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106.君を待ってる

 彼女がいるはずの部屋の扉をノックしても、当然のように返事はなかった。

 入るよ、と一応前置きをしてドアノブを拈る。途端に死のにおいが鼻をついた。

 普段、恐らくは修道女たちが寝起きしていると思しい個室。細長で、質素な寝台と必要最低限の家具しか置かれていない石の部屋。

 そこは本当に寝て起きて、たまにちょっと本を読むことくらいしかできなさそうな、実に狭苦しい造りだった。修道院は清貧をモットーとする場所だし、俗世を離れた女たちの生活はそれで成り立つのかもしれないが、今のジェロディにはその部屋が冷たい独房のように思えて仕方ない。


「……カミラ」


 彼女はそんな独房の真ん中にいた。

 体を横に向けた状態で寝台に倒れ、呼びかけても答えない。

 ただ通気と明かり取りのためだけにある、小さくて高い窓。

 そこから零れる黎明の青が、カミラの全身を黒々と見せていた。チッタ・エテルナの地下で浴びた返り血がそのままになっているのだ。


 この部屋に充満する死のにおいの原因はそれだった。きっとマリステアなら入った途端にまた嘔吐してしまうだろうと思えるほどひどい臭いが、カミラを覆い尽くしている。

 ジェロディたちは休む前に軽く湯を借りたからいいものの、カミラは入浴も着替えも拒否したようだ。地下で負った傷だけはマリステアが癒やしたはずだが、それ以外はフィロメーナが息を引き取ったあの瞬間から止まったまま。


「カミラ。今、ちょっといいかな?」


 返事はないと分かっていながら、声をかけた。

 案の定カミラは微動だにしない。

 ジェロディは暗がりの中、ざっと室内を見渡して、腰を落ち着けられそうな場所を探した。現在カミラが向いている方向には小さな椅子と机があるが、いきなりそこに座ったのでは彼女との距離が近すぎる。


 だから仕方なく、ジェロディはカミラが背中を向けている方の寝台の端へ腰かけた。修道女たちの寝台は骨組みからしてとても簡素で、座ると悲鳴にも似た軋みを上げる。

 しかし全体には白布がかけられ、清潔感が漂っていた。布の下には藁が敷いてあるのだろう、座り心地も悪くない。


「さっきヴィルヘルムさんに言われたよ。そろそろ出発だって。院長さんたちのことを考えると、あまりここには長居できないし……」

「……」

「みんな準備を始めてる。夜の間に、ウォルドとヴィルヘルムさんが黄皇国軍の鎧を運んできてくれたらしいんだ。それを着て町を出ればたぶん、敵の目を誤魔化せるだろうって」

「……」

「僕たちは行くよ。君はどうする?」


 尋ねてからしばし、ジェロディは返答を待った。

 互いに身じろぎ一つしないまま、どれくらいの時間が経っただろう。

 カミラはやはり答えない。この感じだと、こちらの言葉が聞こえているのかどうかも怪しい。


『あいつはもう駄目だ』


 先程聞いたウォルドの言葉が、またジェロディの胸を抉った。

 彼女はこのままこうして静かに死んでいくのだろうか。

 己の無力さを呪いながら、フィロメーナのあとを追うのだろうか。


(――そんなの、)


 膝の上に置いた拳を、握り締めた。

 そんなのは、嫌だ。

 あんなに明るくて賑やかで、歌うように喋るカミラの声をもう聞けない。

 あのまっすぐでキラキラした眼差しも、笑った顔ももう見れない。

 彼女の振るう剣の美しさも、ほとばしる炎の煌めきも。

 何もかもがフィロメーナと共に死んでしまう。


 そんなのは、嫌だ。


 守れたはずの誰かを失うのは、もう嫌だ。


「カミラ。ウォルドは君を故郷へ帰すべきだと言ってる。もし君がそれでいいのなら、ヴィルヘルムさんが送り届けてくれるはずだ。だけど僕たちは行く。どちらを選ぶかは、君次第だけど……」

「〝行く〟ってどこに?」


 ジェロディは驚いて、思わず口を閉ざした。

 何にって、カミラが突然喋り出したこともそうだが――声が。

 一瞬、知らない人間が会話に割り込んできたのかと思った。

 それくらい、カミラの声はジェロディが知るものとはかけ離れていた。

 低く、暗く、湿っていて、あのメロディーのような抑揚はどこにもない。

 まるで世界を憎悪し呪っているような、そんな声。


(これが、あのカミラなのか)


 彼女が口をきいてくれた喜びよりも、驚愕と悲愴がジェロディの胸を締めつけた。無意識に胸元を掻きむしってしまうほど、息が苦しい。

 だからジェロディは顔を伏せ、答える前に祈った。


 ――フィロメーナさん、お願いです。


 どうかカミラを連れていかないで下さい。


「……もちろん南のドナテロ村だよ。フィロメーナさんがそこへ行けと言っていたから」

「行ってどうするの?」

「まずはブレナンという人を探す。その人が本当に力を貸してくれるなら、もう一度どこかに拠点を築いて、救世軍の旗を掲げることができるはずだ。そうすれば散り散りになった兵たちも、旗を目指して集まってくる」

「集めて、どうするの?」

「え?」

「フィロはもういない。彼女がいなきゃ、救世軍はどうせバラバラになる。もう終わったのよ、何もかも。私が、終わらせた――」


 とっさに何も言えなかった。

 ジェロディが振り向いた先で、カミラは小さく体を丸めていた。

 まるで生まれる前の胎児みたいに、自分を抱いて震えながら。


「助けられたはずなのに……あのとき私が、敵の神術を喰らってモタついたりしなければ……もっと早く走り出してれば……神術でフィロを守っていれば……!」

「カミラ、」

「私が殺したの。私がフィロを殺したのよ。あんなに……あんなに近くにいたのに……私には、何もできなかった……!」

「だけど君は影人チェーニ・ムーシとの戦いで消耗していたし、あのときだって全身傷だらけで――」

「そんなのフィロを助けられなかった理由にはならないわ!」


 カミラの絶叫がこだまし、闇を震わせた。

 彼女はジェロディに背を向けたまま泣いている。


 ――どうせ殺すなら、私を殺してくれれば良かったのに。


 小さくそう囁きながら。


 途端にジェロディを、正体不明の激情が襲った。

 自分でも何故だか分からないが、それは腹の底から衝き上げてきた。

 思い返せばその感情は怒りに似ていたし、憎悪にも似ていたし、哀絶にも似ていたと思う。しかしいずれでもない何か。

 そんな激情に突き動かされるがまま改めてカミラを顧み、自分も語気を強めて、言う。


「なら君は、このまま救世軍が滅んでもいいって言うのかい? フィロメーナさんの夢や理想が、彼女と共に死んでしまっても?」


 僕は嫌だ、と、答えを待たずにジェロディは言った。

 カミラはまだ声を殺して泣いている。


「黄皇国はフィロメーナさんたちの言葉に耳も貸さずに救世軍を滅ぼした。どうしてこの内乱が起きたのか、その原因を正すこともなく、ただ〝反逆者の集まりだから〟という理由で。僕はそれが許せない。だから戦う。ジャンカルロさんとフィロメーナさんの遺志を継いで」


 瞬間、カミラの呼吸が詰まった――ような気がした。

 それきりカミラは喋らない。代わりに震えた吐息が零れて、彼女がまだ泣いていることを知らせてくれる。


「もう一度だけ訊くよ。カミラ、君はどうしたい? もし君がもう戦いなんて懲り懲りだって言うのなら、僕も無理強いするつもりはない。だけど君が望むなら、僕は……」

「だけど救世軍のために戦うってことは、ガルテリオ将軍と――お父さんと敵対するかもしれないってことよ? ちゃんと分かってるの?」


 カミラはこちらを振り向かず、ただ絞り出すような声で尋ねてきた。

 だからジェロディも前を向き、頷く。微かな笑みを浮かべながら。


「もちろん覚悟の上だよ。だけど僕は信じてる。父さんはきっと分かってくれるって」

「ティノくん――」

「それに、カミラ。君は約束してくれたじゃないか。僕が自分で選んだ道に文句を言うやつがいたら、代わりに君が〝ぶっ飛ばして〟くれるって」


 目を閉じれば、聞こえてくる。

 昨日この町の地下で聴いた歌。馬鹿騒ぎ。カミラの笑い声。

 あの思い出が、ジェロディの背中を押してくれた。

 この道を信じろと言ってくれた。

 だからもう迷わない。

 ジェロディが夢見た未来は、ここにある。


「行こう、カミラ。僕もみんなも、君を待ってる」


 カミラの嗚咽が聞こえた。ジェロディはもう、振り返らない。


「守るんだ、僕たちの手で。フィロメーナさんの見た夢を」


 部屋を満たす青の中で、カミラは泣いた。泣き続けた。

 声を放って、自分の中にある悲しみを全部洗い流すように。

 だからジェロディも待った。待ち続けた。

 彼女の涙が枯れるまで。



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