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105.青き闇

 夜明け前だった。

 聖堂の両脇に並んだ、細く長いつるぎのような形状の窓。

 その向こうで、空がぼんやり青に染まりつつあった。

 けれどまだ、太陽は昇らない。


 物音一つしない完成された静寂と、キンと冷えた早朝あさの空気。それらに支配された聖堂で、ジェロディは最前列の長椅子に腰かけ、一枚の彩色硝子ステンドグラスを眺めていた。

 色とりどりの硝子が描き出すのは、《太陽の槌》を手に超然とこちらを見下ろす太陽神シェメッシュの肖像。光輪を背負い、無表情に地上を照らすかの神と、一体どれほどの間こうして見つめ合っているだろうか。


 黄皇国軍によるロカンダ襲撃から、もうすぐ一夜が明けようとしていた。


 ジェロディたちは現在、町外れにある小さな修道院にいる。先日湯を借りに立ち寄った、金神正教会傘下の聖オリディア修道院だ。

 町の外には未だ包囲軍がひしめいていて、いくら夜闇にまぎれても突破は不可能だと判断された。そこでジェロディたちは一時の隠れ蓑として、事情を知るこの修道院に身を寄せたのである。


 盲目の院長を始め、敬虔な修道女たちは迷うことなく一行を受け入れてくれた。現在は院の奥に与えられた部屋で皆、銘々に体を休めているはずだ。

 けれどジェロディは眠ることができなくて、こうして一人、聖堂で朝を待っていた。それは不眠をもたらす神の力のせいでもあるし、ほんの一日の間に様々なことが起こりすぎたせいでもある。


 気持ちの整理も頭の整理も、何一つままならなかった。今のところ黄皇国軍による攻撃は止んでいるが、夜が明ければきっと残党狩りが始まる。

 ゆえにどうやってこの町を出るか、日の出までに考えておかねばならないのに、思考は漂白されるばかりで一歩も前に進めなかった。

 頭の中がからっぽ――というより、時が止まっているみたいだ。

 体の内側も外側も、静寂だけが満たしている。風のない日の水溜まりみたいに。


「ティノさま……?」


 その水溜まりに、突然小石が投げ込まれた。

 音もなく広がる波紋が、ジェロディに来客を告げる。

 そこでふと我に返り、修道院と聖堂をつなぐ奥の扉へ目をやれば、青い闇の中に誰か佇んでいるのが見えた。――マリステアだ。


「……マリー? 休んでなかったのかい?」

「は、はい……何だか、うとうとするだけですぐに目が覚めてしまって……そ……そちらに行っても、よろしいですか?」

「うん」


 こんなとき男なら、何か気の利いた言葉一つかけてやるべきなのかもしれない。けれど今はただ頷くことしかできなくて、少しの間、遠慮がちに近づいてくるマリステアの足音を聞いていた。

 いつもよりずっと時間をかけて歩み寄ってきたマリステアは、わずか迷う素振りを見せてからジェロディの隣に腰かける。盗み見た彼女の横顔には、泣き腫らした痕が痛々しく残っていた。


 たぶん自分も今は似たような顔をしているのだろうな、と思う。だからマリステアは躊躇したのだ。ジェロディに歩み寄ることを。

 しかし最後は共に朝を待つことを選んだ。それはジェロディのためでもあったし、彼女自身のためでもあるのだろう。


「……ティノさまも、眠れませんか?」

「うん。僕の場合は、神子の体質のせいでもあるけど……」

「そ、そうですよね……だけど少しだけ、前にティノさまがおっしゃっていたことが分かったような気がします」

「僕が言ってたこと?」

「はい。……夜は、長いです」


 マリステアの声は小さく震えていた。それを聞いたジェロディも顔を伏せ、そうだね、と短く返す。

 春が近づき、年が明けたばかりの頃に比べれば、夜は幾分か短くなった。けれどやっぱり長いと思う。不安や悲しみや孤独を抱えて、じっとひとりで過ごすには。


 フィロメーナ・オーロリーは死んだ。


 遺体は棺に入れて、この修道院の奥に安置されている。


 おつらかったでしょう、と彼女に語りかけた院長の静かな声が、今も耳を離れなかった。盲目の彼女は数刻前、すぐそこで冷たくなったフィロメーナの頬に触れ、小さく祈りを唱えていたのだ。どうか彼女の魂があらゆる苦痛を取り除かれ、とこしえに安らかでありますように、と。


 その祈りの言葉を聞いて、ジェロディはようやく実感した。

 ああ、フィロメーナはもうどこにもいないのだと。

 つい先程まで、確かにそこに――手を伸ばせば届くほど傍にいたのに。

 フィロメーナは、もういない。この世のどこを探しても。


 修道院の奥にあるのは、かつて・・・フィロメーナ・・・・・・だったモノ・・・・・だ。

 あれはもうフィロメーナじゃない。

 どんなに名前を呼んだって、返事をしてはくれないのだから。


 フィロメーナ・オーロリーは、死んだ。


『ねえ、ジェロディ』


 いつか聞いた彼女の言葉が甦る。


『あなたは自分の意思で、自分が正しいと思う道を選びなさい。たとえその道が私たちの道と交わらなくても、それでいいの。選べる道があるということは、とても幸福なことなのだから』


 そう言って背中を押してくれた彼女の笑顔を思い出す度、ジェロディの視界は滲んだ。自分が彼女と関わったのは、たった一月の間のことだったのに。

 しかしフィロメーナの生き様は強烈に、ジェロディの脳裏に焼きついた。

 優しい人だったのだ。優しすぎる人だった。

 その優しさが彼女を殺してしまった。

 彼女にだって夢を叶え、幸せに生きる権利はあっただろうに。


「……救えたはずなんだ」

「え?」


 隣でマリステアが顔を上げた。


「選択さえ誤らなければ、救えたはずだった。あのとき、僕が――」


 戻ろうと言わなければ。

 フィロメーナをウォルドと共に逃していれば。

 町に突入しなければ。

 マリステアを地上に留めておかなければ。

 フィロメーナを一人で行かせなければ……


 数え切れないほどの後悔が、次から次へやってくる。

 今更悔いたって遅いのに、感情の波はいつまでも荒ぶり押し寄せる。

 あのときは最善だと思えた選択が、積もりに積もって彼女を殺した。

 そう思えて仕方なかった。

 あるいは自分がもっと早くに、ここを立ち去っていれば良かったのだろうか?

 それをいつまでもずるずると、居心地の良さに甘えていたから――


「ティノさま」


 唇を噛み締め、うなだれたジェロディをマリステアが抱き寄せた。

 自分の涙が彼女の胸を濡らしていくのを感じる。同じようにジェロディの肩もマリステアの涙で濡れていく。


「ティノさまのせいじゃ、ありません。誰のせいでも……みんなが必死に、誰かを救おうとしたんです。だけど、神さまは――」


 ――すべての人には、微笑んで下さらなかった。

 そう言って泣きじゃくるマリステアを抱き締めながら、ジェロディは己の右手をきつく握った。血が滲むほどにきつく、握り締めた。


 そこに宿る二十二大神の一柱。生命と魂を司るハイム。


 あのときジェロディは、かの神に必死に祈った。魂を導く力を持つというのなら、どうかハイムよ、フィロメーナさんの魂をここに留めて下さいと。

 けれどハイムは祈りに応えてはくれなかった。まるで彼女の死は初めからさだめられていたことで、今更変えることなどできはしないのだと言うように。

 そうしたさだめを、人は〝運命〟と呼ぶのだろうか。

 一度動き出してしまったら、決して覆すことのできない神々のはかりごと。


(だけどこれが〝運命〟だと言うのなら、僕は――)


 ジェロディはもう一度唇を噛み、決意して、それからゆっくり顔を上げた。

 目の前に、うつむき震えているマリステアがいる。ジェロディはその肩に手を添えて、そっと彼女を覗き込む。


「マリー。こんなときだけど、聞いてほしい。僕は……」


 と、言いかけたときだった。

 ギィ、と扉の軋む音がして、二人はそちらを振り返る。

 開いたのは、先程マリステアが現れたのと同じ扉だった。その扉から見慣れた人物が次々とやってくるのを見て、ジェロディは思わず立ち上がる。


「ここにいたか、ジェロディ」

「ヴィルヘルムさん。それに、ケリーとウォルドも……」


 てっきりまだ寝ていると思っていた仲間が揃って、ジェロディはいささか驚いた。特にヴィルヘルムなどは完璧に旅装を整えて、出発しようと言えばいつでも動ける状態になっている。


「あ、あの、もう出立するんですか?」

「いや、まだだ。だがそろそろ準備を始めるべきだと思ってな。じきに夜が明ける。あまりここに長居しては、修道女たちに迷惑がかかるだろう」


 徹頭徹尾冷静なヴィルヘルムの言葉に、ジェロディは複雑な思いで頷いた。修道女たちの身を守るためにも、なるべく早くここから立ち去った方がいいという彼の意見には頷ける。でも……


「……ですが、官軍の包囲はまだ当分続くはずです。そこをどうやって突破するか、先に策を練らないと」

「それならもう考えてある」

「え?」

「夜のうちに、俺とウォルドで黄皇国兵の死体を何体か運び込んでおいた。やつらは皆、揃いの鎧兜を身につけている。あれを借りて敵陣に紛れ込めば、恐らく何とかなるだろう。戦の後始末や残党狩りで、軍はまだ忙しく動き回るだろうしな」

「そ、そうですか……」


 ウォルドとヴィルヘルムが夜中にそんなことをしていたなんて、ジェロディは全然知らなかった。だったら僕にも声をかけてくれれば良かったのに、と思ったが、きっと二人もまだ若いジェロディを気遣って、そっとしておくことを選んだのだろう。


「まあ、俺は今の黄皇国軍をよく知らんから、いざとなればケリーを頼ることになると思うが」

「お任せ下さい。顔さえ隠してしまえれば、誤魔化す方法はいくらでもあります。唯一問題があるとすれば、現在ロカンダを包囲している軍の所属が分からないことでしょうか……」

「ああ、それは俺に考えが――」

「――カミラは?」


 そのとき何故だか、彼女を除け者にしたまま話が進むことに耐えられなくて、ジェロディは声を上げていた。すると何か言いかけていたヴィルヘルムが口を噤み、ケリーも無言で顔を伏せる。


「あいつはもう駄目だ」


 答えたのは、石の壁に背中を預けたウォルドだった。あまりにも残酷で、しかし限りなく真実に近い言葉に、ジェロディは根こそぎ体温を奪われる。


「だ……駄目って、そんな――」

「今更綺麗事を言ってもしょうがねえ。お前も見ただろ。あいつはもう死んだも同然だ。口もきけねえし、自力で立って歩くこともできねえ。あれで息をしてんのは、ほとんど奇跡みてえなもんだ」

「だからって、置いていくの?」


 図らずも語調が強くなって、自分は何に苛立っているのだ、とジェロディは思った。この胸を掻き乱すものの正体は分からない。分からない、けれど。

 それでもカミラを置いていくわけにはいかないと思った。だって彼女は救おうとしていた。誰よりも必死に、フィロメーナを。


 そんな彼女を見捨てるなんて、自分には無理だ。たとえ右手のハイムにそうしろと命じられたって聞く気はない。

 だからウォルドがどうしてもと言うのなら――

 ジェロディは拳を握り、心の中で身構えた。しかしため息をついたウォルドの口からは、予想外の言葉が紡がれる。


「ヴィルヘルム」

「何だ?」

「あんた、ここへ来たのはカミラのお守りをするためだって言ってたよな?」

「〝お守り〟ではなく〝護衛〟だが、まあ、似たようなものか」

「だったら一つ頼みがある。――あいつを故郷まで送ってやってくれねえか」


 その一言に意表を衝かれ、ジェロディは息を飲んだ。

 しかし一方のヴィルヘルムは、まるで表情を動かさない。初めからこうなることを予測していたのか、それともあまり関心がないのか。


「本人がそう望んだのか?」

「望むも望まないもねえだろ。今のカミラは自分でモノを考えられる状態じゃねえ。かと言って院長たちにこれ以上罪人幇助をさせるわけにもいかねえし」

「しかしフィロメーナの遺言はどうする?」

「ドナテロ村には俺が行く。バラバラに逃げた仲間の行方も調べなきゃならねえしな。ブレナンとかいうのがどんなやつかは知らねえが、フィロが頼れと言うくらいだ。訪ねる価値はあるだろう」


 ――そうじゃない、と、直感的にジェロディは思った。

 ヴィルヘルムの言う〝遺言〟とはもう一つの方。

 フィロメーナが、自分の亡骸はカミラに燃やしてほしいと言い遺したことだ。


 彼女のその願いを聞いたとき、ジェロディは何故そんな残酷なことをカミラに、と思った。しかし冷静になって考えれば、理由は自ずと見えてくる。

 いまわの際、フィロメーナはこう言っていた。

 救世軍が再び立ち直るまで、自分の死は隠さなければならないと。


 だから彼女は自らの亡骸を消し去ることを望んだ。黄皇国では古くから土葬が一般的だが、ただ遺体を埋めたのでは何かのときに墓を暴かれ、死の証拠とされてしまう可能性がある。

 しかし火葬ならどうだろう。東のエレツエル神領国や西のアマゾーヌ女帝国では死者の亡骸を神の火でもって焼き清め、魂を天界へ送り出す――と聞いた。

 この〝神の火〟とはすなわち、神術で熾こされる火のことだ。

 並みの火力では人の遺骸を焼くのに一昼夜を要するが、強力な火の神術を使えば一瞬で灰にすることができる。もちろん術者の才能に左右される部分も大きいものの、カミラほどの術才があれば恐らくは可能だろう。


 死の間際にそこまで見越して、フィロメーナはあの遺言を遺した。その覚悟と先見の明は驚嘆に値するが、同時に彼女の提案はジェロディたちを苦悩させた。

 何しろカミラの心は既に、粉々に砕けてしまっている。フィロメーナの死という現実はカミラをも殺した。壊れてしまった彼女はウォルドの言うとおり、一人では立ち上がることもできず、ただ息をしてそこに座っているだけだった。

 ゆえにヴィルヘルムが担いでここまで連れてきたわけだが、今もこの場にいないところを見ると恐らく状況は変わっていない。ジェロディたちがこうしている間にも彼女は一人、ゆっくりとやってくる物質的な死を待っているのだろう。


 そんなカミラにフィロメーナの遺体を燃やせと言うのか?

 それ以上に残酷なことが、果たしてこの世にあるだろうか?


 故意か否かは分からないが、ウォルドがとっさに話題を逸らしたのも、きっとその現実と向き合うことを避けたからだ。

 自らの手でフィロメーナを葬れば、カミラは今度こそ終わってしまうかもしれない。二度と人として立ち直れず、脱け殻のような一生を送るか、あるいは自死を選ぶ可能性すらあるだろう。


「……だけど、」


 と、ときにジェロディが発した一言に、皆の注目が集まった。

 ジェロディは複数の視線を感じながら、じっと床を睨みつける。

 握った拳を更にきつく握り込み、後込みする己を奮い起こす。


「だけど僕は、今のカミラから救世軍を奪うことが正しいとは思えない」

「どういうことだ?」

「だってカミラは、あんなに救世軍を愛してた。救世軍のためなら命も捨てられるって。なのにそのカミラから、フィロメーナさんだけじゃなく救世軍まで奪うなんて――」

「なら、お前が言うのか。あいつに〝フィロの棺を燃やせ〟と」


 飛んできたウォルドの言葉が、ジェロディの胸を刺した。抉った。貫いた。

 しかしジェロディは血を流しながら顔を上げる。

 瞳の奥に覚悟を燃やし、逃げずにウォルドを見つめ返す。


「ああ、言うよ。カミラには僕が言う」


 隣でマリステアが息を飲んだ。向こうではケリーも驚いている。


「ティノ、そいつはご立派な心がけだがな。お前は救世軍の人間じゃねえだろ。なのになんでそこまで――」

「僕は今日から、フィロメーナさんの夢のために戦う。救世軍はまだ終わってない」


 叫ぶように、誓うように、ジェロディは言い放った。これにはウォルドも面食らい、ヴィルヘルムは隻眼を細めている。


「だってフィロメーナさんに言われたんだ。自分が正しいと信じた道を行けと。そしてこれが、僕の信じる〝正しい道〟だ」


 言葉にしたら、もう迷わなかった。

 これでいい。自分は選んだ。彼らと共に生きる道を。

 救世軍を待つのが滅びの運命だというのなら、そんなものは阻んでみせる。

 運命なんて叩き壊す。

 たとえそれが、神子にあるまじき背徳的な選択だとしても。


「後悔しないんだな」


 尋ねてきたのはヴィルヘルムだった。

 ジェロディは頷く。最後の怯懦を振り払って。


「行ってくる」


 皆にそう宣言して、ジェロディは歩き出した。

 再び訪れた静寂の真ん中を突っ切り、修道院の廊下へ出る。

 そこでふと、窓の外に視線を向けた。


 世界を包む闇は、未だ青い。



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