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141.裏切られて

 ピチャリ、とわずかな水音がした。

 ピチャリ、ピチャリ、ピチャリ、ピチャリ。

 どこかで水の滴る音が、一定間隔で聞こえてくる。

 その音がついに、ジェロディの意識を呼び覚ました。


(……リチャード……さん……?)


 朦朧とする頭で、意識が途切れる直前の記憶を揺り起こす。確か自分はリチャード・アラッゾという男と救世軍にまつわる話をしていて、途中で皆が次々と……。


(ああ……そうか……)


 ――僕たちは、裏切られたのか。


 思考は未だ靄がかかったようではっきりとしなかったけれど、ジェロディは浅く自嘲した。人に裏切られるのは何も初めてじゃない。生命神ハイムの神子となってから、自分はずっと裏切られっぱなしだ。

 けれどその中で唯一、自分を裏切らなかった人たち。彼らを守りたいと思ってここまで来たというのに、とんだヘマを踏んだものだった。


 試しに両手を動かそうとしてみるが、無理だ。壁に両手首を固定されているようで、どんなに力を込めてもガチャガチャと鉄の音が響くだけ。

 両足も地に着いてはいるが、完全に固定されている。自由がきくのは頭だけだ。たぶん自分はいま牢屋の壁にはりつけにされていて、何もめでたくないのに万歳しているような、そんな間抜けな姿を晒しているのだろう。


 だが自分の目でそれを確かめることができない。重い瞼を持ち上げても見えるのは闇だけで、日の光も射さない地下牢に閉じ込められたのかと思ったが、違う。

 睫毛の先に微か触れるこの感触は……目隠し、だろうか?

 加えて何だか口も痛い。きつく猿轡まで回されているようだ。共に捕らえられたはずの仲間が近くにいるかどうか確かめたいのに、これでは彼らの名を呼ぶこともできない。


(くそ……外れろ……!)


 自分が置かれた状況をおおよそ把握したジェロディは、まず右手に宿るハイムへ念じた。かの神の力があれば、手枷であろうと足枷であろうと生き物のように操ることができるはずだ。しかしどういうわけだかハイムは沈黙を決め込んでいる。ジェロディの呼びかけにもまったく応える気配がない。


 ということはまさか、封刻環チャーム……?


 神刻エンブレムの力を封じてしまうというあの聖具が、まさか大神刻グランド・エンブレムにも効くとは思わなかった。ハイムの力を頼れないと知ったジェロディは、渾身の力で拘束から抜け出そうとしてみるが叶わない。


「――郷守様」


 そのときだった。ハイムにもたらされし神の聴覚が、鉄の音の狭間に聞こえた遠い誰かの声を捉えた。

 はっとして動きを止める。今の声は牢を見張る獄卒のもの……だろうか?

 ずいぶん離れているようだが、神の耳のおかげで会話の内容は聞き取れる。どうやらピヌイスの郷守が様子を見に現れたらしく、獄卒たちが立ち上がり、敬礼する気配が伝わってきた。


「で? ジェロディ・ヴィンツェンツィオの様子はどうだ?」

「はっ。実はちょうど今、確認に行こうと思っていたところでして……房から物音が聞こえましたので、恐らく目を覚ましたものと……」


 獄卒の報告を聞いた郷守と思しき声が、そうか、と短く答える。そこにたっぷりと滲んだ愉悦を感じ取って、ぞくりと背筋が寒くなった。


(いや、待て……だけどあの声、どこかで聞き覚えが――)


 と思っている間に、足音がこちらへ近づいてくる。音の数は三。郷守と従者、そして先導役の獄卒といったところだろうか。

 ジェロディは緊張に身を硬くした。暑くもないのに額から汗が滴ってくる。

 どうすればいい? みんなは無事なのか? 教えてくれ、ハイム。

 きつく目を閉じてそう願うも、やはり神は黙したまま。


「起きているか、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ」


 ジェロディがいる房の前で、ついに三つの足音が止まった。呼びかけてきたのは、たぶん郷守だ。この声にはやはり覚えがある。男の声で、しかし標準的なそれよりやや高く、響きがいちいちねちっこくて嫌味っぽい――


(――あ)


 と、ジェロディはそこでようやく声の正体に思い至った。

 驚きのあまり、見えもしないのに顔を上げてしまう。すると相手もジェロディが起きていることを確信したようだ。上機嫌な笑い声が聞こえてくる。


「クックックッ……うわっはっはっはっはっ! 気づいたか、ジェロディ! まったく今の貴様に見せてやれないのが残念でならんよ! 貴様らのおかげで憲兵隊長の座を追われ、こんな田舎に左遷された哀れな私の姿をなァ!」

(マクラウド……!)


 ジェロディは耳を疑った。だが何度聞いても間違いない。

 マクラウド・ギャヴィストン。

 黄都でのルシーン派筆頭であり、彼女の私兵であった憲兵隊の隊長で、ジェロディをこんな境遇へ追いやった張本人の、あのマクラウドだ。


「いやはや、貴様も驚いているだろう? 私だって驚いている。ルシーン様のご勘気を被って更迭され、失意のうちにこの町へ赴任してきた途端、まさかまた貴様と遭遇することになるとはな……!」

(ルシーンに更迭された……? どうして?)

「まったく涙が出るではないか。今や憲兵隊長として黄都に君臨しているのはランドール――私は貴様らを二度も逃がした責任を追及され、己の副官に隊長の座を奪われたというわけだ。以前から懇意にしていた財務大臣閣下のおかげで、何とか野に下ることだけは避けられたがな……!」

(財務大臣……つまりルシーンを陛下と引き合わせた、ヴェイセル・ラインハルトか……!)

「しかし神はまだ私を見捨てていなかった。東方金神会の司教たちが言うように、すべては必然だったのだ! 私がピヌイスへ飛ばされたのは貴様を捕らえるため! そして今度こそ《命神刻(ハイム・エンブレム)》をルシーン様へ献上し、再び私が頂点へ返り咲くのだ……!」


 なんということだ。暗闇に反響するマクラウドの高笑いを聞きながら、ジェロディはきつく切歯した。

 これが黄都に何の伝も持たない田舎郷守であったなら、まだ隙を突くチャンスもあった。しかし相手があのマクラウドとあっては、ジェロディはもう逃げられない。


 目の前で二度も《命神刻》を逃がした彼は、己の立身と雪辱を果たすため、何が何でもジェロディを黄都へ連れていこうとするだろう。その執念とも呼ぶべき決意を覆すのは難しい。

 だがこのまま黄都へ連行されたりしたら、今度こそルシーンに《命神刻》を奪われてしまう。そうしてただの人間に戻った自分と仲間を待つのは、数多の罪人の血を吸ってきた断頭台……。


(やっと……やっと救世軍が立ち直ろうとしていたのに……!)


 その夢をこんなところで潰されてたまるか。ジェロディは再び渾身の力で枷から逃れようとした。たとえ腕が千切れたとしても構わない。自分は神子だから、腕がもげ足が取れようとも死ぬことはない。

 どんなにみじめな姿を晒すことになろうとも、救世軍なかまだけは――

 ジェロディがそんな一心で足掻いていると、マクラウドがまたも大笑した。


「ヒャハハハハハハッ! 無駄だ無駄だ! ここはどんなに強力な神術使いも無力化する特別房! 神子になりたての貴様がちょっとやそっとで逃げ出せる場所ではない! 何せ拘束具どころか壁一面に、思い上がった人間を捩じ伏せる神の御言葉が刻まれているのだからな!」

「……!」

「ククク……しかし、そうだな。貴様には返しても返したりない借りがある。私が味わった痛みと屈辱を、貴様にも思い知らせてやらねばなるまい」

(何を――)

「おい。通常房の方に送った囚人の中に、メイド服を着た娘がいたな。あの娘をここへ連れてこい。大切なものを為す術もなく失うということがどういうことか、このガキに教えてやる」


 目隠しの下でジェロディは目を見開いた。

 ――マリー。やはり捕らえられていた。その上マクラウドは彼女をいたぶるつもりだと言うのか。神術使いであるマリステアも今は封刻環で力を封じられ、まったく抵抗できない状況に置かれているはず。そんな彼女を……!


(マクラウド……!!)


 これまで体験したことがないほどの憎しみが、腹の底から噴き上がった。

 やつの思いどおりにはさせない。させるものか。

 ジェロディは猿轡を噛まされた口から呻きが漏れるほどに力を込めた。

 両手首に激痛が走る。体が悲鳴を上げ、もうやめてくれと言っている。

 しかしこのままでは、マリーが。

 彼女を危険な目に遭わせるくらいなら、自分は……!


「ぐわっ!? な、なんだ……!?」


 次の瞬間、目隠しをされているはずの視界がほんの一瞬明るくなった。同時にマクラウドの声が聞こえ、彼らの動揺が伝わってくる。

 《命神刻》。かの神刻を宿す右手が、とんでもない量の熱を帯び始めていた。

 今ならいける。神の力を封じるのが神の言葉だというのなら、そんなもの、神の意思で捩じ伏せる……!


「きょ、郷守様! か、壁の神聖文字がどんどん消えて……!?」

「く、くそ! これが大神刻の力か……! おい、オーウェン! どんな手を使ってもいい、やつを止めろ!」


 慌てふためいたマクラウドの怒声。それを聞いてはっとした。

 ……オーウェン? オーウェンだって?

 まさか彼も、マクラウドと共にピヌイスへ――


「――ぐうっ……!?」


 ほんの一瞬彼の名に気を取られた、直後だった。

 鉄格子の扉が開く音がして、同時に腹へ衝撃が走る。

 喉の奥から血が溢れた。

 目隠しをされていて見えはしないが、この鉄の味は血のはずだ。

 それが口の端から滴り、全身から力が抜けていく。体の中心をまっすぐに貫く痛みと熱が、みなぎりつつあった神の力を奪っていく。


「お……オー……ウェ……」

「すみません、ティノ様。ですが今はガル様の――いいえ、ルシーン様とエマニュエルの解放のために、大人しくしていて下さい」


 幼い頃から慣れ親しんだ彼の声が、耳元でそう囁いた。


 ……エマニュエルの解放? 何を言っているんだ?

 なあ、オーウェン。どうして君がこんなこと――


 疑問を最後まで思考する時間を与えられず、体に入り込んだ異物がさらに強く押し込まれた。と同時にジェロディは大量の青い血を吐き、ぐったりとその場にうなだれる。


「お、おい、オーウェン!! 確かに私は〝どんな手を使ってもいい〟と言ったが、殺していいとは……!!」

「ご安心を、マクラウド様。神子はこの程度のことでは死にません。貫いたのは心臓ではなく胃のあたりですから、あのまま剣を刺しておけばさしもの神子も身動きが取れないかと」

「そ、そうなのか……!? 本当に大丈夫なんだろうな……!?」

「大神刻をルシーン様へ献上したいのは俺も同じです。――これ以上エマニュエルを、やつら(・・・)の好きにはさせませんよ」


 そんなオーウェンとマクラウドの会話が、次第に意識から遠のいていった。己の血が顎を伝っていくのを感じながら、ジェロディは瞼の重さに耐えかねて目を閉じる。


(エマ……ニュ、エルの……解、放……?)


 その言葉だけが脳裏に焼きつき、そして暗闇の向こうへ消えた。


 あとに残ったものは、やはり小さな水音だけ。



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