124.星は巡る、私は踊る
「で? お前、なんで姉貴の服を着てやがんだよ」
カミラは耳を疑った。
颯爽と手を掴まれ、連れ去られるようについていった結果、いつの間にか上げられた舞台の上でのことである。
その一瞬、カミラは今し方聞こえた声が、目の前の貴公子の口から発せられたものだと理解することができなかった。
だから思わず「え?」と聞き返すと、返ってきたのは「チッ」という忌々しげな舌打ち。……あれ? 舌打ちされた? 私舌打ちされたの? ひどくない?
ていうかこの人、そもそも誰?
「だから、俺の姉貴の服だろ、それ」
「あ……姉貴、って……」
「マリアーナ・ヒュー。んなことも知らずにウチの夜会に来やがったのか。いい度胸だな、お前」
マリアーナ・ヒュー。このドレスの持ち主の名前……?
苗字がヒューということは、今回の夜会の主催者であるハインツと同じだ。というか今、この男は間違いなく〝ウチの夜会〟と言った。つまり。
「え、えーっと、あなた、もしかしてハインツさんの……?」
「愚弟だ。ったく兄貴の野郎、せっかく上手いことサボッてたのに、面倒な役を押しつけやがって……」
わー。嘘だ。こんな柄も言葉遣いも悪い人があのハインツさんの弟なわけないよ。嘘だよ。詐欺だよ。きっと騙されてるんだよ、私。
だけどよくよく見れば、彼の髪はハインツと同じまばゆいばかりの波打つ金髪。ほどけば背中まで届くであろうそれは、うなじのあたりでまとめてある。
目つきは鋭くて怖そうだけど、やっぱりハインツと同じ菫色。歳は二十六、七歳くらいだろうか? そう言われてみれば面立ちも何となくハインツに似ている気がしなくもない。弟の方は見るからに突っ張っていて、ひどく刺々しい印象だけど。
「あ、あの、ごめんなさい。私、ハインツさんに弟がいるなんて知らなくて……お、お名前は?」
「セドリック・ヒュー」
「セドリック、さん」
「めんどくせえ。呼び捨てでいい。お前、ヴィルヘルムの旦那の姪っ子なんだってな?」
二人がそんな会話をしている間に、周りより一段高くなった舞台へ人が集まり始めていた。誰もが淑女の手を引いた紳士、または紳士に手を引かれた淑女たちだ。
舞台の向こうではヒュー家専属の楽団だという楽師たちが、次の演奏に向けて準備を整えている。譜面をめくったり、楽器を持ち変えたり。会場のざわめきも次第にヒソヒソ声になり、皆が次の一曲を待ち侘びているようだ。
「だから兄貴が余計な気を遣ってよ。お前がナンパ集団に絡まれて困ってるから、連れ出して相手しろとさ。つーわけで不本意だが一曲付き合え」
「……でも私、踊れないんですけど?」
「さっきの連中にああ言っちまったんだから、踊らねーわけにもいかねーだろ。いいから適当に俺に合わせろ。ただし足は踏むんじゃねえぞ」
カミラは愕然とした。なんて横暴で偉そうな男だ。これが本当にハインツの弟? こっちはかのヴィルヘルム将軍の姪っ子ですけど? いやあくまで一時的な設定だけど。それにしたって礼節とか遠慮とか、なさすぎない?
「い、いや、あの、待って。その前に、ヴィル……ヘルム伯父さんは?」
「向こうでブランチ卿と会談中。あのオッサンに会いにきたんだろ、お前ら」
「ああ、どうりで……」
肝心なときに助けにきてくれないわけだ。
セドリックが形のいい顎で示した先へ目をやれば、そこではヴィルヘルムが見知らぬ男と向き合って軽い乾杯を交わしていた。
間にハインツが立っているところを見ると、どうやらあれがブレナンの言っていたセルジョ・ブランチらしい。男のわりに背が低く、かと言って小柄というわけではない。いわゆる〝小太り〟というやつだ。愛嬌のある丸鼻の上に乗っているのはかなり小さいが眼鏡だろうか。
ここから分かるのはこれくらい。ただし小太りと言っても嫌な太り方ではなく、雰囲気も落ち着いていて物腰やわらかそうな人物に見えた。
あの人とブレナンの間には一体どんな関係があるのだろう。そもそも彼女の言っていた〝ロメオ〟とは?
その人物ももしや、ここにいる貴族たちに紛れて出席していたりはしないだろうか。カミラは周囲に目を配った。そんなことをしたってカミラはロメオの顔も知らない。それは分かっている。だけど――
「おい、始まるぞ」
といきなり乱暴に腕を引かれ、カミラは現実に引き戻された。
そうだ。他のことに気を取られている場合じゃない。自分はこの横柄極まりない男と、踊りたくもないというかそもそも踊れもしない舞踏を一差し踊らなければならないのだ。
楽器を肩に預けたヴィオラ弾きが、すうっと一筋弓を引いた。伸びやかで美しい音色が響き渡り、始まりの合図となる。
周りの紳士淑女たちが、一斉に抱き合うような姿勢を取った。しかし実際には抱擁ではなく、曲の始まりに備えた型のようなものだ。
自分もああすればいいのか、と彼らを観察していると、前触れもなくぐっと腰を引き寄せられた。セドリックと間近で向き合う形になり、自分の腰が彼の腰に押しつけられる――煙草臭い。
「……この人、ライリーと気が合いそう」
「なんか言ったか?」
ボソッとカミラが呟いた刹那、楽団の指揮者が指揮棒を掲げた。彼の一振りと共に演奏が始まる。
次の曲はゆったりとした円舞曲だった。と言ってもこういう場に縁のないカミラには、音楽の種類や違いなんて分からない。
ティンパニとヴィオラの音色から始まる三拍子の前奏。どこか大胆で魅惑的な四小節が明けると、いかにも宮廷音楽といった感じの優麗な主旋律が始まり、周囲の紳士淑女が踊り始めた。
初めはゆっくり左右へ振れる振り子のようなスイングから。なんて円舞曲の定石をカミラは知らない。だからセドリックにいざなわれるまま――と言うより半ば引っ張られるような感じで、右へ左へ足を運んだ。
そうしながら周りを見ると、どのペアもぴったりと男女の呼吸が合っている。二人の足捌きが綺麗に揃って、まるで鏡写しをしているみたいだ。
ところがどうにかそれを真似ようと、足元ばかり見ていたらすかさず「下ばっかり見るな、みっともねえ」と叱られ頭に来た。
あんたが足を踏むなって言ったんでしょ! と言い返してやりたかったが、今は音楽についていくのが精一杯で反論に割く余裕がない。
対するセドリックはどうだろう。踊りたくもない女との一曲を強要されて至極不機嫌そうではあるものの、しかし足捌きは実に見事だった。
言動はアレだがやはり貴族としての教養はあるようで、右も左も分からないカミラをしっかりとリードしている。
悔しいけれど、とりあえずこいつについていけば大丈夫と思わせてくれる安心感。腰を支えたままくるりと一回転させられると、音楽の盛り上がりも相俟って浮き上がるような感じがした――あれ、変だな。結構楽しいかも?
自分の体ではなく音楽へ意識を向ければ、自然と足が旋律に乗る。セドリックの動きが「こうしろ」と教えてくれるから、カミラはそれを真似すればいい。
元々動体視力には自信があるし、体を動かすのも得意な方だ。セドリックが支えてくれているからか、あんなに不安定だった靴も安定している。というかよくよく考えれば、前にもこんなことがあった。
……こんなことがあった?
いつ? どこで?
ダメだ。思い出せない。
いや、そもそも記憶にない。
自分が貴族の舞踏会に出るなんて、これが生まれて初めてのはず――
「ミレーナ」
なのに、記憶の底から呼び声がした。
そう、ミレーナ。私はミレーナ……。
あの日も私はこうしてセドリックと、望んでなんかいなかったしイヤだと言った、私たちは犬猿の仲だった、だけどあの人のためには夜会に潜入する必要があって……あの人?
あの人って、誰?
分からない。記憶が混濁している。いや、そもそもこれは誰の記憶?
違う。私の記憶だ。私の記憶だけど、違う。知らない。あの人なんて。私はミレーナ。違う。私はカミラ。救世軍のカミラ……救世軍?
「――へえ、意外とサマになってんじゃねえか」
そのときすぐ傍でセドリックの声がして、カミラははっと我に返った。
様々な色の絵の具を一枚の画布にぶちまけたような、そんな記憶の渦は一瞬でどこかへ吸い込まれ、たちまち意識が覚醒する。
円舞曲はまだ続いていた。高らかに鳴るクラリーノの音色を聞いたときには、カミラは自分が直前まで謎の記憶に翻弄されていたことを忘れていた。
目が覚めると同時に夢見ていたことさえ忘れてしまう、あれと同じだ。だからカミラはぼーっとしてる間に時間が過ぎたのだと感じて、こんなときにボケッとするなんて大物か私は、と自分を叱咤した。
「……お褒めにあずかりどうも。ところでこれ、いつ終わるの?」
「あと六十八小節ある」
「って言われても、長いのか短いのか分からないんですけど?」
「そろそろ終盤ってところだ。それはそうとお前、ずいぶん妙な訛りで喋るな。そいつがテペトル訛りなのか?」
「そ、そうですけど。……悪かったわね、田舎者で」
「まあ、そこは否定しねえけどよ。にしてもなんか引っかかるんだよな」
「え?」
「お前、前にどっかで俺と会ってねえか?」
ドッと心臓が縮み上がった。まったく予期せぬ質問だったせいで、カミラはとっさに答えることができなかった。
自分とこの男は間違いなく今日が初対面のはずだ。なのに相手が既視感を覚えているのは――たぶん、手配書のせい。
ここまで不測の事態の連続で思い至らなかったが、そもそも互いに手を取り合って踊るということは、至近距離で顔を見られるということだった。
それが妙に勘の鋭い相手だったなら、化粧の下に隠された手配書の人相書きを見透かしたとしてもおかしくはない。
かと言ってこの状況ではセドリックを突き飛ばして逃げるわけにもいかず、カミラは静かに狼狽した。だがここでうろたえていることを見抜かれたら負けだ。とにかくそう言い聞かせ、霧散しかけていた平常心を大急ぎで掻き集める。
「き……気のせいじゃない? 私、黄皇国に来るのはこれが初めてだし。す、少なくとも私は、あなたとはこれが初対面のはずだけど?」
「……ふーん? けどお前の訛り、どうも野郎に似てる気がする」
「や、野郎って?」
「最近ウチの国を騒がせてる反乱軍幹部の一人だよ。名前は確かイークとかいったか。野郎とはちょっとした因縁があってな、おかげであの妙な訛りはよく覚えてる」
またも心臓が縮み上がった。というか縮み上がりすぎてついには口から出てくるんじゃないかとカミラは思った。
全身から汗が噴き出し、足がもつれそうになる。――この男、イークを知ってる。でもなんで? そんなの聞いてない。反則だ。
「へ、へえ……じゃあもしかして、その人もテペトル人? イークなんて名前、私は聞いたことないけど」
「いや。野郎は太陽の村出身だ。公式には出回ってねえ情報だが間違いねえ」
「こ、公式には出回ってない、って……なら、あなたはなんで知ってるの?」
「そりゃ、俺が軍人だからさ。特にウチは兄弟揃ってエリートなんでね」
「エリートって、自分で言う……? お兄さんが近衛軍にいるっていうのは聞いてたけど、それじゃあなたも?」
「いいや、俺は第一軍の別働隊――黄都守護隊の部隊長だ。今日はたまたま帰省しただけで、普段は南のスッドスクード城にいる」
そのときカミラは何故だか、胸の中に直接手を突っ込まれたような気分になった。そうして心臓を鷲掴みし、握り潰そうとされているかのような。
円舞曲はいよいよ最後の盛り上がりに差しかかっていた。周囲を舞う紳士淑女は皆、熱に浮かされたように踊り狂っている。
けれどカミラの体は裏腹に、芯から凍りついていくようだった。
黄都守護隊。
シグムンド・メイナードが率いる第一軍の実働部隊――
(あの人の、部下なの)
そう思ったら胸が潰れそうだった。シグムンドの顔を思い出すだけで、何故こんなにも息苦しくなるのか自分でも説明できない。
彼はスッドスクード城でカミラたちを逃がしてくれた。あのときのことに負い目を感じてるから?
いや、たぶんそれだけじゃない。それだけじゃなくて――何だろう。喉を締め上げて放さない、この感情は。
「……あ、の」
「あ?」
「黄都守護隊、って……シグムンド将軍が率いてる部隊のこと、よね?」
「ああ、よく知ってんな」
「えっと……伯父さんから、聞いて……シグムンド将軍って、どんな人?」
「どんなって……まあ、とぼけたオッサンだよ。中央のお偉方とはまた違った意味で食えねえ人だ。普段から何を考えてんのかよく分かんねえし、秘密主義だし、そのくせ他人のことは何でもお見通しって感じで気味が悪ィ。実は背中にも目がついてんじゃねえかと思うこともある」
「……」
「だが、その、なんつーか……尊敬はできるっつーのか? 戦の腕は一流だし、頭もキレるし……何より今の黄皇国では珍しいくらいの潔癖だ。潔癖すぎて周りに敵を作りまくりだが、そんなもん屁でもねえって顔してるのがな。逆に頼もしいだろ、そういうの」
「……確かに、そうかも」
答えながら、カミラは何故だかやさしい気持ちに満たさていた。だから自分でも気づかぬうちに微笑を浮かべ、それを見たセドリックが意外そうな顔をしている。
会場を沸かせていた円舞曲は、ほどなく流麗なヴィオラの音色を最後に終幕を向かえた。すべての旋律が虚空へ吸い込まれるように収束すると、聴衆から割れんばかりの拍手が上がる。
その喝采を浴びながら、舞台の上の紳士淑女は手を取り合って一礼した。カミラも彼らに倣い、ドレスを摘みながら観衆へ頭を下げる。
次に顔を上げたところで、ぐいと強めに腕を引かれた。見ればセドリックが早々に舞台から降りようとしている。
「あ、あの――」
カミラも引きずられるように舞台を降りた。先を行くセドリックはねぎらいの言葉をかけてくる観衆を軒並み無視し、ずんずんと先へ行く。
カミラの手は彼に掴まれたままだ。無事に一曲踊り終えたし、さっきの貴公子たちも解散したようだから、あとは礼を言って別れようと思った。けれど、
「おい、お前。ミレーナっつったか」
「え? あ、は、はい、そうですけど……」
「お前、さっき俺とは初対面だって言ったよな」
「え、ええ……それは間違いな――」
「本当か?」
「え?」
「納得がいかねえ。やっぱりお前、前にどこかで――」
「――ミレーナ」
セドリックの言葉を遮って、ときに低い呼び声がした。振り向けばいつの間にか傍にヴィルヘルムがいて、何食わぬ顔で声をかけてくる。
「見事な舞踏だったぞ。だがそろそろ時間なのでな。セルジョ殿への挨拶も済んだことだし、宿へ戻るとしよう」
「あ、は、はい……」
「セドリック、姪が世話になった。無理を言って悪かったな。助かったぞ」
「……いや、それほどでも」
と妙に大人しい口調で言うが早いか、セドリックはぱっとカミラの手を放した。急に左手が軽くなり、あ、とカミラは声を漏らす。
やっと解放された。これでもう正体を追及される心配もない。だけど、何だろう――何か大切なものをプツリと切られてしまったような、この寂しさは。
ヴィルヘルムはその後も少しの間、セドリックと言葉を交わしていた。彼が黄都守護隊の所属であることをヴィルヘルムは知っていたようで、シグムンドによろしく伝えてくれとかそんなことを言っている。
彼らの会話にぼうっと耳を傾けながら、カミラはふと自分の左手に目をやった。
この手は救世軍を守るためにある。
だけど代わりに何か、大きくてかけがえのないものを失ってしまったような気がするのは、何故だろう。
◯ ● ◯
ペレスエラの知るカミラという少女は、シグムンド・メイナードの娘だった。
いや、血のつながった実の娘ではない。ただシグムンドはカミラを娘同然に思っていたし、カミラも亡き実父の面影をシグムンドに重ねていた。自分の父がもしもまだ生きていたなら、こんな関係を築けたのかもしれないと。
けれどカミラはある日、名を変えざるを得なくなった。
そこで彼女はミレーナと名乗ることにした。
その名はかつてシグムンドが愛した淑女の名前だった。
彼は彼女に、そんなことは一言も告げなかったけど。
以降、カミラはミレーナとしての生を享受した。
彼女は幸せそうだった。幸せだったのだろうと思う。
行く手にどんな苦難が待ち受けていようとも、シグムンドと共にいられればそれでいい。そう思っているようでもあった。
聡明な父と多くの仲間に囲まれて、カミラの人生は華々しく過ぎていった。
兄に剣を突き立てられ、鼓動が止まる瞬間まで。
けれど時の流れのどこを探しても、そのカミラはもういない。
だからペレスエラは微笑する。
閉ざしていた瞼を開き、水晶の輝く祭壇を見つめながら。
「……運命とは、本当に残酷で不可思議なものですね、マナ」
彼女の独白に答えるように、ちかりと水晶が閃いた。
美しく透明な宝珠の中で、古の星が瞬いている。




