10.青い男と大男
イークと兄は同い年で、幼い頃からとても仲のいい友人同士だった。
友人同士、というか兄の親友だった。
血のつながりはないが、兄弟だったと言っていい。
カミラたちの故郷であるルミジャフタ郷は、一面亜熱帯の森に覆われたグアテマヤン半島、そこにある唯一の集落だった。トラモント人には「かつて太陽神がおわした地」などと言われて聖地のように崇められているが、実際は森が深すぎて外界との交流がほとんどなく、いつだって閉鎖的で保守的な空気が漂っている。
おかげで数百年前から続く様々のしきたりや儀式が今なお健在で、郷に生まれた男児はすべて戦士となるという決まりもそのひとつだった。
郷ではそれが至極当然の常識として扱われ、ゆえに父親は息子を郷一番の立派な戦士に鍛え上げようとし、息子も父に習って一人前の戦士へと成長を遂げてゆく。
だがそうした風習は、父親のいない男児にとってはいささか酷なものでもあった。郷中の子供たちが実の父親から戦士としての手ほどきを受けている中で、自分だけ父がいないというのは非常にみじめで心細い。
意地悪な子供の中には父なし子、といってそんな子供を嘲笑う者もいる。
イークはまさにその〝父なし子〟だった。イークの父は彼がまだ母親の胎内にいた頃に、郷を襲った賊軍と戦って命を落とした。
そうして父親のいない家に生まれ、肩身の狭い思いをしていたイークを救ったのがカミラの父だ。父はどうせ近所に住んでいるのだから、という優しいんだか適当なんだかよく分からない理由でたびたびイークを家へ招き、息子のエリクと一緒に育てた。育てた、というのはもちろん一端の戦士として、という意味だが、おかげでイークとエリクは実の兄弟よりも固い絆で結ばれた。お互いに善きライバルであり善き理解者だったのだ。
ゆえにふたりは何をするにも一緒。クィンヌムの儀に出るのも一緒。おまけにこの三年間、何の報せもなく郷に戻らなかったところまで示し合わせたように一緒。カミラはそんなイークを正面から半眼で睨んでいた。睨まれたイークは非常に居心地が悪いといった様子で、変な汗をだらだら流しながら視線をさまよわせている。
「で? イークは郷に連絡も寄越さないで一体何やってるわけ? ある程度〝外〟で力をつけたら、一度郷に戻ってくるって言ってたアレは何だったわけ?」
「い、いや……だからそれはだな……」
「もしくは何? 郷を出てからもう三年も経ってるのに、未だにへなちょこのままだっていうの? だから恥ずかしくて帰ってこれなかったの? そういうことなら理解と同情を示さなくもないけど、だとしても一度くらい〝生きてる〟って連絡をくれてもよかったんじゃないの? もしかして三年もフラフラしてる間に字の書き方も忘れちゃったの?」
「だーっ! もう、分かったから一気に喋るな! こう見えて俺も色々あったんだよ! ていうか誰がへなちょこだ!」
「あら、やだわこの人、字の読み書きだけじゃなくて昔お兄ちゃんにボコボコにされた記憶までなくしちゃったのかしら」
「あれはお前を泣かせたときの話だろ……剣の腕じゃ俺はエリクと互角だ。あと思い出すと夢に見て魘されるからその話はやめろ」
「そう言えばイーク、一度お兄ちゃんの怒りを買ってアムン河に突き落とされたりしてたわよね。うふふ、なつかしいわね」
「だからやめろって言ってるだろ!」
幼い頃何度かエリクに殺されかかったことがよほどトラウマになっているのか、イークは青い顔をして耳を塞いだ。兄のエリクは郷を出るまでそれはそれはカミラを溺愛していて、不用意に近づく悪い虫や妹を泣かせる不届き者がいようものなら容赦なくギタギタにしていた過去があるのだ。
当然ながら彼の親友であり兄弟であるイークも例外ではなかった。エリクは基本的に博愛主義で、誰にでも分け隔てなく平等だった。だからだろう。
カミラは兄のそんなところも好きだ。憧れている。異論は認めない。
「というかそもそもだな、カミラ、なんでお前がこんなところにいるんだ? お前がひとりで郷の外にいるってだけでも問題なのに、そのうえ何をのこのこ救世軍のアジトなんかに来てる?」
「アジト?」
と、ときにイークがげんなりしながら告げた言葉が気になって、カミラはぐるりとあたりを見渡した。過去にこの地下用水路を築いた人々が設けた資材置き場、なのだろうか、カミラが歩いてきた道の先にはそこそこ広い箱型の空間が広がっていて、そこにずらりと武装した男どもが集まっている。
彼らが遠巻きに、されど物珍しげにこちらを眺めてひそひそ話をしているのは、たぶん新米志願兵としてやってきた女がいきなり救世軍の幹部と親しげに話し始めたからだろう。そう──目の前にいる救世軍の幹部と。
「……イーク。そう言うあなたはここで何やってるの?」
「え?」
「私はお兄ちゃんを探してジェッソに来たの。救世軍へ来たのはたまたま……というかまあ、話せば長い事情があって、救世軍に入りにきたわけじゃないんだけど」
どさくさにまぎれてカミラが言えば、あたりを包むどよめきが大きくなった。
たぶん、ここまで来といて救世軍に入る気はないだと? みたいなどよめきだ。
けれどもカミラは一旦それを無視した。
「三年前に郷を出るとき、イークはお兄ちゃんと一緒だったでしょ。だから教えて、郷を出たあとお兄ちゃんはどこへ行ったのか。ひょっとしてお兄ちゃんもこの救世軍とかいう組織に入ってるの?」
「いや……いや、待て。話が見えない。エリクがどこへ行ったのか、だって? まさかあいつ、まだ郷に戻ってないのか?」
「だから〝探してる〟って言ったでしょ。お兄ちゃんはあの日、イークと郷を出ていったきり一度も戻ってない。無事だって報せもない。ねえ、儀式に出たあとお兄ちゃんに何があったの?」
集まった男どもが手に手に灯す明かりの中で、みるみるイークの顔色が変わった。彼はカミラの言い分を聞くと何か言いかけ、しかし口を噤み、じっと考え込んでいる。視線がひとつところに定まらず、あちこち動いているのはきっとこの三年間の記憶を目まぐるしく掘り返しているからだ。
「いや……ありえない。エリクが郷に帰らないなんてことは……あいつは俺とクィンヌムの儀に出たあと、黄皇国からラムルバハル砂漠を通って西のルエダ・デラ・ラソ列侯国へ向かったはずだ。何とかっていう、昔親父さんが世話になった人のところへ借りた剣を返しに行くんだって、郷を出る前お前にもそう言ってたろ?」
「うん……だから私もついこないだまでルエダ・デラ・ラソ列侯国へ行ってたの。だけどどこに行ってもお兄ちゃんの消息は掴めなかった。だからもしかしたら列侯国には来てないんじゃないかと思って……」
「戻ってきた?」
「そう。でもやっぱりお兄ちゃんは、列侯国に行くって言ってイークとも別れたのね?」
「ああ、そうだ。あいつはグアテマヤンを出たあとまっすぐ西へ向かった。それは間違いない」
「じゃあ、どうしてこんなに探しても手がかりひとつ見つからないの?」
思わず叩きつけるような口調でカミラは言った。
途端に広間は静まり返り、男たちが顔を見合わせている。
束の間の静寂ののち、また少しずつどよめきが戻ってきた。しかしカミラはうつむいたまま顔を上げられない。だってこれでついに、最も有力な情報を持っているだろうと思っていたイークにまで「知らない」と言われてしまった。こうなるともうカミラに残された手がかりは何もない。兄と共に旅立ったイークの存在だけが一縷の希望であり、彼と再会できればきっと何とかなると信じていたのに……。
「おい、カミラ、落ち着け。とにかくここは場所が悪い。一旦こっちに──」
「──竜人にでも喰われちまったんじゃねえのか、その兄貴」
と、イークが何か言いかけたときだった。突然背後からそんな声が聞こえてカミラは目を見開いた。そうして思わず顔を上げ、声のした方を振り返る。
視線の先で人垣が割れた。先程カミラが歩いてきた方角だ。
人垣の向こうから現れたのは、ぎょっとするほど大柄な男だった。
恐ろしいことに先刻ピンゴの酒場で見かけた店主よりもでかい。
身長は四十葉(二メートル)近くあるだろうか。
袖なしの衣服から覗く両腕は丸太のようで、分厚い胸板はカミラが多少どついた程度ではびくともしなさそうだった。腰に吊られた剣はかなり重そうだが、あれほどの体格ならばきっと軽々と振り回してしまうに違いない。
何より見る者を圧倒するのが、顎から右頬にかけて走った古傷だった。
人相は決して悪くないのだが、恵まれすぎた体格と顔の古傷が「なんかヤバそう」という印象を与えてくる。ところがその男に向かって、
「おい、ウォルド。余計な口を挟むな。というかなんでお前がここにいる? お前には地上の見張りを任せただろうが」
と、まったく怯みもせずにイークが言い放った。
それどころかイークはいかにも不審なものを見る目つきで大男──名前はウォルドというらしい──を睨めつけている。どうやらふたりは知り合い……というか、イークの言い草からしてあのウォルドという男も救世軍の一員のようだ。
「そうつれないことを言うなよ。見張りったってここの郷守はコレを憲兵隊による反乱分子の炙り出しだと思ってんだ。もう何日も酒場を張ってたが、地方軍がこっちを怪しんでる気配なんざこれっぽっちもねえよ」
「だとしても、地方軍以外に俺たちを張ってる人間がいるかもしれないだろ。それこそ本物の憲兵とか……」
「考えすぎ考えすぎ。だいたい管轄の違う憲兵隊がわざわざこんな地方まで出張ってくるわけねえだろ。んなことよりそこの嬢チャン」
棘々したイークの言葉を軽く去なして、ウォルドは突然カミラに水を向けた。……この男、すごい。何がすごいって、イークがあれほど嫌悪感を丸出しにしてあしらっているのにまるでこたえた様子がない。あとウォルドがこちらへ向けて突き出してきた角灯が、彼の体格の前だとちっちゃな玩具みたいに見えるのもすごい。見たところイークが携えているものとまったく同じつくりの品なのに。
「名前はカミラっつったか。お前、さっきルエダ・デラ・ラソ列侯国に行ってたって言ったよな。ってことはラムルバハル砂漠を横断したってことか。ひとりで?」
「いいえ。いくら私だって死の砂漠をひとりで旅するほどバカじゃないわよ。列侯国に向かう隊商に傭兵として雇ってもらって、道案内してもらったの。それでも竜人には襲われたけど……」
「へえ。で、何人死んだ?」
「ちょっと。この人不謹慎じゃない?」
「……こいつはこういうやつだ」
再びげんなりしたようにイークが言う。その目は広間のすぐ横を流れる用水路に向いていて、既にウォルドと会話することを放棄しているように見えた。
ちなみに先程から会話に上がっている竜人というのは、エマニュエルに存在するあらゆる獣人の中で最も凶暴かつ残忍と言われる種族だ。彼らはトラモント黄皇国とルエダ・デラ・ラソ列侯国の間に横たわるラムルバハル砂漠の南を住処にしていて、砂漠を渡る人間を襲っては人肉を食糧としている。これがまたウォルド並にでかくて硬くて、人間の振るう武器などまったく受けつけない厄介な相手だった。
彼らの全身は鎧のように硬い鱗で覆われており、見た目は竜というより首の長いトカゲに似ている。それが群を成して砂漠を渡る人間を狩猟するのだ。
だからあの砂漠は別名〝死の砂漠〟と呼ばれている。百人踏み込んだら五十人出てこれるかどうか。ラムルバハル砂漠とはそういう場所だ。だから何人が無事に砂漠を抜けられたのかと興味を持つウォルドの気持ちも分からなくはないのだが。
「……死んだのは傭兵十二人中五人。行きと帰りに三回襲われてこの人数なら運が良かった方でしょ」
「へえ、なるほど。その状況で生き残るたぁなかなかじゃねえか」
「こう見えて神術使いですから。魔物だろうと竜人だろうと、神術で吹き飛ばしちゃえば怖くないわ。ついでに言えばお兄ちゃんもイークと同じ雷刻の使い手なの。だからお兄ちゃんが竜人ごときに負けるとは思えない」
「ははっ、竜人ごときね。こりゃ大したタマだ」
野太い声でそう言って、何が可笑しいのかウォルドは大口を開けて笑った。
カミラはそんなウォルドの反応に眉をひそめたものの、よく見れば周りの男たち──今更だが彼らも救世軍の構成員なのだろう──も何やらざわついている。
「運良し、腕良し、度胸もアリか。こいつはなかなかいい人材じゃねえか。よう、イーク。なんだったらこの嬢チャンも明日の作戦に加えてやったらどうだ?」
「はあ!?」
と、肩をそびやかして聞き返したカミラとイークの声が綺麗にハモった。
さすがは幼い頃からの腐れ縁、三年経っても変なところでピッタリ息が合う忌々しい現象は健在か──と思いつつ、今は舌打ちをかましている場合じゃない。
「ちょっと待って、なんでそういう話になるわけ? さっきも言ったけど、私がここに来たのは救世軍に入るためじゃなくて……」
「そうだ。こいつは俺たちの任務には関係ない。勝手にこいつを巻き込むな」
「まあ、本人がどうしても嫌だってんならしょうがねえけどよ。俺たちが巻き込む巻き込まない以前に、もう巻き込まれてると思うぜ?」
「え?」
そのとき、カミラとイークの抗議などどこ吹く風といった様子でウォルドが腰の物入れから何か取り出した。そうしてこちらに差し出してくるので、カミラは不審に思いながらも受け取ってみる。ウォルドが手渡してきたのは縦長に折りたたまれた亜麻紙だった。それをするすると開いたところで、カミラは思わず硬直する。
「……おい、これって……」
同じく後ろから紙面を覗き込んだイークが口もとを引き攣らせながら呟いた。
そこにはカミラの似顔絵と一緒に『全国指名手配 反乱軍構成員』の文字が踊っている。
「……わあ、すごい。私にそっくり」
しばしの沈黙ののち、カミラがようやく声を絞り出すと後ろから頭を叩かれた。
どう考えてもお前だろ、という、イークの無言のツッコミだった。