126.君といきたかった
小さな小さな真珠のような一雫が、窓から射し込む陽光を浴びて輝きながら落ちていった。エリジオの瞳から零れたそれは、やがて彼の足元で弾けて消える。
ジェロディはかける言葉が見つからぬまま、天鵞絨の長椅子に腰かけた少年をただじっと見つめていた。ブランチ邸の応接室はもうしばらくの間、時が止まったような静寂に包まれている。
「……そうですか。やはり姉は、先の掃討作戦で……」
待つには長く、真実を受け入れるにはあまりに短い空白のあと。エリジオはようやく唇を開き、掠れた声を絞り出した。
ジェロディたちは既に全員が顔を晒し、やりきれない思いで立ち尽くしている。自分でも受け止めきれていない現実を他人に伝えるということが、こんなにも苦く胸掻き毟られる行為だということを、ジェロディは今日まで知らなかった。
「作戦の噂は、聞いていました。このところ軍は〝全国の反乱勢力を一掃した〟としきりに喧伝していましたから……だから私も、覚悟はしていたのです。いいえ、していたつもりでした。ですがやはり心のどこかで、姉上はきっと無事でいると信じていたかった……」
うなだれたまま震えた声で言い、エリジオは目元を押さえた。その白い指の間からぽろぽろと零れ落ちていく涙は、やはり春陽を受けて場違いなほど輝いて見える。
そんな甥の姿を見ていられなくなったのか、セルジョが隣から手を伸ばし、華奢なエリジオの肩を抱いた。彼の方は年長者らしく平静を保ってはいるものの、よく見ると両目が真っ赤だ。
肩を寄せ合い、どうにか悲しみを乗り越えようとする遺族の姿は、ジェロディの心をこれでもかというほどに打ちのめした。自分たちはフィロメーナを救うことができなかったのだという事実が改めて無力感の渦となり、ジェロディの自我も矜持も、何もかもを呑み込もうとする。
「ごめんなさい。謝ったって、あなたのお姉さんが帰ってくるわけじゃない。だけど、あのとき……あのとき私がもう少し早く駆けつけていれば、フィロはきっと――」
「いいえ。どうか謝らないで下さい。むしろあなた方は姉を救うため、命も惜しまず戦って下さった。そのあなた方に感謝こそすれ、なじる権利は私にはありません。姉が民のために血を流している間、私は黄都で多くのものに守られ……家や、立場や、己の無力さを言い訳にして、安逸に逃れていただけなのですから」
エリジオの自嘲めいた言葉は、ズキリとジェロディの胸に刺さった。今でこそこうしてこちら側に立ってはいるものの、自分だって元はエリジオと同じだ。
カミラたちと出会わなければ己の無知と愚かさに気づかず、父やマリステアやケリーたち――自分を手放しで守ってくれるものに甘えてぬくぬくと生きていたはずだった。
そういう自分の姿を思い返すだけで、今は憎悪が腸を灼く。カミラがあと一歩遅かったと己を責めるならジェロディだって同罪だ。
もう少し早くこの国の真実に目を向けていれば、もっと別の方法でフィロメーナを救えたかもしれなかった。今はただ、そんなことなど思いつきもしなかった過去の自分を打ち据えたい衝動に苛まれるばかりだ。フィロメーナが抱えていた苦悩や葛藤に比べれば、ずいぶんとちっぽけで罰にすらならない懊悩だけど。
「ですが、今は……不遜だとは知りつつも、姉に代わってお礼を言わせて下さい。カミラさん、あなた方が傍にいて下さったおかげで、姉上は孤独ではなかった。ジャンカルロさんの訃報を聞いたときから、私はずっと心配だったのです。一人遺された姉上は今、どんなに心細い思いで戦われているのだろうと」
「私は――」
「姉上を守れなかった、とおっしゃりたいのなら、申し上げます。姉上の死は誰のせいでもない。ただ、運命だったのです」
「運命……?」
「ええ。あらかじめ神々によって定められていた、運命です。私たち人間はそれに抗うことなどできはしない。ですがそんな中でも姉上は、最期に誇りを守って逝くことができた。他ならぬあなた方のおかげです。ひとりきりだった姉上に最後まで寄り添って下さって――本当に、ありがとうございました」
カミラは何か答えようとして、しかし言葉にならなかったようだった。彼女はただ唇を噛み締め、肩を震わせて顔を伏せる。
そうして必死に嗚咽をこらえるカミラの肩を、ケリーがそっと抱き寄せた。隣でマリステアももらい泣きしている。
彼女たちの姿を見たエリジオはほんの少しだけ微笑んで、ようやく目元の涙を拭った。腫れ上がった瞼はまだ痛々しいものの、それでも彼はいくばくかの気丈さを取り戻して言う。
「しかし驚きました。姉のお仲間だった皆さんが私を訪ねてこられたこともそうですが――ジェロディ殿、まさかあなたとこんな形でお会いすることになるなんて」
と不意に話を振られ、ジェロディはわずかばかり目を丸くした。こちらはフィロメーナに弟がいたことも初耳だったというのに、エリジオの方は初めからジェロディを知っていたようだ。
「え……あ、えっと、僕ら、一応これが初めまして、だよね……?」
「ええ、面と向かってお話するのは初めてですね。ですが以前一度だけ、馬車ですれ違ったことがあるのですよ。あなたは馬に乗って郊外へ行かれる途中だったようで、そのとき同乗していた親戚が教えてくれました。あれが夜会にまったく出てこないことで有名なガルテリオ将軍のご子息だと」
まるで珍獣のごとき言われように赤面して、ジェロディは曖昧な返事と共に視線を泳がせた。エリジオは可笑しそうに笑っているが、同年代の詩爵にまでそういう目で見られていたのかと思うとさすがにちょっと恥ずかしい。彼と自分を比べると、同い年で爵位も同格だというのに、育ちがまるで違うことが歴然と知れてしまうし。
「以来何年も、一度こうしてお話させていただきたいと思っていたのですよ。私、同い年の友人というものを持ったことがなくて、あなたとならそういう関係になれるんじゃないか、なんて勝手に期待していたんです。お母様のハノーク文明にまつわる著書も、すべて読ませていただきました。私が唯一父に逆らってこっそり集めた宝物です」
「そ、そうだったんだ……母さんの論文まで……」
「はい。私がもう少し早く生まれていれば、オリアナ学院へ入学して教授の考古学講義を聞けたのにと、著書を拝読しては悔しがったものです。あ、でもそうしたらジェロディ殿とは同い年じゃなくなってしまいますから、こんな風にお話することはできなかったかもしれませんね」
そう言ってエリジオがあまりに無邪気にはしゃぐので、ジェロディもつられて頬がゆるんでしまった。それがほんの一時、最愛の姉を失った悲しみを忘れるための振る舞いだと分かっていても、母の論文まで読んだと言ってもらえたことが素直に嬉しかったのだ。
(思えば僕も、同い年の友達なんていたことがなかったし……)
――〝出世頭の一粒種〟。あるいは〝成り上がりの平民貴族〟。
老若男女を問わず、世間のジェロディを見る目と言ったらずっと昔からそうだった。前者を重視する者は黄帝の懐刀に取り入ろうと媚びへつらい、後者を重視する者は卑賤の輩と嘲るばかり。
そうした環境では対等な立場の友人などそうそうできるはずもなく、いつしかジェロディの世界は屋敷の中だけで完結していった。幼いうちから諦めたのだ。この浅ましい貴族社会で、自分を本当に理解してくれる友人など作れるわけがないと。
しかし今、その考えもまた大きな間違いだったのだと知った。こんな世界にも自分と友人になりたいと願ってくれる者がいた。
それに早く気がついて、あの不快なぬるま湯に飛び込んでいたならば、今頃自分とエリジオは良き友人になれていただろうか。
――僕ってやつは、本当にどうしようもないな。
そんな簡単なことに気づくのが、もう二度と戻れぬ道を選んだあとになるなんて。
「とは言え、この幸運を喜んでばかりもいられませんね。ジェロディ殿、あなたが反乱軍の幹部であるカミラさんたちと行動を共にしているということは……」
「ああ。僕は彼女たちと一緒に国と戦うことにした。今の黄皇国には腐敗を切り取る剣が必要だ」
「なんと」
と、ジェロディの言葉を聞いて驚きをあらわにしたのはセルジョの方だった。彼はまたもや額を汗まみれにすると、慌てて手巾を引っ掴みながら言う。
「そ、そ、それは、つまり祖国に反旗を翻すということですか? ガルテリオ将軍はご承知で?」
「いいえ。この件に父は関係ありません。救世軍と共に戦うという意思は、あくまで僕一人のものです。もちろん貴族たちの大半はそうは思わないでしょうが……」
「で、でしたら、その決断が将軍を窮地へ追いやることはご存知でしょう。ただでさえあなたが陛下の暗殺を目論んだという噂が流れて、将軍の名は貶められる一方です。さらに言えば、貴族たちの間にも混乱が広がっています。将軍を支持する者とそうでない者の軋轢が未だかつてないほどに高まり、先日もラインハルト家の夜会でアトウッド卿が――」
「叔父上。ジェロディ殿とて詩爵家の嫡子です。そんなことは初めから承知の上で姉上と同じ道を選ばれたに決まっているでしょう。ならば城壁の外を知らぬ僕たちが、あれこれと口を挟むべきではありません。むしろ僕は、ジェロディ殿の勇気あるご決断に最上級の讃辞を贈ります」
「ろ、ロメオ、お前までなんということを……!」
顔を真っ赤にしながら取り乱すセルジョとは裏腹に、エリジオは至って毅然としていた。彼はとても同い年とは思えないほどの落ち着きぶりでセルジョを言いくるめると、ジェロディに微笑みかけてくる。引き留める様子もなく、そっと背中を押すように。
「ですが皆さんが私を訪ねてこられた理由は、姉の訃報を伝えるためではなかったはず。叔父上から聞いた話では、何でも私宛の手紙を預かってこられたとか?」
「あ、ああ、そうなんだ。少し前までレーガム地方のドナテロ村に住んでいた、ブレナンさんという人から」
「その方は私の知人だと名乗ったそうですね。しかも男性ではなく、妙齢の女性だと伺いましたが……」
「実は僕たちもまだ、ブレナンさんのことはよく知らないんだ。ただこの手紙を君に届けてきてほしいと言われただけで……」
言いながら懐へ手をやると、ジェロディは問題の手紙をすぐさまエリジオへ手渡した。宛先も差出人の名前もない真っ白な封筒を受け取ったエリジオは、まず訝しげに両面を確かめている。
だが封筒からは何の情報も得られないと判断したのだろう、すぐに紋章のない蝋印を割ると中から手紙を取り出した。入っていたのは二つ折りにされた便箋が一枚だけで、他には何もないらしい。
「〝親愛なるロメオへ〟……」
開かれた便箋の冒頭には、まずそう記されていたようだった。エリジオは手紙の宛名が間違いなく〝ロメオ〟であることを確かめると、そのまますらすらと紙面へ目を滑らせてゆく。
だがほどなく彼の視線が止まった。いや、視線だけじゃない。呼吸もわずかな指先の動きも、すべてが石と化したように一斉に、だ。
「ロメオ?」
彼の異変に気がついたのか、セルジョが怪訝そうに呼びかけた。しかし今のエリジオには叔父の声も届いていないのか、動きを止めた青灰色の瞳だけが静かに見開かれていくばかり。
かと思えば止まっていたはずのエリジオの手が震え出し、その震えはあっという間に全身へ伝播した。見開かれたままの双眸からは再び涙が溢れ、ぼろぼろとエリジオの頬を濡らしていく。
「お、おいロメオ、どうしたというのだ……!?」
「……生きておられた……」
「何?」
「生きていて、下さったんだ……もう、一体どれほどの間……この便りを待ち侘びていたことか……!」
エリジオはそう声を絞り出すと、さっきまでの大人びた様子が嘘だったかのように顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。手紙は最後まで読んだのか、まるで愛しい人に縋るかのように便箋を額へ押し当てると、体を屈めて噎び泣く。
彼の様子にただならぬものを感じたのだろう、セルジョは急いで手紙を奪い取ると、ざっと中身へ目を通した。すると瞬く間にセルジョの顔色が変わる。唇は唖然と開かれ、エリジオと同じ色の瞳は驚愕に揺れている。
「こ……これは……ではフィロメーナのあの話は、すべて真であったのか……」
「セルジョ殿、手紙には一体何が?」
「申し上げられません。ただ一つだけ言えることは、この手紙は確かに私たちを知る人からの便りです。私はもう何年もこの知らせを待っていた……ありがとうございます、ジェロディ殿。手紙を届けて下さって……」
ヴィルヘルムの問いに答えたのはセルジョではなく、泣きながら顔を上げたエリジオだった。セルジョの方は動揺のあまり震えが止まらず、まともに口がきける状態ではないようだ。
「だ、だけど手紙の内容は言えないって、どうして?」
「すべては皆さんがお帰りになったあと、自らの口から話すと手紙にはそう記されています。ならば私たちが勝手に事情をお話しするわけには参りません――これを」
と、ときにエリジオは上着の懐へ手を伸ばすや、一冊の紙束を取り出した。やや薄く縦長で、羊皮紙の表紙がついた立派なものだ。
ジェロディはその紙束に見覚えがあった。
わざわざ覗き込んで確かめるまでもなく、それがグリーヴ金融商会から発行される小切手の束だということはすぐに分かった。
何せ屋敷では自分もあれをよく使っていたし、つい先日も光神真教会のトビアスが同じものを切ってくれたばかりだ。エリジオは束から真新しい小切手を一枚抜き取ると、同じく携帯していたらしい羽ペンでさらさらと数字を綴った――空欄だった金額欄に、三百金貨と。
「これを急ぎグリーヴ金融商会へ持って行き、換金してもらって下さい。引き出したお金はすべてあなた方に預けます。本当はもう少し額を出せれば良いのですが、あまり高額になると持ち運びが難しくなるでしょうから……」
「ちょ、ちょっと待って。三百金貨って、既にとんでもない大金じゃないか。僕の家くらいなら買える額だよ。そんな大金をどうして急に……まさか手紙にそうしてくれと書いてあったとか?」
「いいえ。これは私からのわずかばかりの気持ちです。このお金をどうか、そのブレナンという方のもとへ届けていただきたい。彼女はきっと必要ないと言うでしょうが、ないよりはあった方がいいはずです。それから、いただいた手紙のお返事に――これを彼女へ渡して下さい」
言うが早いか、エリジオは首の後ろへ手を回すと、スカーフタイに隠れていた銀の鎖の留め具を外した。
そうして彼が胸元から引っ張り出したのは、紡錘形のロケットがついたペンダントだ。ロケットの大きさはジェロディの親指ほどもあり、受け取ると見た目の印象よりもずっと重い。
装飾もかなり精緻で、ロケットの表面には愛神エハヴの神璽《白水花》が彫り込まれていた。中には何がしまわれているのか気になるところだが、まさか持ち主の許可なく開けるわけにもいかないので、今はただ大切に握り込む。
「……分かったよ。このペンダントは必ずブレナンさんに届ける。そうすれば彼女は納得してくれるんだね?」
「はい。あのお方ならそれを見ただけで、私の考えをすべて理解して下さるはずです。そのペンダントは、何千の言葉よりもずっと大切なものですから……」
そう言うとエリジオはほんの少しだけ名残惜しそうに、ジェロディの手の中にあるペンダントを見つめた。されどやがて未練を断ち切るように瞑目するや、ゆっくりと深呼吸する。
「……私からお話できることは以上です。皆さんはこれからどうされるご予定ですか?」
「そうだな。目的は無事果たしたわけだし、いつまでものんびり黄都観光というわけにもいかないだろう。お前から預かった小切手を換金したら、すぐにでも街を出ようと思う」
「そうですか……いえ、それがよろしいでしょうね。先日の夜会でヴィルヘルム将軍のご来訪が知れて以来、黄都の貴族たちは浮き足立っています。あなたと誼を通じたいと、居場所を探っている者も多いでしょう。そうした者たちに見つかって、あれこれ穿鑿を受ける前に街を出た方が賢明です。せっかくお知り合いになれたのに、ゆっくり友好を深める時間もないのは惜しまれますが……」
言いながらエリジオは、ちょっと寂しそうにジェロディへと視線をくれた。それについてはジェロディも同感だ。叶うことならもうしばらくここに留まって、エリジオと気心知れた友人になりたかった。
彼とならきっと良い友情を結べたのだろうなという予感がある。こうしてほんの少し言葉を交わしただけで、波長が合うのが分かるのだ。
実際、姉のフィロメーナとは短い時間でも分かり合えた。彼女と共に過ごせたのはたったの一月だったけれど、その一月の間の出来事をエリジオにも聞かせてやりたい。君のお姉さんは本当に立派で優しい人だったよ、と。
「……エリジオは、これからどうするつもり?」
「そうですね……許されるのなら、私もあなた方と共に黄都を出て旅に出たい。姉上が見ていた世界を、私もこの目で見てみたい。ですが私には、建国の時代から続くオーロリー家当主としての務めがあります。ならば私は今ここで、自分にしかできないことを為しましょう」
フィロメーナによく似たまっすぐな瞳で、エリジオはそう言った。眼差しに宿る決意は、彼が姉の遺志を継ごうとしていることをありありと物語っている。
だからジェロディも頷いた。
たとえ立場は違っても、エリジオもまた自分たちの同志だと思えた。
いつかまた彼とこうして向き合える日が来たら、今度こそ良き友人になれるだろうか。
「それでは、ジェロディ殿」
応接室での会談ののち、セルジョの好意で昼食を馳走になったジェロディたちは、ほどなく屋敷を去ることとなった。
来るときはブランチ家の馬車が迎えに来てくれたのだが、帰りはエリジオが馬車を貸してくれると言う。オーロリー家の馬車なら市門の衛兵もいちいち誰何したりしない。だからこの馬車を使えば安全に都の外へ出られる、と。
彼のそんな心配りに感謝して、ジェロディは別れを惜しんだ。車寄せに箱馬車が停まっているのが見える玄関先で、差し出された彼の手を握り返す。
同い年で背格好も近いエリジオの手はしかし、ジェロディのものより華奢でちょっとだけ頼りなかった。自分は軍人で、彼はそれを支える軍師。もしかしたらそうして共に戦う未来が、選ばなかった道の先にはあったのかもしれない。
「お会いできて本当に嬉しかった。道中どうかご無事で。あなたの道行きをいつも太陽神が照らして下さいますように」
「ああ。僕もシェメッシュの加護が、君からすべての夜を遠ざけることを祈る。いつかまた会えたなら、そのときはこの国の未来について語り合おう」
ぎゅっと手を握ったままジェロディがそう言えば、エリジオはただ静かに微笑んだ。それが彼の頷きであることを祈りつつ、ついに互いの手を放す。
再び外套のフードを被った。仲間たちは既に皆、オーロリー家の家紋を掲げた黒馬車に乗り込んでいる。
そこにジェロディも合流すると、品の良い帽子を被った馭者が代わりに扉を閉めてくれた。扉についた小窓からは、セルジョと共に見送りに立つエリジオの姿が見える。
「さよなら、ジェロディ殿」
密室と化した馬車の中には、エリジオの声はもう届かなかった。けれど彼の口の動きで、きっとそう言ったのだろうと推測する。
「また会おう、エリジオ」
だからジェロディも口の動きだけでそう言った。エリジオはやはり眩しそうに微笑んでいた。
馭者の上げたかけ声が聞こえる。次いで響く馬の嘶き。それを合図に、馬車はゆっくりと動き始めた。馭者にはエリジオがよくよく言い含めてくれたというので、きっとこのまま問題なく街を出ることができるだろう。
――ありがとう。
心でそう唱えながら、ジェロディは右手に握ったペンダントへ視線を落とした。これ以上エリジオと見つめ合っていたら、別れがつらくなりそうだった。
ゆえにジェロディは見逃した。
叔父と共に佇む少年の足元から、突如として黒い靄が湧き立ち、彼の姿を一瞬で呑み込んでしまったのを。
◯ ● ◯
ジェロディたちを乗せた馬車が門の向こうへ走り去っても、エリジオはしばらくの間、庇の下に立ち尽くしていた。
どんなに耳を澄ませたところで、彼らの乗る馬車の車輪の音はもう聞こえない。それが悲しくて寂しくて、胸がきゅうと締めつけられる。
――ジェロディ殿。私は本当に、あなたと友人になりたかった。
あなたとならきっと良き友人同士になれた。
あなたもそう思ってくれていたら嬉しい。
けれどその願いがもう叶わぬことを、お許し下さい。
「……叔父上」
ひとしきり胸の内で懺悔してから、エリジオはゆっくりと隣に立つセルジョを顧みた。父よりずっと繊細で心配症なこの叔父は、心に巣くう不安を隠そうともせずに眉尻を下げ、じっとエリジオを見つめている。
「叔父上、そんなお顔をなさらないで下さい。ご心配なさらずとも、叔父上やブランチ家に火の粉がかかるような事態には致しません。すべての責任は僕が負います。ですから叔父上は、何も知らなかったということに……」
「そういうことを案じているのではない。ロメオ、お前は――」
さすがは幼い頃から可愛がってくれた叔父だった。彼はエリジオの考えなどとうにお見通しで、どうにか止めたいと考えている。
思えばセルジョは父などよりずっとエリジオを愛し、いつも傍で見守ってくれていた。ブランチ家に婿入りしてからもそれは変わらず、エリジオの性格も嗜好も信念も、すべて理解し受け入れてくれた。
理由は恐らく、病弱に生まれ父から見限られたエリジオに、昔の自分を重ねたからだろう。どういうわけかエルネストとまったく似ずに生まれたこの叔父は、気性が優しく軍属には向かないという理由でエルネストから軽蔑された。軍師としての才能もいっかな花開くことはなく、やがては見向きもされなくなった。オーロリー家の恥さらし、と。
けれどエリジオは叔父をそのような目で見たことはない。確かにこの人には父のような才能はないが、代わりに彼の何倍も大きな心があり、誠実さがあり、温かさがある。百万の人間を殺せる才能なんかより、エリジオにとってはたった一人を救える叔父の優しさの方が尊敬に値するのだ。
そして彼と同じように優しかった姉たちもまた、いつだってエリジオの味方だった。彼女らは歳の離れた弟を無条件の愛で包み込み、あらゆる危険や苦難から守ってくれた。支えてくれた。父の分まで愛してくれた。
そんな姉たちへの恩に報いるためならば、何であろうと成し遂げる覚悟がエリジオにはある。
だってどんなに離れていたって、自分たちは血でつながれた姉弟なのだ。
ならば今度は、自分が姉たちを守る番。エリジオは一人そう決意して、ジェロディたちの去った門を遠く見つめながら、言う。
「叔父上。なんと言われようと、僕はもう決めました。今すぐ屋敷へ戻り、陛下への謁見を願い入れます。たとえ拒絶されようと、聞いていただけるまで何度でも」
「……やはりそう来たか。しかしそんな真似をすれば、オーロリー家が更なる不興を買う。お前の立場が危うくなるのだぞ。第一陛下にお会いして、一体何と申し上げるつもりだ?」
「今の僕は爵位こそあれ、いかなる官職も持たない自由の身です。なればこそ遠慮なく陛下に申し上げることができる。不肖エリジオ、建国以来の忠臣と謳われたオーロリー家の名に懸けて――これよりこの身命を賭し、御前へ死諫に参ります」




