130.何千の言葉よりも
何というか、人の気持ちや場の空気なんて、彼の前では無きに等しいものなのだなとジェロディは思った。
「でさ、カミラから聞いたんだけどさ、お前あのガルテリオ将軍の一人息子なんだって? なんつーかアレだな、思ってたよりちっこくてなよっちいのなー! 常勝の獅子の息子って言うから、てっきりもっとゴツくてデカいのかと思ってたよ。ま、オレとしてはコッチの方が話しかけやすくて助かるんだけどね? てかさてかさ、そもそも大将軍の息子がなんで反乱軍の幹部なんかと一緒にいるわけ? ちょっと前にお前が黄帝を暗殺しようとして失敗したって噂が流れてたけど、もしかしなくてもアレってマジ? ここだけの話、それってガルテリオ将軍の指示だったりすんの? てことは将軍もカミラたちの味方的な? いや、もちろんオレはそういうの個人の自由だと思うし当人の意思を尊重する派なんだけどさ。でもやっぱオレたちって同志なわけだし? だったら一応その辺のことも詳しく知っときたいなーなんて思ったりなんかしちゃったりしてね!」
――誰がいつ〝同志〟になったんだ。前を行く仲間たちについて歩きながら、ジェロディは込み上げる苛立ちをこらえるのに難儀していた。
もしも自分が彼と変わらない一般市民で、厳格な道徳教育など受けておらず、誰の期待も背負っていない身だったならまず間違いなく顔面に一発くれてやっていたに違いない。
が、ジェロディがそうしないのはヴィンツェンツィオ家嫡男としての矜持と、仲間たちの信頼を裏切りたくないという誠実な気持ちがあるためだった。
それに比べて隣を歩くこの少年は一体何だ。何故こちらが露骨に放つ「話しかけるな」のオーラに気づかない?
いや、あるいは気づいていて敢えて無視しているとか? だとしたらその行動原理は? 実は一発殴られたいのか? もちろんジェロディだって本人がどうしてもと言うなら遠慮なくそうする。一発と言わず二、三発サービスしてもいい。
というか本気でほっといてくれないかな。なんで僕に構うんだ? さっきまでずっとカミラにまとわりついてたじゃないか。いや、あれはあれで腹立たしいから、心底やめてほしかったけど。
そもそもそう言う君はなんでここにいるんだ? 完全な部外者だろ? 悪いことは言わないから、僕の堪忍袋の緒が切れる前に引き返してくれ――と一思いに吐き出してしまいたいのを、どうにかこうにか嚥下する。
黄都ソルレカランテを脱してから二日目の朝。ジェロディたちは今日も今日とて、ライリーとの合流地点であるタリア湖東岸を目指していた。
天気は快晴、風も穏やか。この頃陽射しはますます春めいてきて、反逆者と呼ばれるジェロディたちをも優しく包み込んでくれる。
ところがそんな太陽神の慈愛の中にあって、ジェロディの胸中は猛烈に吹雪いていた。何せ先程からこんな調子で、やたらと軽薄な細身の少年――名前は確かカイルとか言った――がしつこく絡んでこようとするのだ。
ジェロディはそれを根気強く無視していたのだが、いよいよ我慢も限界だった。できれば関わり合いになりたくないという意思をこんなにも明確に示しているのに、態度で伝わらないのならあとは言葉にするだけだ。
「……僕がカミラたちと行動を共にしてるのは、あくまで僕個人の意思だよ。この件に父さんは関係ない。陛下の暗殺なんて目論んだ覚えもないしね。それはそうと君、さっきからずっと一人で喋ってるけど、少しはこっちの身にも――」
「いやー、でもさ、いくら将軍とは無関係とは言ってもさ、やっぱ〝ヴィンツェンツィオ〟って聞いたらガルテリオ将軍を連想するのがトラモント人のサガってやつじゃん? だからオレみたいな純情な黄皇国民は、お前の行動の裏にはガルテリオ将軍がいるんじゃないかなんて深読みしちゃったりなんかしちゃったりしてさ、むしろそうであってほしいみたいなとこもね? なきにしもあらずなんだよねー」
「……」
「あ! てかさてかさ、そんなことより気になってることあったわ! お前、実はオレと結構歳近かったりしない? かく言うオレは十六になったんだけどー」
「……僕は十五だよ」
「マジ!? てことはオレのが一個おにーさんじゃーん! じゃあお前のことは遠慮なく〝ティノ〟って呼ばせてもらうわ」
――ああ、駄目だ、こらえろ、僕。
いくら右手が疼いたって駄目だ、こらえるんだ。でないと大地に魂を吹き込んで、今すぐ彼を生き埋めにしたい衝動に負けてしまうから。
千切れそうになる理性をどうにかつなぎとめ、ジェロディは深々とため息をついた。何やら頭痛がしてきたが、ここで抗議することを諦めたらカイルの増長を手助けすることになってしまう。
だからできれば口もききたくないのを我慢して、吐いた息を吸い込んだ。前方からカミラやマリステアの心配そうな視線を感じるが大丈夫だ。こいつをあの二人のもとへ行かせるくらいなら、僕が言う。
「あのさ、カイル。僕と君とは出会ってまだ二日しか経ってないわけだよね?」
「ああ、まあそーだな。正確にはあと数刻で丸二日だなー」
「だったら分かってもらえると思うけど、幼名で呼ぶのは却下。ほとんど初対面の相手に気安く呼ばせていいものじゃないからね」
「えぇ!? ダメなの!? けどカミラやウォルドだって呼んでるじゃん!」
「あの二人はいいけど君は駄目だよ。幼名で呼び合うほどお互いを知らないし親しくもないだろ」
「冷たっ! お前マジ冷てーな!? オレの方が一個おにーさんなのにな!?」
「関係ない。年功序列を主張したいなら、それらしい振る舞いを身につけてからにしてくれないかな。生憎僕は、単に年上だからって理由だけで他人を尊敬できるほど浅薄にできてないんだ」
「ちぇっ、そーかよそーかよ、じゃあいーよ。だったら幼名呼びは諦めて、代わりに〝ジェロ〟って呼ぶからな」
「……は?」
「いーだろ、ジェロ。〝ジェロディ〟だとなんか長いしさ、こっちの方が親しみやすいって。なあ、カミラ?」
「こっちに話題を振らないで。神の怒りに触れたくないから」
「え? 神の怒りって?」
「そのうち身をもって知ることになるんじゃない? まあ私は知らないし助けないけどね」
えー! ひっでーな何だよそれ、オレたち恋人(候補)だろカミラー! と猫撫で声を上げて駆けていくカイルを、ジェロディは心底からの軽蔑と嫌悪の眼差しで見送った。あれほど初対面で親しくもないことを強調したのに、彼はすっかりジェロディを愛称で呼ぶつもりでいる。果たしてこんな無礼な話が他にあるだろうか、いや、ない。
一体どうしてこんなことになったんだ。ジェロディは激しい眩暈と徒労感に襲われ嘆息した。何だかカイルと出会ってからため息ばかりついている気がする。特に今日はジェロディの人生の中で、最もため息が多い日かもしれない。
……まあ、おかげでオーウェンのことを考える時間が減ったのは有り難いけど。
今はカイルに対する苛立ちとか負の感情が渦巻いているおかげで、オーウェンの裏切りなんてちっぽけなことに思えてきた。いや、もちろん全然ちっぽけなんかじゃないし思い返すと気が滅入るのだが、少なくともジェロディとオーウェンの間にはこれまで積み重ねてきた信頼がある。
だから彼の背信にショックを受けこそすれ、憎悪する気にはなれなかった。ただ一体何が彼をそんな行動へ駆り立てたのか、それが疑問で仕方ない。
ジェロディの知るオーウェンという男は、確かにおちゃらけたところもあるけれど、本質的には正義感の強い直情家だった。彼の性格を考えればよほどの理由がない限り、ガルテリオと敵対するルシーンについたりするはずがない。
だとしたら何故? あのときオーウェンがジェロディに叩きつけた言葉はどこまでが真意だったのだろうか? あるいはオーウェンは、ジェロディの首を取ることでガルテリオを救おうとしている……?
だけど中央でルシーン派が幅を利かせている限り、いくらジェロディを討っても問題は解決しない。オーウェンだって政情は理解しているはずだ。
だったらどうして――駄目だ。また堂々巡りだ。オーウェンから話が聞けない以上、どれだけ憶測を重ねたって無駄なのに。
四六時中そんな気分のまま、タリア湖までの数日を過ごした。相変わらずカイルはうるさいし鬱陶しいけれど、だんだん皆もあしらい方を心得てきて、なあなあな空気になりつつある。
軍はジェロディたちがまだ黄都にいるものと思っているのか、追っ手と遭遇することはついになかった。おかげでジェロディたちはさしたる脅威もなく、ライリーがタリア湖の浅瀬に挿した棹のもとへと帰り着く。
「……チッ。無事に戻ってきやがったか」
合流地点に到着した翌日。約束どおり迎えに現れたライリーは、口元を歪ませまったく失礼なことを言った。彼と共に来たジョルジョなどは手放しで無事を喜んでくれたが、ライリーとしてはこのままジェロディたちが戻ってこないことを期待していたらしい。
「で? 例の手紙とやらは無事に届けられたのかよ」
「まあな。だからこうしてここにいる。分かったら早く船を出してもらえるか」
「うるせえ、俺に指図すんな。つーかそこのガキは何だ、新顔だな?」
「だってさ、ジェロ。挨拶したら?」
「そっちじゃなくててめえのことだよこのスカタン」
「え!? オレ!?」
お前以外にいるわけないだろ、と誰もが思っているに違いない中で、カイルは大仰に驚いた。目の前にいる男が悪名高きライリー一味の棟梁であることは事前に伝えてあるのだが、カイルのふざけた物言いはまったく改められる気配がない。
「やあやあライリー親分、その言い草はあんまりじゃないッスかね~。オレとアンタの仲じゃないスか、冗談はよして下さいよ~」
「え? ライリー、カイルと知り合いなの?」
「いや、知らねえよ。なのになんでこんな狎々しいんだこのガキは。シメられてえのか?」
「いやいやいやいや! だってライリー親分って言ったらさ、かの有名なマウロの親分の弟分っしょ? 実はオレ、ずっとマウロの親分のファンだったんスよ~! マウロ一味のマウロと言えば死なすには惜しい大侠客、まさに男の中の男、任侠の世界じゃ後世までの語り草になること間違いナシって言われてるお方じゃないッスか! いやー、叶うことならお二人が揃い踏みしてるところも一度見てみたかったなー!」
大袈裟な身振り手振りを加え、わけ知り顔でカイルが捲し立てるや否や、刀把に置かれたライリーの手がぴくりと動いた。
だけどそれは得物を抜くためじゃない。単に知らない少年の口から義兄弟の名が出たことに、体が自然と反応を示したようだ。
「……おい、お前。マウロの野郎を知ってんのか」
「まー直接会ったことはないんだけどね? お噂はカネガネってヤツ? 竜牙山の山賊リンチェ一味と互角に戦り合った話とか、脱獄不可能と言われたフォルテッツァ大監獄からの大脱走の話とか、とにかくすげー伝説ばっか残した人じゃん? まるで始まりの侠客サクラギの再来みたいな? そんな大悪党に認められて義兄弟の契りまで交わしたとか、めちゃめちゃ羨ましいっていうね? できれば元気だった頃の親分の話をもっと聞かせてほしいなーなんて?」
「よし。ジョルジョ、レナード、船を出せ。話なら島に向かう途中で聞かせてやる」
「えぇ……!? いいの……!?」
と驚いたのはカイルではなくジェロディたちの方だった。てっきりライリーの性格なら、カイルのめんどくささを理解した時点で怒り出すと思っていたのに、まったくそんなことはないようだ。
むしろ船へ向かうライリーは心なしか嬉しそうで、走り寄って行ったカイルが零號を褒めるとますます上機嫌になった。なんだ話の分かるやつもいるじゃねえかとカイルの背中を叩く姿は、まるで昔からの知り合いみたいだ。
「……。なんつーかよ。こうして見ると、あいつは俺たちには到底理解できねえなんかの才能を持ってんのかもな」
「ああ……本当にそんな気がしてくるんだから恐ろしいよ……」
隣から聞こえるウォルドとケリーの会話に同意しつつ、ジェロディたちも続いて船へ乗り込んだ。レナードの逞しい腕に綱を引かれ、白い帆を開いた零號は、コルノ島を目指して滑るように動き出す。
「うおー!? すげー、霧だー! 真っ白だー!」
岸を離れてから数刻後。ジェロディたちを乗せた船は無事に島へと舞い戻り、再び魔霧の中へと吸い込まれた。
いや、この霧は魔物が起こしているものではないそうだから、正確にはただの濃霧か。年中霧が島を覆っているのには何か仕掛けがありそうだけど、今は謎の解明よりもブレナンへの報告が先決だ。
「――そうですか。手紙は無事届けていただけましたか。ご足労いただきありがとうございました」
コルノ島の東に佇む湖賊の砦。その広間でブレナンと一月ぶりの再会を果たしたジェロディたちは、黄都での事の顛末を一部始終彼女に伝えた。
初めてこの島へ乗り込んだとき、カミラが神術で破壊した砦の上階は修復されつつあるようだ。外には手組みの足場が築かれ、湖賊たちが上でワイワイやっている。掛け声と共に聞こえてくるのは、滑車の回る音や木槌の音。恐らく島には農業だけでなく、大工の知識がある者もいるのだろう。
「ちょ……あの、カミラ、あちらの美人さんは誰……?」
「ブレナンさんよ。私たちはあの人のお使いで黄都へ行ってたの」
「マジか……ヤバいな。オレ、ちょっと浮気しそうかも……」
「あの人はやめといた方がいいんじゃない? たぶん手酷い返り討ちに遭うわよ」
「……あれ? カミラ、それってもしかして――嫉妬で言ってる?」
「テオ・エシュ・イミヒオ……」
「わー!? うそうそ、ごめん! 謝るから燃やさないで!」
(うるさいな……)
ヴィルヘルムたちがこもごもに事情を説明している間、背後から聞こえてくるカイルの悲鳴にジェロディは顔をしかめた。
しかし他方ブレナンは、初めに一瞥を向けて以降まったくカイルに興味を示さず、いくら騒がれたところで微動だにしない。まるでカイルの声も聞こえなければ姿も見えていないみたいだ。……見習わなければ。
「それで、手紙を読んだロメオは何と?」
「まずはお前に届けてほしいと金貨三百枚。恐らくお前は必要ないと言うだろうが、あるに越したことはないはずだからとな」
「……」
「あとは――ジェロディ」
「はい」
振り向いたヴィルヘルムの隻眼に促され、ジェロディはブレナンの前へ進み出た。そうして上着の懐をあさり、大切にしまい込んでいたエリジオのペンダントを引っ張り出す。
繊細な銀の鎖に下がる、《白水花》が刻まれた紡錘型のロケット。それを掌に乗せて差し出せば、ブレナンはしばし無言でジェロディの右手を見つめていた。
が、やがて白く細い指が伸びてきて、静かにペンダントを掴む。
彼女はまるで割れ物でも扱うみたいに両手を重ね、そこにペンダントを置いて眺めた。しかしやはり口をきかない。手の中のロケットを見下ろしたまま、身じろぎもせず黙りこくっている。
「あの……ブレナンさん?」
「……」
「エリジオは、そのペンダントを返事の代わりにしてくれと……それを渡せば、あなたは自分の考えをすべて理解してくれるから、と言っていました」
「……」
「僕たちにはどういうことなのか、見当もつかないけど……ひとまずロケットの中身を見れば、何か分かるんじゃないでしょうか?」
「…………ないのです」
「え?」
「私には、ないのです。このロケットを開ける資格は……」
――開ける資格がない?
その口振りまるで、彼女はロケットの中身を初めから知っているみたいだ。
だとすればエリジオは、すべて承知の上でジェロディにペンダントを託したのだろうか。確かにこれは何千の言葉よりも大切なものだと、彼はそう言っていた。
ブレナンは既に、そうしたエリジオの意図を理解している?
だけどそれなら、エリジオがこれを託した意味とは……?
「ロケットを開ける開けないに資格なんてもんが要るのかよ。お前がどうしても開けないってんなら、こっちで中身を改めさせてもらうぜ」
「えっ……あっ、ちょ、ちょっとウォルド……!」
と突然歩み出たウォルドが、断りもなくブレナンの手からペンダントを奪った。気づいたカミラが止めようとしたときにはもう遅い。
ウォルドなんかが握ったら簡単にひしゃげてしまいそうな銀のロケットは、彼の手によってたやすく口を抉じ開けられた。
が、途端にウォルドが動きを止める。彼はロケットの中に収められていたものを見て、言葉を失っているみたいだ。
「えー、なになに? オレも見たいんだけ――どっ……!?」
と、野次馬根性を剥き出しにして覗き込もうとしたカイルは、瞬時にカミラに突き飛ばされた。彼女は彼の代わりにとでも言うように、ウォルドの手の中へ目を落とす。つられてジェロディたちも集まった。勝手に中を覗いていいのかという葛藤はあったが、ブレナンは何も言わない。
だからその無言に甘えてロケットの中を覗き込み――そして誰もが息を飲んだ。
「こ……れ……まさか、エリジオと……フィロメーナ、さん……?」
辛うじて絞り出した言葉に、ブレナンからの返事はない。
何も答えないということは肯定しているのか。ロケットの中に入れられた小さな小さな肖像画、そこに姉弟と並んで描かれている亜麻色の髪の女性が、他でもない彼女であることを――
「なんで……ブレナンさんが、エリジオたちと一緒に? これじゃまるで……」
「――やっぱり……」
「え?」
「確証がなかったから、はっきりするまで黙ってようと思ってたんだけど……ブレナンさん、あなただったんですね。フィロのお姉さんって」
「フィ……フィロメーナさんのお姉さん……!?」
ゆっくりと顔を上げ、ブレナンを見据えたカミラの言葉に、一同は揃って驚愕した。ジェロディはフィロメーナに弟がいたことさえつい最近知ったのに、その上今度は姉がいた……?
とてもじゃないが驚きすぎて、すぐには受け入れられなかった。ただただ頭が真っ白になり――ブレナンが伏せた瞼の先、反り返った長い睫毛が、フィロメーナのそれと瓜二つであることに気づく。
「……ええ、ご推察のとおりです。では改めて名乗りましょう。私の名前はトリエステ・オーロリー。あなた方がよく知るフィロメーナの異母姉にして――かつて偽帝軍の軍師を務めた、オーロリー家の長女です」




