135.気に入らない
ジョルジョの言っていたとおり、ライリーは北の外れにいた。
湖賊たちが農地としている島の真ん中より、更に西へ行ったところである。
そこは彼の仲間が集まる島の東からずいぶん遠く、放牧された牛もいない、嫌に静かな場所だった。コルノ島の西端はにわかに土地が盛り上がり、ちょっとした小山のようになっているから、開拓が後回しになっているのだろう。
その小山はやけに岩が多くてゴツゴツしており、山肌を木々が覆い尽くしていた。湖に面する反対側は断崖絶壁で、簡単には登れない天然の城壁になっているのだそうだ。
ライリーがいるのはそんな小山の麓だった。山から転がり出したかのように、湖畔に突き出た岩の上。
彼はそこで湖の果てを見据えていた。いや、見据えていると言うよりは、睨んでいると言った方が正しい。今の彼がまとう気配はそれほどまでに不穏で、カミラは声をかけるのが憚られた。かと言ってここには特に身を隠せそうな場所もない。
「……何の用だよ」
しかし一体何を話せばいいというのか。カミラが立ち尽くしたまま視線を泳がせていると、いきなり向こうから声をかけられぴっと思わず肩が跳ねた。
岩の上のライリーはまったくこちらに視線をくれないが、カミラが来たことには気づいていたらしい。心の準備もできないまま始まりの鉦は鳴り、カミラは最高潮の気まずさの中、つい本音を口走った。
「べ、別に用なんてないけど……トリエステさんが、あんたと話してこいって言うから」
「話してこいって何を?」
「知らないわよ」
彼とは浅からぬ因縁があるため、つい棘のある口調になってしまう。コルノ島を救世軍の拠点にできるかどうかという大事な分岐点なのに、これではいけない。
自分の中の冷静な自分がそう警告するのを耳にして、じゃあどうすればいいのよと内心悪態をついた。ところがライリーはそんなこちらの心中などお見通しだというように、聞こえがよしのため息をついてみせる。
「島を譲れって話なら安心しろ。泣いて頼まれたっててめえらにだけはやらねえ」
「なっ」
「この島は言わばマウロの形見だ。それをてめえらみてえなおめでた連中にぶん取られてたまるかよ。欲しけりゃ力づくで奪い取るんだな」
「……前から気になってたんだけど、あんたってどうしてそこまで救世軍を毛嫌いするの?」
目的は同じなのに。カミラは非難というよりも疑問の眼差しでライリーを見た。彼は岩の上に片膝を立てて腰かけたまま、湖からの風に吹かれている。
――英雄ごっこ。
彼が救世軍の戦いをそう呼んで馬鹿にしていることは知っていた。初めてコルノ島へ来た日、ジェロディとの決闘で喚いているのをカミラも聞いていたからだ。
救世軍が引き起こした内乱のせいで、貧しかった人々が更なる飢えと貧困に苦しんでいる。ライリーの口から初めてそう聞かされたときには、カミラもさすがに茫然とした。
だが冷静になって考えてみれば、当然だ。黄皇国の軍隊を構成する兵卒たちの大半は、民の間から徴兵された青年や壮年たち。救世軍が目の敵とする貴族どもは生まれながらの将校であり、軍全体を見渡せばその数はとても少ない。
だのにカミラはいつからか、黄皇国軍と名のつくものはすべて敵だと思い込んでいた。いや、思い込みたかったのだと思う。
でないと自分たちが民を殺戮している現実を突きつけられて、心の均衡を失うおそれがあったから。
けれど目の前のこの男は、差別しない。貴族も民も平等に襲って平等に奪う。
それが正しいことかどうかは別として、カミラは少し見直した。だって彼は世間からどれだけの中傷と軽蔑を浴びようと、打倒黄皇国という目的のためなら厭わないというのだから。けれど、
「――気に入らねえからだ」
「え?」
「やろうとしてることは変わらねえのに、てめえらは国中から持て囃されて、マウロは思い上がった郷守の息子と馬鹿にされる。世の中のことを何にも知らねえボンボンが、自分には力があると思い込んだ結果死に急いで終わったと、誰もがそう言って嗤いやがる」
「それは」
「あいつが今も生きてたら、誰もそんなナメた口をきけなかったはずだ。官軍の騙し討ちさえなけりゃ、あいつは今頃北の山賊どもを一つに束ねて、卑怯者のクソ皇女からエグレッタ城を奪い取ってるはずだった。あいつが生きてりゃ……」
そう言ってうつむきながら、ライリーは刀を握り締める。その拳が小刻みに震えているのを見て取って、カミラは何も言えず立ち尽くした。
ライリーの横顔は、悔恨にまみれている。
胸が張り裂けそうで、暴れ出したいような、けれど消えてなくなってしまいたいような、行き場のない感情を持て余した顔。
同じ顔を、カミラは何度も見たことがある。フィロメーナが帰らぬ人になってからというもの、鏡を覗くと自分もあんな顔をしているのだ。毎日ではないけれど、しかしふと気づくといつも。
「……マウロさんは」
「あ?」
「マウロさんは、どうして亡くなったの? あんた今、〝騙し討ち〟って言ったけど」
思えば自分は彼のことを何も知らない。ライリー一味について知っている情報と言えば、官軍が意図的に流していた偽りのものだけだ。
彼らはマウロの死について、皇女率いるトラモント水軍の劇的な勝利だと喧伝していた。だがライリーの口振りを聞く限り、どうやら真実は違うようだ。彼は高みからカミラを一瞥すると、再び水平線の彼方へ視線を投げた。
「お前、皇女の顔を見たことがあるか」
「え?」
「リリアーナ・エルマンノ。今の黄帝の姪に当たる女だ」
「い、いや、さすがに皇族のお目にかかったことはないけど……ティノくんなら面識があるかも?」
「そりゃあいつが貴族だからだろ。俺たちみてえな一般庶民が皇族の顔を拝める機会なんてのは、一生に一度あればいい方だ。だから当然俺も知らねえ。郷守の息子だったマウロでさえ、あの女に会ったことはなかったそうだ」
「だ、だけどそれがどうかしたの?」
「今にして思えばお粗末な話だがな。俺たちは三年前のある日、その皇女から手紙を寄越された。連中は北の山賊どもと手を結ぼうとしてたマウロの動きを察知して、危機感を覚えたんだろう。そこにはマウロが皇女との会談に応じれば、一つだけ望みを聞いてやると書かれてた」
カミラは目を見開いた。皇女リリアーナが治めるエグレッタ城は、ちょうど北の竜牙山脈とこのタリア湖の狭間にある。
ゆえに北の山賊と南の湖賊が手を組めば、エグレッタ城にいる官軍は挟み撃ち。しかし皇女がその状況を重く見て動いたのだとしても、皇族自ら賊軍の頭目と会って説得するなんて前代未聞だった。既に過去のことだというのに、話を聞いているだけで掌に汗が滲んでくる。
「だ、だけどそれ、どう考えても罠じゃないの? マウロさんを誘き出して討つための甘言だとしか……」
「会談の条件が向こうにとって有利だったならな。だが手紙には、皇女との会談場所も互いが同席させる供の人数も、マウロが指定していいと書かれてた。これがエグレッタ城やボルゴ・ディ・バルカみてえなデカい街なら警戒するが、こっちで場所を決められるなら話は別だ。だからマウロは連中の申し出を受けた。タリア湖の真ん中に停泊させた船の上でなら話し合っても構わないってな」
――タリア湖の真ん中?
マウロが提示したという驚きの条件に、カミラは意表を突かれた。
だが冷静に考えてみれば、慧眼だ。身を隠す場所などどこにもない湖の上、加えて船上での会談となればリリアーナに逃げ場はない。もちろんこちらも同等のリスクを負うことにはなるが、互いが連れ込める供の数まで指定できるなら成算はある。マウロもきっとそう考えてそのような条件を提示したのだろう。
そしてリリアーナは、彼の提案を受け入れた。会談の場には官軍の船を使うことを条件に。
それだけならばライリーたちも罠の可能性を疑っただろうが、船の中は会談の前に湖賊の手で改めて良い、と手紙には書かれてあった。皇女にも皇族としての面子があるため、湖賊と相対する場で軍船を降りることは罷りならないが、マウロとは正々堂々とした真剣な対話を望んでいる、とも。
「じ、じゃああなたも一緒に会談へ行ったの?」
「いいや。俺はマウロに言われて島に残った。できれば俺もついて行きたかったが、マウロは最後まで罠の可能性を疑っててな。恐らくこれは俺たちの注意を会談の場に釘づけにして、その隙に死角から島を襲う算段だろうとそう言ってた。だからあいつは俺に残れと言ったんだ。相手の作戦を逆手に取って、こっちから奇襲をかけられるチャンスだからってな」
そう言えばさっきトリエステが、マウロはライリーの水戦の才能を買っていたと言っていたっけ。だから彼は最も信頼の置ける義弟を島に残し、皇女との会談の場へ赴いた。すっかり官軍の策に乗っていると見せかけるため、一味の戦力を半分ほど引き連れて。
と言っても会場となる軍船に上がれるのはマウロと供の数人だけだ。残りの兵は彼がリリアーナと対面する船の周りに展開し、同じように会談の場を遠巻きにする官軍の船団と睨み合った。
相手はそんな一味の布陣を見て、島にはわずかな兵力しか残っていないと踏んだはずだ。いや、そう思わせるためにマウロはわざわざ会談へ臨んだ。
官軍の狙いがコルノ島攻略ではなく、自分の暗殺だとは知る由もなく。
「俺は現場に居合わせたわけじゃねえから、詳しいことは知らねえ」
と、ライリーは言う。
「だがあの日マウロについていった連中の話じゃ、会談の途中で突然マウロと皇女を乗せた船が爆発したそうだ。おかげで船は火だるまになり、そのまま沈んだ」
「ば、爆発って……まさか官軍が神術を撃ったってこと?」
「いいや。初めに取り決めた約定で、船に乗り込んだのは神術の使えねえ人間だけ。皇女の船を囲んでた船団も、敵味方問わず神術の射程外まで追い出されてた。なのにいきなり船が燃えた。仲間が駆けつけたときにはもう……船は跡形もなくなってたとさ」
冷たい汗が背中を伝った。ライリーの瞳はもうタリア湖を映していない。
彼の眼差しはただ、冷たい岩肌に注がれている。まるで唯一の理解者だとでも言うように、鍔のない刀を腕の中に抱きながら。
「だ、だけど……皇女は、まだ生きてるわ」
「ああ。要するに船に乗ってたのは、皇女の影武者だったってこった。それもマウロがすぐに気づいて下りてこなかったところを見ると、よっぽど本物然とした影武者だったんだろうさ」
「だ……だから罠だと気づけずに、爆発に巻き込まれたってこと?」
「恐らくな。マウロが本物の皇女の顔を知ってりゃ、こうはならなかった。官軍はこっちが皇女と面識のないことを利用したんだ。そしてまんまとマウロは死んだ。あいつが敵の策を読み違えたのなんざ、あとにも先にもあの一度きりだ」
けれどそのたった一度の読み違いが、彼を殺した。官軍が船に乗り合わせた味方ごと焼き払ったのは、そうまでして止めなければならないほど、マウロの持つ国家転覆の野望は危険とみなしたためだろう。
すべての経緯を知ったカミラは、彼の死の知らせを聞いたライリーの心中を想像してみる。敬愛する義兄の勝利を疑わず、この島で帰りを待っていた彼に突然叩きつけられた現実。そうしてマウロの弟であったライリーは、必然的に彼の後継者として祭り上げられた。兄の死を受け入れる時間も満足に与えられぬまま。
「で、でも……仮に神術使いが潜んでたんだとしても、マウロさんが事前に船を調べたはずよね。なのに隠れてたのを見逃した……?」
「あのマウロに限ってそれはねえ。連中は恐らく消火用の砂に見せかけて、船倉に火薬でも積んでたんだろうさ」
「か、かやく?」
「エレツエル神領国が軍事用に量産してる、可燃性の粉末だ。見た目は砂みてえだが、火をつけるとこれが瞬く間に燃え上がる。量が量なら神術と同等の爆発まで引き起こせる代物らしい。俺も事件のあと調べて初めて知ったがな」
「そ、そんなものが……」
東の海を渡った先にある軍事大国、エレツエル神領国。かの国は圧倒的な物量と最新鋭の技術で敵国を脅かしているとは聞いていたが、まさか神術に並ぶ兵器まで開発されているとは知らなかった。
とは言え古くより神領国と対立している黄皇国の皇族ならば、敵性勢力の戦力を分析する過程で火薬なるものの存在を知っていたとしても不思議はない。リリアーナはそれを利用することで、危険因子であったマウロを闇に葬ったのか。
いかにもこの国の皇族らしい卑劣な手口だ。そのような手段で兄の命を奪われたライリーの無念を思うと、図らずも胸が軋んだ。
「で、お前は?」
「……え?」
「お前んとこの前のリーダーは、どうやって死んだ?」
唐突な質問に、カミラは一瞬息が詰まった。フィロメーナが死んだいきさつ。できることなら、今は思い出したくもない。
けれどライリーは話してくれた。きっと彼も思い出したくなんてなかったであろう、マウロの死と真実を。
ならば自分だけ口を閉ざすのは不公平だ。そう結論づけたカミラは一度、深く深く息をついた。
「ねえ。私だけ立ち話ってのも何だから、座っても?」
「好きにしろ」
無愛想な返事にムッとしつつも歩き出す。カミラはライリーのいる岩を回り込んで、砦がある方角とは逆の位置に腰を下ろした。
泣かずにフィロメーナの話ができる自信がなかったし、もしも砦から誰か来たとき、そんな姿を目撃されたくなかったからだ。灰色の岩を背凭れ代わりに座り込むと、チュニック越しにひやりと冷たい感触がした。
「あんたはどこまで知ってるの。救世軍が黄皇国軍の奇襲を受けたって噂は知ってるんでしょ?」
「ああ。だがそれ以上のことは知らねえ。軍の連中は反乱軍の幹部全員の首も取ったと騒いでたが、てめえらが生きてるってことはありゃデマなんだろ?」
「ええ、そうよ。少なくとも私とウォルドは生きてる。そしてきっと、イークとギディオンも……」
「だったらなんでリーダーだけが殺された?」
至極もっともなライリーの問いに、カミラは胸を抉られた。まったく彼の言うとおりだ。たとえイークやギディオンが生きていたとしても、フィロメーナだけはもういない。この世のどこを探しても。
その現実を改めて突きつけられたら、喉がきゅうと狭まった。彼女の死後、何度も何度も感じてきた後悔に殴り倒されそうになる。
けれどもう一度息を吐いて、自分の心を落ち着けた。そうしてカミラは話し始める。自分たちがあの日どのような経緯でフィロメーナを失ったのか、すべてをありのままに。
「――フィロはたぶん、嫌だったの。大切な仲間に、婚約者を失った自分と同じ思いをさせるのが……それでなくとも追われてたのは子供だったし、彼女は元々、助けられるかもしれない命を見捨ててまで保身に走るような人じゃなかったから」
「……」
「だから、私は……もっとフィロのそういうところに気をつけておくべきだった。前にも似たようなことがあったの。彼女は敵兵に隙を突かれて殺されそうになった私を、身を挺して庇ってくれたことがあって……」
「……」
「あのとき彼女を失いかけて、私は誓ったはずだった。もう同じ間違いは繰り返さないって。なのに、私は……結局、フィロを――」
――守れなかった。自分の何と引き替えにしたって、必ず守ると誓った彼女を。
その事実を思い返す度に沸き起こる後悔。無力感。自分を叩き殺したくなるような苛立ちと惨めさ。
それらがまた喉まで迫り上がってきて、案の定カミラは泣いてしまった。けれどライリーに泣き顔を見られるのは何だか癪で、抱えた両膝に顔を埋める。
波音が聞こえていた。カミラの胸中など知る由もなく、細波は寄せては返す。
長い長い沈黙があった。カミラは心のざわめきがある程度治まるのを待つと、やがてわずかに顔を上げ、言う。
「……何も言わないの?」
「何か言ってほしいのかよ」
「そうじゃなくて……てっきり〝泣き落としか〟って、鼻で笑われるかと思った」
「てめえは俺を何だと思ってんだ」
「血も涙もない野蛮人」
素直にそう答えたら、チャキ、と頭上で刀を抜く音がした。だからカミラはハッとして、零れてしまった本音の一部を大慌てで取り繕う。
「あ、いや、嘘、嘘! 今のは冗談! というか、ちょっと前までは確かにそう思ってたけど、でも……」
「でも、何だ」
「前にジョルジョが言ってたわ。自分はあんたに母親を助けてもらったんだって。あんた、ジョルジョの代わりにお金を稼いで、病気だったお母さんを助けてあげたんでしょ?」
「あー……そういやあったなァ、そんなことも」
「それにこの島にいる人たちみんな、あんたのことを慕ってるみたいだった。レナードもあんたには大恩があるって言ってたし……」
「……」
「だから、つまり、なんていうか、えーと……た、頼りにされるいいリーダーなんじゃないでしょうか?」
「なんだそれ」
「ほっ褒めてあげてるんだから少しは感謝しなさいよ!」
「感謝も何も、お前本気で思ってんのか? マウロがいなくなった途端どうしたらいいのか分からなくなって、ただ暴れてるだけのこの俺が? 〝頼りにされるいいリーダー〟だって? 冗談も休み休み言え」
頭の上から響く自嘲に、カミラは声を飲み込んだ。
――ライリーさんが今求めているのは、諧謔ではなく理解者です。
何故だかこんなときにトリエステの言葉が甦る。
「俺はマウロの剣だった。剣ってのは持ち主がいて初めて戦えるもんだ。だからマウロがいなくなって、俺は身動きが取れなくなった。あいつがいなきゃ何も始まらねえ。俺じゃ無理なんだよ、あいつみてえに智恵を絞って戦うのは」
「ライリー、」
「俺はこの性格だし、マウロみてえな学もねえ。ただあいつに拾われてここまで来ただけのチンピラだ。なのに何を血迷ったのか、残った仲間は俺がマウロと同じように戦えると思ってやがる。んなもん無理に決まってんだろ。あの計画は最初から、マウロの智略と人脈を元に組み立てられたもんだった。俺にはできねえ」
「だったら諦めるの? いつまでも霧の中に引き籠もって、みんながマウロさんのことを忘れるのを待つ?」
「俺は」
「あんた、悔しいんでしょ。だったら戦いなさいよ。マウロさんのことを誰にも嗤われたくないんだったら、あんたがやるしかないじゃない。戦って証明するの、マウロさんは思い上がった勘違い野郎なんかじゃなかったって」
「てめえ、今の話を聞いてなかったのかよ。俺にはマウロの指示がなきゃ無理だと――」
「たとえマウロさんがいなくても、私たちがいるでしょ。湖賊なら湖賊らしく、姑息に私たちを利用したらどうなの? 救世軍にはオーロリー家の血を引くトリエステさんがいる。あの人の頭脳があれば、黄皇国が相手だってマウロさんと同じかそれ以上の戦いができるわ。あんただってさっきので分かったでしょ? あの人、自分を敗軍の将だって言ってたけど、軍師としては充分すぎる才能を持ってる。あとはあんたに私たちと共闘する気があるかどうか、それだけよ」
何やら気づくとムキになって、カミラはそう叫んでいた。感情の昂ぶるままに立ち上がり、岩の上のライリーをキッと睨みつける。
自分でも理由は分からないが、カミラは腹が立っていた。戦う前から諦めているライリーに? いいや、違う。
自分はたぶん、彼からマウロを奪った官軍に腹を立てているのだ。やつらはフィロメーナの婚約者だったジャンカルロだけでは飽き足らず、マウロまでもを卑劣な手段で奪い去った。
時系列的にどっちが先でどっちがあとかなんて関係ない。重要なのはやつらを野放しにしている限り、これから先も同じような悲劇が繰り返されるということ。
だったら自分たちがやるしかない。民の血にまみれ、彼らの屍を踏み越えてでも、のちの世を生きるすべての黄皇国民のために。
「ぶっ……はははははははは!」
が、意気込んだカミラの主張はライリーに笑い飛ばされた。まさかこの状況で大笑いされるとは思ってもみなかったので、カミラはぎょっとすると同時に気色ばむ。
「ちょ、ちょっと、なんで笑うのよ!?」
「ククク……んなもん、てめえがおかしなこと言い出すからに決まってんだろうが。マウロのためにてめえらを利用しろだァ? 俺を説き伏せるために、ずいぶんと上手い理屈を考えたモンだな」
「わ、私はそんなつもりで言ったんじゃ――きゃ……っ!?」
そのときだった。突然岩の上からライリーが滑り降りてきたと思ったら、カミラの天地がひっくり返った。
すぐ耳元でカランと木の鳴る音がする。背中を打った痛みに呻きつつ目を開くと、鼻の先にライリーの愛刀が転がっていた。
一体何が起きたのか、何となく察しがついてしまって、カミラは恐る恐る視線を上げる。案の定そこにはライリーがいた。
彼は太陽を背に、逆光の中でカミラを組み敷いている。
「あ……の、ライリー、さん?」
「てめえの理屈は理解した。だったら見せてもらおうか、俺に利用される覚悟を」
「り、利用される覚悟、って――」
「前に言ったろ。近頃軍の監視が厳しくて、俺らは女を買いに行くのも一苦労だってな。おかげでこのところ溜まってんだよ。つーわけでお前で我慢してやるから――大人しくしてろ」
瞬間、ライリーが乱暴にケープを掴み捲り上げた。胸元までしか丈のないケープはその拍子にすぽんと抜けて、カミラはチュニック一枚という無防備な姿になる。
更にライリーはチュニックの襟刳りへ手をかけて、カミラの左肩を露出させるように引き下ろした。そこでようやく彼の言葉が冗談ではないのだと理解したカミラは、ぞっと戦慄して身をよじる。
「い……いや! やめて、いきなり何を――!」
「だから、利用される覚悟を見せろっつってんだよ。てめえだって最初は、あのジェロディとかいうガキが止めなきゃ、その覚悟で島に留まるつもりだったんだろ?」
「そ、それは……!」
「てめえが大人しく犯されるなら、さっきの同盟話を飲んでやる」
「……!」
「本当に嫌なら抵抗しろ。ただしてめえらは今度こそ、この島から追い出されることになるがな」
嫌だ、そんなの卑怯だと抗議しようとして、しかし彼が手段を選ばぬ湖賊の棟梁であることを思い出した。特にライリーは目的のためならどんな悪事にも手を染める。そしてそれを誇りに思っている節さえある。
つまり彼の倫理観や良心に訴えかけるだけ無駄だということだ。だとしたらどうすればいい? 敢えて砦方面からは見えない位置に陣取ったのが仇となった。これじゃ誰かが様子を見に来たとしても、岩陰に隠れた自分たちに気づかない――
「――っ!」
首筋にライリーの唇が押し当てられた。背中に腕を回され、右半身の動きを封じられる。今まで経験したことのない感触と、ガリッという痛みに悲鳴を上げそうになった。けれど唇を噛み締めて、耐える。耐えなければならない。コルノ島を救世軍のものにするためには……。
(だけど、こんなの)
パニックで思考がまとまらない。恐怖と混乱で自然と視界が滲んでいく。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。やっぱりこんなの嫌だ。
だけど抵抗したら救世軍が、この島を出ていくことになったらカミラたちは路頭に迷う、仲間を危険に晒すことにもなる、だったら自分が耐えるしか、ライリーを焚きつけたのは他ならぬ自分だし、ほんの少しの間だけ耐えればきっと、いや、でも、もしこれでライリーの子を孕んだりしたら――
「ら、ライリー……!」
顔のすぐ下で金茶色の髪が蠢いている。肌に当たる彼の吐息と舌の感触に体の震えが止まらない――お願い、やめて!
その一言を発しても許されるのかどうか、迷っているうちにライリーがチュニックの裾をたくし上げた。太股の内側に滑り込んでくる彼の掌に怯えきって、自分だけでも逃れようと心臓が暴れている。
ダメだ、もう。
カミラはこれから始まる恐怖と痛みと屈辱の時間を覚悟して、泣きながらぎゅっと目を閉じた。耐えるしかない。仲間のためだ。フィロメーナの夢を一日も早く叶えるためには、自分が……。
「……おい」
「っ! な……なに、」
「お前、処女か?」
「は……はあっ!?」
「処女か使用済みか、どっちかって訊いてんだ」
「お、女の子相手に使用済みとか言わないでくれる!? 処女ですけど何か!?」
「だが同じ幹部のナントカってやつとデキてるんじゃなかったのかよ」
「あ、あれはあんたが勝手にそう解釈しただけでしょ! イークと同郷なのは本当だけど……!」
「そいつに気は?」
「ないです! 断じて!」
唯一自由のきく左腕で目元を覆いながら、やけっぱちにカミラは叫んだ。
自分で言っておいて何だか悲しくなってきたが、カミラはこれまで色恋などというものに興じたことが一度もない。兄以外の男なんて正直眼中になかったからだ。
だけど郷の女房たちから教わったおかげで、今から始まるのがどういうことかは理解している。郷では夫となる男以外に許してはならないと定められている行為。婚前ともなれば掟は更に厳しく、夫を得る前に不貞を犯した女は死ぬまで独身を貫かなければならないと言われていた。
つまりカミラは今、人生を捨てようとしている。まあ、反乱なんかに加わっている時点でいつ散るとも知れない命だから、家庭を持つなんてそもそも望み薄だけど。
「じゃあ歳は?」
「十七よ」
「家族は?」
「いない」
「いない?」
「そうよ、いないの。親は私がまだ小さい頃に死んじゃって、唯一の肉親だったお兄ちゃんは行方不明、家族同然だったイークも生きてるのか死んでるのか分からないし、今の私にはもう救世軍しかない」
「お前――」
「他に何もないのよ。だから救世軍を守るためなら、私は……」
「……」
「せ……責任、ちゃんと、取ってよね……」
しゃくり上げながらそう言えば、ライリーの質問はやんだ。左腕で目元を隠していても、涙はぽろぽろぽろぽろ零れ落ちる。
けれど今のカミラにはこれしかないのだ。フィロメーナの夢を叶えることしか。
そのためにカミラが犠牲になることを、彼女は望んだりしないだろう。もちろんそれは分かっている。しかし彼女が与えてくれた、世界でたったひとつの居場所を守るためには、これしか――
「お前、わりとマジでアホだな」
「……は?」
唐突に降ってきた嘲りの言葉に、カミラは素直な感想を述べた。
が、直後、ライリーがいきなりカミラの腕を引っ張る。おかげで上半身が持ち上がった。と思ったときには、ライリーは既にカミラから離れている。
「一つ訊くが、この俺がお前みたいなガキ相手に本気で勃つと思ったのか?」
「なんっ……!?」
「試しただけに決まってんだろ、てめえの覚悟をよ。しかしまあ、破滅的なアホだが十七にしては肝が据わってやがる。しょうがねえから乗ってやるよ、てめえらとの同盟とやらにな」
拾った刀を担ぎながら飄々と言ってのけるライリーに、カミラは開いた口が塞がらなかった。言いたいことが一挙に押し寄せてきて、どうにか口をぱくぱくさせるも困惑と羞恥で声にならない。
その間にもライリーは、キモノについた砂やら枯れ草やらをパンパンと払った。ところがそこでふと思い立ったように、虚空を見上げて口を開く。
「ああ、だが覚悟を知りてえやつならもう一人いるな。同盟を受けるのはあいつの度胸を試してからだ。ついてこい、砦に戻んぞ」
「ら……ら……ライリーッ!!」
乱れた衣服を掻き合わせながら、怒りのあまりカミラは叫んだ。しかしライリーはどこ吹く風で、砦へ向けてさっさと踵を返す。
わなわなと震える右手に炎が宿った。純情を弄ばれた報復として、あの憎たらしい背中に一発見舞ってやろうかと身構える。
けれどカミラは知らなかった。
歩き出したライリーが行く手を見据え、吹っ切れたように笑っていたことを。




