111.奇士の城
シグムンド・メイナードは、思っていたより細身の将軍だった。
顔が面長だからそう見えるだけだろうか。少なくともカミラが想像していたような、いかにも軍人といった感じの、鍛え抜かれた肉体の持ち主――という見た目ではない。
毛並みのいい青鹿毛の背から下りる身のこなしにも、背中に流した砂色の外套を払う仕草にも、滲み出るのは貴族階級らしい品の良さ。
確か歳は四十二か三と聞いたが、すっと背筋を伸ばして歩み寄ってくる様に老いの気配は見当たらない。
「これはこれは。誰かと思えば珍客が見えていたようだ――またお会いしましたな、ヴィルヘルム殿」
良く言えば理知的、悪く言えば気難しそうな顔立ちをちょっとだけ綻ばせて、シグムンドは笑った。彼のその言葉を聞いて、カミラはようやくはっと覚醒する――ああ、そう言えばヴィルもこの人とは知り合いなんだっけ。
「数日ぶりだな、シグムンド。その節は世話になった」
「何の。かつての恩人を礼をもって遇するのは、士として当然というものです」
馬を下りてきたシグムンドと差し向かい、ヴィルヘルムは鷹揚に挨拶を交わした。しかし彼がどうしてそんなに落ち着いているのか疑問で仕方ないくらいには、カミラたちは動揺している。
スッドスクード城の南門。どうにか無事関所を抜けられたと安堵した矢先に、一行はとんでもない危機に直面していた。
今、カミラたちの目の前にいるシグムンドという男は、誉れも高き黄帝直参の将軍だ。それも黄都守護隊という、第一軍の別働隊にして実働部隊の指揮を執る百戦錬磨の戦巧者。かつて彼の部下だったケリーの話では、温厚だが怒らせると常勝の獅子よりも恐ろしい人物だという。
ジェロディたちはこのシグムンドと幼い頃から面識があり、城内で鉢合わせすることになれば誤魔化しきれない、と言っていた。何でも彼は非常に勘が鋭くて、歩き方や仕草一つで正体がバレかねないとか。
そんなことが本当にありえるのかと思いつつ、しかしこれが最も恐れていた事態だということはカミラにも分かった。ギ、ギ、ギ、ギ、とぎこちなく横を向けば、ジェロディたちも一様に石像のごとく固まっている。
「しかしお早いお戻りでしたな。例の急用というのはもう済んだので?」
「ああ、とりあえずはな。だが新たに南へ行く用ができたので、悪いが今回は城に留まれそうもない」
「さようですか。久方ぶりにお会いできたというのに、ゆっくり話をする暇もないのは残念ですが――そちらにいるのは?」
と、シグムンドの視線がこちらを向き、カミラはぴっと飛び上がった。今はフードで顔を隠しているからいいものの、この下にある赤い髪を見られたら最後だ。似顔絵つきの手配書も出回っていることだし、そうなれば一発で反乱軍の幹部だと気づかれる。
「ああ、そいつらが先日言っていた依頼人だ。この者たちを目的地まで無事送り届けるのが今回の任務でな」
「ほう。しかし話に聞いていたより人数が多いのでは?」
「少々予定外のことが起きたせいだ。まあ、任務の遂行に支障はない。そう言うお前はここで何をしている? 今は立て込んでいるのではないのか?」
「ええ。ですが少々、自らの目で確かめたいことがありましてな。それで城外を見回っておったのです」
言いながらシグムンドはわずか目を細め、城壁を仰ぎ見るように視線を上げた。
そこでは赤地に金の軍旗が翻り、バタバタと音を立てている。
「ときに、キムとはお会いになられましたかな?」
「ああ、ついさっき北門で別れたところだ。あいつも何かやることがあるとか言っていたが」
「そうですか。では、そろそろですな」
「そろそろ?」
何がだ? と言いたげにヴィルヘルムが片眉をひそめ、カミラたちも彼の言動を不審に思った。
ところがそのとき、シグムンドの馬が突然ピンと耳を立て、東の方を振り返る。彼の動きにつられ、カミラも思わず目をやった。すると黒竜山の上空に黒い靄がかかっている。
いや、あれは靄ではなく……何かの群? 虫か?
違う、もっとずっと大きな――
「ピピピピピピピピピピ……!!」
甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
それと一緒に、想像を絶するスピードで黒い靄が近づいてきた。
ああ、そうか。あれは靄じゃない。鳥の群だ。
そう気づいたときには五馬身ほどの大きさに膨れ上がったその群が、算を乱してカミラたちへと突っ込んでくる。
「きゃあああああ……!?」
それは黒い――いや、正確には灰色の、質量を持った風だった。群を成した鳥たちは一瞬にしてカミラたちを丸呑みし、嵐のごとく通り過ぎていく。
彼らはどうも何かに追われ、城門を抜けて北へ逃れようとしているようだが確かめている余裕はなかった。とにかく猛烈な勢いでぶつかってくる鳥たちから身を守ろうと腕を翳し、屈み込む。
ほんの数瞬の出来事だったが、カミラはずいぶん長い時間しゃがみ込んでいたように感じた。
気がつくと群は北へ飛び去っていて、あたりには静けさが戻ってくる。
恐る恐る目を開けると、すぐ傍には頭を抱えたジェロディたちの他、ひっくり返っている黄皇国兵の姿もあった。地面も小さな羽根だらけで、かなりの数の鳥に襲われたのだということが一目で分かる。
「お……おい、シグムンド、今のは……?」
「申し訳ない。実は東の城壁に啄岩鳥の群が巣をかけておりましてな。このままでは城壁を穴だらけにされる上に補修もままならぬので、キムに鳥除けを焚くよう命じておいたのです」
「そ、そういうことは先に言え……」
一人だけあの鳥の大群を免れたのか、先程と変わらずけろっとしているシグムンドに、ヴィルヘルムが恨み言を吐いた。かく言う彼も羽根まみれで、短めの黒髪がボサボサになっている。
それを見たカミラは内心ひどい目に遭った……と思いながら、無意識に頭へ手をやった。きっと自分の髪もひどいことになっているのだろうと思い、手櫛でサッと梳いたところではたと気づく。
……あれ?
そう言えば私、さっきまでフード被ってなかったっけ?
「あ」
体を起こしたジェロディたちと、こちらを向いた黄皇国兵の声が揃った。皆の視線はカミラに集中している。
……うん、まあそうだよね。気づいたらフード外れてたしね。
おまけに髪、赤いしね?
当然ながらシグムンドの顔もこちらを向いている。
だらだらと額から汗が流れ始めた。
怖くてそちらを振り向けない。
何とかしなきゃと思うのに、左手は髪にかかったまま動かないし。
「……ほう、これは驚いた。ずいぶんとお若い雇い主ですな、ヴィルヘルム殿?」
何か言ってほしかったのに、ヴィルヘルムは何も答えなかった。彼が今どんな顔をしているのかは、髪に絡んだままの左手が邪魔でまったく見えない。
「おまけに赤髪とは珍しい。君、名前は?」
「おい、シグムンド」
「名前は?」
ヴィルヘルムの制止も意に介さず、シグムンドは重ねて尋ねてきた。カミラはそこでようやく左手を下ろし、けれど依然として立ち尽くす。
頭の中が真っ白で、何も考えることができなかった。シグムンドの方をまともに見ることすらできない。
だがそうして何も答えないカミラに業を煮やしたのかどうか、シグムンドが一歩踏み出した。そのままつかつかとこちらへ歩み寄ってくる。
まずい。
これは本格的にまずい。間近で顔を改められたら今度こそ終わりだ。
ならば先手を打つか? あの男が間合いに入ったら剣を、いやあるいは神術で、だが周りは黄皇国兵だらけ、こんな状況でどうやって――
「ティ……!!」
刹那、マリステアが何か言いかけ、しかし慌てて口を噤むと同時に視界へ飛び込んできた人影があった――ジェロディ。
彼は依然フードで顔を隠したまま、しかしカミラを背に庇うようにシグムンドの行く手を遮った。対するシグムンドも足を止め、まったく感情の窺えぬ目でじっとジェロディを見下ろしている。
「……どうした。私は彼女に名を尋ねただけだが?」
「……」
「わざわざ庇う、ということは、何か良からぬことがあると見ていいのか?」
ジェロディは何も答えない代わりに、ぴくりともそこを動かなかった。するとシグムンドは微かに目を細めたのち、おもむろに右手を持ち上げる。
その手がゆっくりと腰の剣へ伸びた。
指先が柄にかかり、一瞬後にはきっと居合抜きが来る。だからカミラは、
「――み、ミレナ……! 私の名前はミレナです!」
と、とっさにそう叫んでいた。
これはもう嘘をついてどうにかなる場面ではないと分かっていたが、しかしジェロディが斬られるかもしれないと思ったら、黙ってなどいられない。
どうせ斬られるなら自分一人でいい。ジェロディたちには何とか逃げてほしい。
そのためなら命懸けでこの状況をどうにかする覚悟が、カミラにはあった。
「そうか。名はミレナというのか。出身は?」
「こ……ここから、西の……ジェッソ、という町です」
「ああ、あの白亜の町だな。私も何度か訪ねたことがあるが、あれはいい町だ。どこまでも続く白い景色を眺めていると、柄にもなく心が洗われるような気がする。君もそうは思わんかね?」
「え、ええ……その、なんていうか、自慢の町です……」
「そうだろうとも。だが君はずいぶん珍しい訛りで話すのだな。ジェッソあたりで話される南部訛りとも違う――まるで異国の訛りのようだ」
ぞっと肌を刺すような悪寒が、下から背筋を這い上がってきた。
ルミジャフタ訛り。そうだ。この状況ではそこまで考えが及ばなかった。
いや、仮に考えが及んでいたとしても誤魔化すのは無理だったはず。何せカミラの訛りは筋金入りだ。直せと言われてそう簡単に矯正できるものではない。
もうダメだ。このままでは。何とかしてジェロディたちだけでも逃したいのに、どんどん思考が漂白されて――
「それで、家族は?」
「……え、」
「見たところ君はまだ若い。加えて今はこの治安だ。今頃ご両親が君を案じているのではないかね?」
「あ……い、いえ、私、両親はもういなくて……家族は、兄が一人だけ――」
と答えてしまってから、カミラはにわかにはっとした。
……家族? どうして今、この状況で家族のことなんか?
考えられる可能性は一つだけ。
かつてフィロメーナが教えてくれた――〝連座刑〟。
黄皇国では国家に弓引いた者は家族諸共処断される。一度反逆を企てた者は決して許されず、一族郎党皆殺しにされるのだと以前彼女が言っていた。
ということは今の質問は、カミラの家族を把握するための……。
それにうっかり答えてしまった。兄が一人だけ、という真実を。
これではもしエリクが生きていた場合、彼の身にまで危険が及ぶ。カミラもエリクもトラモント人ではないから、本来この国の法で裁かれることはないのだが、今の黄皇国がそんな情状酌量をしてくれるとは思えない。
そこまで考えが至ったところで、カミラはまた震えが来た。
兄のエリクはカミラと同じ父譲りの赤髪で、黙っていてもよく目立つ。
訛りはカミラほどではないものの、やはりまったくないとは言い切れないし、顔立ちや雰囲気もそこそこ似ているはずだ。
その兄がもし、自分のせいで黄皇国に狙われたりしたら――
「そうか。兄が一人、か」
「……!」
「ちなみに私が今、何故君にこんなことを尋ねるか分かるかね?」
「そ……それは……」
「君は実によく似ている。昨年の暮れから出回り始めた、ある罪人の人相書きに」
「……っ」
「赤い髪、という特徴も同じだ。我々トラモント人はごく平凡な髪色の者が多くてね。その点、君の髪は――少々目立ちすぎる」
後ろで誰かが動く気配がした。恐らくケリーだろう、とカミラは思った。
だって目の前で今、ジェロディが身構えたから。
彼がもしシグムンドに斬りかかったら、ケリーはそれを援護する。たとえかつての上官であろうとも、己が主人に手を上げる者をケリーは決して許さないだろう。
やるしかないのか。勝ち目などないのに。
カミラはぎゅっと目を瞑った。今度こそ終わりだ。
自分のせいで、救世軍の最後の希望が――
「――そういうわけだから、兄君が心配する前に早く帰りなさい」
「…………え?」
「さっきも言ったように、我が国は現在混乱の渦中にある。このような時分に手配書の人相書きそっくりの娘が外を歩き回るなど、不用心この上ない。下手をすれば賞金目当ての傭兵やら野盗やらに命を狙われかねんぞ」
「え……え? ええと、それは……ご忠告、ありがとうございます……?」
「分かればよろしい。まあ、ヴィルヘルム殿がついている限り間違いはないと思うが、念のためにな」
カミラは拍子抜けした。拍子抜け、というかむしろ魂を抜かれたみたいで、しばらくの間固まったまま動けなかった。
……えっと、つまり、どういうこと?
この人は勘違いしてくれた? 自分は救世軍のカミラじゃないと?
(いやいやいや、そんな馬鹿な――)
ありえない。この状況でカミラの正体に気づかないなんて。
仮にも相手は一国の将軍だ。それなら反乱の件をきっと重く見ているだろうし、その反乱を指導する救世軍幹部の顔を知らないわけがない。
ならばどうして? この男は何を考えている?
救世軍の残党である自分を泳がせようとしているのか?
これからのカミラたちの目的を探り、救世軍の再起を阻止するために……?
「では、ヴィルヘルム殿。大変名残惜しくはありますが、私もこれで一地方を治める身。政務が立て込んでおりますゆえ、此度はこれにて失礼させていただきます。機会があればいずれまた」
「シグムンド様」
「良いのだ、スウェイン。行かせてやれ」
「しかし……」
そのときシグムンドの後ろに控えた兵が、何か言いたげに上官を見つめた。門衛ではなくシグムンドの供だろう、胸には銀の勲章が光っている。
だがシグムンドを諫めようとする者は彼だけだった。事態の一部始終を見ていたはずの門衛たちは、固い沈黙を守っている。
これもキムの根回しだろうか? あるいは……。
「……本当にいいんだな、シグムンド?」
「はて、それは何に対するご質問ですかな、ヴィルヘルム殿?」
「俺は同じことは二度訊かん主義だ」
「ならばこう答えておきましょう。私は過日の恩をお返しするだけです、と」
ヴィルヘルムもそれきり沈黙した。シグムンドをじっと見据えた彼の隻眼からは、いかなる感情も読み取れなかった。
「では、私はこれにて――ああそうだ、ミレナ」
「……は!? は、はい!?」
「初対面で厚かましいとは思うが、君に一つ頼みがある。聞いてくれるか?」
「え、えっと……私にできることであれば……」
「何、簡単なことだ。君はガルテリオ・ヴィンツェンツィオという御仁を知っているかね?」
「そ、それはもちろん……有名な方ですから……」
「では話は早い。私はそのガルテリオ将軍と刎頸の交わりでな。かのお方にはティノ――ああいや、今はジェロディという名の一人息子がいる」
瞬間、カミラの視線の先でジェロディの肩がびくりと跳ねた。いきなり目の前で名を呼ばれたのだから無理もない。
けれどシグムンドはそんなジェロディの心を知ってか知らずか、まず馬の手綱を手繰り寄せた。そうして引き寄せた馬の背に跨がりながら、言う。
「頼みというのは他でもない。この先、もしも旅先でジェロディと名乗る少年と出会うことがあったら……」
「あ……あったら?」
「そのときは彼をよろしく頼む。私にとっても、あれは甥のようなものなのでな」
馬上の人となったシグムンドは手綱を捌き、戞々と馬の蹄を鳴らした。乗騎ごとこちらへ向き直った彼を前にして、ジェロディは立ち尽くしている。
彼の顔は外套で隠されたままだった。しかしほんの一瞬、シグムンドは外套の下のジェロディに笑いかけた――ような気がした。
「では行くぞ、スウェイン。ヴィルヘルム殿もどうかご武運を」
「ああ。また会おう、シグムンド」
まるで約束のようにヴィルヘルムが言った。
シグムンドは微笑み返すと、次いで鋭く馬腹を蹴る。
逞しい黒馬を先頭にした馬の群が、眼前を駆け抜けていった。
それを追って振り向いた先では、竜守る天馬の旗が、悠然と翻っている。




