113.コルノ島上陸作戦
カミラたちを舟に乗せてくれた漁師は、ちょっと変わった男だった。
何が変わっているかって、喋らない。これでどうやってヴィルヘルムと交渉したのだろうと不思議なくらいに無口で、黙々と櫓を操っている。
歳はヴィルヘルムよりやや上くらい。日に焼けた額に細く捩った手拭いを巻き、服装は膝丈チュニックに擦り切れた脚衣、そして革の長靴というごく一般的な庶民のそれだった。
小さな帆のついた漁船は、あの町の桟橋につながれていた舟の中ではそこそこ立派な方だ。カミラ、ジェロディ、ウォルド、マリステア、ケリー、ヴィルヘルムの六人が乗ってもまだ若干の余裕がある。少なくとも金に困っている風には見えないのだが、何故今回の無茶な依頼を引き受けてくれたのだろうか。
「……霧が濃くなってきたね」
と、櫓の近くに座ったケリーが呟いても無反応。というかこちらから声をかけたところで一言も答えず、男はただじっと正面の一点を見つめているだけだった。
その双眸がどこか虚ろで不気味に思えるのはカミラだけだろうか。あの眼で見つめられたら自分の魂は即座に凍りついてしまう。そんな気がする。
こういう言い方は失礼だが、まるで精巧な人形が人間のふりをして舟を漕いでいるみたいだった。しかも霧の中に入ったら、何となく男の目が赤く光っているように見えるではないか。
あまり凝視するとアレなので盗み見た程度ではあるものの、気のせいだといい。ただでさえ無口な男に気圧されて言葉少なだった仲間が、霧の中に入るやさらに喋らなくなったのもあって薄気味が悪いから。
あたりは既に二〇葉(一メートル)先も見えない白の世界だった。
精神にまで覆い被さってくるような静寂の中、聞こえるのは舟が立てる水音だけ。もはや見上げても空模様は分からない。時刻はまだ時神の刻(十五時)前だと思うけど、曇りの日の夕方みたいな薄暗さだ。
この濃霧の向こうから、一体いつ魔物が飛び出してくるか。
そう思うと緊張で息が細くなった。
マリステアなどは恐怖のあまり震えが止まらないようで、ぴったりとジェロディに寄り添っている。ジェロディの手は腰の剣とマリステアの手をそれぞれに握っていた。……別に羨ましいなんて思ってない。全然、これっぽっちも。
「おい、ヴィルヘルム。あんた、感じるか?」
と、いきなりウォルドが声を上げるので、カミラはびくりと跳び上がった。
ウォルドとヴィルヘルムがいるのは進行方向である舳先の方だ。カミラはケリーと共に船尾を固めていて、舟の前後どちらから襲われても対応できる構えと言える。
あとは真横からの急襲がないことを祈るのみだ。一応舟の真ん中にはジェロディとマリステアがいるが、うちマリステアは非戦闘員。
いくら神術が使えるとは言え、いきなり霧の中から襲われたらひとたまりもない。だからジェロディはマリステアの傍を離れないのだ。彼女は癒やしの術も使えるからいざというときの要だし。ね?
「いや……今のところ魔物の気配はないな。瘴気の臭いもしない。水棲の魔物だとしても静かすぎる」
「ああ。本当に魔物がいるなら、俺たちが霧に入る前に匂いを嗅ぎつけてるはずだ。そのためにこっちは酒をしこたま飲んできたってのによ」
「単に情報収集サボってたのをいい感じに誤魔化してんじゃないわよ」
こんな状況だがさすがにイラッとして、カミラはウォルドの背中に言葉を投げた。が、対するウォルドはどこ吹く風で、こちらを振り向こうともしない。
「しかし町の者の話では、サラーレからコルノ島までは舟でおよそ一刻(一時間)……ティノ様、我々がこの舟に乗ってからどれくらい経過したか分かりますか?」
「あと五小刻(五分)もすれば一刻だよ」
「ということは島までもう間もなくだ。ここまで何もないということは、やはり霧の魔物など存在しなかったということか……?」
如才なく舟の外を警戒しながら、ケリーが考え込むように呟いた。懐中時計を持つジェロディの時間感覚はここにいる誰よりも正確だ。彼は舟に乗り込んだ直後にも時間を確認していたから、計算が間違っているということもないだろう。
けれどあと五小刻で島に着くとなれば、もはや魔物が出てくる余地なんてないような気がする。とすればケリーの言うとおり、魔物なんて初めからいなかったと考えるのが妥当だが――
「――カラカラカラカラ……」
と、突然木片がぶつかり合うような音がして、カミラたちは身構えた。
今のは――鳴子? 郷でよく森鼠を狩るのに使われていた……。
郷のあれは無数の木片をぶら下げた紐で、それを木と木の間、地面から二葉(十センチ)くらいのところに張るのだった。森鼠がその下を通ると木片が揺れ、音を鳴らして獲物の居場所を知らせてくれるという代物だ。
あの音に似ている、と思ったカミラは、真っ先に船縁から身を乗り出した。そうして右手に火をともし、視界の限界まで目を凝らす。
見えた。水の中から突き出た細い柱。
そこにたくさんの木片をつけた紐が結わえられている。舟が通過した際に切れたのか、今は無惨な姿で水面に浮いているが間違いない。鳴子だ。
「みんな! これ――」
「――侵入者だ!」
刹那、霧の向こうから響いた怒号がカミラの声を掻き消した。
かと思えば今度はけたたましい鉄の音が聞こえてくる。
あれはまさか、警鉦……!?
ところがはっとして振り向いた矢先、さらに驚くべきことが起こった。
突如として視界が開けたのだ。
カミラたちを乗せた舟はにわかに白日に晒された。
霧は文字どおり霧散して、眩しさで目が眩む。
けれど辛うじてこじ開けた瞼の向こう、そこに見えたのは――砦。
スッドスクード城によく似た灰色の、見るからに堅牢そうな、
「お前たち、伏せろ!」
舳先でヴィルヘルムが叫んだ。
叫ぶと同時に彼はすっ飛んできて、カミラを船底に押し倒した。
頭の中が真っ白になる。何だ、と思っている暇もない。
次に聞こえてきたのは、幾本もの矢が頭上を通りすぎていく音。
ほどなくタンッ!と矢が突き立つ音もして、マリステアの悲鳴が聞こえた。どうやら舟のどこかに矢が命中したらしい。
「ヴィル……!」
「大丈夫だ」
大丈夫じゃない。ヴィルヘルムが真上に覆い被さっているせいで、頭の中とは裏腹にカミラの視界は真っ黒だ。
だが一面黒い視界の端で、チカリ、陽の光を照り返したものがある。
赤く濡れながらも銀色に閃くそれは、鏃。
目の前の光景がカミラの見ている幻でなければ、矢の切っ先がヴィルヘルムの左肩から覗いている。
「ヴィル! あなた、矢が……!」
と、落ち着いて取り乱すこともできなかった。ふと視線を上げれば、そこでは未だこの舟の主がのんびりと櫓を漕いでいる。
これだけの矢が飛んできているのに、棒立ちしたまま。
その異様な光景にカミラは寒気がした。しかし次の瞬間、ヒュンッと音を立てて飛来した矢が舟主の胸に刺さる。男の体はぐらりと傾ぎ、背中から倒れた。水飛沫が上がって、彼の姿は舷牆の向こうへ消える。
「あ……!」
カミラはとっさに体を起こしかけた。が、それをヴィルヘルムが押さえつけてくる。負傷しているくせにすごい力だ。戦場ではあまり感じなかった性差というやつを今、ありありと見せつけられているような気がする。
「ヴィル、放して! あの人を助けないと……!」
「手遅れだ。大人しくしていろ――ッ!」
カミラは見逃さなかった。
ほんの一瞬ヴィルヘルムが体を震わせ、カミラを掴む手に力を込める。
二発目の矢。当たったのか。私を庇っているから。
他のみんなは?
ウォルドは? マリステアは? ケリーは? ――ジェロディは?
「……っ!」
カミラは激昂した。自分を放さないヴィルヘルムに、ではない。恐らく島から一方的に矢を射かけてきているのであろう湖賊にだ。
だからカミラはまず、ヴィルヘルムに八つ当たりした。勢いをつけて膝を立て、自分を押さえていたヴィルヘルムの鳩尾に一撃を見舞う。
さすがのヴィルヘルムもこれには「うっ……」と短く呻いた。それでもカミラを放さなかったのはあっぱれだ。ただし力は緩んだので、カミラはその隙にヴィルヘルムを押しのけた。彼に引き止められる前に立ち上がる。
「おい、カミラ……!」
「そこにいて!」
一瞥したら、ヴィルヘルムは脇腹にも矢を受けていた。
しかしこの状況ではマリステアも癒やしの術が使えない。
だからカミラは、怒りを瞬時に神力へ変えた。
右手、革の手套の下から赤い光がほとばしる。
空気が蠢き、カミラの髪を逆立てた。体中に神の力がみなぎる。
湖賊。視認した。大多数は砦の上。
そしてこちらへ向けて突き出した無数の桟橋の上にも、いる。
「テオ・エシュ・エクシム・フアンク・アラニ……! ――紅蓮劫雨!」
一本の矢が頬を掠めた。その細い痛みと同時に、カミラの術が発動した。
頭上へ向けて噴き上がった赤い光が火の玉となる。大人でも一抱えはある大きさで生まれたそれは炸裂し、無数の火矢となってコルノ島へと降り注ぐ。
火刻最強の術と言われる、『火神の怒り』にも並ぶ術。
こんな大技を使うのは久しぶりで、生命力を根こそぎ持っていかれる感覚に襲われた。
だけど構わない。
神が与えた名のとおり、紅蓮の雨となった怒りは湖賊の砦に降り注ぐ。
あちこちで爆発が起きていた。砦の屋上にいた湖賊たちは逃げ出している。
加えてたくさんの舟が係留された桟橋も燃え始めた。付近にいた湖賊が火の手に気づき、弓を引くのも忘れて慌てている。
「マリーさん、今のうちにみんなを……!」
必死に自分の術を支えながら、カミラは叫んだ。幸いなことにマリステアはジェロディに庇われていて無傷だ。
そのジェロディも脚に矢を受けていたが、「大丈夫」と言うと自らそれを引き抜いた。神子である彼には神の寵愛がある。放っておいても傷は癒えるのだろう。
マリステアは彼の無事を確かめると、泣きながら身を翻した。船尾の方ではヴィルヘルムとケリーが負傷している。ならば舳先の方にいたウォルドは――と振り向いたところで、いきなりがくんと体を引っ張られた。
「わっ……!?」
「もういい、そこで伏せてろ!」
勢い余って膝から崩れたカミラと入れ違いに、ウォルドが船尾の方へ向かう。突然集中を阻害されたせいで神術も切れた。いや、そもそももう限界か。
舳先付近、舷牆の陰で船底にうずくまったカミラは、胸を押さえて呼吸を整えた。己の生命力をごっそり神刻へ譲ったために眩暈がする。
あと数瞬術を維持していたら、罰焼けしていたかもしれなかった。ウォルドはそれを見越したのかどうか、漁師に代わって櫓を握ると舟の進行方向を変える。
このまま舟が進んだら、燃え盛る桟橋に舳先から突っ込みかねないためだった。ところがカミラが顔を上げて見やった先でその桟橋を離れ、湖へ漕ぎ出した舟がある。
たった今カミラたちが乗っている舟より一回りほど小さい手漕ぎ舟だった。乗っているのは弓を手にした数人の湖賊。一人は漕ぎ手で、残りの人数はこちらを向いている。
彼らは他の仲間が火消しに追われているのを後目に、カミラたちの追跡を優先したようだった。しかも手漕ぎのくせに向こうの方が断然早い。あっという間に弓の射程に捉えてくる。
さらに驚くべきはその操船技術だ。漕ぎ手は巧みに舟を旋回させ、カミラたちの舟の側面へ回り込んできた。すぐに並走する形になる。こちらへ向けて、湖賊たちが一斉に弓を構えた。が、
「――射つな!」
腰掛けの上でジェロディが立ち上がり、叫んだ。
彼は外套のフードを外し、顔をあらわにして湖賊たちへと呼びかける。
「僕たちは人探しでここへ来た。棟梁のライリーに会わせてほしい!」
湖賊たちは弓を構えたまま、互いに顔を見合わせた。
けれどすぐに冷笑を浮かべると、改めてこちらへ向き直る。
「そうかい。だが残念だったな。おれらの舟を燃やしたてめえらは――問答無用であの世行きだ!」
怒号と共に、湖賊たちが弦を放した。一斉に矢が放たれる。
まずい、と思った。唯一船上で佇んでいるジェロディはやつらのいい的だ。
しかしカミラがとっさに彼の手を引くより早く、閃光が走った。
ジェロディの右手。そこから放たれた白い光が、舟を守る壁のように展開する。
「な、何だ……!?」
湖賊が驚きの声を上げた。無理もない。ジェロディが生み出した光の壁に触れた途端、すべての矢は勢いを失い空中で静止したのだから。
それらはほどなく、ひとりでに鏃の向きを変えた。カミラたちを狙って飛んできていたはずが、今は射線に湖賊たちを捉えている。
「ティノくん――」
――あれが彼の刻む《命神刻》の力。
命なきものに命を与え、己に従わせる禁忌の力。
《命神刻》がそのような力を帯びていることは知っていたが、実際に使われるところを見たのは初めてだった。ジェロディはロカンダ突入の際にも使ったと言っていたが、あのときは暗くて何が起きたのかよく分からなかったし。
(まさか、そんな力が本当に存在するなんて……)
と、カミラが呆気に取られている間に、浮いていた矢がすべて放たれた。狙いを翻した幾本もの矢は、容赦なく湖賊たちへと降り注ぐ。
彼らは悲鳴を上げて船上にうずくまった。ジェロディの操る矢はまるで生き物のように彼らの頭上を飛び回ると、やがて湖へと落ちていく。
「もう一度言う。棟梁のライリーに会わせてほしい」
ジェロディが再び口を開く頃には、舟の上の湖賊たちは完全に呆けていた。
その隙にジェロディが彼らの弓をも奪い、湖へ沈めたことは言うまでもない。




