133.君と歩く道
霧の中から見上げた夜空は、丸かった。
やはりこの島を包む霧は白く巨大な円筒で、城壁のように聳え立ち、外敵の侵入を許さない造りになっているようだ。
しかし一度中へ入ってしまえば、至って平和なものだった。ここには官軍も攻めてこない。魔物もいない。噂では巨大な霧の魔物と、それを飼う魔人がいることになっていたけれど。
先代棟梁のマウロが流したというその噂が、いい具合に効いている。彼はトリエステにも並ぶくらい利口な男だったのだろう。
神の子が魔物の影に守られてぬくぬくと過ごしているなんて罰当たりな話だが、今は余計なことに煩わされずに済むのが有り難い――いや、逆か。あの霧のせいでここには雑念が入り込む余地がない。もっと様々な問題が散乱していれば、そちらにかかずらっているふりをして逃避することができたのに。
「僕が救世軍のリーダーに、か……」
口に出して呟いてみても、その現実はいっかな肌に馴染んでこない。
自分がフィロメーナの代わりに?
無理だ。
何度考え直したって、結論は変わらない。
(そもそも僕は、どうして自分が神子に選ばれたのかも分かってないのに……)
タリア湖の畔、薄く生えた下草の上に寝転びながら、ジェロディは右手を持ち上げた。いつも手套をしているせいで日焼けを免れている手の甲には、仄青く輝く《星樹》。
ハイムは確かに力をくれた。フィロメーナを救うことこそできなかったが、かの神の力は幾度となく仲間の命を救ってくれた。
けれど、そこまでだ。ジェロディには神の力をどう使いたいとか、神子としてどうすべきなのかというビジョンがない。
トリエステならきっと、その力を民衆のために使えと言うのだろう。いや、彼女や彼女の弟が言う〝運命〟なるものが本当に存在するならば、それは他ならぬ神の命令であるはずだ。
だけどジェロディには、神の力を使いこなせる自信がない。大きすぎる力はいずれ――自分を押し潰してしまいそうで。
(太陽神の神子だったフラヴィオ一世も、《金神刻》の力を畏れていた……)
かつて光の神子から聞いた逸話を思い出す。神の力を御しきれなかったフラヴィオは、自分の意思とは無関係に村一つ焼いたとも。
神の声に従うことが絶対善であることは分かっている。けれど従って突き進んだ先で、自分も彼のようになるのが怖い。
そしてそんな自分を振り返ってみて思うのだ。
神はどうしてこんな臆病者を神子に選んだ?
トリエステは父の血を引くなら当然の結果だと言った。
でも、果たして本当にそうだろうか?
(みんなは僕を買い被りすぎてる……)
常勝の獅子の息子だからとか、神に選ばれたからとか。そうした事実はあくまで附属品であって本体ではない。仰々しく装飾された殻を剥いでみれば、中にいるのはこんなにちっぽけで無力な子供だ。
今ならフィロメーナの気持ちが分かる。人々の期待というのは、重い。背負いきれない。父に追いつきたいと必死に走っていた頃は、自分の意思だから良かった。
だけど、今は?
(……カミラたちと共に来たのは自分の意思だ。そこは間違いないし後悔もしてない。でも――)
それとこれとは話が違う。自分は救世軍と共に戦うことは望んだが、彼らを率いて戦うことは望んでいなかった。
ただ一人の兵士として戦うのと、仲間の命を背負って戦うのでは同じ戦いでも雲泥の差だ。自分はそんな重責に耐えられる器ではないし、トリエステの言うように人心を掌握できる自信もない。彼女たちは本体を隠す殻の部分のみを見てそう言っているだけだ。
いずれその殻が粉々に砕けて本当の自分を知られたとき、そこで彼らに失望されるのもまた、怖い。
(……世の中怖いものだらけだ。これじゃ〝獅子の子〟の名が泣くな)
右手を下ろし、大地に四肢を投げ出して、ジェロディは深く息を吐いた。
丸い夜空は残酷なほど美しい。月が満月に近いせいで星影は少ないけれど、いつかフィロメーナと共に見た星空を彷彿とさせる。
あの日の記憶がジェロディに決意させた。彼女の夢と、そのために戦う人々を守りたいと。
だったら総帥の話を受ければいい。だけどもし間違いだったら?
自分なんかが次期総帥の座に着いたばかりに、彼らを破滅へ導くことになったら――?
(確証が、欲しいんだ。僕は神子となるに値する人間だと。神の命じるままに彼らを率いても大丈夫だと……)
それさえあればすべての問題は解決する……ような気がする。そんなものが簡単に手に入る世の中なら、誰も苦労はしないのだけど。
「――こんばんは」
「!?」
瞬間、突如頭上から降ってきた声に慌てふためいた。心臓が止まるような思いで飛び起き、頭の金細工を鳴らして振り返る。
そこにいたのはカミラだった。中腰になって苦笑しているところを見ると、直前まで寝転んでいたジェロディを上から覗き込んだところだったのかもしれない。
「ごめん。気づいてるかと思ったんだけど、びっくりさせちゃった?」
「い、いや……こっちこそ、ごめん。考え事をしてて」
神の耳を手に入れたとは言え、思考が蓋をしていては足音も聞こえない。おかげでジェロディは寿命が縮まる羽目になった。まあ、心臓を貫かれるか首を刎ねられるかしない限り死なない体なので、今の自分に寿命なんてものは存在しないのだけど。
「だけどカミラ、どうしてここに?」
「ティノくんが部屋を出てくのが見えたから、こっそりあとを尾けてきたの。そっとしといた方がいいかなと思ったんだけど、やっぱり気になって……」
「……僕が逃げ出すかもしれないと思った?」
「まさか。ティノくんはそんなことしないって知ってるもの」
ジェロディの発言を冗談だと受け取ったのか、カミラは笑って隣に腰を下ろした。何の疑いもなくそう言ってくれる彼女に、一度は本気で逃亡を考えた、なんて言えるわけもない。
時刻は深夜。月は霧の穴の真ん中にかかるほど高く、半壊したままの砦には見張りらしき影はなかった。そもそもカミラの神術で見張り台が吹き飛んでしまったのだから、物見など置けるはずもない。
だから、今なら逃げられるんじゃないかと思った。黒焦げの桟橋につながれた一艘の小舟を前にして。
けれど結局逃げ出さなかったのは、やはり皆に失望されるのが怖かったからだ。マリステアやケリーを置いていくわけにもいかなかったし――いや、違うな。もっと理由を掘り下げれば、これ以上自分で自分に失望したくなかった。
ひとり、操船もおぼつかぬまま夜の湖に漕ぎ出して、みじめさを噛み締めたくはなかったのだ。ただでさえ臆病で非力な自分がこんなにも呪わしいのに。
(……カミラはこんな僕をどうして信じてくれるんだろう)
やっぱりガルテリオの息子だからだろうか? 神子だからだろうか?
そう言えば彼女は出会った直後からそうだった。初めこそ軍人だったジェロディに敵意を見せていたものの、事情を知ると誰よりも真っ先に信じてくれた。
以来彼女はずっとジェロディの味方だ。マリステアやケリーのように、幼い頃から絆を育んできた仲でもないのに。
その理由を尋ねたいが、それはあなたが神子だから、と言われるのが、怖い。
「何を考えてたの?」
単刀直入にそう訊かれ、情けなくも肩が震えた。
「って、訊くまでもないか。悩んでるんでしょ、総帥のこと」
「うん……」
この状況では誤魔化しようがなくて、頷いた。と同時に、いつまでもぐずぐずと優柔不断なやつだ、と思われていないか不安になる。彼女たちが信じているのは、きっと勇敢で恐れを知らないガルテリオの息子だろうから。
「ティノくんはどうしたいの?」
と、怯えっぱなしのジェロディに容赦なくカミラは尋ねる。ここで「総帥なんてやりたくない」と本音を伝えてもいいのだろうか。そんな自分を想像すると、情けなさすぎて笑えてくる。
「……不安だよ。正直とてもね」
「でしょうね。あまりにも急な話だったし……」
「僕は確かに、君たちと一緒に戦うと決めた。これは誰かがやらなきゃいけないことだとも言った。でも、まさか自分が救世軍の総帥に推されるなんて思ってもみなかったんだ。僕が思い描いていた未来は、もっと違う形だった。救世軍を立て直すことさえできれば、またフィロメーナさんが生きていた頃のように戦えると……」
フィロメーナのようなカリスマがいて、自分はカミラたちとそれを支える。ジェロディが脳裏に描いていた救世軍の再興とはそういうものだった。自分にはそのくらいの立ち位置がちょうどいいと思っていたのだ。
だけど今になって思い知る。自分は〝誰かがやらなきゃ〟と言いながら、戦いの最も大事な部分を他人へ押しつけようとしていた。自分で背負いたくなかったのだ。苦悩するフィロメーナの姿や、かつての英雄フラヴィオの真実を知って、どんなにつらく苦しい道のりか知っていたから。
「つまりティノくんは、総帥を下りたいと思ってるってこと?」
核心を突かれて、喉が詰まった。一体何が引っかかったのかは知らないが、息ができない。
「……み、神子失格、だよね。神の恩寵を受けながら、人々を率いて戦うことを怖がるなんて……父さんなら、こんな風にためらったりしないと思う。正しいことだと分かっていたら、迷わず実行する。僕もそうすべきなんだ。これまで多くの神子がそうしてきたように――」
「――はーいストップー。それ、質問の答えになってないんですけど」
「……え?」
「私は今、ティノくんはどうしたい? って訊いたのよ。神子がどうとか将軍がどうとか、そんなの正直どうでもいいわ」
「ど……」
どうでもいいってことはないだろうと言いかけて、しかしはたと思い至った。
……自分はどうしたいのか?
そう言えば、フィロメーナと共に地下で星を見た日、カミラはこう言ってくれたような気がする。
――だからティノくんも他人の言うことに惑わされたりしないで、自分が一番正しいと思う道を選び取って。
「私はね。ティノくんが嫌だと思うなら、無理にやらなくたっていいと思うわ。神子になったら必ず重役を担わなきゃいけないなんて決まりはどこにもないでしょ? まあ、そもそも神子なんかに選ばれた時点でとんでもない重役だし、そういう暗黙の了解があるのも事実だけど……」
「で、でも……僕がやらなきゃ他に誰が?」
「さあ、私もそこまでは考えてないわ。だけど他に誰もいないからティノくんにっていうのは、ちょっとね。これから私たちの命を預けるリーダーを、そんな消去法なんかで決めていいの? って思うのよ。本人が背負いたくないって言ってる重荷を無理矢理背負わせるのも気が進まないし……あのフィロですら、最初はトリエステさんに押しつけようとしたんだから」
……そうだった。トリエステの話ではジャンカルロの死後、次の総帥を決める段階でフィロメーナは彼女のもとを訪ったという。
そして姉に助けを求めたのだ。彼女が戦いを嫌って田舎に隠れ住んでいたことを知りながら、その彼女に暴力的な正論まで振り翳して、救世軍に引き込もうとした……。
改めて考えてみてもジェロディの知るフィロメーナからは想像もつかない暴挙だが、たぶん彼女もそれだけ追い詰められていたのだろう。
フィロメーナもまたオーロリーの名を持つがゆえに皆に縋られ、重圧に苦しみ抜いたのだろうか。自分にはジャンカルロの跡を継ぐ資格も能力もない。なのに総帥なんて務まるわけがない――と。
「ていうか、私がティノくんの立場でもやりたくないって言うわよ。むしろ進んでやりたいなんて言うやつがいたら逆に信じられないわ。そんなやつは相当の自惚れ屋か異常者か、被虐趣味を極めた危ない人かのどれかだろうし」
「そ……それはさすがに言い過ぎじゃないかな……?」
「そう? でも考えなしの軽はずみ野郎であることは確かでしょ。だって一軍のトップだなんて、そこに立って背負うものの重さを考えたら、普通は足が竦むはずだわ。もし竦まないなら人間として何かが欠落してるか――あるいは本音を隠すのが異様に上手いか、そのどっちかよ」
月明かりが、細波を立てる水面に反射している。暗闇の中で揺らめくそれをじっと見据えたカミラの言葉に、ジェロディは頬を叩かれたような気分になった。
……本音を隠すのが異様に上手い?
では父もそうだと言うのだろうか。いつも堂々としていて、何があろうとも怯まず、果断という言葉が服を着て歩いているようなあの父でも、何かを恐れることがあると?
(……いや、カミラの言うとおりだ。そもそも何も恐れない人間なんてこの世にいない。仮にいるならそんなのはもう、人間じゃない――)
畏怖と恐怖は人間を人間たらしめるために必要不可欠なものである。そういう一節を昔、何かで読んだ記憶があった。
何故なら恐怖を感じなければ、誰もが無謀を犯すからだ。死の恐怖がなければ人は崖から飛び降りることも厭わないだろうし、社会的制裁を恐れなければどんなに卑劣な手段にも迷わず手を染めるだろう。
だけどガルテリオはそんな箍が外れた人間じゃない。ごくごくまっとうな父親であり軍人だ。なのにまったく何の恐怖も感じないなんてことがありえるだろうか?
仮に今回の件を当て嵌めてみるにしても、高潔すぎるほど高潔なあの父が、果たして他人の命を軽々しく預かったりするだろうか――?
『だってティノさまはそうやって、何でもお一人で抱え込んでしまわれるから……そういうところ、ガルテリオさまにそっくりで……心配、なんです。いつかお一人で壊れてしまわれるんじゃないかって』
いつかのマリステアの声が甦った。
……自分は何か、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない。
父を理想と仰ぐあまり、彼を美化し、額に嵌めて、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオとはこうあるべきだと決めつけていた。本当の父の姿に目を向けていなかった。彼が年明けから一月と待たずに黄都を去ったときだって、本当はどんな想いで自分を残していったのか、考えもしなかったじゃないか。
だから気づくのが遅くなった。ガルテリオが自分を第三軍ではなく、戦地から遠い近衛軍に置いた真意に。
「……僕は」
と、ほとんど無意識に口から零せば、カミラの蒼い瞳がこちらを向いた。
「僕は……小さい頃からずっと、父さんのようになるのが夢だった。いつか必ず追いつきたいと、必死で背中を追いかけて……」
「強くて優しくて勇敢なお父さんに?」
「ああ。そう……そうなんだ。僕にとって父さんは、いつだってヒーローで……ああなりたいと思う度に、父さんと自分を比べてた。あの人のようになるためには、あれもこれもまだまだ足りないって」
「……本当にそう思うの?」
「分からない。僕が弱いのは事実だけど、父さんは僕が思うほど強いのかと言われたら……」
「……」
「カミラ。君の言葉で気づかされたよ。僕が自分に自信を持てないのは、父さんの幻想を追いかけていたからで……だけどあの人のことを、本当には理解できていなかったんだって」
これでは神子失格どころではない。息子失格だ。
十年前に母が他界し、父と自分はたった二人の血のつながった家族だった。なのに理解してあげられなかった。父の弱さを。父の苦悩を。
もっと早く夢から覚めていたら、自分は今、父と共に在れただろうか。隣に立てていたのだろうか。ずっと憧れてやまなかったあの場所に……。
「僕は、馬鹿だ……ビヴィオでのことも、エリジオとのことも、この国のことも……何もかも気づくのが遅すぎる。気がついたときにはいつだって、大切なものは手から零れ落ちていて……」
「だけど私はそのお馬鹿さんに救ってもらったわ。何度も何度も、出会ってまだたったの二ヶ月なのに」
「……え?」
僕がカミラを、救った?
そう言われてもすぐにピンとくるものがなくて、思わず彼女を振り向いた。
そのとき自分はどんな顔をしていたのだろうか。月明かりの下でジェロディと目が合った途端、カミラは吹き出して笑い出した。
「嘘でしょ、ティノくん! まさか今までの、全部無自覚にやってたの? だとしたらあなたは自分で思ってる以上の大物よ。ガルテリオ将軍にも並ぶかそれ以上かも」
「だ、だけど、僕がいつ君を……?」
「いつも、何度でもよ。フィロが死んでもう絶対に立ち直れないと思ったときも、スッドスクード城で足が竦んで動けなくなったときも、ライリーたちに体を売るしかないと覚悟を決めたときも……あなたはいつだって私を助けてくれた。あのときのあなたの言葉や行動に、私がどれだけ救われたか分かる? いいえ、分からないでしょうね。ティノくんは自分を過小評価してるみたいだから」
自分で尋ねておいて自分で答え、カミラは勝手に納得してしまった。それを不服に思いながらも、反論する言葉がない。だって彼女の言うとおり、自分は知らなかったから。
「だから私もティノくんのために何かしたいと思って、言いに来たのよ。やりたくないなら、無理に総帥なんかやることないって。だけどもしティノくんが総帥の件を受けるなら、私は全力で支えるわ。これでも救世軍の元幹部だしね?」
と、湖から吹く風の中で、カミラはちょっと戯けてみせた。だけど元なんて言わないでほしい。ジェロディが思い描く救世軍には、絶対に彼女が必要だから。
「苦しくなったら泣いて〝もう無理〟って言えばいいのよ。そしたら私もみんなも駆けつける。フィロはそうしてくれなかったの。何もかも全部一人で抱え込もうとして……」
「……」
「だけど私は……私はそれが悲しかった。仲間に余計な重荷を背負わせたくないっていう、フィロの優しさだったのは分かってる。でも心のどこかでずっと思ってた。もっと私を頼って! って……」
意味もなく足元の草を弄びながら、カミラは言った。月光に照らし出されたその横顔は、彼女の想いを言葉以上に物語っていて、ジェロディまで胸が苦しい。
「大切な人が苦しむ姿をただ見ているしかできないって、こんなにつらいんだって思ったわ。私でいいなら代わってあげたかった。だから今度は一緒に背負いたいの。ティノくんと、フィロの夢を」
束の間、波音だけが二人の間を濡らしていた。カミラの言葉は天樹から注ぐ星の光のように、ジェロディの心へ染み込んでいく。
――ああ、そうか。今度は手遅れになる前に、ちゃんと気づくことができた。
僕はひとりじゃないってこと。
世界には自ら神の殻を叩き割って、その中で立ち竦むちっぽけな自分に、手を差し伸べてくれる人もいるのだということ――
「……じゃあ、仮に僕が総帥の件を受けるとして」
と、ジェロディは前置きする。途端にカミラの肩がぴこんと跳ねた――ような気がした。
「それをイークさんは許してくれると思う?」
が、ジェロディがそう尋ねた途端、彼女の肩はガクッと下がる。カミラはついでに眉尻まで下げた。眉間には器用に皺を寄せ、頭が痛いと言いたげに。
「……正直、難しい質問ね」
「訊いといて何だけど、僕もそう思うよ」
「問題はイークが今この場にいないことよ。あいつは副帥なんて肩書きに固執するようなやつじゃないから、そこは心配いらないわ。ただティノくんのことは結局、最後まで信用してくれないまま別れたから……そのティノくんが次の総帥だなんて知ったら、頭から煙を噴いて憤死するかもしれないわね」
幼馴染みなのにひどい言い草だと思いつつ、彼女の話す光景が容易に想像できてしまう自分もどうかと思った。
だがイークにもこれまで救世軍を支えてきたプライドがあるだろうし、フィロメーナの件もある。護衛として彼女と行動を共にしておきながら、守り抜くことができなかった半端者――しかもこれが大将軍の息子ときた――が次の総帥だなどと言われたら、仮にイークでなくても怒り狂うことだろう。
しかし彼がもし今も生きていて、ゆくゆくは合流するのならジェロディはイークとも分かり合いたい。互いの間に走った溝を埋めることは不可能でも、歩み寄るくらいはできるはずだ。
だって死ぬ前のフィロメーナが言っていた。イークはとても優しい人だ、と。
ジェロディは今もあの言葉の真偽を疑っているが、フィロメーナのことは信頼できる。そして彼とは幼い頃から共に育ったという、カミラの言葉も。
「だけど仮にティノくんが下りたとしても、いつかは誰かがやらなきゃいけないのよ。そしてその人はフィロじゃない。誰もフィロの代わりにはなれない……」
「……そうだね」
「救世軍の総帥がフィロじゃないっていうだけで、イークはきっと失望すると思うわ。だけどあいつも分かってるの。自分もフィロのために必死に頑張ったけど、ジャンカルロさんにはなれなかったから……」
……ジャンカルロになれなかった?
ああ、そうか。そう言えばジャンカルロはフィロメーナの婚約者で、イークは彼の次の恋人だと聞かされたっけ。
だからイークはジャンカルロになろうとした? フィロメーナの抱えた喪失を埋めるために?
「だからきちんと向き合って話をすれば、あいつも分かってくれると思うわ。イークは確かに分からず屋だけど、残酷な人間じゃない。むしろ誰よりも傷つきやすくて、誰よりも優しい――あ、今のは嘘。一番優しいのは私のお兄ちゃんね」
わざわざそんな訂正をして、悪戯っぽくカミラは笑った。ジェロディもつられて笑いながら、しかし彼女を振り向いて、言う。
「でも、二人とも君のお兄さんなんだろ?」
カミラは目を丸くした。そうして何度か瞬きしたのち――これまで見たこともないくらい嬉しそうに微笑んで、頷く。
「うん。だからきっと、大丈夫」
ジェロディはその言葉に背中を押された。
カミラが大丈夫と言うなら大丈夫なのだと、信じられた。
けれどそこでふと気づく。カミラの瞳の中であんなに咲き誇っていた喜びの花が、みるみる萎れていくことに。
「カミラ?」
と呼びかけようとして、すぐに原因を理解した。
カミラの二人の兄は今、どちらも揃って行方知れずだ。生きて無事でいるのかどうか、正直言って分からない。もしかしたら既に死んでいる可能性だって――と考えかけて、ジェロディは地面に視線を落とした。
本当は気がかりで仕方がないはずだ。救世軍の再建という最優先事項がなかったら、カミラは今にも飛び出して、二人を探しに行きたいだろう。
それはあの日、カイルからイークの死を告げられたときの様子を見れば分かる。彼女はひどく取り乱していて、ウォルドが止めに入らなかったら、カイルを絞め殺していたかもしれなかった。
叶うことなら、そんな彼女を一日も早く安心させてやりたい。ただでさえフィロメーナを失って、カミラの心には埋めようのない穴が開いているのだろうから。
しかしそれも救世軍の再興が成れば実現できるかもしれない。再び旗が上がれば、きっとカミラがイークと再会するための目印になる――だったら。
「カミラ」
「うん?」
「僕、前向きに考えてみるよ。総帥のこと」
「えっ!? ほ、本当に……!?」
カミラは元々大きな瞳を限界までまんまるにした。ちょうど二人の頭上にかかったあの月みたいに。
だけどその月の輪郭が突如滲んで、今度はジェロディが驚いた。カミラは眉根をきゅっと寄せて泣き出してしまう。見られたくないと思ったのか、すぐに拭って顔を背けてしまったけれど。
「ご、ごめん。やっぱり僕じゃ不安かい……?」
「そんなわけないでしょ! そうじゃなくてただ、嬉しくて……」
「う、嬉しい?」
「そうよ。さっきはああ言ったけど、私……次の総帥を決めるなら、ティノくんしかいないって思ってた。イークとギディオンは行方不明だし、ウォルドや私は異邦人だし……それに命を預けるなら、他の誰でもない、ティノくんがいいって……」
言いながら、カミラは抱えた膝に顔を埋める。ジェロディはそんな彼女をただ茫然と見つめてしまった。
……命を預けるなら僕がいい?
これまで長く共に戦ってきた、イークでもギディオンでもウォルドでもなく?
「……それは、僕が神子だから?」
「違う。ティノくんが私を救ってくれたからよ。誰がなんて言おうと、あなたは私の救い主。だから――ありがとう」
顔を上げ、涙で頬を濡らしながら、カミラは声を震わせた。つられて瞼が熱くなっている自分に気づき、笑ってしまう。――単純だな、僕も。
だって、彼女の言葉がこんなにも嬉しい。カミラは自分に教えてくれた。
この手には誰かを救う力があること。
がむしゃらに走ってきた中で、ちゃんと誰かを守れていたこと――
「本当に僕が総帥になってもいい?」
「何度も言わせないで。私の中では、フィロの次の総帥はあなたしかいないわ」
「みんなもそう言ってくれるといいけど……」
「少なくともトリエステさんとカイルは賛成してる。まあ、カイルの票は数えなくていいけど」
カミラが泣きながらもしっかり辛辣なことを言うので、ジェロディは笑った。隣で彼女も笑っている。その笑い声が、耳に心地好い。
「それにティノくんがそう決めたなら、誰にも文句は言わせないわ。そんなやつがいたならぶっ飛ばしてあげる。そういう約束だからね」
ああ、とジェロディは頷いた。
あの日、カミラが交わしてくれた約束は覚えていた。
自分が一番正しいと思う道。その道をまっすぐ進むのは簡単なことではないけれど、隣に彼女が――仲間がいるから、大丈夫だ。
「っくしゅ!」
ところがにわかにくしゃみが聞こえて、ジェロディははっとした。
暗い湖に浮かんでいた月光の道から目を逸らす。そうして顧みた先ではカミラが肩を抱いて、寒そうに身震いしていた。
「カミラ、大丈夫?」
「ああ、うん、ごめん、平気よ。ただちょっと肌寒くて……ウチの郷ならこの時期は、もう初夏の陽気なんだけど」
うっかりしていた。ジェロディは寒さを感じなくなって久しいから忘れていたが、確かにこの時期の朝晩はまだ晩冬のように冷えるのだった。
しかもここには湖からの風を遮るものが何もない。水の上を通って吹く風は、ジェロディが思う以上に冷たいはずだ。このままここでこうしていたら、常夏の郷で育ったカミラはすぐに凍えてしまうだろう。
「僕の方こそごめん、そこまで気が回らなくて……カミラはもう戻った方がいい。ここにいたら風邪をひくよ」
言って、ジェロディは自身の外套をさりげなくカミラに羽織らせた。何となく薄着のまま外をうろつくのが憚られ、着てきただけの外套だ。
それを肩にかけてやると、カミラはちょっと驚いたような顔をした。けれどすぐに外套の前を掻き合わせ、「あ、ありがとう……」と前髪を整える。
「じゃあそろそろ失礼するけど、ティノくんは?」
「僕は残るよ。もうちょっとだけ考えを整理したいんだ」
「でも、上着がないと寒いんじゃ……」
「大丈夫さ。だって僕は神子なんだから」
今度は笑ってそう言えた。カミラもそんなジェロディを見て、笑ってくれた。
ほどなく彼女は「じゃあ、お先に」と立ち上がる。おやすみ、と見送れば、おやすみ、と笑顔が返った。
再び湖へ向き直り、波音の間に遠のいていく彼女の足音を聞く。
見上げた夜空は美しかった。
もう、残酷だなんて思わない。




