132.運命論者は笑わない
細波が岸辺を濡らす音が聞こえた。
砦の修復に精を出す湖賊たちの掛け声が遠い。それらはまるで遠い世界のもののように、ジェロディの意識の外で響く。
先程までブレナンと名乗っていた彼女の話を、一行はただ茫然と聞いていた。同じく居合わせたライリーも、部屋の隅の樽に腰かけたまま両目を見開いている。
この状況で唯一ぽかんとしているのは、事情を知らないカイルだけだ。やがてトリエステ――フィロメーナの姉と名乗った――の話が終わると、額を汗で濡らしたケリーがごくりと喉を鳴らして言った。
「じ……じゃあ正黄戦争の直後に流れた、オーロリー家の長女が処刑されたという噂は……」
「陛下とガルテリオ殿が共謀して流した偽報です。現に私はこのとおり、今も生きていますから」
「あ……あのガル様が裏でそんなことを……ではフィロメーナがかつてガル様から恩を受けたと言っていたのは、そういうことだったのか……」
ずっと視界を覆っていた靄が晴れるように、これですべての謎が解けた。ライリーが聞いたというドナテロ村のブレナンの噂も、ジェロディたちが勝手にエルネストのことだと思い込んでいただけで、本当は偽帝軍の軍師だった彼女のことを指していたのだろう。
だがいくら何でも出来すぎている。ジェロディは額に手を当てて笑い出したい気分になった。だっていま目の前にいる彼女は、かつて父が助けたフィロメーナの姉妹。その縁に導かれるようにして、息子である自分も彼女たちと出会った。
これをただの偶然なんて言葉で片づけられるだろうか?
頭の片隅で、彼女の弟の声がする。
――あらかじめ神々によって定められていた、運命です。
私たち人間はそれに抗うことなどできはしない――
「ですがおかげで、ジェロディ殿。あなたを一目見た瞬間から、私には確信がありました。この方こそきっと噂に聞くガルテリオ殿のご子息だろうと。何しろ私は一方的にケリーさんを存じ上げていましたし、あなたからはどことなくガルテリオ殿の面影を感じましたから」
「あ……だ、だからあのとき僕らのことを〝意外な顔ぶれ〟だと……?」
「ええ。まさか大将軍のご子息が妹の指揮する反乱軍に加わり、再び陛下に弓を引けと促しにいらっしゃるとは思いませんでした。〝晴雨は天空神の悪戯〟とは、こういうことを言うのでしょうか」
「だがトリエステさんよ。仮に今の話が事実だとして、だったらあんたはなんで最初にあんな態度を取った? 十年前に命懸けで守った妹が死んだと知っても、あんたは顔色一つ変えなかっただろうが」
「それは……」
と言いさして、トリエステはウォルドの手の中にあるペンダントを一瞥した。
けれど人が痛みから反射的に身を守るように、すぐさま視線を逸してしまう。そう言えば彼女は最初に言っていた――私にこのロケットを開ける資格はない、と。
「……それは私が、フィロメーナを拒絶したからです」
「フィロを拒絶した?」
「ええ。どこで私の居場所を聞きつけたのか、フィロメーナは生前、ドナテロ村にいた私を訪ねてきたことがありました」
「え……!?」
「彼女と最後に会ったのは、三年前のことです。救世軍初代総帥のジャンカルロ・ヴィルトが死に、組織が解散の危機に晒されると、フィロメーナは私を訪ねてきてこう言いました。自分たちに力を貸してほしい、と」
誰かが息を飲む音が耳元で聞こえた。音の主はカミラだったかもしれないしマリステアだったかもしれないし、あるいは自分だったかもしれない。
「ですが私は、彼女の頼みを断りました。ジャンカルロを失い、追い詰められていたフィロメーナは何度も助力を求めてきましたが……私は結局、彼女の懇願を一蹴したのです。死んだ人間にできることなど何もない、と」
「どうして……」
「私はただ――恐ろしかった。もう一度戦場に立ち、再びこの手で何千、何万という人々の命を左右することが恐ろしかったのです。フィロメーナを失うことよりもずっと……」
「……」
「だから彼女を拒絶した。妹を助けることよりも、己の心の安寧を選んだのです。そのような私に……フィロメーナの姉を名乗る資格は、もうありません」
自らの腕を抱くようにして、トリエステは抑揚なく吐き捨てた。けれどジェロディは確かに見る。トリエステの指先が白くなるほどにきつく、きつく己が腕を掴んでいるのを。
「……だから他人のように振る舞ったのか。フィロメーナとはもう姉妹の縁を切ったからと?」
「ええ。事実フィロメーナも、私が姉であることをあなた方に明かさなかったでしょう。彼女は私がどうあっても折れないと分かると、訣別を告げて出ていきました。もう二度とここへは来ない、と」
「……」
「別れ際のフィロメーナの言葉は、今でもよく覚えています。彼女は私を口先で正義を語るだけの卑怯者だと……誰かを救うことのできる力を持ちながら、それを振るわないのは人々を見殺しにしているのと同じことだと言っていました。私もそう思います。あの子の言葉が正しいことは分かっていた。けれど、私は――」
「――フィロも、分かってましたよ。あなたの苦しみを分かってた。だけどどうせならもっと早く分かってあげるべきだったって、そう言ってました。〝あの人は優しすぎたんだ〟って」
皆の視線が一斉に動いた。驚きと動揺の眼差しが集まる先には、カミラがいた。
そうだ。彼女はこの中で唯一フィロメーナに姉がいたことを知っていた。ということは――
「おいカミラ、お前」
「たった一度だけ……私が救世軍に入ったばかりの頃に、フィロが話してくれたことがあるの。自分のお姉さんのこと。そのときフィロも確かに、お姉さんとは喧嘩別れしたって言ってた。というより生きる道が違いすぎて、お互いに歩み寄れなかったって」
「……」
「だけど、自分も大勢の人の命を預かるようになって……そうして初めてお姉さんの言葉の意味が分かったとも言ってた。フィロは――フィロも、後悔してました。今更あなたの気持ちを理解できたところでもう遅いのにって」
カミラは懸命に伝えようとしていた。自分に伝えられる限りのフィロメーナの懺悔を、トリエステに届けようとしていた。
握り締められた彼女の拳は震えている。今のカミラにとって、フィロメーナとの思い出を振り返ることは自傷行為に近いはずだ。けれど、彼女は。
「トリエステさん。フィロもきっと、あなたと同じように思っていたんだと思います。自分にはもうあなたの妹を名乗る資格はないって。現にそれ以降、フィロがお姉さんの話題を口にすることは一度もありませんでした。お姉さんどころか、エリジオたちのことも……」
「……」
「だけど彼女は、最後の最後であなたを信じた。何度拒絶されたって、あなたならきっと分かってくれると信じたから私たちを導いたんです。そんなフィロの想いだけは……どうか、拒絶しないであげて下さい。彼女を許してあげて下さい……」
そう訴えながらカミラは泣いた。今はもういないフィロメーナのために、大粒の涙を零して泣いた。
もらい泣きしたマリステアが、隣で嗚咽を漏らしている。彼女は大きな瞳を真っ赤に腫らして、うなだれたカミラの手を取った。彼女の孤独に、悲しみに、祈りにそっと寄り添うように。
刹那、ウォルドの手の中で、チャリ、と何かが音を立てた。エリジオのペンダントの鎖が揺れて、わずか擦れた音だった。
ウォルドはそれに一瞥をくれると、無造作にトリエステへ歩み寄る。蓋の開いたままのロケットを、トリエステの眼前にぶら下げた。受け取れ、と言うように。
「まさかこの期に及んで、自分にその資格はないとか言わねえよな?」
投げかけられたウォルドの問いに、トリエステはうんともすんとも言わなかった。ただじっと目の前で揺れるロケットを見つめ――やがて一粒の涙を零す。
白い指が、震えながらペンダントへ伸ばされた。三人の姉弟の肖像画が彼女の手に収まったのを確かめると、ウォルドも鎖から手を放す。
「……カミラさん、とおっしゃいましたか」
手の中にある姉妹の証を見下ろしながら、トリエステは静かに尋ねた。
青灰色の瞳が泣いているカミラを捉える。そうして彼女は微笑んだ。
「あの子は……フィロメーナはきっと、あなたがいたから私のようにならずに済んだのですね。あの子の想いを運んでくれて――ありがとう」
トリエステの頬を次々と濡らす涙はどこまでも透明で、小さな光が幾筋も流れ落ちていくみたいだった。顔立ちはエリジオほど似ていないはずなのに、その横顔がフィロメーナと重なるのは何故だろう。
彼女の感謝を受け取ったカミラは、さらに涙を溢れさせるかに見えた。けれど最後は目元を拭い、ぶんぶんと首を振る。
礼には及ばない、という意味だろうか。フィロメーナの想いが届いて、彼女もきっと嬉しかったろうから。
「では、約束です。私はこれよりあなた方救世軍の軍師として、持てる力を振るいましょう。敗軍の将ではありますが、実戦の経験は並の将より積んでいます。あなた方を落胆させないことだけはお約束できるかと」
受け取ったペンダントを首から下げ、次に顔を上げたときにはもう、トリエステの頬は濡れていなかった。気難しそうで近づき難かった先日までの印象は払拭され、そこには毅然とした女軍師が佇んでいる。
ジェロディはそんな彼女を心から頼もしく思った。フィロメーナという支柱を失い、あとは崩落を待つのみかと思われていた城に、希望の光が射し込んだようだった。
だが同時に気がかりでもある。先程の話が事実なら、たったいま目の前にいる彼女は、父から大恩を受けた過去があるということだ。
ならば彼女も苦しみはしないだろうか。妹の願いと恩人である父の間に挟まれて。
(そもそも父さんは、この人を解き放つために逃したのに……)
それをまた戦いの中へ引きずり込むのか。これはフィロメーナの決断だし、今更考えても詮ないことではある。
だが冷静になって熟慮すると、自分たちがとても傲慢で残酷なことをしている気分になった。力があるのだから大義のために振るえ、と口で言うのは簡単だ。
だが人にはそれぞれの人生がある。守るべきものがある。背負ってきた過去がある。正義のためならそのすべてを擲ち、己が身を捧げろと迫るのは本当に正義だろうか? 自分の場合は望んでここにいるからいい。しかし、彼女は……。
「ジェロディ殿」
「は……はい?」
「お気遣いには感謝します。ですが戦いの場へ戻ることを厭う心があるのなら、私はあなた方が島を出たあと、行方を晦ませることもできました。そうすることを選ばなかったのは、私も私なりの覚悟を示す必要があると考えたからです。人には覚悟を見せろと要求しておいて、自分だけ本心を隠すというのは、私の信条に添わないものですから」
「は、はあ……」
「ですので心配はご無用です。私とてガルテリオ殿と矛を交えることを望んではいませんが……だからと言って、妹が命懸けで遺したものを踏み躙ることもできません。ならば私は後者を選びます。恩知らずの薄情者と後ろ指をさされようとも」
トリエステが涼やかな口調でそう告げると、皆の視線がジェロディへ集まった。たぶん直前の話との脈絡が見えなかったからだろう。それについてはジェロディも同感だ。たった今、何故彼女にそのようなことを告げられたのか分からない。おかげで数瞬思考が停止したのち、ジェロディは恐る恐る確かめる羽目になった。
「あの……もしかして僕、考えてることを口に出してました?」
「いいえ。口には出されていませんでしたが、顔にそう書いてありましたので」
「お前、サラッと人の心を読むなよ。恐ろしいぞ」
「これくらいで恐れられては困ります。フィロメーナがどうであったかは存じませんが、私はあの子ほど情が深くありませんので」
「おい、ほんとに大丈夫なのか。こんなのが次のリーダーで」
記念すべき新たな門出だというのに、早速不安を覚えたらしいウォルドが容赦なく不信を口にした。が、対するトリエステはけろりとした様子で、次にとんでもないことを言い始める。
「ウォルドさん。何か勘違いをされていらっしゃるようですが、私はあなた方のリーダーになるつもりはありません。先程きちんと申し上げたはずです、救世軍の軍師としてと」
「はあ……!?」
皆の驚きの声が揃った。この状況でやはりぽかんとしているのはカイルだけだ。
部外者の彼には、今の発言の重要性がとんと見えてこないのだろう。だがトリエステがフィロメーナの後継者となることを拒むということは、救世軍総帥の座が当分の間空席になるということだ。
「おい、ちょっと待て。リーダーにならないというのはどういうことだ? あんたはあのオーロリー家の長女で、フィロメーナの姉だ。そのあんたが次の総帥となれば、誰もが納得するだろう。むしろ私の見立てでは、あんた以上の適任者なんてそうそういないと思うんだが?」
「ところがそうでもありません。まず第一に、私には偽帝フラヴィオの軍師であった過去があります。ほんの二年の間とは言え、かの暗君がこの地に布いた暴政の記憶は、人々の心に浅からぬ傷を残している。私も望んで偽帝に仕えたわけではありませんが、民衆は真実を知りません。つまりいくらオーロリー家の名を振りかざしても、私に集まる信望は多くないということです」
「で、でもそれは、トリエステさんにも事情があったことをきちんと説明していけば……」
「そんなことをしている暇があったら、初めから求心力のある人物を主導者に据えた方が賢明でしょう。兵は拙速を聞くも未だ巧久なるを賭ざるなり――黄皇国に兵力や持久力で劣るならば、救世軍の勝機は機動力にしかありません。余計なしがらみに足を絡め取られていては、勝てる戦も勝てなくなるということです」
「だ、だけど、求心力のある人物って言ったって……」
「そもそも私には将兵の心を惹きつけ、指揮を執れるだけの器がありません。表立って味方を鼓舞するよりも、理詰めで組織を運営する裏方の方が向いているのです。ですがそれは逆に言えば、ただそこにいるだけで人々から仰がれる人物こそが次期総帥にふさわしいということ。幸い私はそのような人物を一人だけ知っているのですが……」
「そ、その人物というのは……?」
皆がごくりと唾を飲み、トリエステの次の言葉を待った。ところが当のトリエステはなかなか答えようとしない。
というよりジェロディの目には、彼女がほんのわずか呆れているように見えた。わざともったいつけているというよりは、落胆して口を噤んでいるようだ。
しかし彼女は何を憮然としているのだろう? ジェロディがそう疑問に思ったところでいきなり、すっと挙手をした人物がいる。――カイルだ。
「……カイル? まさかあなた、自分こそがリーダーにふさわしいとか言うつもりじゃないでしょうね? だとしたら一千万年早いわよ?」
「違うよ、カミラってばひどいなー! オレは誰も答えないから、代わりに答え合わせしようと思っただけじゃん!? ていうかみんな、マジで分かんないの?」
「わ、分からないって何が?」
「トリエステさんが誰のことを言ってるかってことだよ! 黙っててもみんなに慕われる人物って、そんなの一人しかいないじゃん」
言って、カイルはさも当然そうにある人物を指差した。皆の視線も自然とそちらに吸い寄せられる。
彼らが揃って見つめた先には、ジェロディがいた。
おかげでジェロディは全員と目が合うことになり、何度か瞬きしたあと――信じられずにあとずさる。
「……は!? ぼ、僕……!? いきなり何言い出すんだよ君は!」
「またまたぁ、ほんとは自分でも分かってるんだろ? お前はあのガルテリオ・ヴィンツェンツィオの一人息子で、しかも生命神の神子だ。はっきり言ってそれだけでもうトリエステさんの存在を軽く超えてるよね? リーダーになるために生まれてきましたみたいな?」
「だ、だけど僕はまだ実戦の経験もほとんどないし、この歳でいきなり一軍を指揮するなんて……!」
「いえ。戦の指揮は軍師の仕事です、ジェロディ殿。先程申し上げたとおり、リーダーの務めは旗印となって人心を集めること。そしてそれにはあなたこそが最適だと、私もそう申し上げようと思っていました。――ジェロディ殿。亡き妹に代わって、彼女の守った救世軍を率いては下さいませんか?」
は、ともう一度聞き返そうとして、ジェロディは声が出なかった。トリエステはあくまで無表情に、しかし強い意思を湛えた瞳でジェロディを見つめてくる。
戦いに向かうフィロメーナと同じ、まっすぐな眼差し。ジェロディはその視線から逃れることができなかった。
全身が固まって、身をよじることもできない。暑くもないのに汗が出てきた。――どうして。
どうして、僕なんだ?
「ちょ、ちょっと待って下さい! 確かにティノさまにはヴィンツェンツィオのお名前がありますし、ハイムさまの神子でもあります……! ですがわたしたちが救世軍に入ってから、まだ二ヶ月しか経っていないんですよ? そもそもついこの間まで軍人だったティノさまがリーダーなんて、皆さん納得しないはずです!」
「ですがジェロディ殿は自ら救世軍の一員となって戦うことを選び、ビヴィオでもきらびやかな戦歴を飾っています。ハイムの名において己の過ちを正し、民を救い出した贖罪の英雄――世の人々はじき彼をそう評価し直すでしょう。死を偽装して隠遁していた私などより、よほど人々を率いるに値します」
「あんた、一体どこでその話を……驚いてないところを見ると、ティノ様がハイムの神子であることも最初から知ってたのかい?」
「ええ。ライリーさんからあなた方との決闘のいきさつを聞いたときに伺いました。斬られたジェロディ殿の腕からは青い血が流れたと」
まったくなんて余計なことを。思わずライリーに目をやると、彼は口笛でも吹き出しそうな顔でそっぽを向いた。彼がこうなることを見越してあのときのことを語ったのかどうかは知らないが、おかげでこちらは崖っぷちだ。
……いや、それを言ったら進んで我が身を斬らせ、〝肉を斬らせて骨を断つ〟戦法を取ったのは他ならぬ自分だった。浅はかだったのだ。ルシーンにも命を狙われている以上、軽々しく神子であることを余人に明かしてはならなかったのに。
「私とて生きている間に神子とお会いできるとは思わず驚きましたが、ジェロディ殿がガルテリオ殿のご子息であることを思えば納得です。ガルテリオ殿も世が世なら神子に選ばれていたかもしれないお方。ですが、ジェロディ殿。エマニュエルの神々は護国の英雄と名高いお父上ではなく、あなたを選んだ」
「……!」
「その意味を、どうかよくお考え下さい。あなたがハイムに選ばれたのも、フィロメーナがあなたと出逢い私のもとへ導いたのも――すべては、神のご意思です。あとはあなたに運命と添い遂げる覚悟があるかどうか、それだけですよ」
運命。
あらかじめ神々によって定められ、人の手では抗えぬもの――
この姉弟は揃ってそんなことを口にする。天才の家系と名高い彼らにそう言われたら、ジェロディまで敬虔な運命論者になってしまいそうだ。
だけど、できない。自分には、フィロメーナの跡を継いで戦うなんて。
確かに腰の剣は、彼女が求めた理想のために捧げると誓った。けれどそれは死んだフィロメーナに捧げたのであって、己に捧げたものではない。
つまり今、ジェロディが掲げているのは借り物の理想なのだ。なのに自分が次期総帥に?
困惑の渦の中、あの日のフィロメーナの声がする。
『ジェロディ。この国は今、救世主を求めているの。そしてあなたはきっと――民が求める救い主になれる』
「トリエステ」
深い深い地の底で見上げた、満点の星空と彼女の記憶。
青い回想に吸い込まれつつあった思考は、しかしそこで遮断された。
追憶を遮ったのはヴィルヘルムだ。彼はトリエステにも負けないくらいの無表情で――けれど、ほんの微か眉を曇らせながら言う。
「ジェロディにも時間をやれ。こいつはまだ若い。若すぎる。今すぐ運命に殉じろと命じるのは、いくら何でも酷だろう」
「おっしゃる意味は分かります。ですが命じたのは私ではなく――」
「――神だとしても同じこと。人は己の運命を、己の手で掴むべきだ。何もかも神に委ねるべきではない。ジェロディ、よく考えろ。お前はこのまま本当に、ハイムの神子として戦うべきなのかどうかをな」
ヴィルヘルムの隻眼はジェロディに何か訴えようとしていた。少なくともジェロディにはそう見えた。彼は一息にそう告げたのち、何故かカミラへ視線を向ける。
その横顔が何か思い詰めた様子に見えたのは、ジェロディの思い違いだろうか。彼はカミラと目が合うと、すぐにサッと顔を逸した。途端にふと胸が騒ぐ。あの二人の間には何かある、のか……?
「……分かりました。ではジェロディ殿、この件について納得のいく答えを見つけて下さい。ただし時間はあまりありません。私たちがこうしている間にも、各地に散らばった救世軍の志士たちが危険に晒されているのですから」
「……はい。それは……分かっています……」
「彼らには彼らを守る城が必要です。私たちはフィロメーナに代わって、一刻も早くその城を築き上げねばならない。どうかそれだけは心に留めておいて下さい。ライリーさん。そういうわけですので、彼らをもう少し島に留めて差し上げても構いませんね?」
「いや、断る――」
「――ジュリアーノ」
「分かった。もう好きにしろ……」
ライリーは青くなった額を押さえ、深々とため息をついた。どうやらトリエステの正体が分かった今も、彼女に対するトラウマじみた思いは拭えないようだ。
けれど今なら彼の気持ちが少し分かる。トリエステの思考は尖すぎる。
ジェロディは立ち尽くしたまま、凝然と彼女の胸元を見た。
そこではエリジオのペンダントが、音もなく揺れている。




