142.彼のもとへ
乳白色の手枷が外れると、途端に力がみなぎってきた。
手首のあたりで堰き止められていた神力が、体中を駆け巡っていくのが分かる。マリステアは安堵のため息と共に、無理をして少し赤くなってしまった手首をそっと撫で摩った。
獄卒たちが詰めていたと思しい看守部屋では、仲間が銘々の持ち物を確認している。先に装備を取り戻しにいったカイルが、「はい、こっちはマリーさんの」と、腰に下げるタイプの小さな物入れを渡してくれた。
戦闘要員ではないマリステアの所持品はこれだけだ。中に入っているのはお財布とか手巾とか、あとは念のために持ってきた包帯、お薬、お裁縫セット、そのくらい。けれど所持品を机の上に広げて確かめていたら、底の方に古ぼけた極小の布袋を見つけた。元はピンク色だったリボンが結ばれたそれは、ペスカの花の匂い袋だ。
中には乾燥させたペスカの花がたくさん入っていて、昔は鼻に寄せればかの花のやさしい香りを存分に楽しむことができた。でも今はすっかり古ぼけて、布地も擦りきれ、花の香りなんてとうに消えてしまっている。なのに今もこうして持ち歩いているのは、ティノからもらった大切なものだからだ。
もらったのは三年前か四年前か。新年を迎えたある日、お屋敷のみんなでお祭りを見に行った帰り道、彼がこっそり手渡してくれたものだった。
『みんなには内緒だよ。他の屋台でお小遣いを使っちゃったから、マリーのしか買えなかったんだ。だけどこれ、匂いも見た目もマリーにぴったりだと思って――』
街中を照らし出す黎明祭の灯りの中、そう言って無邪気に笑っていたティノの顔を思い出す。途端にきゅうと喉が狭まる感じがして、マリステアは匂い袋を握った両手をぎゅっと胸に押し当てた。
――ティノさま。どうかご無事でいて下さい……。
「だけどカミラ、あんたがまさかあそこまで深刻な蜘蛛嫌いだったとはね。いきなりあんな悲鳴を上げて逃げ出すもんだから、何事かと思ったよ」
「す、すみません……その節はご迷惑をおかけしました……」
と、壁にかかった燭台の下で剣帯を腰に回したカミラが、気まずそうに赤面している。無事に蜘蛛を撃退できたおかげで、彼女はもう元通りだ。
封刻環も外したし、薬の残滓もようやく抜けた。次からは彼女にもいつもの勇猛ぶりを期待していいだろう。またどこかで蜘蛛が降ってきたりしなければ、の話だけれど。
「こいつ、ガキの頃に蜘蛛型の魔物に襲われて死にかけたことがあるらしくてな。イークの話じゃ、毒針で刺されて七日七晩生死の境をさまよったとか。以来普通の蜘蛛を見るだけでもあのザマだ。前に二人で野宿したときなんか、蜘蛛を見るや否や神術を暴走させやがって、危うく山火事を起こすことに……」
「す、過ぎた話はもういいでしょ! それより今はティノくんよ!」
呆れた様子のウォルドを遮り、今度は剣帯に剣を差しながらカミラが怒鳴った。明るくて勇敢な彼女にもそんなトラウマがあったのかと、同じくトラウマ持ちのマリステアはこっそり親近感を抱く。
けれど今はカミラの言うとおり、互いの苦い記憶について語らっている場合じゃない。友情を深め合うのは無事にティノを救出し、郷庁からの脱出を果たしてからだ。
全員の装備が整うと、一同は満を持して牢獄を飛び出した。マリステアはこそこそ隠れながらティノを探すのかと思ったが、この人数だ。
逃げ隠れしたところでどうせすぐに見つかる、というヴィルヘルムの提言で、堂々と郷庁内の廊下を突っ切り、戦いながらティノを探すことになった。おかげでマリステアたちの脱獄は瞬く間に知れ渡り、あちこちから官兵たちの騒ぎ声が聞こえてくる。
「郷守様に報告しろ! 脱走だ! 囚人どもが脱走したぞ……!」
カン、カン、カン、カン、とどこかで忙しなく鳴り響いているのは、非常事態を知らせる警鉦だろうか。その音を聞くにつれ、今にも大勢の黄皇国兵が押し寄せて来るのではないかとマリステアは不安になった。
ところが再びマリステアたちを捕らえようとする地方軍の攻撃は、散発的だ。まとまりがないというか、味方の間で上手く意思疎通ができていないというか……攻めてくるとしても少人数の集団で、パラパラと向かってくるので去なしやすい。応戦するカミラたちも、何だか拍子抜けしているようだ。
「怪我の功名だな。夜中まで眠りこけていたおかげで、郷庁内に人がいない」
と、何度目かの戦闘で最後の敵を斬り伏せてから、剣の血を払ってヴィルヘルムが言った。なるほど、確かに今は真夜中、こんな時間に郷庁に詰めているのはごく限られた警備の兵くらいで、他の者はみな兵舎に帰ってしまっている。
その彼らも先程の警鉦を聞いて起き出してくるのは時間の問題だが、武装する時間を考えると、到着まではもう少しかかりそうだった。ならば警備が手薄な間に何とかティノを見つけ出そうと、マリステアは広い郷庁内に目を配る。
「だけどこいつら、訊いても何も答えないわ。どいつもこいつも〝もう一人の囚人は郷守様が直々に連れていった〟って言うばっかりで、まるで誰もティノくんの行き先を知らないみたい」
「ってことは、ティノは郷守の部屋にいる可能性が高えのか……? あいつ一人だけ牢から出して、郷守が連れて歩いてるってのはどうも考えにくいが」
「実はここの郷守がガルテリオ将軍の熱狂的なファンで、一人息子のジェロを鄭重にもてなしてるって可能性は?」
「カイル、お前は黙ってろ」
「ひどいなあ! 場の空気をなごませようとしてるのに!」
両手を腰に当ててプンスカしているカイルを、マリステアは何とも微妙な気持ちで眺めた。こうしている間にもティノが危険な目に遭っているかもしれないのに、冗談なんて言う気にもならない。仮に彼の言うとおり、ピヌイスの郷守がガルテリオの支持者なのだとしたら、義理とは言え父と子の縁組みを結んでいるケリーやマリステアを牢に送るとは考えにくいし。
(そもそもカイルさんは、どうしてカミラさんたちと一緒に戦わないのかしら……?)
彼の腰には立派とは言い難いが、そこそこの剣が差さっている。本人も以前「こう見えてオレも結構戦えるんだぜ~」とへらへらしていたし、だったら道を切り開くため、共に戦ってほしいのに。
(なのにカイルさんはさっきからずっと、カミラさんたちの戦いを後ろから見てるだけ……)
いざというとき神術でちょっとした援護をすることしかできない自分に言えたことではないが、この状況で彼が剣を抜くことすらしないのをマリステアは少し不審に思った。まあ、今のところカミラたちが強すぎるので、彼が戦いに加わらなくとも問題はないのだけれど。
「……特別房」
と、そのときぽつりと誰かが呟き、皆の視線がそちらを向いた。
聞き慣れない単語を零したのは、ケリーだ。彼女は血のついた槍を片手に、もう一方の手でじっと顎を押さえている。
「特別房? なんだそれ?」
「……こういう国の施設には、最低でも必ず一つは用意されてる独房だよ。世の中には、普通の封刻環では抑えきれないほど強力な神力を持つ神術使いがごく稀にいるからね。特別房ってのは、そういう優れた神術使いを監禁するための特殊な牢屋さ。大抵の場合、拘束具や壁一面に強力なまじないが刻まれていて、あそこに入ればどんな術者も確実に無力化されてしまう」
「じゃ、じゃあ神子であるティノさまはそちらに……!?」
「まったく考えられないわけではないな。ジェロディの手配書にはハイムの神子であることは一切明記されていない。ゆえに郷守がジェロディの正体を見抜いている可能性は低いと考えていたが、カイルまで厳重に封刻環がされていたくらいだ。拘束の際に全身くまなく改められたのだとすれば、ジェロディの《命神刻》が見つかっていたとしてもおかしくはない」
「う……そ、それは言わないで。想像するだけで寒気がするから……」
言いながら、両腕を抱いたカミラが青い顔で身震いする。そう、どうもマリステアたちは気を失っている間に体中を検査され、どこに何の神刻を刻んでいるか確認されたようなのだ。
現に左胸に神刻を刻んでいるというカイルの手にも、しっかりと封刻環が嵌められていた。マリステアたちがカイルも神術使いであると知ったのはそのときだ。本人は今まで一度もそんなことは言わなかったし、これまで人前で神術を使ったこともなかった。何の神刻を刻んでいるのかは、茶化して教えてくれなかったけど。
「だったらその特別房とかいうのを探せばいいのか? 俺たちが入れられてた牢屋の近くには、それらしいもんは見当たらなかったが」
「特別房というのは大抵地下にある。我々がいたのは地上の牢だ。恐らくあそことはまったく別の場所に入り口があると考えた方がいい」
「えー。何の手がかりもなく探すってしんどくない? だって郷庁ってかなり広いぜ? 入り口にでっかく〝おいでませ、特別房〟とか書いてあれば話は別だけど」
「だったら適当な兵士を捕まえて吐かせればいいのさ。ジェロディ様の行き先は分からなくとも、特別房の場所くらいは知っているはず。ここにいる連中はもうダメだから、別のを探そう」
「ワオ。オレ、ケリーさんのそういうアグレッシブでバイオレンスなところ、嫌いじゃないよ?」
「そいつはどうも」
いちいち相手をするのも面倒になったのか、ケリーは投げやりな返事をして駆け出した。カミラたちが続いて移動を再開するのを見て、マリステアも走り出す。
――特別房。
そんなものの存在は初めて知った。いくら神聖文字が神々の言葉だとしても、それが壁一面に書き殴られた空間というのはなかなかに不気味じゃなかろうか。
マリステアなどは想像するだけでぞっとしてしまって、心の中で神々に不信心を詫びつつも、やはり早くティノを助け出したい、と思った。
あの人には暗い地下牢なんて似合わない。明るい陽射しの下で、神々に祝福されたみたいに笑っている顔が一番彼らしいのだから。
「うわあっ!?」
ところがそのときだった。先を行く仲間たちが黄砂岩造りの通路の角へ吸い込まれたところで、突然短い悲鳴が上がった。
直後に聞こえてきたのは、バサバサと何かが床に落ちる音。それも一つや二つじゃない。たぶんかなり大量に、だ。
「……! 敵――」
「――ごっ、ごめんなさい! ごめんなさい! す、すぐに片づけますから、お願い、殴らないで……!」
ここからじゃ何が起きたのか分からない。そう思ったマリステアが足を早め、仲間を追って曲がった先で、カミラが剣把に手をかけていた。
が、彼女が身構えた先にいるのは一人だけだ。しかも床に尻餅をつき、怯えた様子で頭を抱えて縮こまっている。
見たところ、体格はかなり小柄だ。うずくまっているせいで顔はよく見えないものの、丈が半分しかない脚衣の裾からは紺色の靴下を履いた脚が覗いている。光沢のある革靴は見るからに上等なものだが、戦闘向きのものではないような……?
「こ、子供……?」
と、今にも剣を抜きそうな勢いだったカミラが、意表を突かれて目を丸くしているのが分かった。彼女の言うとおり、すぐそこで体を丸めている人影はどう見ても――子供だ。周りに大量の本やら書類らしきものが散乱しているのは、たぶん彼が運んでいたものが、仲間の誰かとぶつかって撒き散らされたためだろう。
「あ、あー、えーっと……お、おどかしてごめんなさいね? 立てる?」
剣から手を放したカミラが、怯え震えている少年へ向けて手を伸ばす。その隣でヴィルヘルムがさりげなく身構えたのを、マリステアは見た。
どうやら彼は相手が子供だからと気を抜かず、油断を誘ってカミラへ襲いかかるようなら斬る――という心構えのようだ。そんな彼を見てマリステアは、そう言えばヴィルヘルムは今もカミラの護衛としてここにいるのだったな、と思い出した。
普段は淡々としているから分かりにくいものの、彼はたぶんカミラを相当気にかけている。彼女の姿が見えないとさりげなく探す仕草をしているし、視界にいるときは平時でも必ずカミラを目で追っている。
彼女の身に危険が及ばぬよう、片時も目を離さないのだ。傭兵として受けた依頼をまっとうするためと彼は言うが、本当にそれだけが理由なのかどうか、マリステアには分からない。
「……え……? ぐ……軍人さんじゃ、ない……?」
と、ときに少年が顔を上げた。未だ怯えながらゆっくりと、けれど確かに。
彼が頭を上げた直後、真っ先に目に留まったのは燭台の光を反射する二つの円だった。それが異様に赤く大きな目に見えてドキリとしたが、違う。あれは眼鏡だ。二枚のレンズを嵌め込んだ玳瑁のフレームに、ブリッジを支える小振りな鼻。ビスケット色の髪は女の子のようにサラサラだが前髪がやや長く、顔を三分の一くらい覆い隠してしまっている。
いかにも内気で気弱なことを一目で物語る顔立ち。ところがマリステアは、少年の顔に見覚えがあった。
「……マシューくん?」
「え?」
思わずぽろりと零れた言葉に、反応した仲間が振り向いてくる。
だけどやっぱり、間違いない。驚いたように、かつ眼鏡の内側から覗くように、上目遣いに見つめてくるあの仕草は。
「マシューくん、ですよね? リチャードさまの息子さんの……!」
皆の目が驚愕に見開かれた。と同時にマリステアは気づく。
灯明かりからやや遠く、濃い影が落ちた彼の頬。
そこに不気味なほど黒々とした、大きな痣が浮かび上がっていることに。
 




