131.生きろ
黄暦三二八年、春。
その日、トリエステは喜びに沸くソルレカランテの地下深く、城の真下に掘られた独房で静かに死を待っていた。
正統な皇位継承者オルランド・レ・バルダッサーレを陥れ、玉座を簒奪した大逆人フラヴィオ・レ・ベルトランド。彼の片腕として偽帝軍を率いた罪で、数日後には首から上を城門に晒される身の上なのだ。
このとき暗い地下牢にいたトリエステは知る由もなかったが、当時地上は平和の再来を祝う民の歓声で溢れていた。二年にも及ぶ内乱が終結し、誰もが抱き合ってオルランドの復位を喜んだのだ。
フラヴィオ六世は始祖フラヴィオの名を受け継ぎながら実に暗愚で、しかも残虐な王であった。おかげで終戦を迎えた当時、美しかったソルレカランテの街は荒れ果て、民は皆飢えていた。その苦しみに終わりをもたらす英雄として、オルランドは歓迎されたのだ。
まるでやまない雨のごとく、歓呼の声が降り注ぐ中。
そんな地上の栄華とは程遠い世界で、トリエステは書を読んでいた。
今から百年以上も前に、とある神学者が書き遺した『神話大全』。この全五十巻にも及ぶ書物は、世界各地のあらゆる教会が発行している聖典を集め、そこに記された神話を網羅し、時系列順に編纂したというとんでもない偉業の産物だった。
著者は青年の時代からこの書に人生を捧げたと言い、随所に記された注釈や膨大な量の索引が、今も彼の情熱と信仰心とを伝えてくる。
その至聖の業の一端に触れていると、不思議に心が落ち着いた。できれば処刑の日までにすべて読みきってしまいたいのだが、城の書庫からこれの続きを取ってくることを看守は肯んじてくれるだろうか。
(いくら神々の軌跡を辿ったところで、私の穢れた魂は天界へは行けないのだけど)
版画で刷られた天樹エッツァードとそれを囲む神々の挿絵。かの大樹の麓で眠る《母なるイマ》の優しげな顔に触れながら、しかし自分はかの神の慈愛に抱かれることはないのだと、ほんの少し寂しく思った。
何故なら自分の魂の逝く先は、天界ではなく魔界だと死ぬ前から決まっている。トリエステはこの戦であまりに多くの人々を殺めた。死ぬ必要のない命を、焚き火に薪をくべるかのごとく、ただただ無造作に奪い続けた。
そうして燃え上がった炎がもたらしたのは、果てしなく続く焦土だけ。
この国の大地にも、そこに暮らす人々の心にも。
トリエステは自らの手で、草木も生えぬ暗黒の地を生み出してしまった。
そんな自分が神々の眠る天界へ召されようなんて、望むだけでも痴がましい話だ。これほどの罪は死したのちにも消えることなき永劫の苦しみでしか償えない。
トリエステは心底そう思っていたから、死ぬのは少しも怖くなかった。
己が命を一枚ずつ剥ぎ取るように、静かに神話のページを捲る。
そしてそのときは、トリエステがいよいよ最終巻の最後のページを捲った瞬間に訪れた。
「トリエステ・オーロリー」
独房に下りた鉄格子の向こうから、厳かな声が自分を呼ぶ。トリエステはチラチラと揺れる燭台の明かりの中で、書物の表紙を閉じながら顔を上げた。
牢の外に佇み、神妙な面持ちでこちらを見下ろしているのは一人の男。鋼のような肉体を、今は略式の軍装で包んだ黒鬣の獅子。
黙って立っているだけで気高く眩しい彼を見上げて、トリエステは微笑んだ。
ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ。
幼き日のトリエステを傍で見守り、戦の何たるかを教えてくれた唯一無二の恩人だ。
「お久しぶりです、ガルテリオ隊長――いえ、今は将軍とお呼びすべきですね。ギディオン将軍の推薦で、欠員が出た第一軍の将軍に就任されたと伺いました。昇格おめでとうございます」
嫌味でも何でもなく、ただの純粋な喜びから祝いの言葉を紡ぎ出せば、鉄格子の向こうのガルテリオは表情に影を落とした。
どうしてそんな顔をするのだろう。平民の出でありながら、実力だけでいよいよ将軍にまで登り詰めたのだ。確かに彼は地位や名声を欲しがるような人ではなかったけれど、黄皇国史上稀に見る快挙なのだから、もう少し喜んだっていい、とトリエステは思う。
「ですが、やはり地下にいると時間の感覚が狂いますね。私の計算では、今は処刑前日の深夜のはずなのですが……あなたが迎えにいらしたということは、とっくに日が昇っているということでしょう。何とか神話大全を読み終えることができて良かった。これでもう心残りは――」
「残念だが君の計算は正確だ、トリエステ。今はまだ真夜中で、街は深い眠りの中にある。……こんな時間まで書見に勤しんでいるとは、相変わらずだな。しかしずいぶん痩せたようだ」
「私のような罪人の口に入る食糧があるのなら、それは飢えた民衆へ届けられるべきですから。そのように計らっていただけるよう、看守殿を通じてラオス将軍にお願いしたのです」
ラオス・フラクシヌスとは当時、黄皇国軍随一の実績を誇る老将だった。オルランドの信頼も厚く、こののち新設される黄都守護隊の初代隊長となった男だ。
皇太子時代からオルランドを支え、懐刀とまで呼ばれるガルテリオすらきっと頭の上がらない人物。彼の名前を出されると、ガルテリオは眉根を寄せて何とも言えない顔をした。相手があのラオスでは、抗議のしようがないと思ったのかもしれない。
「しかし今が真夜中であるのなら、ガルテリオ殿はそんな時間にこのような場所で何をしておいでなのです? そもそもよく城に入ることができましたね?」
「陛下からお許しはいただいている。今夜は君に少々話があってな」
「逆賊フラヴィオの軍師となり、あなたの敬愛するオルランド陛下へ弓引いた私にですか?」
「確かに世間ではそのように言われているかもしれない。だがいつの世も、多数派の意見が必ずしも真実であるとは限るまい」
見台に置かれていた『神話大全』最終巻を手に取ったところで、トリエステは動きを止めた。束の間呼吸まで止まったことを、ガルテリオなら見抜いているかもしれない。
「……なるほど。そんなものの真偽を問うために、わざわざこんな穢れの溜まり場まで……あなたも変わりませんね、ガルテリオ殿」
「変わってしまったら、その時点で私は私でなくなるからな。生憎このような生き方しかできぬ石頭でね」
「それはシグムンド殿の評ですか? もしくはファーガス殿の?」
「どちらもだ。そして、亡き妻の評でもある」
革製の表紙を支える指先に、思わず力を込めてしまった。
ガルテリオの低く落ち着いた声は、西で共に戦ったときと少しも変わらず心地良い。けれど今はもう、彼の瞳を直視することができない――その資格を持たない。
「……奥様のことは、申し訳ありませんでした」
「君が謝ることではないだろう。妻が命を落としたとき、君もまた偽帝軍に追われる身であったのだから」
「ですが私にも何かできることがあったはずです。コンラート殿のように……」
「アレはフラヴィオの計画を知っていたから冷静に行動できた。しかし君にとってあの騒乱は、まったくの寝耳に水であったはずだ。第一君は、自分にできる限りのことをしたからこそ今ここにいる。違うかね?」
――ああ、やはりそうか。
ガルテリオから投げかけられた問いは、トリエステに確信を与えた。
彼はすべての事情をどこからか聞いた上でここにいるのだ。
だから、トリエステの真意を確かめに来た。
「……フィロメーナですか?」
「ああ、そうだ」
「まったくあの子はまた勝手なことを……私は私が犯した罪を、この命で贖うことに納得しています。むしろそうあるべきだと強く願ってさえいる。ですからあなたまで罪人のために手を汚す必要はありません。そのことはあの子にもよくよく言い含めておいたはず――」
「フィロメーナが縋ったのは私ではないよ。彼女は陛下の足元にひれ伏して君の助命を乞うたのだ」
「まさか」
予想外の答えに耳を疑い、トリエステは弾かれたように顔を上げた。
――笑い事じゃない。まったく笑い事じゃないのに、どうしてガルテリオは笑っているのか。彼の人柄には見習うべき部分が多々あるが、唯一こういうところだけがいただけない。
「そんな、なんて馬鹿なことを……そのような真似をすれば父が……!」
「ああ、大層お怒りだったよ。陛下の御前を汚した彼女のことを、無礼討ちにするべきだと口角泡を飛ばしてな。しかしエルネスト殿にとって最大の不運は、そこに私が居合わせたことだ」
逆光を背に佇むガルテリオを、トリエステは信じられない思いで見やった。彼はやはり笑っている。まるで悪戯の成功を喜ぶ悪ガキみたいに。
「結果として陛下は私の意見を容れて下さった。ようやく平和が訪れたこのソルレカランテで、これ以上無益な血を流したくはないとな」
「では、フィロメーナは……」
「ああ、命まで取られはしない。せいぜい数日の謹慎を命じられ、エルネスト殿からしつこく小言を言われるくらいだ。でなければ君がフラヴィオの毒牙から彼女を守った意味がなくなる」
「……」
「いや、彼女だけではないな。君は黄都に取り残された一族全員を守るため、ただ一人犠牲となった。エルネスト殿が真帝軍についたことを理由に、従わねば一族諸共処刑すると脅された――そうだな?」
「私は」
「妹たちを侮るな、トリエ。彼女らはとっくに真実に気がついている。だからこそフィロメーナも君を守ろうとしたのだ。君が二年もの間、命懸けで家族を守り抜いたように」
――やめて下さい。
そう反駁したかったのに、喉が絞まって言葉にならなかった。代わりに『神話大全』を両腕に抱き、ぎゅうと胸へ押し当てる。要らぬ感情が漏れ出さぬように。
そうだ。自分にはこれ以上の感傷も執着も要らない。ただ淡々と死を受け入れ罪を償う。そう決めたのだ。というより、そうでなくてはならない。私には自分を憐れむ資格なんてない。だからやめて欲しい。昔のように名前を呼んで、この覚悟をにぶらせるのは。
「同時に君も気づいているはずだ。エルネスト殿が何故、君たちを置いてただ一人黄都を出ていったのかを」
「……」
「エルネスト殿には分かっていたのだ。君たちを黄都に残してゆけば、奇跡の軍師の血がもたらすオーロリー家の力をフラヴィオが必ず欲すると。あるいはあの男が家族を人質に取り、君を無理矢理従わせるところまで見越していたのかもしれん。だが君を軍師として育てたのは他でもないエルネスト殿だ。ゆえに彼には、君の策を読み解くことなど造作もなかった。娘の力の限界を、父親としてよく知っていた、ということだな」
「……」
「ゆえにエルネスト殿は、君たちを敢えて置いていくことを選んだ。君がフラヴィオの軍師となれば、偽帝軍を打ち負かすことが格段に容易になるからと。そのためなら君たちがどのような目に遭おうと構わなかったのだ。そんな男の思惑のままに死ぬつもりか、トリエ」
「私は」
『神話大全』を抱いたまま、叫ぶようにトリエステは言った。ガルテリオに愛称を呼ばれることが耐え難かった。だってその名で呼ばれると、彼と共に過ごした日々とか、未来が希望に溢れて見えた頃のことが思い出されて心の均衡が揺らぐから。
「私は、それを分かっていながら……勝算のない戦に何千、何万という将兵を投じ、犬死にさせたのですよ、ガルテリオ殿。父の思惑も、自分の力が及ばぬことも分かっていたのに……たった数人の家族を守るために、数万の命を犠牲にしたのです。私にもっと力があれば、智恵があれば、彼らを死なせずに済む道もあった。けれど私には見つけ出すことができなかった。私が殺したのです。私が……!」
「トリエ」
「私は、もう……その罪がもたらす苦しみに耐えられません。たとえ神が赦すとおおせになっても、私が私を許せないのです。何よりこの二年の間に、私は身も心も穢れてしまった……そんな私が存在を許される場所など、もうどこにも――」
深く深くうなだれながら、トリエステが心の奥底に溜まった澱を吐き出した、刹那だった。
突然鉄格子が軋み、甲高く不快な音を立てる。かと思えば次の瞬間、いきなり腕を引っ張られた。腕の中から本が落ち、派手な音を立てて床に転がる。それに驚いている間に、抗えぬほどの力で抱き竦められた。
気づいたときには逞しい胸板に額を押しつけられ、身動きが取れなくなっている。トリエステは茫然とした。久しく触れていなかった温もりの向こうからは、規則正しく脈打つ彼の鼓動が聞こえた。
「すまぬ、トリエ。今の私は、君をその苦しみから救う術を持たぬ」
「ガルテリオ殿、」
「だがこれだけは分かってほしい。この世にはまだ、君の生を望む者がいる。君の幸福を祈っている者がいる……そして君を救いたいと願う者も」
「ですが、私は――」
「言っただろう。陛下からお許しはいただいた。しかし与えられた機会は今宵限りだ。私は君をここから連れ出し、黄都の外へ逃がす。フィロメーナともそう約束した。君が城壁の外で生きてゆくための用意も、万事整えてある」
「ガルテリオ殿、それは……!」
「ああ、そうだ。これは私のエゴだ、トリエ。だが私は信じている。生きていればいつか必ず、君にとっての救いがあると」
――だから生きろ、トリエ。
そう言ってガルテリオは体を離した。次いでこう付け加えたのだ。
君の罪は、私も生きて共に償う、と。
途端に溢れ出した涙を、トリエステはこらえることができなかった。自分はもう泣くことすら許されないと思っていたのに、心を覆っていた氷はあっという間に溶かされた。
ガルテリオはいつもそうだ。神のごとく力強い腕で、言葉で、眼差しで、未来にありもしない希望を見せる。そしてそれを見せられた者は、彼を信じてみてもいいなんて、うっかりそう思ってしまう。
だからトリエステも頷いた。いつかこの罪が許されるとはさすがに思えなかったけれど、生きて償うことはできるかもしれない、と思った。
彼と共になら、その苦しみにも耐えられる。むしろ果てなき罪苦を背負って生きていくことこそが、自分にできる最大の贖罪ではなかろうか、と。
「……本当にあなたは変わりませんね、ガルテリオ殿」
手を引かれて立ち上がりながら、トリエステは小さく零した。先程まで当然のように死を受け入れていた自分が嘘のようで、思わず微かに笑ってしまう。
――どうせ生まれてくるのなら、あなたの娘に生まれたかった。
その想いは、同じく微笑んでくれた彼に伝わっただろうか。
逆臣トリエステ・オーロリーが処刑されたとの噂が舞い込んできたのは、それから数ヶ月後――ソルレカランテを遠く離れた、とある閑村でのことである。