127.赤眼のオーウェン
窓の外をじっと眺めながら、これからどうすべきなのか考えていた。
もちろん大元の目的は変わらない。まずは救世軍を立て直し、軍備を増強して黄皇国を打倒する。
考えなければならないのは、そこへ至るまでの細かい過程だ。一口に救世軍を再興すると言ったって、それにはまず金が要る。新しい拠点を得るにしても再び人を募るにしても、先立つものがなければすべては虚しい絵空事。何とも世知辛い話だが、こればかりは精神論や志だけではどうにもならない。
だが第一の関門である活動資金については、当面どうにかなりそうだ、というのがジェロディたちの見解だった。
一行は現在ソルレカランテの中心街、城前広場に馬車を停め、半刻(三十分)ほど前に出ていったヴィルヘルムの帰りを待っている。
窓の外に見えるのは、交差した枝と四つの輪が描かれた吊り看板。あれこそが他でもないグリーヴ金融商会の紋章だ。
ヴィルヘルムは現在エリジオから受け取った小切手を換金するため、一人であの商会の支店へ出かけていた。グリーヴ金融商会のソルレカランテ支店は見上げるほど高い黄砂岩造りの四階建てで、規則正しく並んだ硝子窓が、商会の秩序と財力をありありと物語っている。
ソルレカランテの城前広場はこうした大手商会や有名料理店、宿屋に花屋に各種協会、そして東方金神会の大聖堂までもが並び立つ繁華街の心臓だった。
そこから街の南門まで伸びる目抜き通りは、ここで揃わぬ物はないと言われるほどの商店街だ。あの道の先にある門を潜り、北へ向かってまっすぐ歩いてくると、旅人はまず女神の噴水の向こうにそびえ立つソルレカランテ城を目の当たりにすることになる。
黄皇国の豊かさを象徴する三人の水の女神と、彼女らが水瓶から注ぐ清水を湛えた細い水路。その水の流れる先には早くも春の花が咲き始めた花壇があり、身なりのいい子供たちが笑顔ではしゃぎ回っていた。
さらに小綺麗な食堂が並ぶ一角へ目をやれば、恋人かはたまた若い夫婦か、とにかく仲睦まじそうな男女が笑いながら食事をしている。二人の食卓を彩るは、一流シェフが丹精込めて飾りつけた美しい料理たち。
花屋の前では赤い花束を抱えた紳士が店員へ優雅に一礼し、命神の刻(十三時)を告げる教会の鐘が鳴れば少女たちが慌て出し、噴水の前では待ち人を迎えた青年が嬉しそうにはにかんだ。
いつもどおりだ。
何もかもが、ジェロディが追われる前のソルレカランテのまま。すべては見慣れた光景で、つい二ヵ月ほど前まで当たり前のようにそこにあった日常だった。
それが何故か今、ジェロディの胸を掻き乱す。この感情は苛立ちだろうか、はたまた失望だろうか。
だって天下の大将軍ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの息子が謀反を企て逃亡したなんて噂が流れても、街の様子は何一つ変わっていないのだ。
別にこの街の人々に憐れんでほしいわけじゃない。ただ自分がいなくなったところで何も変わらない街並みが――変わろうともしない人々が薄情に思えた。黄都を一歩出ただけで、自分の人生はこんなにも変わってしまったというのに。
(あるいはみんな、敢えて変わらない日常を演じているんだろうか)
不変という名の安寧に身を浸していたいから。真実を知ることで、今ある小さな幸せや平穏を失うのが怖いから。
だから誰もが無関心の鎧を着込んで現実から身を守っている。余計なことに首を突っ込み、人生を棒に振るような生き方の方が実は愚かなのかもしれない。だけど、それでも。
(それでもこの国には、そんな生き方を選んだ人たちがいる――)
だから、僕も。
心の中で強く念じながら、手の中にあるペンダントの感触を確かめた。
ロケットの蓋に彫られた《白水花》を指先でなぞりながら、ぼんやりと物思いに耽る。ところがそのとき、
「――皆さん、伏せて下さい……!」
突然馭者台に通じる小窓が開いて、馭者が切迫した声を上げた。馬車に乗り合わせていた皆は驚きつつも、とっさに身を屈めている。ここまでいくつもの修羅場を潜り抜けてきただけはあり、マリステアまでもが完璧な身のこなしだ。
「ど、どうかしたんですか?」
「憲兵隊です」
「え?」
「広場の向こうに、憲兵隊長のマクラウド・ギャヴィストン殿が……こちらには気づいていないようですが、念のため身を隠しておいて下さい」
――憲兵隊長のマクラウド。
その名前を聞いた途端、ジェロディはサアッと体温が下がるのを感じた。
寵姫ルシーンの腹心にして、ジェロディが黄都を追われる直接の原因を作った張本人。憲兵隊長としての地位と職権を振りかざし、今や城内でルシーンの次に好き放題している男……。
「だがどうしてマクラウドがこんなところに? あの男が城を離れることなんて滅多にないはず……」
「恐らく七番街にある光神真教会へ行くところでしょう。本日は真教会の聖職者と教徒による会合があるとの噂ですから……」
「光神真教会に? しかしあの男は東方金神会の教徒では……」
「ええ、ですから真教会の偵察と牽制に憲兵隊長自ら足を運ばれるのですよ。近頃城下では金神系教会と真教会との間でいさかいが絶えません。それを理由に憲兵隊が不当な弾圧を……マクラウド殿は東方金神会の司教たちと蜜月な関係だと言いますから……」
「……なるほど、先日ヴィルヘルム殿がおっしゃっていたアレか。ロクサーナが聞いたら激怒して暴れ出しそうな話だな」
マリステアの肩を抱えるようにして身を伏せたまま、苦々しげにケリーが言った。黄帝オルランドが神子ロクサーナの言葉を拒んだがゆえに起きた異教徒間の紛争。まさかそこにあの男までしゃしゃり出ているなんて。
ジェロディは胸焼けにも似た感情が迫り上がってくるのを感じて、嚥下するのに難儀した。叶うことなら今すぐ馬車を飛び出して、あの男の罪をことごとく暴いてやりたい。
だがそんな衝動を鎮めるべく、ジェロディはそっと小窓の縁から外を覗いた。
いくらあの男が無能とは言え隊長は隊長。ならば従者も連れずに街中を闊歩するということはありえまい。その従者の数を見れば、さすがに無謀だと自分の理性が判断するはず……。
ところがジェロディの目算は瞬時に崩れた。
何故なら広場を抜けて七番街方面へ向かう群衆の中に、見慣れた後ろ姿があったからだ。
「……オーウェン」
「え?」
思わず茫然と零した言葉に、マリステアが反応した。
けれど間違いない。広場の喧騒を横切っていくすらりとした長身。日が照ると紫がかって見える長い黒髪。同じく黒い外套に、ジェロディの身の丈ほどもある背中の大剣――
「間違いない、オーウェンだ……!」
「えっ!? ちょ、ちょっとティノくん……!」
呼び止めるカミラの声なんて、ちっとも耳に入らなかった。ジェロディは大急ぎで外套のフードを被り、オーロリー家の馬車から転がり出る。
脇目も振らず飛び出してきたジェロディに、驚いた通行人が道を開けた。しかしそれすら気にかけている暇もなく、石畳を蹴って走り出す。
「おい、ティノ! 何やってんだ、戻ってこい……!」
後ろからウォルドの怒声が聞こえた、ような気がした。しかしいずれも意識に引っかかり損ねて思考の外へと落ちていく。
――オーウェン。
見間違えるはずがなかった。この十年、家族のように共に過ごした。もちろん彼は父の部下として、屋敷よりグランサッソ城にいた時間の方が長い。でも。
(必ずまた会おうって、約束した……!)
とっくに黄都を離れ、西を目指しているはずの彼が何故まだこの街にいるのか。その理由は分からなかった。
けれどそんなのは本人に直接会って確かめればいいことだ。もしかしたら屋敷に残ったメイド長のため、黄都に留まらざるを得ない状況になっているのかもしれない。
もしもそうなら、彼らの助けになりたかった。道行く人々の間を擦り抜け、時折ぶつかりそうになりながらもオーウェンを追う。「危ないだろ!」とか「どこ見てるのよ!」とか次々怒声が飛んでくるが構わない。
途中何度か人混みの向こうに見失いかけたが、オーウェンの長身と長い髪はいい目印になった。ジェロディが広場を抜ける頃、彼は七番街へと続くエノテカ通りをまっすぐ進み、少し先で横道へと吸い込まれていく。
「オーウェン!」
だからジェロディも彼の名を呼ばわりながら、全速力であとを追った。オーウェンが消えた横道へ滑り込んだところで、四枝(二〇メートル)ほど先に黒い後ろ姿を捉える。
「オーウェン、待ってくれ……!」
躓きそうになりながら、いま出せる限りの大声で彼を呼び止めた。するとオーウェンも気がついたのか、足を止めてこちらを振り向いてくる。
「……ティノ様?」
やっぱりオーウェンだった。
すっと通った鼻筋も切れ長の目も、きりりとした眉も。
すべてがジェロディの知る彼のものだ。おかげで人違いではなかったことに対する安堵と、無事に再会できた喜びで不覚にも泣きそうになる。
だからジェロディは、ついつい邪魔なフードを外した。
こちらを向いたオーウェンの後ろに、複数の人影があることにも気づかずに。
「オーウェン……! 良かった、無事で……!」
「……ティノ様、どうしてここに……?」
「あれから色々あってね、一度黄都へ戻ってきたんだ。だけどまさか君と再会できるなんて――」
「――どうしたのだ、オーウェン?」
刹那、ジェロディの言葉は怪訝そうな男の声に遮られた。オーウェンを呼んだのは彼の長身に隠れ、降りかかる建物の影を被った人物だった。
だがジェロディは、その声に聞き覚えがある。
男のそれにしてはやや高く、どこかねちっこい響きを帯びた声。
「え、」と思わず漏らした吐息は、オーウェンの後ろから現れた足音に掻き消された。
そうして彼の隣に立ったのは――マクラウド。
黄金の縁取りがされた軍綬を下げ、胸にはこれ見よがしにいくつもの勲章をくっつけた、憲兵隊長のマクラウド・ギャヴィストンだ。
「な……!? き、き、貴様は、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ……!?」
「ま、マクラウド……!? なんでお前がここに……!?」
「そ、それはこっちの台詞だ馬鹿者! 貴様ァ、陛下に弓引いた反逆者の分際で、よくもこの私の前に姿を現せたな!? もしくは己の愚かさに嫌気が射して捕まりに戻ってきたか、神をも欺く大罪人め!」
「ち、違う、僕は……オーウェン、どうして君がそんなやつと一緒に……!?」
「ハ! なるほど、さてはかつての部下に助けでも求めにきたか! だが残念だったな、こいつは今や私の部下だ! おいオーウェン、今こそ貴様の忠誠を示すときだぞ! そこにいる身の程知らずの愚か者を貴様の手で引っ捕らえろ!」
「な……」
ジェロディは耳を疑った。
オーウェンが今はマクラウドの部下だって?
そんな馬鹿な話があるものか。ジェロディは愕然とオーウェンを顧みた。
彼は無言でジェロディを見据えている。影の下から見つめてくる眼差しはひどく不穏で――暗い。
「お、オーウェン……? 何かの間違いだろ? 君がマクラウドの下につくなんて……」
「……すみません、ティノ様。ですが――」
そのときだった。オーウェンの全身からにわかに殺気が噴き出し、猛獣の咆吼のごとく吹きつけた。
彼の手が背中の大剣へと伸びる。鞘鳴りがした。次の瞬間、オーウェンの長身は宙を舞っていた。
頭上から重量級の得物が振り下ろされる。すんでのところで我に返ったジェロディは、とっさに背後へ跳躍した。ほとんど同時に降ってきた切っ先が空振りし、ジェロディの足元にあった石畳を叩き割る。
破片が飛び散り、数瞬あたりは砂埃に覆われた。しかしなおもジェロディは茫然としているしかなかった。
徐々に薄れていく砂塵の向こうで、ゆらり、オーウェンが体を起こす。
そうしてこちらを見た彼は、笑っていた。
ジェロディの知らない赤い眼で。
「ですがルシーン様の望みを叶えるためには、ティノ様が奪った《命神刻》が必要なんです。それにここであなたを討てば、ガル様の名誉は保たれる。ガル様はティノ様にとっても大事なお父上でしょう? だったらここで――大人しく死んで下さい」
嘘だ。
ジェロディは立ち尽くしたまま、そう囁くだけで精一杯だった。
その囁きは当然ながらオーウェンには届かず、再び大剣が振りかざされる。
殺気の塊が突っ込んできた。斜めにかかる建物の影の下で、オーウェンの瞳は炯々と赤く閃いていた。
刃が鈍い音を立て、迫ってくる。しかしジェロディは動けなかった。現実に打ちのめされたまま、剣を抜くことすら叶わずに、
「――オーウェン!」
視界に草色の髪が飛び込んできた。馬の尻尾のように高く結われたそれが、オーウェンの剣を受け止めた衝撃で大きく揺れる。
言うまでもなく、ケリーだった。彼女は横にした槍の柄でオーウェンの狂気を止めていた。
衝突した瞬間はさすがに彼の膂力に押され、ずずっと押し戻されたが倒れない。彼女は両脚を踏ん張ってオーウェンの大剣を支え、怒りを湛えた眼差しで彼を睨み据えている。
「オーウェン、あんた……! 自分が誰に剣を向けてるか分かってんのかい! まさかたった二ヶ月会わない間に、主の顔も忘れたなんて言うつもりじゃないだろうね!?」
「ケリー、邪魔だ。そこをどけ」
「どくのはあんたの方だろ! 本気でティノ様に手を上げるつもりなら、いくらあんたでも容赦しないよ!」
「ヒャハハハハッ! 無駄だ! オーウェンは貴様らのような反逆者に与した罪を悔い改め、その償いとしてルシーン様に永遠の忠誠を誓ったのだ! もはや貴様らの言葉に耳を貸す義理はない!」
「そ、そんな……嘘ですよね、オーウェンさん!?」
背後からマリステアの悲鳴が聞こえた。見ればいつの間にか路地の入り口には、馬車に置いてきたはずの仲間が集まっていた。
マリステアたちだけじゃない。ヴィルヘルムもだ。ちょうどグリーヴ金融商会での換金を終えて戻ってきたのか、背中にはかなり大きい旅嚢を背負っている。エリジオがつけてくれた馭者の姿はないから、彼だけが騒ぎを逃れて主のもとへ帰ったのだろう。
「さあ、オーウェン! ガルテリオの汚名を晴らしたければ、さっさとそこのガキどもを叩き伏せろ! お前たちも、今日という今日こそはやつらを逃がすな!」
「はっ!」
マクラウドの後ろに控えていた憲兵たちが、ぞろぞろと現れ剣を抜いた。その数、ざっと十数名。対するこちらは六人だ。
しかもここは黄都ソルレカランテで、彼らの陣地。マクラウドが一声上げれば、すぐに何倍もの敵兵が集まってくる。
そうなったら勝ち目はない。逃げなければ。
頭ではそう分かっているのに、足が竦んで動けない。
「かかれ!」
号令一下、猛り狂った憲兵たちがジェロディ目がけて突っ込んできた。ケリーはオーウェンを阻むので手一杯だ。自分の身は自分で守らなければ。
震える右手で剣を掴んだ。しかしそれを引き抜くより早く、間合いに敵兵が走り込んでくる――間に合わない。
そう思った刹那だった。ジェロディの左右から瞬時にカミラとヴィルヘルムが飛び出してきて、目の前に迫った憲兵を斬り伏せた。
と同時にものすごい力で後ろから腕を引かれる。ウォルドだ。彼は小柄なジェロディを軽々とマリステアの方へ押しやると、カミラたちを躱してやってきた憲兵と斬り結ぶ。
「おい、ティノ! このままじゃまずい、こいつらを蹴散らしてずらかるぞ!」
「で、でも……」
「昔の仲間だか何だか知らねえが、ここで捕まったら一巻の終わりだ! あの長髪のことは今はほっとけ!」
違う、それは君たちがオーウェンを知らないからで――と出かかった言葉を、ジェロディは何とか飲み込んだ。
確かにウォルドの言うとおりだ。騒ぎが大きくなればなるほどジェロディたちは窮地に追いやられる。オーウェンの心変わりの原因も分からない今、見込みのない説得に時間をかけるのは愚策だ。ここは逃げるしかない。オーウェンを置いて逃げるしか……。
「……っ、マリー、神術を……!」
「えっ……!?」
「水神の息吹だ。あの神術を使えば、一時的に敵を攪乱できる……!」
「で、ですがオーウェンさんは……!?」
「オーウェンのことはあとだ! 迷ってる時間はない!」
迷いを振り切り、オーウェンの名を叫ぶ心を引きちぎって、ジェロディもついに剣を抜いた。そうして斬りつけてきた敵兵の得物を弾く。――マリー。この状況を脱するには、彼女の神術に頼るしかない。でも。
マリステアは震えていた。胸元に手を当てて立ち尽くしたまま、裂けんばかりの悲しみと戸惑いに身を竦めていた。
家族というものに対して誰よりも思い入れのあるマリステアのことだ。オーウェンの裏切りに激しいショックを受けたのは分かる。分かるが、今は……。
「マリー!」
「――水神の息吹……!」
ジェロディが名を叫ぶのと同時に、マリステアの右手が閃いた。水刻から発せられた青い光は瞬く間に拡散し、白い霧へと姿を変える。
一時的に濃霧を発生させ、敵の視界を奪う神術だった。案の定、霧の向こうで憲兵の動きが止まったのが分かる。マクラウドも何事か喚き立てているようだ――今しかない。
「行くぞ……!」
霧の中から走り出てきたウォルドが先陣を切った。次いでカミラ、ヴィルヘルム、ケリーの三人も路地から飛び出してくる。
仲間がみな無事であることを確かめて、ジェロディも駆け出した。マリステアの手を掴み、先を行くカミラたちのあとを追う。
「オーウェンさん……どうして……っ」
走りながらマリステアの声を聞いた。振り向かなくても分かる。失意の中で、マリステアは泣いていた。何度も嗚咽を零していた。
けれど今のジェロディには、彼女の手を強く握ってやることしかできない。
オーウェンはルシーンへ寝返った。
ソルレカランテのあちこちから、警笛の音が聞こえ始めている。




