118.濁す女
「えっ……あっ……あ、あの、あなたがブレナンさん……ですか?」
と、絶句した六人の中から真っ先に尋ねたのはマリステアだった。
それに対してブレナンは、
「ええ。たった今そう申し上げましたが?」
と、鬢の髪を一房耳にかけながら涼しげな顔で返答する。
細波の音色が聞こえるコルノ島北部。ライリー一味がそこに設けた畑の真ん中で、ジェロディたちは仲良く立ち尽くしていた。
自らブレナンと名乗った目の前の女は、まったくの無表情でそんな一同を眺めていてる。なかなかの美貌の持ち主なのに、口調もどこか淡々としていて冷たい印象なのがもったいない。
歳はたぶん三十くらいだろうか。ハーフアップにされた淡い亜麻色の髪はマリステアのそれより長く、カミラよりは短いといった感じだった。
身長もそこそこあって、少なくともジェロディよりは大きい。こちらはケリーと同じくらいだ。
というか思えばこの場には自分より背の高い異性しかいない。今更ながらジェロディはその事実に打ちのめされた。ブレナンが予想どおり男であったなら、まあ仕方がないかと諦めもついたのに。
「……俺はトラモント人じゃねえから、この国の名づけの習慣みたいなもんはよく知らねえけどよ。少なくとも〝ブレナン〟ってのは男の名前なんじゃねえのか?」
「偏見ですね。確かに統計を取ればブレナンという名前の男女比は男性に偏っているかもしれませんが、だからと言って女性である可能性がゼロというわけではありません。思い込みや先入観というものは往々にして人の視野を狭めます。我が国の慣習にお暗い自覚があるならば、初めからこうだと決めつけてかかるのはおやめになった方がよろしいかと」
「おい、こいつめんどくせえぞ」
かと思えば今度はウォルドが理詰めの洗礼を受けていて、ジェロディも若干頬を引き攣らせた。ブレナンの言うことは確かに正論なのだが、ウォルドが言いたかったのはたぶんそういうことじゃない。
ただ名前から男だと思い込んでいた相手が女で驚いた。そういうことを伝えたかっただけなのに、何故か説教が飛んできた。
その段になってジェロディは思い出す。そう言えば決闘の前、レナードが〝ブレナンの説教を聞くのはもううんざりだ〟とか何とか、そんな感じのことをぼやいていたような。
「それで、私の質問の答えはいつ伺えるのでしょうか」
「え?」
「私の記憶が確かならば、あなた方と私は今日が初対面だと思うのですが?」
「あ……す、すみません。えっと、僕たちは……」
ブレナンの威圧的な態度に戸惑いつつも、ジェロディたちはひとまずそれぞれ自己紹介した。色々突っ込まれると厄介だと思い姓は名乗らなかったが、こちらが歩み寄りの素振りを見せても見下ろしてくるようなブレナンの表情はまったく変わらない。正直怖い。
「なるほど。ジェロディさんにケリーさん、マリステアさん、カミラさん、ウォルドさん、そしてヴィルヘルムさんですね。異国の方も混じっていらっしゃるようですが、私に何かご用でしょうか」
「は、はあ……実は僕たちは、ある人からあなたに会うよう言われて……それで最初はドナテロ村を訪ねたんですけど……」
「ああ、どうりでここがお分かりになったのですね。私を訪ねてまっすぐこの島へいらっしゃるなんて、正直妙だと思いました。村の皆さんはお元気でしたか?」
「え、ええ、一応……ただ皆さん、あなたのことを心配していたみたいでしたけど……」
「心配? 何故?」
「だ、だってブレナンさんは、ライリー一味に攫われてここへ連れてこられたんですよね?」
「ええ。しかしそのあと彼らと和解して、この島に新しい住居を構えたことは村の司祭様にお伝えしたはずですが」
「いや、普通は信じられねえだろそんな話。そもそも本当にやつらと和解したなら、なんで村に戻らなかったんだ?」
「それには色々と事情が……加えてこのコルノ島は、春になると風光明媚な景色が楽しめると言うので、以前から一度滞在してみたいと思っていたんです」
「で、大将を脅して無理矢理居着いたんだよな……」
と、ときにブレナンの後ろで囁いたのは、さっきまで鍬を振るっていた湖賊たちだった。彼らは明らかに異端な者を見る目つきでブレナンを眺めながら、ヒソヒソと陰口を叩いている。
ブレナンはそれが聞こえているのかいないのか、まったく表情を変えずに佇んでいるが少なくとも神の聴覚を持つジェロディには聞こえた。……ライリーを脅したってどういうことだろう。
というかこの女はあのライリーをも脅して屈服させてしまえるのか。どうりで彼らもブレナンを追い出したそうにしていたわけだ。一体どんな弱みを握られたのだろう。怖い。
「そういうわけですので、あなた方がもし話を聞いて私を救出しようとお考えなら結構です。ここでの生活も今はそこそこ気に入っていますので」
「大将たちは辟易してるけどな……」
「しかし拝察するに、ここへいらした理由は他にもありそうですね。先程〝私に会うよう言われた〟とおっしゃっていましたが、一体誰の指示で私のもとへ?」
「そ、それなんですけど――ブレナンさんは、フィロメーナ・オーロリーという人をご存知ですか?」
ためらいがちに尋ねたのは、ちょっと緊張した様子のカミラだった。ブレナンを見据える彼女の眼差しには、この人が本当にフィロメーナの言っていた〝ブレナン〟なのだろうかという半信半疑の色がある。
しかしそのときジェロディは見た。フィロメーナの名前を聞いた途端、無色透明だったブレナンの顔色がさらにすうっと色褪せたのを。
「……そうですか。彼女は死にましたか」
瞬間、場の空気が総毛立つのをジェロディは感じた。ブレナン以外、誰も言葉を発していないのに耳元で何かがざわついている。
「ど、どうしてそれを……」
「簡単なことです。そうでもなければ、彼女が私のもとへ人を遣わすなどありえない。加えて先日、ライリーさんが反乱軍潰滅の報を触れ回っていました。その点を考え合わせれば、フィロメーナの死という結論が導き出されることはもはや必然」
「……」
「あなた方がここへやってきたのは、さしずめフィロメーナの遺命といったところですか。ということは、あなた方もまた反乱軍の関係者なのですね。少々意外な顔ぶれですが」
「〝意外〟とは?」
「いえ、こちらの話です。……どんな最期でしたか?」
わずか地面に視線を移し、ブレナンは尋ねた。質問の主語は省略されていたがわざわざ確かめなくても分かる。彼女が知りたがっているのは恐らく、フィロメーナの最期。
「フィ、フィロは……フィロは、ロカンダにあった本部を守る戦いの最中に……黄皇国兵に狙われた、男の子を守ろうとして……」
「男の子? というのはつまり、戦場に子供がいたということですか?」
「はい。その子はアジトの中と外との、伝令みたいな役割をしてくれてたんです。だけど混乱の中で逃げ遅れて……フィロは、その子だけでも助けようと――」
「そうですか。そんなことでは負けて当然ですね」
「……え?」
「話を聞く限り、フィロメーナは指揮官としてあるまじき重大なミスを犯しました。あなた方反乱軍の敗北の原因はそれです。たかが子供一人のために、味方を窮地へ追いやる選択をするとは……彼女は総帥失格ですね」
ざわり、と再び空気がざわめいた。隣ではマリステアが息を飲み、ケリーが眉を寄せ、カミラは目を見開いている。
ジェロディも自然、うなじの毛が逆立った。うなじだけじゃない、まるで全身を生ぬるく不快な何かで逆撫でされているような感覚。
だって、この女は今なんと言った?
フィロメーナの死を――彼女の選択は誤りだったと?
「ま……待って下さい。フィロは、確かに自分から危険を冒すようなことをしたけど、でも、あれは仲間の子を助けるためで……!」
「全軍を率いる立場にある人間が、自ら身を挺して戦おうというのがそもそもの間違いです。指揮する者がいなくなれば群衆は指標を失い、まとまりを欠き、ただの無力な烏合の衆と成り果てる。人々の上に立つことを決めた時点で、フィロメーナにもそれは分かっていたはずです。なのに彼女は進んで過ちを犯した。己の死が反乱軍の崩壊につながることを知りながら……そのような振る舞いを総帥失格と言わずしてなんと言うのです?」
「だ、だったらあなたは、目の前で幼い子供が殺されそうになっていても見殺しにすべきだって言うんですか!?」
「少なくともフィロメーナはそうするべきでした。結果から見れば、彼女は自らが率いる反乱軍の未来より、一時の感情を優先したのです。それがどれだけ愚かなことか、ジャンカルロの死をもって理解していたはずなのに……本当に、馬鹿な子」
眉間を曇らせ、目を閉じて、ブレナンは深々とため息をついた。カミラはもはや言い返す言葉も浮かばないほど憤っているのか、瞠目したまま何も言わない。
ジェロディも同じだった。すぐにでも反駁してやりたいのに、色んな感情をぐちゃぐちゃに掻き回されて言葉にならない。
――何なんだこの人は。フィロメーナが死んだときその場にいて、カールの涙を、ジョンの叫びを、カミラの必死さやフィロメーナの想いを見たり聞いたり感じたりしたわけでもないくせに。
いや、だからこそ好き勝手なことを言えるのか。
あのときあの場にいて、大勢の仲間の息絶えた姿を前にして、それでも平静でいられる自信がこの女にはあるのだろうか。
結果だけ見れば確かにフィロメーナのしたことは間違いだった。彼女の死によって救世軍の敗北は決定的なものとなった。フィロメーナが生きていればまだ見えたはずの希望も今はない。彼女の死の事実が広まれば、人々は絶望し戦う意思を失くすだろう。
でも、だからと言ってあのときの彼女の選択を、想いを、馬鹿げたことだったなんてジェロディには言えない。言いたくない。
だってフィロメーナが我が身を惜しみジョンを見捨てるような人間だったなら、誰が彼女についていったと言うんだ。
フィロメーナは救民救国を掲げる救世軍の総帥として、本当に為すべきことを為した。救世軍の存在意義を、自らの命を燃やして血を吐くように叫んだのだ――なのに、この女は。
「それで、フィロメーナは私に会ってどうしろと? 彼女の代わりに反乱軍の指揮を執れとでも言うつもりですか?」
「その前に、お前とフィロメーナの関係を訊いてもいいか?」
問い質したのはヴィルヘルムだった。彼は剣の柄に手をかけているが癖のようなもので、ジェロディたちほど殺気立っている様子はない。至って平常、いつもどおりの冷静で淡泊な彼のままだ。
「関係、ですか。その質問はそっくりそのままお返しします、ヴィルヘルム将軍」
「……! あんた、どうしてヴィルヘルム殿の来歴を……!?」
「『黒迅風のヴィルヘルム』と言えば、我が国では有名でしょう。正黄戦争でのご活躍は聞いています。面相も風変わりで、一目見ればそうそう忘れられるものではありませんし」
「つまり俺とお前は一度どこかで会っているということか。奇遇だな。俺もお前の顔に見覚えがある」
「光栄です。直接お話させていただくのはこれが初めてのはずですが、優れた記憶力をお持ちなのですね」
「今はそんな話をしてるんじゃねえ。あんたは俺たちに協力する気があるのかねえのか、聞きてえことはそれだけだ」
と、突然ウォルドが話に割り込み、本題から逸れつつあった軌道は修正された。ブレナンは話を戻されたのが不満だったのかどうか、やはり感情のない目つきでウォルドを一瞥すると、風でほつれた鬢髪を再び耳にかけて言う。
「その〝協力〟と言うのは、具体的にどこまでのことを指しているのです? フィロメーナの代理を務めろという話なら、残念ながらお断りです」
「誰もそこまで頼りきるつもりはねえよ。だが今の俺たちには新しい拠点と、組織を再編するための金が必要だ。そいつを手配する手助けさえしてくれりゃ、それ以上何かを要求するつもりはねえ。どうやらあんたとフィロの間には、深刻な信条の違いがあるらしいしな」
そこでジェロディはすっと頭が冷えた。……ひょっとしてウォルドもブレナンの言い草に腹を立てているのだろうか。イークに散々悪態をつかれたときでさえ飄々としていた彼にしては珍しい。
けれどその語調には確かに突き放すような響きがあったし、ブレナンを見下ろす眼差しも心なしか冷ややかだった。今の彼の心境を最も適切な言葉で表現するなら、失望、だろうか。フィロメーナが頼れと言うほどの人物だからと期待してみたら、まったくの見当違いだったというような。
「……それはまた無理難題を押しつけられましたね。ついこの間まで閑村で晴耕雨読の暮らしをしていた私に、一軍を立て直せるだけの力と人脈があるとでも?」
「いいや。とてもそうは見えねえが、あのフィロがあんたなら俺たちの助けになってくれるはずだと言ったんでな」
「彼女の言葉であれば、何でも手放しで信じられるとおっしゃるんですか?」
「少なくとも俺は今まで、死ぬ間際の人間が嘘や冗談を言うところは見たことがねえ」
嘲笑うようなブレナンの問いかけにも、ウォルドは淡々とそう答えた。彼の言葉がずしりと重いのは、それを裏づけるだけの経験があるからだ。
きっとウォルドは長い傭兵生活の間に、数えきれないほど多くの死を看取ってきたのだろう。微か頷いてみせたケリーも、ウォルドを一瞥したきり何も言わないヴィルヘルムも。
「ですが仮に新たな拠点と資金を手に入れたところで、あなた方に勝算はあるのですか? 二度も総帥を討たれ、多大な犠牲を払っておきながら、なおも黄皇国に立ち向かうと?」
「それでも……いいえ、だからこそ誰かがやらなくちゃいけないんです。勝算があるかないかなんて、やってみなくちゃ分からない」
今度はカミラが答えた。
彼女は拳を握り締め、炯々とした眼差しでブレナンを捉えている。
そこにあるのは決意。怒り。願いと悲壮。そうした感情に貫かれた彼女の覚悟。
カミラはそれを白刃のごとく振りかざし、ブレナンの眼前に突きつけた。少なくとも、ジェロディにはそう見えた。
「……酷なことを言うようですが。やってみなければ勝算が見えないような戦いは、その時点で負けが決まっています」
「だったらこれから作ります。もう一度救世軍の旗を掲げる前に、みんなの希望になるような何かを」
「私の知見から言わせてもらえば、現状、全国の反政府勢力が一堂に会したとしても、黄皇国を打倒できる確率は一割もありません。あなた方はこの国の真の力を知らない。いくら内側から腐り始めているとは言え、三百年以上の時をかけて根を張った大樹を切り倒すのは容易なことではないのです」
「だからってやる前から諦めたら何も変わらない。それどころか弱い人たちや貧しい人たちが終わりのない苦しみに晒されるんです。そんなの黙って見てられない」
「あなたは異邦人ですね、カミラ。そのあなたが命を懸けて救うだけの価値が、この国にありますか」
「私が命を懸けるのは黄皇国のためじゃない。フィロの苦しみや悲しみを……彼女が逃げずに戦い続けた理由を、守るためです」
難しい理屈なんてすべて振り切るように、カミラは言った。
彼女の言葉はジェロディの胸に突き刺さり、甘く震えた。
そうだ。自分もさっきのライリーとの問答で気づいた。
この国を変えるとか、民を救うとか。そんな理由は副次的なものでしかない。
僕らは、ただ。
(そのために戦い続けた人々の願いを、守りたいだけなんだ――)
そしていま戦い続けている人々も。彼らの想いも。
だから自分は救世軍に入る道を選んだ。彼女たちの覚悟の尊さ、命のきらめき、絆、祈り。それらすべてに魅了された。守りたいと思った。
だって彼らの姿は、ジェロディの信じるトラモント黄皇国そのものだったから。
救世軍が失われたら、黄皇国は今度こそ死んでしまう。そう思ったから。
「だから、私たちはこれからも戦い続けます。私たちが諦めない限り、フィロの想いは生き続けるから……」
「……」
「どんなに頑張ったって、フィロはもう戻ってこないけど……それでも戦い続ければ、心はずっとフィロと一緒にいられるから」
絞り出すようなカミラの声は震えていた。
しかし彼女はブレナンから目を逸らさなかった。
ブレナンもそんなカミラをじっと見据えている。
冷たい色の瞳は相変わらず、いかなる感情も映してはいない――けれど。
「ジョルジョさん」
「……え? あ、は、はい!」
「私は一度砦へ戻ります。あとのことはあなたにお任せしますので」
「え、あ、あとのことって、つまり……?」
と、当惑したジョルジョがブレナンとジェロディたちを見比べている間にも、彼女は颯爽と踵を返した。頭には再び帽子を被り、やはり優雅な足取りで畝を抜け、島の東西へ走る柵に沿うように歩き出す。
「おい、ブレナン! まだ返事を聞いてねえぞ!」
「お返事はできません。今はまだ」
「はあ?」
「一足先に砦へ行って、あなた方が島に滞在できるようライリーさんを説得しておきます。半刻(三十分)もあれば説き伏せられると思いますので、またのちほど」
ブレナンは最後にそう言い残すと、あとは振り向くこともなくさっさとどこかへ行ってしまった。協力してくれるのか否か、その返事すらもらえずに取り残されたジェロディたちは呆然と立ち尽くすしかない。
「え、えっと……じゃあ、しばらくここで土いじりでもしようか?」
そんなジョルジョの気遣いだけが、波音の間に落ちて消えた。
少し離れたところでは鍬を担いだ湖賊たちが、ジェロディたちに哀れみの眼差しを向けている。




