伏せた。権力者の陰口など言うものではないと思ったのか、うつむいた彼の表情には後悔の念が滲んでいる。

 だけどわざわざ黄都から赴任してきたということは、その郷守はルシーンの息がかかっている可能性が高いではないか。マリステアは詳しく話を聞きたくて、ひとまずマシューを立たせようと手を伸ばした。が、瞬間、


「――いたぞ! 脱獄囚はあそこだ!」


 いきなり鋭い怒声が聞こえて、マシューと一緒に飛び上がる。見れば通路の先から数人の黄皇国兵が、武器と明かりを手にどんどん迫ってくるではないか。


「えっ……えっ……!? だ、だ、脱獄囚って……!?」

「話はあとだ。マリー、あんたはマシューの傍についててやっとくれ!」

「は、はい……!」


 すかさず駆け出したケリーを見送りながら、マリステアは思わずマシューを抱き寄せた。自分と同じく戦闘には加われない彼を守ろうと思ってのことだが、鼻先に胸を押し当てられたマシューがボンッと煙を噴いたことは言うまでもない。

 例によってごくわずかな兵力で攻めてきた敵兵は、ほんの四半刻(十五分)足らずの間に一掃された。仲間が再び安全を確保してくれたことを知り、ほっと胸を撫で下ろす。一段落してマシューを腕の中から解放すると、彼は長風呂でのぼせたみたいに真っ赤になって、危うく卒倒するところだったけど。


「おい、マシュー。顔が真っ赤だぞ、大丈夫か?」

「は……はひ……らいじょうぶれす……」

「あまり大丈夫ではなさそうだが……ここではゆっくり話もできんな。人目につかないよう、一度そのあたりの部屋に身を隠した方がいいかもしれん」


 ヴィルヘルムの提案に従って、マリステアたちはのぼせたマシューを引きずり、近くにあった適当な部屋へ逃げ込んだ。何故彼がタコのようにぐでんぐでんになってしまったのかは知らないが、数小刻もするとマシューもようやく立ち直り、眼鏡をわずか持ち上げながら言う。


「え、ええと……それじゃあ改めまして、お久しぶりです。な、何だか知らない方もいるみたいなので一応自己紹介しておきますが、ぼくはマシュー・アラッゾ……この町で商いをしているリチャード・アラッゾという商人の息子です」

「そいつはさっきの話を聞いて知ってる。俺たちは今、そのリチャードに裏切られてここにいるわけだしな」

「えっ……と、父さんに裏切られた……? そ、そう言えばさっき地方軍の皆さんが、マリーさんたちのことを〝脱獄囚〟と呼んでいましたよね……?」

「そのとおりだ。俺たちは最近巷を賑わす救世軍。今宵はリチャード殿に協力を求めて麓の屋敷を訪ねたが、食後の香茶に一服盛られ、まんまと牢獄送りにされた」

「そ……そんな、皆さんが救世軍に……!? ぼ、ぼくも噂には聞いてましたけど、ガルテリオ将軍とゆかりのある皆さんが、反乱に加わっているんですか……!?」

「ああ。ついでに言うと昔あんたとよく遊んでたティノ様も、今は救世軍の一員だよ。今年成人されて名をジェロディと改めたけどね」


 窓を背に立ち尽くしたマシューはサーッと顔面蒼白になり、またも卒倒しそうに見えた。赤くなったり青くなったり、まったく忙しい少年だ。幼い外見とは裏腹に、きちんとした教養と大人びた思考力を持っているから、こちらの話をすぐに呑み込んでくれるのは大変有り難いのだけれど。


「ま……まさか……あのティノくんが、反乱軍に……? だ、だけど、それじゃあガルテリオ将軍も……!?」

「いや、その話は今はいい。それよりもマシュー、お前はどうしてここにいる? さっき屋敷を訪ねたとき、リチャード殿はお前と奥方のことを〝共に病で臥せっている〟と言っていた。だがこれでは話が違う」


 詰め寄るようなケリーの質問に、マシューが息を飲むのが分かった。彼女の疑問はマリステアもずっと気になっていたことだ。

 初めにマシューの姿を見た瞬間から、何かがおかしいと思っていた。彼は至って健康で、罹患している様子などどこにもない。その代わり体のあちこちに、小さな傷や痣を作ってるのが気になるけれど。


「そ……そう、ですか……父さんはぼくたちのことを、周りにはそう言ってるんですね……」

「ということは、お前もマヤウェル殿も病など患っていない?」

「はい。母もぼくもこのとおり元気です。ただ、今はこの郷庁で下働きをさせられていて……」

「下働き?」

「あ、い、いえ、下働きさせられているのは、正確にはぼくだけなんですけど。母さんは、この郷庁の南にある塔に幽閉されていて……だから父さんもぼくも、新しい郷守さまの命令に逆らえないんです」


 マシューの口から零れた予想外の真実に、マリステアたちは言葉を失った。

 ――マヤウェルがこの郷庁に幽閉されている?

 信じ難い事実に思わずよろめけば、空気の震えに合わせてあちこちから埃が舞い上がる。どうやらここは普段使いされていない書物の保管庫か何かのようだ。


「ゆ……幽閉、だと……郷守は何故そのような真似を……!?」

「すべては前任の郷守さまと父さんの確執のせいです。皆さんは父がトラモント商工組合(ギルド)の重役であることをご存知ですか……?」

「ああ、それは事前に聞いて知っている。最近のギルドが役人とつるんで、裏で良からぬ動きをしているということもな」

「……でしたらお話しても大丈夫そうですね。父さんは現在、トラモント商工組合のレーガム地方支部長を務めています。ここピヌイスを含むレーガム地方というのは、一応黄帝陛下の直轄領――つまり〝天領〟と呼ばれる地域なのですが、スッドスクード城におられるシグムンド将軍が一部代理統治をして下さっているおかげで、今の黄皇国の中でも比較的安泰で豊かな土地です。ですからつい数年前までは、ギルドによる不正行為や役人との癒着もほとんどありませんでした。シグムンド将軍と父さんが、情報を共有しながら市場に目を光らせていたので……」


 ガルテリオの親友であるシグムンドの名が話題に上がって、マリステアはつい胸を押さえた。スッドスクード城の関所を通るとき、こちらが国に追われる身だと知っていながら、ガルテリオのために見逃してくれた信義の人……。

 あの人が治める土地ならば、レーガム地方が安泰で豊かだというのにも納得だ。シグムンドはガルテリオ同様不義を憎み、正義と忠誠を重んじる人格者。リチャードとは正黄戦争時代から親しかったし、そんな二人が手を取り合って統治するこの地方はきっと、民も安心して暮らせる土地だったことだろう。


「ですがトラモント商工組合の本部というのは、黄都ソルレカランテにあります。本部では上役たちと役人の癒着がどんどん進んでいて、それはもうひどいものなんです。全国会議に出席しに行った父さんが、会議の途中で椅子を蹴って帰ってくるくらいには……」

「そ、それほどにか。まあ、あのリチャード殿ならば、ギルド上層部の腐敗を知って怒り狂うのも納得できるが……」

「ええ……だけどそんな父さんを快く思っていなかったのは、ギルドの方も同じだったんです。父さんはギルドからどんなに圧力をかけられようと屈さなかった。政治の混乱で色んなものの値段がどんどん上がっていく中でも、他の支部のように法外な価格を設定したりせず、商人や職人たちがそれなりの利益を出せて、なおかつ人々の生活を圧迫しない程度の物価に抑えていました。物の価格を抑えるための仕入れや流通の仕方を丁寧に指導しながら……」

「しかしそれでは、他の支部で大きな利益を上げている商人たちから〝レーガム地方は儲からない〟と不満が出る。反対に民は安定した暮らしを求めて、物価が安く治安もいいレーガム地方に移住したがるだろう」

「ヴィルヘルム将軍のおっしゃるとおりです。実際にレーガム地方の人口はここ数年でかなり増えました。みんなが噂を聞きつけて、あちこちから移り住んできたんです。ですがその影響で、他の支部では物の売上が激減してしまいました。お客さんをごっそり取られたわけですから、当然と言えば当然なんですが……」

「だから怒りの矛先がリチャード殿に向いた?」

「……はい。ぼくは詳しく知らないけど、父さんを支部長の座から引きずり下ろして別の人間にすげ替えようという動きもあったみたいです。だけどそれを事前に察知したシグムンド将軍が手を回して下さったおかげで追い出されずに済んだ、感謝してもしきれないって夜中に母さんと話してるのを、少し前に聞きました」


 そのときマリステアの視界の端で、何かがぴくりと小さく動いた。

 ふと見れば、そこに佇んでいるのはカミラだ。彼女は明かりのない部屋に神術の火をともしながら、空いている左手を何故だかぎゅっと握り締めている。


「ところがシグムンド将軍の妨害のせいで、父を直接排除できないと学んだギルドはやり方を変えてきました。中央にいる大臣たちに多額の賄賂を贈って、レーガム地方への国民の移住を法律で禁止するようお願いしたんです」

「何だって……!?」

「シグムンド将軍はあくまで税の徴収や治安維持といった一部の統治だけを預かる身ですから、当然大臣たちの命令には逆らえません。だけど貧困に喘いでいる人たちは少しでもいい暮らしがしたくて、何とかレーガム地方へ移り住もうと不正に領境を越えてくる。ギルドは軍と手を組んでそうした不法移民を根こそぎ捕まえると、本部に父さんを呼び出してこう言いました――〝彼らが法を犯してまで移住を望んだのは、ギルドの不文律を捩じ曲げたお前のせいだ。彼らは罪人として裁かれ、監獄行きとなり、元の貧しい生活すらも失ったまま家族と引き離されてみじめに死ぬ。彼らを助けたいと願うのならば、これからはギルドの命令に大人しく従え〟と……」


 ぞわりと足元から這い上がってきた何かが、マリステアの全身を震わせた。

 胸に当てた手がカタカタと震え出し、あまりのことに眩暈がする。


 ――つまりギルドは、不特定多数の民の命を質に取って、リチャードを無理矢理跪かせたということか。


 今のトラモント黄皇国では、そんな非道までもが罷り通るのか。


 またもきゅうと喉が締まって、息苦しい。

 民の生活を少しでも豊かにしようと奔走しながら、最後はその民を人質に取られ、ギルドに屈するしかなかったリチャードの心中を思うと――ダメだ。

 このままだとまた、苦しくて苦しくて泣いてしまう。


「……シグムンドは、それに対してなんと?」

「分かりません。父はもしかしたら、それ以来シグムンド将軍とは連絡を取り合っていない……かもしれません。あんなに頻繁にあった手紙のやりとりもぱったりなくなりましたし、スッドスクード城から将軍の使者だという人が訪ねてきても、仮病や居留守を使って追い返していましたから……」

「だがそれとお前らが人質に取られてることと、一体どういうつながりがある?」

「前任の郷守さまは、新しい郷守さまと同じく黄都出身の貴族でした。なのでギルド本部とのつながりも強く、よく父さんを郷庁に呼び出しては無理難題を吹っかけてきたんです。軍属商人には定価の三割の値段で商品を卸せとか、あそこの商人の態度が気に入らないから商売権を剥奪しろとか……」

「ひ、ひどい……」

「最終的には、父さんが持っている織物工房を無償で譲り渡せとまで言ってきました。父さんが工房で作らせているピヌイス織りというのは、黄皇国でも他に生産できる工房がない全国唯一の商品なんです。このあたりがまだエレツエル神領国の侵略を受ける前……フェニーチェ炎王国の時代から受け継がれてきた特別な伝統工芸ですから、正しく修行を積んだごく一部の織工さんにか織り出すことができないものなんですよ」

「ああ、それは私たちも知っている。リチャード殿は度重なる戦火によって失われたピヌイス織りの技術を、奥方のマヤウェル殿と二人で甦らせた。美しいピヌイス模様はかのアマゾーヌ女帝国でも愛され、あの工房から世界中のあらゆる国に輸出されている……」

「だから郷守はソレが欲しかったってこと? なるほどねー、工房をもらっちゃえばリチャードさんに代わって自分が大儲けできるって魂胆だったワケか」

「だけど父さんは、それだけはできないと郷守さまに強く反発して……ついには工房を守るため、郷守さまを斬り殺すとまで言い出しました。も、もちろん本気で言ったわけじゃないんですけど、父は昔から気が短いところがあって……」

「もしやそれがあらぬ誤解を生んだ?」

「……はい。その矢先のことだったんです。前の郷守さまが崖から落ちてお亡くなりになったのは……」


 それが偶然の事故だったのかどうかは誰にも分からない。

 唯一はっきりしていることはその時間、リチャードはちょうどサラーレの町の市場視察へ行っていて、この町にはいなかったということだけ。

 つまりリチャードにはアリバイがあるということだが、新任の郷守はそうは捉えなかった。貴様はサラーレの町へ行くふりをして山中に身を潜め、前任の郷守を崖から突き落としたのだろうと証拠もなくリチャードを糾弾したというのだ。

 当然リチャードはその主張を事実無根として突っ撥ねたらしいが、ならば貴様の誠意を示せと郷守はしつこく要求した。


 ――ここで私の命令を素直に聞けば良し。貴様の言い分を全面的に信じ、これ以上の追及はしないでやる。しかし刃向かうというのなら、それは貴様に反逆の意思ありという何よりの証拠だ。よって前任の郷守殺害の疑いはよりいっそう深まるだろう――


「ありえないわ、そんな暴論……! 前の郷守が死んだのをリチャードさんの陰謀ってことにして、別のやり方で工房を奪おうとしてるだけじゃないの! それが無理でもリチャードさんが命令に逆らえない状況を作り出せば、これからは好きなだけ自分の懐を肥やせるってわけ? その郷守、絶対ぶん殴ってやる!」

「俺もカミラの意見に全面的に同意だな。だからリチャードは命令に従って自分の家族を差し出し、今も郷守の言いなりになってるってわけか。この町の経済を支えてる工房を守るために」

「はい……この町がピヌイスという名前になったのは、父が復活させたピヌイス織りが有名になったからなんです。それまでこのピヌイスの町は、周りをぐるっと山に囲まれているせいで交通の便が悪いと言われ、あまり人が集まらない寂しくて貧しい町でした。だけど今はピヌイス織りを求めて、世界中から商人たちが集まってくる。そのピヌイス織りを生み出す工房が郷守さまの手に渡ってしまったら……」

「……恐らくピヌイス織りの価格は今の倍以上に引き上げられ、商人たちの足は遠のくだろうな。たとえ世界で唯一、この町でしか買えない品だとしても、価格が高騰すれば買い手が離れる。それではたとえ商品を仕入れても儲けが出ないと、聡い商人たちはそう判断するだろう」

「そうして一度失われた信用はなかなか取り戻せない。商いに絡む話となればなおさらな。商人たちはそういった状況の変化に敏感だ。ただでさえ信用が地に落ちている黄皇国の郷守などが工房主となれば、価格が元の通りでも多くの商人が不正に絡むのを警戒し、どちらにせよ客足は遠のくだろう」


 ケリーとヴィルヘルムがこもごもにそう言えば、マシューは体の前で組んだ手をぎゅっときつく握り合わせた。

 少女のように華奢な彼の肩は、震えている。カミラがともす赤いひかりが反射して、眼鏡に隠されたマシューの表情はよく分からない。

 けれど固く引き結ばれた彼の唇のすぐ横を、一雫の涙が滑り落ちていくのをマリステアは見た。何か言葉をかけてやりたいのに、声が出ない。


「……ピヌイス織りの復活は、父さんの長年の夢だったんです。そして今では人生そのものだと……昔、ぼくにそう話してくれたことがありました。元手も何もない、裸一貫のところから母さんと手を取り合って、やっとの思いで復活させた……なのに……なのに、こんなのって……」

「……あのさ。オレが言うのも何だけど、コレっていわゆる〝救世軍の出番〟ってヤツなんじゃないの?」


 と、ときにカイルが零した一言が、奇しくも皆の総意となった。はっと顔を上げ、目を見開いたマシューの前で、皆が互いに頷き合う。

 国の不当な弾圧や搾取から民を守ること。それを旗印として掲げる救世軍が、こんな事態を見過ごすわけにはいかなかった。

 初めこそ自分たちを地方軍へ突き出したリチャードに怒りを募らせたが、今は違う。家族も誇りも何もかも国に奪われながら、なおもこの町の民を守ろうと必死で踏み留まっている彼を、誰が責めることができようか。

 マリステアは零れかけた涙を拭い、キッと顔を上げた。そうしてマシューに歩み寄り、彼の胸元へ手を翳す。


癒やしの波紋マイム・ゼローア


 右手から蒼白い波紋が生まれ、マシューの体を包み込んだ。途端に彼の腕や、脚や、頬にあった痛々しい暴行の痕が消えていく。

 恐らくマシューは母を人質に取られ、抵抗一つできない中で、この町の郷守や地方軍にいたぶられてきたのだろう。さっき廊下でぶつかったとき、こちらを兵士と思い込んで怯えていた姿を見れば一目で分かる。

 彼の傷がほとんど癒えたのを確認すると、もう一度マシューを抱き寄せた。そうしてぎゅっと抱擁すれば、またも彼の毛髪が爆発する。


「安心して下さい、マシューくん。マヤウェルさまのことは今夜、わたしたちが必ず救い出します。あなたもリチャードさまも、もう二度と郷守さまなんかの言いなりにならなくていいんですよ」

「まっ、まっ、まっ、マリーさん……! お、お気持ちは嬉しいんですが、ぼく、一応成人して……!」

「ねえ、前言撤回していい? 撤回してか弱い少年を演じたら、オレもマリーさんにああしてもらえる?」

「撤回してもしなくても、あんたには一生縁がないから安心なさい」

「うわーん、傷ついた! じゃあ代わりにカミラがハグして――ぐふっ……!?」


 カミラの華麗な回し蹴りが鳩尾に決まり、カイルは見事に吹っ飛ばされた。どこかからドンッガラガラドッシャンというすさまじい音が聞こえてくるが、マリステアは気にしないことにする。


「だがマヤウェルを救出するにしても、どうする? 今はジェロディの安否も気がかりだ。ついでに言えば、俺たちがここで暴れることでリチャード殿に危害が及ぶやもしれん。俺たちの脱獄を手引きしたなどと、また根も葉もない罪を捏造されてな」

「だったら戦力を分けりゃあいい。幸いここいる仲間は六人、これを二人一組のチームに分ければ三つの作戦を同時進行できる。俺とカイルは麓に戻ってリチャードの説得及び脱出を手引き、ケリーとマリーは特別房を探してティノを救出、んであんたとカミラは囚われの人妻を解放だ。全員任務が完了したら、そうだな、腐れ郷守の執務室を見つけてそこで合流ってのはどうだ?」

「俺はそれでも構わんが、戦力を分散するのは果たして得策か? これから郷庁内の警備は更に厳重になる。二人一組で行動している間に多勢で囲まれたら、目標達成は困難だぞ」

「だからってモタモタしてたら後手に回るだろ。囲まれる心配があるなら囲まれる前に終わらせりゃあいい。おいマシュー、お前、この郷庁のどっかにある特別房の場所を知らねえか? かなり強力な神術使いでも閉じ込めておける特殊な牢屋らしいんだが」

「あ……そ、それならぼく、知ってます……! 特別房の入り口は、実は二階にあって……そこから長い階段を下った先、地下に牢屋があるそうです。数ある扉の中でも、特別房に続く扉だけは頑丈な鉄製なので、きっと一目で分かるんじゃないかと……」

「それなら私とマリーだけでも何とかなりそうだ。ヴィルヘルム殿、〝兵は神速を尊ぶ〟です。ウォルドの言うとおり全員速やかに行動すれば、地方軍が集結する前に事を運べます。ここはその可能性に賭けましょう」

「分かった。他に異論がないのならそうしよう。マシュー、お前は俺と共に来い。マヤウェルのいる塔までの道は分かるか?」

「は、はい! 分かります……!」

「では案内してくれ。カミラ、行くぞ。今は一瞬でも時間が惜しい」

「えっ、あ、は、はい……!」


 方針が決定すると、皆の行動は速かった。まず真っ先にヴィルヘルムが黒い外套を翻して歩き出し、カミラとマシューがそれに続く。

 次いでウォルドも踵を返すと、部屋の隅で伸びているカイルに大股で歩み寄った。彼はカイルが動けないと知るや「しょうがねえな」とため息をつき、細身の体を軽々と担ぎ上げる――カイルの頭を背中側へ垂らして、大きな荷物でも運ぶみたいに。


「おら、俺らもさっさと行くぞ。お前とはちょうど話しておきてえことがあったんだ。神術使いの数を上手く割ったんだから、お前もいざとなったら戦えよ」

「ちょ……ちょっと待っ……ウォルドさん、オレ今未だかつてないほどに吐きそうで……そこにこの体勢はやばいって、マジでやばいから、戻しちゃうから、下ろしてくださいお願いしま――ああああああああ……!」


 まったく聞く耳を持たないウォルドに連れ去られ、あとにはカイルの悲痛な叫びだけが残った。あんなに騒がしいとすぐに見つかってしまうんじゃないかと心配だが、彼らが敵を引きつけてくれるのならそれはそれで有り難い。


「よし。それじゃあ私らも行くよ、マリー。ジェロディ様を助け出すために」

「はい……!」


 胸に手を当て、頷いた。正直ここまでの捜索で既にヘトヘトだが、リチャードのため、この町のため――そしてティノのためなら弱音なんて吐いていられない。

 再び槍を手に駆け出したケリーを追走した。暗い部屋を飛び出すと、仲間たちが各々の目的地へ向かってバラバラに散っていくのが見える。

 それが今は、これ以上ないくらい頼もしく見えた。


(やっぱりティノさまは正しかったのだわ)


 彼らとなら、戦える。


 どこまでも、この国の病を癒やすために。



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