114.合縁奇縁
カミラたちがすっかり晴れたと思っていた霧は、晴れてなかった。
いや、厳密に言うと晴れてはいる。ただしこの島の上だけ。
サラーレの町の住民を脅かしている魔の霧は、島の岸辺から二枝(十メートル)くらいのところをモヤモヤと漂っていた。しかしそれが島へ迫ってくることはなく、常に一定の距離を保っている。
コルノ島の上空は晴れ。見上げれば空の青が見えて、鳥も飛んでいた。
ひょっとするとこの霧は、島を環状に囲んでいるのかもしれない。町の住民たちは口を揃えて「あの霧に切れ目はない」と言っていたから。
(だけど、島の上にだけかからない霧だなんて)
そんなことがありえるのだろうか。
もしもありえるのだとしたら、さながらここは霧の壁に守られた城だ。
一度霧の中心に入ってしまえばこのとおりだが、外からは中の様子が窺えない。おかげでカミラたちもいきなり弓矢で襲われる羽目になったし、過去にトラモント水軍が攻略を諦めたのもたぶんそれが原因だろう。
ということはもしかして、この霧は人為的に作られている?
たとえば水刻の力を使ったりして?
(確かに水系神術の中には霧を発生させるやつもあるけど……)
それにしたってこの規模は何だ。島全体を隠すほどの霧なんて、一人や二人の術者で起こせるようなものじゃない。
この島の正確な大きさはまだ分からないけれど、少なくとも水刻の使い手が二十人は要るだろう。だけどやっぱり恒常的に霧を発生させておくなんて不可能に近い。何せ術者の体力が尽きれば、当然ながら術は解けてしまうのだから。
(ってことは本当に魔物が……?)
とも警戒したが、先程ヴィルヘルムが言っていたとおり、島から瘴気の臭いはしない。これだけの規模の霧を起こしているとなれば、魔物も相当大きいか数がいるはずなのに、そんな気配はどこにもないのだ。
そもそも引っかかるのは、霧の出口にあったあの鳴子。
もしも島を守る魔物がいるなら、湖賊たちはわざわざあんなものを用意するだろうか。魔物の嗅覚はこと鋭敏で、かなり遠くにいる人間の匂いも嗅ぎつけると言われているのに。
「おい、カミラ。お前、体は大丈夫なのか?」
と、ときに横から名を呼ばれ、カミラはふと我に返った。隣には相変わらず黒ずくめのヴィルヘルムが立っていて、じっとこちらを見下ろしている。
「え、あ、ああ、うん。おかげさまで神力はすっからかんだけど、体の方は何とか……」
「そうか」
「そう言うヴィルは? さっきの傷……」
「マリステアの術で治った。出血も大したことはなかったし、問題ない」
目を凝らすと、ヴィルヘルムの左肩と右の脇腹には小さな衣服の破れがあった。見る限り傷は確かに治ったようだが、一歩間違えたらあの漁師のようになっていたかもしれないと思うとぞっとする。
「あ、あの……」
「気にするな。俺はお前の護衛としてやるべきことをやっただけだ」
「そ、それはそうなんだけど……」
「ついでにあの漁師のことも気に病むな。交渉したのは俺だ。お前に責はない」
口調は淡々としているくせに、まるでこちらの思考を全部見透かしているみたいだった。完全に先回りされたカミラは返す言葉を失って、ただただ黙り込むしかない。
そこはタリア湖に浮かぶコルノ島。島の南東に突き出した桟橋の傍らで、カミラたちは現在ライリー一味に囲まれていた。
湖賊たちは手に手に武器を持ったまま、血走った目でこちらを睨みつけている。できることなら今すぐカミラたちを叩き殺したいといった形相だが、襲いかかってこないのは彼らの仲間が頭を呼びに行っているからだ。
タリア湖とラフィ湖、二つの湖を股にかけるライリー一味は名前のとおり、ライリー・マードックという男に率いられているようだった。
ヴィルヘルムが所持していた手配書によれば、その男はまだ若い。黄暦三一一年生まれということは今年で二十六歳だ。
出身は北のボルゴ・ディ・バルカで、元は船商人の家の出らしい。外見的特徴だけでなく出自まで明らかになっているということは、黄皇国もこの男をよほど危険視して調べ上げたということだろう。
(そう言えばライリー一味って、元々タリア湖を拠点にしてたマウロ一味を呑み込んで大きくなったって聞いたっけ)
トラモント黄皇国の三神湖には、以前は三つの湖賊勢力があった。タリア湖のマウロ一味、ベラカ湖のロドヴィコ一味、そしてラフィ湖のライリー一味。この三勢力が互いに睨み合い、力の均衡を保っていた頃はまだ治安も安定していたのだ。
しかし数年前、マウロ一味の棟梁マウロがトラモント水軍に討たれ、その隙を衝いたライリー一味がタリア湖を占拠した。この島も元はマウロ一味のものだったのを、ライリーが混乱に乗じて奪い取ったのだ。
おかげでライリー一味はマウロ一味の残党を取り込むことにも成功し、一気に勢力を拡大するに至った……と話してくれたのは確かジェロディだった。
その上昨今ではタリア湖と周辺地域を荒らし回っているというのだから、国が警戒するのも無理はない。首に懸かった賞金も七十金貨とフィロメーナ並だし、一筋縄ではいかない相手だと思っていた方がいいだろう。
「しかしどうする、この状況。これではたとえブレナンに会えたとしても……」
「ああ。まず間違いなく、タダでは帰してもらえねえだろうな」
と、そこにケリーとウォルドの会話が聞こえ、カミラは改めて周囲に目を配った。一行を包囲している湖賊の数はざっと百ちょっと。カミラたちの背後には黒焦げになった桟橋があるだけで逃げ場はない。
既に火は消し止められたものの、ここにあった舟は半分くらいが燃えて沈んでしまったらしかった。湖賊たちがいきり立っている理由はそれだ。どうも彼らにとって、舟というものは命の次に大切なものだったらしい。
「こうなったのはお前のせいだぞ、カミラ。よりにもよって一番燃えやすいところにあんな大技をぶち込むから……」
「な、何でよ!? ああしなきゃみんなの身が危なかったんだからしょうがないでしょ!?」
「だからってここまで徹底的に燃やすか、普通?」
「そ、それは、紅蓮劫雨は火の玉の飛ぶ方向を大まかにしか制御できないから……」
「だったら最初からティノに任せときゃ良かっただろ。お前の神術はただでさえ使い手に似て凶暴なんだからよ」
「誰が凶暴よ、誰が!」
「か、カミラさん落ち着いて下さい! あんな術を使ったあとじゃお体に障ります……!」
カミラは天敵を前にした獣みたいに唸り、悪態を垂れるウォルドを威嚇した。だがそれを正面からマリステアが押し留めてきて、殴ってやろうと思った拳は届かない。
「おいおい、何だよ仲間割れか? 身内で殴り合うくらいなら俺らにやらせてくれよ。そしたらみんな仲良くぶっ殺してやるからさァ」
と、ときに聞き覚えのない声が割り込んできて、カミラたちははっとした。
見ればいつの間にか一同を囲んでいた人垣が割れ、作られた道の真ん中を悠然と歩いてくる男がいる。
カミラはその顔に見覚えがあった。というか黄皇国の似顔絵師は腕がいい。男の風貌はここへ来る前に見た手配書の人相書きにそっくりだ。
黄金が錆びたらあんな色になるのだろうなと思われる金茶色の髪に、額に巻かれた青い布。それと同じ色の瞳はまるで獲物を狙う緑豹のよう。
あの男がライリー・マードック。
このコルノ島を根城とする、ライリー一味の棟梁だ。
「待ってました、大将!」
「レナードの兄貴とジョルジョの兄貴も……!」
「大将! このふざけた連中、ボコボコにしてやって下さい!」
……ちょっと意外と言うべきか、ライリーなる男は手下の湖賊たちにだいぶ慕われているらしかった。彼が来るや否や湖賊たちはどっと沸き立ち、口々に勝手なことを喚いている。
加えてライリーの後ろには、ウォルドにも負けない巨漢が二人付き従っていた。一人は雄鶏の鶏冠に似た被り物を被り、馬鹿でかい斧を携えた筋骨隆々の男。もう一人は四十葉(二メートル)に迫る長身で、同じく頭に赤い頭巾を被ったのっぽの男。
取り巻きの二人に比べれば、先頭を歩くライリーは平均的な身長だ。ジェロディよりは大きいが、ヴィルヘルムよりは小さい。たぶんイークと同じくらいか。
しかし何よりも目を引くのはまず、その異装だった。
ライリーはこのあたりではあまり見かけない、妙な衣服に身を包んでいる。やたらと袖口の広い、たっぷりとしたガウンのような服だ。
ところがその服、前開きなのに何故か釦や留め具らしきものが見当たらない。そんな仕様では当然前を閉めることはできず、ライリーはだらしなく開いたそれを腰帯で締めていた。腹部に巻かれたサラシがなければ公然猥褻一歩手前だ。
更に上には、同じく袖口の広い上着を外套のごとく羽織っている。袖に腕は通していないらしく、風が吹く度にひらひらと揺れているが、飛ばされないのは胸元の白い紐が結ばれているためだろう。
「お前がライリーか」
「ああ、そうだ。この騒ぎで〝違います〟って言ったら驚きだろ?」
ケリーの問いに答えた言葉つきは、間違いなくトラモント訛り。ということはボルゴ・ディ・バルカ出身という手配書の情報に嘘はなさそうだが、身なりだけがトラモント人らしくない。
それはライリーの左右に控えた二人組も同じだ。彼らは裾を脚衣に収めているからまた印象が違うが、恐らくあの上衣はライリーが着ているのと同じ構造のものだろう。
脚衣は膝から下が筒状に窄まったこれまた妙なものをはいているし、黙っていたら三人とも異国の人間に見えそうだ。他の湖賊たちは至って普通のトラモント人らしい格好だからこそ、この三人の風体は異様に目立つ。
「話は聞いたぜ。さっきの爆発はてめえらの仕業らしいなァ? おかげで俺らの砦はボロボロだ。この落とし前はつけてもらうぞ」
「先に仕掛けてきたのはそっちだろう。我々は人を探しに来ただけで、お前たちと争う意思はなかった。あれは正当防衛だ」
「正当防衛にしちゃやりすぎだろ。奇跡的に死人は出なかったものの、こちとら大事な舟をほとんど燃やされてんだぜ。つーかお前ら、見ねえ顔だがどこのどいつだ?」
「通りすがりの傭兵だ。お前たちがドナテロ村から攫ったブレナンという者を探している」
すごまれたところで一歩も引かず、かつジェロディを守る位置に立ってケリーが言った。途端にライリーはひょいと片眉を上げ、周囲の湖賊たちもざわめき出す。
「ブレナンを? ってことは、てめえらあいつの知り合いか」
「知り合いの知り合いだ。我々は彼に伝えるべきことがあってここへ来た」
「彼ってお前……いや、まあそれはいいとして、お前らあんな変人のために遥々あの霧を抜けてきたってのかよ。そいつァ敵ながらあっぱれだな」
「やっぱり変人なんだ……」
ライリーの口からぽろりと零れた本音が、カミラたちの不安を的中させた。ドナテロ村で司祭宛に届いた手紙を読んだ時点で予感はあったが、どうやらブレナンは湖賊にまで変人呼ばわりされるほどの変わり者らしい。
フィロはどうしてそんな人に助けを……と再び疑いかけて、カミラはぶんぶん首を振った。いやいや、あのフィロメーナが頼れと言ったのだから間違いないはずだ。ひょっとしたら普段は変人のフリをしているだけで、実はかなりの切れ者という線もある。というかそうであってほしい。そうじゃなかったら、カミラは泣く。
「おい、ライリー。何だかよく分からんが、コイツは僥倖なんじゃねえのか? アイツらがもし本当にブレナンを探しに来たってんなら、いっそのこと……」
「ええっ……ま、待ってよレナード、そんなことブレナンさんに内緒で勝手に決めたら……」
「内緒で決めなきゃまた余計な口出しされるだろ。オレはもううんざりなんだよ、アイツのあの頭が痛くなりそうな説教を聞くのは」
「そ、そうかなあ……おれはブレナンさんの言うこと、結構ためになると思うけど……」
ところがカミラが必死にそう言い聞かせている間に、ライリーの後ろで巨漢二人が何かこそこそ話し始めた。彼らはさっき下っ端たちにレナード、ジョルジョと呼ばれていたが、今の会話を盗み聞いた限り、斧持ちの鶏冠男の方がレナードで赤頭巾ののっぽの方がジョルジョらしい。
あの立ち位置からして、二人は恐らくライリーの腹心だろう。当のライリーはそんな二人の会話を腕組みしながら聞いていたが、やがて深い息をつくと、何とも言えない表情を作って言う。
「まあ、確かにお前の言うことにも一理あるぜ、レナード。あのイカレポンチをこの島から追い出そうと思ったら、これはまたとない絶好のチャンス……」
「だろ!? アンタもそう思うだろ!? だったら――」
「だが冷静に考えろ。俺たちはあいつらに舟を焼かれてんだぜ。つーかそもそも霧の中を見られてる時点で、やつらを生きて島から出すなんざ……」
と言いかけたところで、突然ライリーが黙り込んだ。というか何かひどく驚いた顔をして、完全に言葉を失っている。
彼はゆっくりと目を見開き、ある一点を凝視していた。周囲の者たちもそれに気がついたのか、彼の視線の先を追う。
そこには黒衣の剣士の陰にやや隠れて佇む赤髪の少女がいた。
そう、つまりカミラがだ。
「おい、お前……」
「え?」
「お前だよ、そこの赤いやつ」
「〝赤いやつ〟って……」
〝赤い〟と言ったらジェロディが被っているバンダナも赤いのに、何故か仲間たちまで一斉にカミラを振り向いた。いや確かに赤いと言ったら赤いけど、そんな理不尽なことがあるだろうか。
「……カミラがどうかしたのか?」
「カミラ――そう、〝カミラ〟だ。間違いねえ。やっと見つけた」
「え?」
「探したぞこのクソアマ……! どれだけ探しても見つからなかった相手が、まさかそっちからのこのこ出向いてくれるとはなァ!」
言うが早いか、ライリーは腰に差していた剣を抜いた。いや、あれは剣じゃない。片刃で背が反り返った細身の刀だ。
それを見たヴィルヘルムがすかさず動き、ライリーの視線からカミラを隠した。彼が突如激昂し始めたことで、ジェロディたちも色めき立っている。
「お、おい、待て! 何なんだ藪から棒に……カミラ、あんたこの連中と知り合いなのかい?」
「えっ……い、いや、こんなチンピラ知りませんけど……」
「何だよてめえ、忘れたってのか? 俺ははっきり覚えてるぜ。一年前、カンナでてめえに邪魔されたことはな……!」
「カンナ――?」
カミラは必死に記憶を手繰った。
〝カンナ〟。その名前には聞き覚えがある。確か、どこかの……何だっけ。
ライリーの言葉を頼りに、頭の中から過去の断片を掘り起こす。
一年前。カンナ。邪魔をした?
刹那、脳裏を駆け巡る思考が捉えたのは――燃える町と警鉦の音。
「あ」
蟀谷を押さえていた指をついに離し、カミラは目を見開いた。
今も耳に甦る。あの日聞いた鉦の音。
町外れの宿。その三階から見下ろした路地に、殺到してきた人の群。
彼らは口々に叫んでいたっけ。
『湖賊だ! 湖賊が攻めてきたぞ……!』
――思い出した。




