122.黄都潜入
「で、何がどうしてこうなったのかしら?」
と、カミラはこわばった頬を引き攣らせ、隣のヴィルヘルムにそう尋ねた。
何やら頭がぐらぐらする。それは目下カミラたちを乗せて走る馬車が音を立て、ガタガタと揺れまくっているから――だけが理由ではない。
さっきからやけに喉は渇くし、息も絶え絶えだ。腹部を締めつけるこの、何だっけ、筒状で革製のコルセット? とかいうのがとにかく苦しくて仕方ない。
トラモント貴族の娘たちは夜な夜なこんなものを身に着け舞踏会へ行くというがそんなの無茶だ。ひょっとして彼女らは下手な戦士などよりずっと過酷な鍛錬を積んでいるのでは?
でなければこんなものを着たまま踊るなんて不可能だ。窒息する。そして倒れる。その自信が、カミラにはある。
「――結論から言うと、オルランド殿には会えなかった」
という悲報をヴィルヘルムが持ち帰ったのは、今からおよそ三十刻(三十時間)前のこと。つまり事の発端は前日まで遡る。
コルノ島にいるブレナンから黄都ソルレカランテで暮らすロメオまで、手紙の配達を頼まれ街へ潜入した翌日。「それではオルランド殿に会ってくる」ととんでもない発言をして宿を出ていったヴィルヘルムは、ソルレカランテ城で門前払いされて帰ってきた。
何でもヴィルヘルムは正黄戦争時代、ときの黄帝オルランド・レ・バルダッサーレとは戦友の関係にあったらしい。
ヴィルヘルムはこの国の家臣ではなく彼らに招かれた客分だったから、オルランドに跪いて剣を捧げるのではなく、隣に立って共に戦う立場だったというのだ。
結果二人は意気投合し、戦争が終わる頃には黄帝から「またいつでも訪ねてこい」と別れを惜しまれるほどになった。ヴィルヘルムは当時の彼との絆を信じて今回ソルレカランテ城を訪ねた――わけなのだが、結末は上述のとおり。二人の友情は虚しい幕引きを迎えることとなった。
何せオルランドはヴィルヘルムの来訪を聞いても会おうとせず、果ては伝言を聞くことさえ拒んだというではないか。ヴィルヘルムは普段不気味なくらい感情を表に出さないが、このときばかりはさすがに憮然とした表情を携えて帰還した。
「どうもこのところオルランド殿は皇居に籠もってばかりで、よほどのことがない限り表へは出てこないらしいな。最近ではごく一部の限られた者しか謁見を許されず、皇居を守る近衛兵でさえあまり姿を見ないという。貴族たちはその理由を、信頼していた家臣の裏切りに心を痛めたからだと囁いているようだが」
「そ、それってまさか、ティノさまのことですか……!?」
貧民街にほど近い、薄汚れた小さな宿。
そこの一室に集まってヴィルヘルムの報告を聞いたマリステアは、サンディブラウンの髪を逆立てながら裏返った声を上げた。
果たして他に利用者がいるのか疑わしいほど古くてボロい最低の宿だ。ここならチップを弾めば誰でも泊めてくれるとウォルドが言い、実際そのとおりで助かったのだが、部屋は狭いし壁はシミだらけだしなんか埃っぽくてカビ臭いしで、もう二度と泊まりたくない宿番付があれば間違いなく栄光の一位に輝くだろうとカミラはそう思っていた。
そんな宿の一室で黙って話を聞いているのは正直言って苦痛だったが、部屋の隅にじっと佇んで耐え忍ぶ。入り口の傍では話を聞いたマリステアがエキサイティングし始めていて、とても口を挟めるような空気ではなかったし。
「敢えて誰とは聞いてこなかったが、まあそういうことだろうな。それが真実かどうかは別として、貴族の中には平民上がりのガルテリオを疎んじている者も多いはずだ。そのような者たちからすれば、これは獅子の評判を地に落とすまたとない好機――ゆえに好き勝手騒ぎ立てているのだろう」
「そ、そんな……そんなことってありますか!? あの件は元はと言えば、ルシーンさまがティノさまにありもしない罪を着せたのが始まりじゃないですか! 陛下のご信頼を裏切ったのは、わたしたちではなくルシーンさまです! なのに……!」
「先に来ていたロクサーナとトビアスもそう訴えていたらしいがな。しかし結局オルランド殿に会えぬまま、追い払われて黄都を出ていったとか」
「ロクサーナとトビアス殿も? 馬鹿な! つまり陛下は神子の言葉をも退けたということですか……!?」
これにはケリーも驚愕し、ジェロディに至っては絶句している様子だった。神の代弁者である神子の言葉を容れなかったということは、すなわち黄帝は神に逆らう意思を示したということだ。
そこまでの愚行は前代未聞、噂が広まったなら黄帝の信用は失墜し、他国からも非難の的となるだろう。大いなる二十二大神すべてを国神と崇めるエレツエル神領国などは、激昂して攻め寄せてくるかもしれない。
何せ預言に耳を貸さないとなれば、神を嘲弄し冒涜したと糾弾されても仕方がないからだ。これが太陽神の神子によって築かれた国の末路か。そう考えると何だか可笑しくて、カミラは笑ってしまいたくなる。
「だ、だけど、それじゃあロクサーナとトビアスさんは……? 黄都を出てどこへ……」
「さあな、行き先までは俺にも分からん。ただやつらは城内の事情に明るい知り合いがいるとかで、その知人に会いに行くと言って立ち去ったそうだ」
「ですが神子をないがしろにされたとあっては、ロクサーナを戴く光神真教会が黙ってはいないでしょう。一国の王が神子の言葉を拒むなど、エマニュエルの法に照らしてあってはならないことです」
「ああ。おかげで城下はちょっとした騒ぎになっているようだな。光神真教会が国に対し公式に抗議したせいで、オルランド殿が神託を拒絶したという噂が街中に広がっている。しかし国も悪評が広まることを恐れたのか、このあたりで最大の宗教勢力である東方金神会を使い光神真教会に圧力をかけた。以来信徒同士の衝突や教区の奪い合いが始まって、街は混乱しきりらしい。まあ、すべてはロクサーナの存在が公になっていないせいであって、あいつがもうしばらく留まっていればこんなことにはならなかったんだが……」
ヴィルヘルムはため息混じりにそう言いながら、力なく黒髪を掻いた。
一方彼の前に佇んだジェロディたちは、座ることも忘れて一様に顔色を失っている。未だ教会関係の事情に疎いカミラにはいまいち全容が見えないが、彼らの反応を見るに黄都の状況は相当まずいことになっているのだろう。
「まあ、その話はひとまず脇に置くとして、だ。問題のセルジョ・ブランチについてだが、古い伝を頼って明日、本人と会わせてもらえることになった」
「えっ……! ほ、本当ですか?」
「ああ。しかし一つ厄介な条件があってな」
「厄介な条件?」
「これだ」
言うが早いかヴィルヘルムは懐から一通の封筒を取り出すと、傍にいるジェロディへ手渡した。少し離れたところから見ていたカミラは「また手紙?」と思ったが、今度はただの手紙ではないらしい。
何故なら封筒をひっくり返したジェロディが、まずそこで固まった。どうしたのかと目をやれば、彼の視線は封筒の口に押された蝋印に釘づけになっている。
「ヴィ……ヴィルヘルムさん、これ……この封印の家紋って――」
「ああ。かの有名な『銀薔薇』だな」
「銀薔薇?」
「トラモント三大貴族が一つ、ヒュー家の家紋だ。その封筒はジェロディの元上官、ハインツ・ヒューから預かってきた」
封筒を手にしたジェロディの手が、微か震えているように見えた。ハインツというのは初めて聞く名前だが、ヴィルヘルムは今〝ジェロディの元上官〟と言ったのか? ということは……。
「上官……ってことは近衛軍の人間か。あんたまさか、ティノが黄都に戻ってることをそいつにチクッてきたんじゃねえだろうな?」
「そんな馬鹿な真似をするか。それは夜会の招待状だ。明日の夜、ヒュー家の屋敷では祝春の宴が開かれるらしくてな。そこにセルジョも出席する予定だと言うので、ハインツの紹介で会わせてもらえることになった。折よく欠席者が出たおかげで、名簿にも空きがあるそうだ」
「……ハインツ隊長は僕のこと、何かおっしゃっていましたか?」
「ああ。怨めしい、と言っていたな」
「怨めしい?」
「お前とガルテリオが陥れられようとしているときに、何もできない自分が怨めしいと。ハインツもまたオルランド殿に拒絶された一人だそうだ。例の事件後にお前の無実を訴えて以来、一度も引見されていないという。こうなると爵位などただの飾りだと嗤っていたよ」
ヴィルヘルムの言葉を聞いたジェロディが、はっと顔を上げて彼を見た。その唇はすぐに引き結ばれ、彼が心を引き千切られそうになっているのが一目で分かる。
――近衛軍と言えば憲兵隊と同じ黄帝直属の部隊だから、てっきり爵位を鼻にかけるだけの能なし集団かと思っていた。けれど今の話を聞く限り、少なくともジェロディの元上官は味方のようだ。
まあ、考えてみれば近衛軍はついこの間までギディオンに率いられていた軍なのだから、気骨のある人間がいて当たり前という気もした。黄帝の旗本である第一軍まで腐敗しきっている昨今、彼らはこの黄都で唯一の良心と言ってもいいかもしれない。
となるとジェロディは、たぶん元上官に会いたいだろうなとカミラは思った。まっすぐな彼のことだから、自分を信じ、守ろうとしてくれた人々には会って謝りたいと願っているはずだ、と。
だとすればヴィルヘルムが招待状をもらってきた夜会に、どうにかジェロディも出席できないだろうか。カミラはまずそれを考えた。
方法はないわけではない。上手く変装して大人しくしていれば、謀反人のジェロディ・ヴィンツェンツィオだとバレずにやりすごすことだってできるかもしれない。
かつて黄帝と共に勇戦したヴィルヘルムの連れならば皆も疑わないだろうし、その気になればイケるのでは?
そう思ったカミラは早速提案してみるつもりで顔を上げた。ところがいざ招待状を開いたところで、またしてもジェロディの動きが止まる。今度はどうしたのかと思ったら、ややあって彼はとてつもなく気まずそうな声を上げた。
「あの、ヴィルヘルムさん……この招待状、追伸のところに〝パートナーとご一緒にご来場下さいますよう〟って書いてあるんですけど……」
「ああ。だから厄介だと言っただろう」
「それってつまり……どういう意味?」
「まあ、早い話が舞踏会も兼ねているから、男女一組で来いということだ」
ヴィルヘルムが淡々とそう告げた直後、カビ臭い室内がシン……と静まり返った。その間にカミラは反芻する。
男女一組。男女か。あくまで〝男女〟でなければいけないのか。とすれば……。
「ケリーさん」
「断る」
「まだ何も言ってませんよ!?」
「言われなくても分かるさ。だが生憎私はガル様の部下として、かなり広範囲に顔が知られているんでな。というわけで悪いが夜会には出席できない」
「でも、それじゃあヴィルについていくのはマリーさんってことになりますけど」
「え!? わ、わ、わたしですか!?」
「だって消去法で言ったらそうするしかないじゃないですか。ケリーさんはこう言ってるし、私はこの髪の色ですぐ正体がバレちゃうし」
「い、いいいいいえ、無理ですそんなの絶対無理です! わ、わたしは召し使いですからお貴族さま方の夜会に参加したことなんてありませんし、舞踏だって踊れませんし……!」
「そもそもマリーは嘘がつけないからね。質問攻めにされたら必ずボロが出るよ。その点カミラ、あんたの問題はわりとすぐ解決するんじゃないのかい?」
「え?」
「ここは天下のソルレカランテだよ。髪の色を誤魔化す手段なんていくらでもある」
とケリーが発言したところで、再び部屋がシン……と静まり返った。同時に皆の視線がこちらを向く。待て。待て待て待て。流れがおかしい。おかしいって。
だってありえなくない? こっちは故郷を出るまで貴族の〝き〟の字も知らなかった田舎者ですよ? 無理ですって。無理無理無理無理。
沈黙の中、一気にそう結論づけたカミラはまず深呼吸した。
そうしてすうっと心を落ち着けてから、言う。
「待って下さい、ケリーさん。選択肢ならもう一つあります」
「もう一つ?」
「はい。やっぱり貴族の集まりへ飛び込むからには、作法とか暗黙の了解とか、そういうのを分かってる人の方が自然に溶け込めると思うんですよ。というわけでここは一つ、ティノくんに女装してもらって――」
「カミラ。僕もこう見えて、怒るときは怒るよ?」
ガタガタガタガタ。
石畳の小さな溝を噛み、馬車の車輪が音を立てる。
その不規則なリズムに揺られながら、カミラは両手で顔を覆った。あのときにっこり微笑んでいたジェロディの笑顔を思い出す度、恐怖で体に震えが走る。
あれは何というか、有無を言わせぬ笑顔だった。実際カミラは恐ろしさのあまり何も言い返せなくなり、「ごめんなさい」と小声で謝ることしかできなかった。
ティノくんってあんな笑い方もするんだ、新しい一面が知れて嬉しい――なんて言えたら良かったんだけどごめんなさい。冗談抜きで怖かったんです。マジで。ほんとに。
「お前があそこでジェロディに屈さなければ、こんなことにもならなかったんだがな」
「そうだけど、あれは逆らえないでしょ……」
神子の気迫とでも言えばいいのだろうか、とにかくジェロディの笑顔に呑まれたカミラは結局ヴィルヘルムのパートナー役を押しつけられてここにいた。
ケリーの提案どおり、頭には美しい金のお髪。地毛を隠すくるくるの金髪は、元はどんな令嬢の頭を飾っていたのか、非常に手入れが行き届いていてツヤツヤと輝いている。
その髪をきらびやかに飾るのは、赤暉石をふんだんにあしらった銀のティアラ。髪に隠れて見えないが、耳には揃いの意匠で作られた耳飾りも下がっていて、頭を振る度チリチリと音がした。
さらにコルセットでぎゅうぎゅうに締めつけられ、今にもはち切れそうな体を隠すは深紅のドレス。奇跡のような手触りと光沢を持つスカートには、黒い糸で精緻な刺繍が施され、裾にも同じ色のフリルが回っていた。
ただ気になるのが、ドレスの襟刳りが何故だかやたらと深いことだ。コルセットのせいで胸元の肉が押し上げられ、鋭角的なネックラインからは無理矢理強調された谷間が覗いている。
それがどうにも恥ずかしく、何とかしてくれと抗議したら、気休めに黒い紗のショールを渡された。手にも肘まで届く黒の手套をしているので、カミラの全身は今、赤と黒の二色で彩られていることになる。
他方ヴィルヘルムは、銀糸によって縁取りがされた黒い燕尾服に身を包んでいた。首には真白いスカーフタイがカッチリと巻かれていて、苦しくないのと尋ねたが本人は平気らしい。
というかあまり認めたくはないのだが、キリッとした正装に身を包み、なおかつ髪も後ろへ撫でつけたヴィルヘルムの姿は嫌味なほど様になっていた。ただの傭兵がなんでそんな完璧に夜会服を着こなしてるんだと文句を言いたくなるくらい、今夜のヴィルヘルムは貴公子然としている。
今日も今日とて顔の左半分を覆っている眼帯さえなければ、きっと本物の貴族たちに紛れてもまったく見劣りしないだろう。いつも顔を隠しているから分かりにくいが、実はヴィルヘルムはそこそこ整った顔立ちをしているのだ。
まあ、カミラは眼帯の下の彼の素顔を知らないから、それを外したらどうなのかは分からない。実はびっくりするほど左右非対称な面貌で、だから彼は左半分を隠している……なんて可能性もゼロじゃない。
だけど今日の姿を見ていると、実はどこぞの国の王族だったりするのかしら? などという想像を膨らませてしまう程度には物腰に品があった。仮にこれがイークやウォルドだったなら、いくら着飾ったってこうはならない。
ゆえにカミラは何だか不思議なものを眺める心境で、まじまじとヴィルヘルムを観察した。するとヴィルヘルムも視線に気がついたのか、ちらと隻眼を向けてくる。
「何だ、さっきから人のことをじろじろと」
「え? あ、いや、ごめん。なんかちょっと意外でさ……ヴィルってもしかしなくても、こういう服着慣れてる? 全然動きにくそうじゃないし、何かこう、堂に入ってるっていうか……」
「ああ。着慣れているというほどではないが、こういう機会はこれまでも何度かあった。何せ傭兵としての経歴が長いのでな。正黄戦争のときもそうだったように、客将として城や王宮に招かれたことも一度ではない」
「へー。だからこういうのにも慣れてるってこと?」
「国によって礼装や作法は違うから、一概には言えんがな。少なくとも貴族と呼ばれる連中の扱いには慣れているつもりだ」
「それはそれは頼もしいですこと」
言いながらカミラは意味もなく、赤いヒールを履いた両足をぶらぶらさせた。窓の外ではすっかり日も暮れ、今は車内にかけられた角灯の明かりだけが頼りだが、弱々しい光の中でも輝いて見えるほど靴はピカピカに磨かれている。
隣に見えるヴィルヘルムの長靴もそうだった。彼の靴には装飾として銀の輪っかがついていて、ふとした拍子に視界の端できらりと光る。
二人を乗せた馬車はいよいよ『貴族街』と呼ばれる区画に入った。外へ目をやれば無駄な贅肉を蓄えたみたいに大きな屋敷が、呆れるほどいくつも並んでいる。
貴族たちの権力の象徴にして道楽の塊。貴族街に踏み込むのはこれが初めてのことではないが、何度来ても胸糞の悪いところだな、とカミラは思った。
まだフィロメーナが生きていた頃、実は彼女に一度だけこの街を案内してもらったことがある。
けれどフィロメーナはカミラがいくらせがんでも、決して自分の生家を教えてくれることはなかった。
『覚えていて、カミラ。ここに並んでいる屋敷のほとんどは、一見美しいけれど中身はどれも空っぽなの。屋敷の大きさに見合うほど国のため、民のために尽くしている人間がいないからよ。それは私の屋敷も同じ。爵位とは民を守るという約束のもと与えられたものなのに、彼らは誓いを忘れてしまった。そして今日も空っぽの家を飾るため、弱き人々からお金も、時間も、生きる力さえも搾り取っている。あなたにも見えるでしょう? 民の血で真っ赤に染まったおぞましい屋敷と、そんな屋敷で笑って暮らす亡者の姿が――』
あの日のフィロメーナの横顔を思い出す度、カミラの胸はきゅうと締めつけられた。かつて自分が暮らしていた街を〝亡者の街〟と呼び、暗い目で見つめていた彼女の怒り。苦しみ。葛藤。後悔……。
自分も以前はそうした亡者の一人だったとフィロメーナは言った。ここへ来るとその頃の自分を思い出して憎悪する、とも。
だったらこんな街、初めから存在しなければ良かったのだ。金と権力のにおいで人を惑わせ、奈落へと引きずり込んでしまう魔性の街。
それさえ叩き壊してしまえばきっと誰もが目を覚ます。ここに並んでいるたくさんの屋敷はただの玩具で、自分たちはままごと遊びをしているだけの虚しい存在に過ぎないのだと。
けれどただ一人、いち早く真実に気がついて苦悩していたフィロメーナ。
彼女の生まれた家もまたここに並んでいるのだと思うと、ついつい目で追ってしまう自分がいる。
彼女がどんな家で生まれ、どんな景色を見、どんな人々に囲まれて育ったのか、知りたいと願ってしまうのだ。今更そんなことを知ったって、彼女はもうどこにもいないという現実に打ちのめされるだけなのに。
「……ねえ、ヴィルはどうして傭兵になったの?」
そういう自分の愚かしさに嫌気が射して、カミラはわざとまったく違う話題を振った。丸い小窓に張られた硝子が、黒いチョーカーを巻いた自分と振り向いたヴィルヘルムの姿を映している。
放っておくとどうしても外を気にしてしまうから、カミラは努めて鏡像の方に意識を集めた。……豪華な鬘と化粧のせいで、手前の鏡像についてはもはや誰だか分からないけど。
「傭兵になった、というかな。ジェロディたちから聞いていないか? 俺は生まれながらの傭兵だと」
「生まれながらの?」
「そうだ。ゲヴァルト族、という一族の名を聞いたことは?」
「ご、ごめん、知らない……」
「まあ早い話が、お前たちキニチ族と同じ少数民族だ。ただしゲヴァルトは何処にも定住せず、世界中をさすらいながら傭兵業で飯を食っている。言うなれば旅し続ける軍隊のようなものだな。俺はそのゲヴァルトの氏族の一つに生まれ、ガキの頃から戦士として育てられた」
「ガキの頃からって……それってちょっと、うちの郷に似てるかも」
「ああ、言われてみれば確かにそうだな。ただしゲヴァルトは男だけでなく女も戦士として教育する。ゲヴァルトの子として生まれた者は皆、例外なく戦士となるんだ。そうして血統でつながれた巨大な傭兵団を作り、あらゆる土地の戦争に介入している」
「へえ……つまり遠い親戚まで含めた大家族で傭兵団をやってるってこと? そう考えるとすごいわね。でも、だったらヴィルはどうして一人なの?」
「それは……」
ガタン、と一際大きな音を立て、またしても馬車が揺れた。
貴族の街だというのにこのあたりの道の舗装はどうなっているのだろう。もしくは小石でも踏んだとか?
何にせよカミラはその音で、ヴィルヘルムの答えを聞き逃したのかと思った。
だけど、そうじゃない。
ヴィルヘルムは答えなかった。ただ黒く塗られた壁の一点をじっと見つめ、わずかに隻眼を細めている。彼の表情は何かを懐かしんでいるようでもあり、憂えているようでもあり、苦しんでいるようでもあり――
(もしかして、訊いちゃいけなかった?)
思い出すのは一月前、スッドスクード城で彼を知ろうとしたときのこと。
あの日ヴィルヘルムはぎょっとするほど強い口調で、カミラに「まだ話す気になれん」と言い放った。あれはどう考えても拒絶の言葉であり、個人の領域へ無遠慮に踏み込もうとしたカミラへの苛立ちを感じさせた。
あれから時は流れたものの、やはりカミラはヴィルヘルムのことをよく知らない。彼の出身だってたったいま初めて知ったくらいだ。
なのにまた込み入ったことを訊いてしまった。しまったな、とカミラは悔いた。
これから自分はヴィルヘルムと二人、敵地に乗り込んで任務を達成しなければならない。なのにこんなところで気まずくなるのは困る。別に答えたくないのなら無理矢理聞き出すつもりもないし、まずはそれを本人に伝えるべきだ。
「あ、あの、ヴィル? 変なこと訊いてごめんなさい。答えたくないなら、別に無視してくれていいから……今日だけじゃなくて、これからも」
ヴィルヘルムに限った話ではなく、人は誰しも他人に詮索されたくない話題を一つや二つ抱えているものだ。カミラも身に覚えがあるから、強引にほじくり返すのには抵抗がある。そりゃあ仲間のことをきちんと知れないのは、ちょっと寂しくもあったりするけど……。
「……すまん。答えたくないというよりは、上手く説明できる自信がないと言った方が正確だが」
「そ、そうなの?」
「ああ。まだ誰にも自分の口から語ったことがないんだ。しかし、いずれ――お前になら話せるときが来るかもしれんな」
ガタン、と再び馬車が揺れた。
今度は何か踏んで跳ねたのではなく、停車の反動だったようだ。
密閉された黒い箱の外からは、手綱を引かれた馬たちの嘶きが聞こえた。細波のような人声もする。どうやら会場に到着したようだ。
「お待たせ致しました、お客様。旦那様がお待ちです」
送迎役の初老の馭者が、外から扉を開けて促してくれた。そこでようやくヴィルヘルムもカミラから視線を切り、先にタラップを降りていく。
残されたカミラは、何故だか分からないけれど、自分の動悸がやけに早いことに困惑していた。いよいよ会場に着いたから、緊張が最高潮に達しようとしているのか? うん、きっとそうだ。そうに違いない。
……だけど、さっきの。
私になら話せるときが来るかも、って、つまり、どういう意味……?
「行くぞ、ミレーナ。仲間の夢が懸かってるんだろう?」
そのときいきなり偽名で呼ばれ、カミラはついぼんやりしてしまった。ミレーナって誰だろうと一瞬考えてから、そう言えばここから先はそう名乗る筋書きだったことを思い出す。
ということはミレーナって私か。カミラがそう気づいた刹那、馬車の外からヴィルヘルムが手を差し伸べてきた。
絹の手套を嵌めた手は大きくて、ちょっとした重さなら易々と支えてくれそうだ。実を言うとカミラは踵の高さが二葉(十センチ)もある靴を履くのはこれが初めてで、一人だと上手く歩けない。
だから恐る恐る手を伸ばし、白い手套に手を重ねた。ヴィルヘルムは思ったより強い力でそれを握り返してくる。
「……ちゃんとエスコートしてよね」
「朝飯前だ」
本当に大丈夫だろうかと思いつつ、今は彼を信じるしかなかった。カミラは生まれたての子ヤギみたいにゆっくり腰を上げ、ふーっと深呼吸する。
ここまで来たら失敗は許されない。
今更後戻りもできないし、救世軍のためにはやるしかないのだ。
だからカミラは自分を勇気づけようと、あのボロ宿で帰りを待つ仲間たちの姿を思い浮かべた。
……よし。行こう。
ここから先、馬車を降りた瞬間から、私はミレーナ・シュバルツ・ヴァンダルファルケだ。
 




