121.ふたりのブレナン
ライリーたちの言う『零號』とは、船上に小さな櫓と帆柱を持つなかなか立派な中型船だった。
ジェロディたちがコルノ島まで乗ってきた漁船は船尾に艪がついていたが、彼らの船はまた違う。艪の代わりについているのは床と水平に突き出た長い棒で、どうやらそれがこの船の舵らしい。
その棒を右へ左へ動かすと、船底についた尾ヒレみたいな板が動き、船の軌道を変えるのだった。舵を取るのはジョルジョの役目で、彼は島を出てからずっと舵柄の傍にいる。
甲板の真ん中にでんと据わった櫓はそこそこ高く、並ぶとウォルドの背丈くらいあった。中はちょっとした船室のようになっていて、三人くらいなら優に寝泊まりできそうだ。
更に櫓の上部は手摺つきの物見台になっており、見晴らしはかなり良さそうだった。ライリーは現在その物見台に広げた胡床に座り、仏頂面で頬杖をついている。
咥えているのは管の部分が細くて長い煙管だった。彼はそうして不機嫌そうに、先程から紫煙をくゆらせている。
だが物臭な船主とは打って変わって、一行を乗せた『零號』の船脚は速かった。帆を操るレナードが上手く風を捕まえているのか、滑るように湖上を行く。
来るときは半刻(三十分)ほどかかった霧の城壁も、気づけばあっという間に抜けてしまった。ひょっとすると舳先が異様に尖っているのは、この速度で敵船に突っ込み特攻をしかけるためだろうか。
だとしたら皇女率いるトラモント水軍が彼らに手こずるのも頷ける。湖賊たちにとって船はただの乗り物ではなく兵器――そう解釈すれば、彼らがカミラに船を焼かれて激昂していた理由にも納得がいくというものだった。まあ、それでもあれは不可抗力だと思うけど。
「なあ、ライリー。あんたにちょっと訊いておきたいことがあるんだが」
難なく霧を抜けてほどなくのこと。不意に声を上げたのは、船縁に腰かけたケリーだった。
退屈そうなライリーは、彼女を高みからじろ、と一瞥する。かと思えばまた煙管を咥え、虚空へ向けてフーッと煙を吐いた。
「女。それは〝ライリー様、質問をしてもよろしいですか?〟って意味か?」
「あんたらにはハノーク語が通じないのかい。だったらティノ様に古代語で話していただくけどね」
「あー、もうね、その言い草がね、ダメだね、ムカつくね。というわけで質問は却下だ。てめえらと話すことなんざ何もねえ」
「そうかい。ではこれから皆で、ジュリアーノという人物について憶測で語り合おうと思うが」
「分かった。質問によっては答えてやる。だからあの変態の名前を出すのはやめろ。やつの話題は口にするのもおぞましい」
一度は突っ撥ねたと思ったら、ライリーはものすごい速さで掌を返した。よほどジュリアーノなる人物の話をしたくないのか、名前を聞いただけで額に青筋が走っている。
あのライリーがそこまで徹底して拒絶するなんて、ジュリアーノとは一体どんな人物なのだろう。ジェロディはちょっと興味を引かれたが、同時にあまり知りたくないような気もした。知ってしまったら最後、たぶん自分は後悔することになる。確証はないけれど、そんな気がする。
「じゃあまずは、ジュリアーノとあんたの関係について」
「おいレナード、そこの緑髪の女を船から突き落とせ」
「冗談だよ。ちょっとあのブレナンとかいう女の真似をしてみただけさ。あんたたち、あの女にはずいぶん手を焼いているようだけど、何だってわざわざあんなやつを攫ってきたりしたんだい?」
ライリーは猛烈に眉間を皺め、子犬くらいなら簡単に拈り殺せそうな形相でケリーを見ていた。が、やがて深々嘆息すると、煙管の火皿に新しい煙草を詰めながら言う。
「あの女のことならとんだ手違いだ。いや、手違いっつーより人違いだな。どっかのバカどもがガセネタ掴まされて、招かれざる客を島に連れ込みやがったんだよ」
「人違い?」
「ああ。何でもドナテロ村には、正黄戦争で活躍した天才軍師が〝ブレナン〟と名を変えて隠れ住んでるって噂があってな。てめえらも黄都にいたなら名前くらい知ってると思うが――」
「まさか……エルネスト・オーロリー?」
そのときケリーがぽつりと漏らした名前に、カミラがわずか反応した。煙草を詰め終えたライリーは目を細め、「ご名答」と吸い口を咥え込む。
「聞けばエルネストは三年前、娘が反乱軍の首魁になった責任を取って雲隠れしたって話じゃねえか。そいつが本当にドナテロ村にいるなら、これはチャンスだと思った。娘が反乱軍にいるんだから、親父も黄帝に反意を持ってるかもしれねえだろ? だったら俺たちの島に招待して、同盟のお誘いでもと思ってな」
「ど、同盟って……じゃあんたたちはエルネスト殿を軍師に迎えて、黄皇国に戦争を吹っかけるつもりだったってことかい?」
「過去形で語るんじゃねえよ、今でもそのつもりだ。だが俺のカワイイ舎弟どもが、村にいたブレナンはこいつ一人でしたとあの変人女を連れてきた。それがすべての始まりだ。何かの間違いだろうと思って他にも散々探したが、あの村と近隣にいるブレナンは本当にあいつだけだった。おかげで俺たちゃこのザマだ。あとは詳しく語るまでもねえし語りたくもねえがな」
「なるほど。だから〝人違い〟か」
得心がいったようにヴィルヘルムが呟き、ケリーも難しい顔をした。十年前の戦争で『神謀』の名をほしいままにした奇才の軍師、エルネスト・オーロリー。
フィロメーナの父でもある彼の智謀についてはジェロディも噂に聞いているから、もしも彼が野に下っているなら味方につけたいというライリーの考えは理解できた。たとえジェロディがライリーの立場でも、可能性があるなら賭けてみようと思っただろう。
けれどそもそもそんな噂が耳に入る時点で妙と言えば妙だ。正黄戦争では偽帝軍を何度も欺き、味方を勝利へ導いた天才軍師が、隠遁の身である己の所在を外部に洩らしたりするだろうか?
あるいは彼の顔を知る者がたまたま村を訪れ、存在を知り、勝手に噂を流した可能性も皆無ではないが、それにしても何か引っかかる。このモヤモヤは何だろう……とジェロディが腕を組んで考え込んでいると、ときにヴィルヘルムが言葉を続けた。
「だがライリー、本気であの男を探そうとしているのであればやめておけ。やつは確かに勝利をもたらすが、その代償としてお前に必要以上のものを要求するぞ」
「ああ? どういう意味だ?」
「エルネスト・オーロリーは勝つためなら手段を選ばない男だ。あの男にとって将兵は戦争の駒でしかなく、戦いを早期終結させるためなら人などいくら死んでも構わんと考えている。そして何より、やつは刃向かう者に容赦しない。たとえ味方であっても大人しく命令に従わない時点で、エルネストにとっては己の策を妨害する敵でしかなくなるからだ」
「フィ……フィロメーナさんのお父さまって、そんな方だったんですか……!?」
面輪に驚愕を浮かべながら、マリステアが戦慄した。ヴィルヘルムの酷評にはジェロディも驚いたが、驚き覚めやらぬうちにケリーも追随の声を上げる。
「だからフィロメーナも嫌っていただろう、自分の父親のことを。ガル様も戦時中はよくエルネスト殿とぶつかってね。あのときはエルネスト殿の上に陛下がいて、何かあれば取りなして下さったから良かったものの、それがなければガル様は何度戦線から外されていたか分からないよ。エルネスト殿はそのくらいガル様を煙たがっていたからね」
「そ、そんなに父さんと仲が悪かったんだ……だけどフィロメーナさんは確か、父さんから何か恩を受けたって……」
「ええ。ですが恩とは何のことなのか、私にも思い当たる節がありません。ガル様とフィロメーナに面識があったこと自体、あのとき初めて知ったくらいです。彼女の生前に詳しく尋ねる機会があれば良かったのですが、今となってはもう……」
足元に視線を落としながらケリーが言い、ジェロディも口を噤んだ。もうこの世のどこにもフィロメーナがいないという事実を再度突きつけられて、膝を抱えたカミラがうつむいている。
……これ以上この話題を出すのはやめた方がいいな。ジェロディはとっさにそう判断した。フィロメーナの話をしたいなら、せめてカミラの耳に届かないよう配慮すべきだ。それでなくとも昨日のブレナンからの強い非難で、彼女は傷ついているだろうし。
ところがジェロディが話題を変えようとしたところで、
「だけど、ちょっと不思議じゃないですか?」
「不思議って、何がだい、マリー?」
「だ、だってライリーさんたちが聞いた噂は、ドナテロ村にエルネストさまがいるという話だったんですよね? そのエルネストさまが、今はブレナンと名乗って暮らしていると……」
「ああ、そうだが?」
「で、でしたらフィロメーナさんが頼れと言ったのは、ドナテロ村のブレナンさん……つまりエルネストさまということになりませんか? 彼女は確かにお父さまを嫌っていらっしゃいましたけど、エルネストさまの才能については誰よりもよくご存知だったはずですし……」
「まあ、確かに……そう、だね?」
「ですが、それなら――どうしてコルノ島にいるブレナンさんはフィロメーナさんのことを知っていて、わたしたちに協力するとおっしゃって下さったのでしょう? ドナテロ村のブレナンさんがエルネストさまじゃなかったということは、あのブレナンさんは、フィロメーナさんとは赤の他人のはずではありませんか……?」
遠慮がちに、かつ恐る恐るといった様子でマリステアが投げかけた疑問が、電撃となってジェロディを打った。
――そうだ。確かにマリステアの言うとおりだ。フィロメーナの言っていた〝ブレナン〟がエルネストのことであったなら、今、コルノ島でジェロディたちの帰りを待っているあのブレナンは一体誰だ?
そう考えてぞっとすると同時に、ジェロディは「これだったのか」と気がついた。つい先程、ライリーの口からドナテロ村の噂を聞いたときに覚えた違和感……。
コルノ島にいるブレナンは赤の他人であるくせに、フィロメーナのことを知っていた。それも以前から彼女のことをよく知っているような口振りだった。
しかし何故?
フィロメーナが名指ししたブレナンとは、エルネストではなくあのブレナンのことだったのか? だとするとライリーが聞いたという軍師の噂は……?
どこか空虚ささえ覚えるほど淡白で、冷然としたあの女は何者なのか?
脳裏を目まぐるしく駆け巡る疑問の嵐に、ジェロディは息を詰まらせた。ダメだ。今は考えても分からない――と額に手をやったところで、声がする。
「もしかして……」
それはほとんど独白のようだった。
本人も口に出すつもりはなかったのかもしれない。
ジェロディが声につられて目を向けた先では、カミラが何故か茫然としていた。
何もない一点を見つめ、わずかに瞳を揺らしている。表情がこわばっているのは動揺からか。けれど彼女は何をそんなに驚いて……?
「どうかしたのかい、カミラ?」
「……あ……いえ、その……ごめんなさい。何でもない、です……」
ところがケリーに尋ねられると、カミラは前言を引っ込めた。見るからに何か気がついた様子なのに、彼女は再び下を向き、固く口を閉ざしている。
「――よーし、それじゃあてめえら、もう一度だけ言っとくぞ。耳の穴かっぽじってよーく聞け。俺たちはブレナンの野郎が勝手に決めやがったとおり、今月末日にここへてめえらを迎えに来る。今回は特例中の特例だ、ひれ伏して感謝しろ。一応の目印として、浅瀬には棹を一本立てておく。これなら誰かに引っこ抜かれねえ限り場所を間違えるってこともねえだろう。だがもし翼神の日を過ぎてもてめえらが戻らなかった場合は、しくじったってことにして俺らはさっさと島へ戻る。もう一度乗り込んできたきゃてめえらで船を掴まえて何とかしろ。俺からは以上だ」
かくして、島を出てから数刻後。昼は船の上で過ぎ、夕刻前に岸へ送り届けられたジェロディたちは一路、黄都ソルレカランテを目指して出発した。
まさかこんなに早くあの街へ戻ることになるとは夢にも思っていなかったが、故郷に帰れると思うと微かに浮き上がるような思いがする。と言っても今回は感傷に浸れる帰郷ではなく、危険と隣り合わせの潜入作戦なのだけど。
「問題は黄都に入ってからだよなぁ」
とぼやいたのは、別れ際にジョルジョが分けてくれた乾パンを豪快に噛み砕いたウォルドだった。昼食はさっき船の上で食べたはずなのだが、もしや自分の記憶違いだろうか。そう思わずにはいられないほど、ウォルドは歩きながらバクバクと貴重な食糧を平らげていく。
「いや、その前にまずどうやって黄都に入るかを心配すべきではないのか? ここにいる連中は俺以外、全員指名手配犯だろう?」
「ああ、それについては心配いらねえさ。黄都にただ入るだけなら、門番に鼻薬を効かせりゃいい。だが無事に黄都に入ったところで、どうやってセルジョ・ブランチとかいう男に接触するかって話だ。相手は貴族だし、こっちはそいつの顔どころか屋敷の場所も分からねえわけだろ?」
食べながら話すなんて行儀が悪いな……と思いつつ、しかしウォルドの言い分にも一理ある、とジェロディは頷いた。
彼の言う〝セルジョ・ブランチ〟とは、黄都に屋敷を構える翼爵家の当主の名前だ。貴族でありながらほとんど社交の場に出なかったジェロディには聞き覚えのない名前だが、どうやらその男が手紙の受け取り人であるロメオを知っているらしい。
と言うのはすべて、島を出る前にブレナンから聞き出した情報だ。このトラモント黄皇国で〝ロメオ〟というのは〝ティノ〟と同じくらいありふれた名前で、一口にロメオと言っても恐らく黄都だけで数百人、あるいは数千人の〝ロメオ〟がいることが予想された。
だのにどうやってたった一人のロメオを探し出せばいいのだと一行が抗議したところ、ブレナンは仕方なさそうにセルジョの名を挙げたのだ。ただジェロディが名前を聞いてもピンとこないまま立ち尽くしていると、ブレナンは困ったような呆れたような安堵したような、とても複雑な表情をしていたけれど。
「そういうことなら俺に考えがある。かつて軍に雇われていたおかげで、俺もトラモント貴族にはある程度顔がきくからな。黄都へ潜入する手段さえあるならあとは簡単だ。知り合いの貴族を訪ね歩いて、セルジョと面識のある者を探せばいい」
「なるほど。確かにセルジョ殿と顔見知りの人物さえ見つかれば、貴族同士のつながりで面会の手筈まで整えてもらえるかもしれませんね。ブレナンが何故翼爵と知り合いなのかは気になりますが……」
「だがそれなら案外すんなりいきそうじゃねえか? というかヴィルヘルム一人で万事解決だろ。だったら俺たちまで危険を冒して街に入る必要はねえと思うが」
「で、ですがブレナンさんは、わたしたちの覚悟を試すためにあの手紙を寄越したんですよ? なのに全部ヴィルヘルムさまにお任せして、わたしたちは何もせずに帰ったりしたら……」
「そんなの適当に口裏を合わせて、さも黄都で大立ち回りしたように見せりゃいいじゃねえか。島に残ったブレナンに真偽を確かめる手段なんかねえんだからよ」
「考えることがあくどいね、あんたは……けどあいつにそういう小細工が通用すると思うかい? あの言動から考えて、ブレナンはちょっとでも気になることがあれば徹底的に問い質してくるよ。もしもそうなったら、悪いが私はあの女に勝てる気がしないね」
「俺もケリーと同意見だ。下手に手を抜いてブレナンの失望を買うよりは、多少の危険を覚悟で乗り込むべきだろう。俺たちに身を挺す覚悟がなければ協力はしないと、事前にそう言われたのだからな」
小型の羅針盤で方角を確かめながらヴィルヘルムが言い、マリステアも頷いた。多数決の結果、黄都に乗り込む派と乗り込まない派の数は三対一で、ウォルドの提案は却下されることになったらしい。
意見を取り下げられたウォルドはめんどくさそうにしているが、まあジェロディも乗り込む派に一票だ。自分たちが脱出したあとの黄都がどうなっているのか、この目で確かめたい気持ちもあるし。
しかしジェロディがいま気になっているのは、船を下りてからずっと黙ったままのカミラのことだ。彼女は前方を歩くヴィルヘルムたちの会話にも加わらず、ただ黙々と下を向いて歩いている。
いつもならウォルドが勝手に食糧を食べ始めたあたりで怒り出し、袋を奪ったり飛び蹴りを食らわせたりしそうなものなのにそれもない。こんなことを言うと彼女に「私を何だと思ってるの?」となじられそうだが、やっぱりこう……暴力的でないカミラは変だ。彼女が大人しいと調子が狂う。ちょっと乱暴だけど賑やかで周りまでぱっと明るくするような、そんなカミラこそがカミラなのに。
(やっぱり昨日、ブレナンさんに言われたことがこたえてるのかな……)
フィロメーナのため戦うカミラに、ブレナンはきっぱり「黄皇国には勝てない」と言い放った。勝ち目のない戦いを仕掛ける救世軍の無謀さと現実を、彼女は寸分の情けもなく突きつけたのだ。
おまけにフィロメーナの最期の行動についても、ブレナンは残酷なほど否定的だった。カミラはそれが不愉快だっただろうし、傷ついただろう。心から大切にしていた人の最期を、あんな風に侮辱されたのだから。
「カミラ、」
そう声をかけたい気持ちをぐっとこらえる。今の自分が何を言ったところで、無責任な気休めにしかならない。
カミラの傷を癒やすには、示すしかないのだ。フィロメーナのしてきたことは決して無駄ではなく、救世軍にも必ず勝機はあると。
(……そのためにも行こう。黄都へ)
ジェロディは顔を上げ、よく晴れた空を振り仰いだ。少し前まで一面枯草色だった大地には、少しずつ春の息吹が芽生えつつある。
一行がコルノ島へ戻る頃には、世界は春神の祝福に包まれているだろう。
そしてそのときが、救世軍の再起のときだ。




