104.ロカンダ陥落
※残酷注意。
頽れていくフィロメーナの体と一緒に、カミラも膝を折った。
伸ばした腕で彼女を受け止め、倒れ込む。
風の刃で切り裂かれた全身が悲鳴を上げた。
しかしカミラは、フィロメーナを放さなかった。
「フィロ」
顔を上げる。
フィロメーナ。血まみれだ。左肩から胸にかけて傷が、
「フィロ……!!」
返事がない。
仰向けに倒れ込んだまま、フィロメーナは、動かない。
「あ……ぁあ……」
カミラは尻をついたまま後ずさり、頭を抱えた。
嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
だって、ありえない。
どうしてこんなに呆気なく、
「――フィロメーナさま……!!」
そのとき泣き叫ぶ声がした。
目を見開き、振り向いた先で慟哭している少年がいる。
ジョン。
泣き喚いていた。黄皇国兵に押さえ込まれたまま。
けれどカミラの視界を遮って、不意に別の黄皇国兵が迫ってくる。
「終わりだ、反乱軍」
頭上高く、剣が振り上げられた。
その先から真っ赤な血が――フィロメーナの血が滴った。
瞬間、カミラの中で何かが切れる。
プツリ、と、世界が閉じるような音を立てて。
「――神よ、殺し給え」
呪いの言葉を呟いた。
直後、目の前の黄皇国兵が業火に包まれ、絶叫が谺した。
炎をまとい、巨大な松明となった人間が身悶える。
剣を取り落とし、助けを求めながら、やがて頽れ息絶える。
それでもなお燃え続ける炎の陰で、ゆらり、カミラは立ち上がった。
戦慄した敵が何か喚いている。ジョンに剣を突きつけているようだ。
――だから?
「燃やせ」
少年を人質に取った敵兵の右手が燃え上がった。
悲鳴と共に剣が落ち、甲高い音を立てる。
誰もがそれに気を取られている間に、駆けた。
光のような速さで詰め寄り、燃える右手を押さえた敵兵の首を刎ね飛ばす。
「く、くそっ、こいつ――!」
残りの兵が一斉に臨戦態勢を取った。数は三。雑魚だ。
カミラはまず真っ先に向かってきた敵兵の腕を跳ね飛ばした。二本とも。
次いで突っ込んできた敵は胴を裂いた。内臓をぶちまけ、二人目も斃れた。
最後の一人のことはよく覚えていない。
壁を背に座り込んで、泣きながら何か言っていたような気がする。
馬鹿みたいに震えていてよく聞き取れなかったけれど、たぶん命乞いだろう。
構わず、カミラは敵兵の左目に剣を突き刺した。
相手が絶叫している間に右目も潰した。
それからはただひたすらに、斬った。
斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬り刻んだ。
返り血が全身を濡らしたが気にならない。
カミラが何度も剣を叩きつけたおかげで、兜はいつしか吹き飛んだ。
無防備になった敵の頭に繰り返し刃を振り下ろす。
グチャッ、ビシャッ、という音がしつこいくらい鼓膜を濡らした。
でもまだ足りない。
全然足りない。
足りない、足りない、足りない、足りない。
殺し足りない。
「――おい、カミラ!」
誰かに呼ばれたような気がした。でももうそんなのどうでもいい。
もう一度両手で剣を振り上げた。眼下の肉塊に狙いを定める。
それを振り下ろそうとしたところで、いきなり腕を掴まれた。
「カミラ、やめろ! もう死んでる!」
体を引かれた衝撃と、両手を濡らす血脂のせいで剣が背後へ滑り落ちた。
刃が床を叩いた音で、ふと意識が呼び戻される。
カミラは全身を朱に染めたまま立ち尽くし、自分を掴む腕を辿った。
こちらの腕を痛いくらいに握り締めているのは、ウォルドだ。
苦り切った顔をして、まるで知らない人間でも見るみたいにカミラを見ている。
「……ウォル、ド? 私……」
「……」
「私……何して……これ……――私が、やったの?」
足元に転がる肉塊を見下ろして、カミラは尋ねた。
答える代わりに、ウォルドは腕を放してくれた。
眼前にある死体は原型を留めていない。
顔なんてもちろん分からないし、グチャグチャになった腕と足のようなもののおかげで辛うじて人間だったと分かる程度だ。
「フィロメーナさん!」
刹那、どこからか聞こえたその名前がカミラの肩を震わせた。
途端に息ができなくなる――フィロ。フィロメーナ。
彼女の名前を繰り返せば繰り返すほど、体の震えは激しくなった。
血まみれの己を抱きながら、カミラは声のした方を振り返る。
そこには依然倒れたままのフィロメーナと彼女に寄り添うジェロディ、そして少し離れた場所で後続を警戒しているヴィルヘルムがいた。
「フィ……ロ……」
気を抜くと座り込んでしまいそうな両足で、ふらふらと彼女へ歩み寄る。途中何もない場所で躓きかけて、慌てて体勢を立て直した。
フィロメーナは血の池に沈んでいる。暗がりにぼうっと浮かび上がるほど顔が白い。カミラはその横で膝を折った。震える手を伸ばしてフィロメーナの肩を掴む。
「フィロ……ねえ、フィロ……起きてよ……」
消え入りそうな声で呼び、体を揺すった。あまり手に力が入らなくて弱々しい揺すり方になってしまったけれど、ほどなく彼女が呻きを漏らす。
次いでフィロメーナは苦しそうに眉を寄せた。――生きてる。気づいたカミラははっとして彼女の顔を覗き込んだ。芸術品みたいに反り返った睫毛が、震えながら持ち上げられる。
「フィロ……!」
色を失った唇から、ほんの微かな吐息が漏れた。血を流しすぎて寒いのだろうか、フィロメーナは青褪めた顔で震えている。
それを見たカミラは我を忘れて外套を脱いだ。カミラの血と返り血でドロドロだけど、何もしないよりはいい。
裏返して、なるべく血で濡れていない方でフィロメーナの体を包んだ。すると同じように向かいからジェロディが外套をかけてくれる。
そうして彼は、さっきカールにしたみたいにフィロメーナの傷も押さえ込んだ。とても両手で押さえられる大きさの傷じゃないけれど、やっぱりやらないよりはいい。
「フィロ、フィロ、しっかりして! 大丈夫、もう大丈夫だから……!」
「……カミ……ラ……ジョン、は……?」
「大丈夫、ジョンも無事……! フィロが命懸けで守ってくれたから……!」
「そう……」
良かった、と、ひどく掠れた声で囁くように彼女は言った。カミラの言葉どおりジョンは無事で、突き当りにうずくまり、目を見開いて震えている。
「フィロメーナさん、大丈夫です。すぐにマリーが駆けつけます。つらいと思いますが、それまでの辛抱です。だから……」
「……ありがとう……ジェロディ……あなたが……いてくれて……良かった……おかげで……カールと、ジョンを……」
「そんな、僕は――」
「ねえ……ジェロディ……忘れないで……あなたは……これからも……自分の、信じた道を……」
床に落ちた松明の火が、濡れていくジェロディの頬を照らした。
彼はまっすぐにフィロメーナを見つめている。
泣きながら、それでも目を背けずに。
「ウォル……ド……ウォルドは、いる……?」
「ここにいるぜ、フィロ」
「……ごめん……なさい……私……あなたに……重い、荷物を……最後まで……甘えてばかりで……」
「気にしてねえよ」
後ろから聞こえるウォルドの声は、平坦だった。彼がどんな表情でフィロメーナを見ているのか、カミラは怖くて振り向けない。
「ありがとう……ねえ……私が、死んだら……南の……ドナテロ村にいる……ブレナンという人を……訪ねて……事情を、話せば……きっと……力に――……っ!」
「フィロ!」
刹那、フィロメーナが息を詰め、激しく体を震わせた。カミラは半ばパニックになりながら彼女を抱く。どんどん血の気を失っていくフィロメーナの顔が、ぼやけて見えない。
「ねえ、フィロ、やめて! もう喋らなくていいから……! だからやめて、死ぬなんて言わないで!」
「……カミラ」
じわじわと血が染みていく外套を見やりながら、カミラは泣いた。泣きじゃくった。どうしたらいいのか分からない。血が止まらない。神様。お願い、神様。
私の血を全部フィロにあげてもいい。血だけじゃ足りないなら、命も取ってくれて構わない。魂ごとなくなって、この世から消えてなくなったとしても恨まない。
だから、お願い。彼女を殺さないで。殺さないで――
「カミラ……聞いて……あなたに……お願いが、あるの……」
「そんなのあとで聞くから!! 喋らないでって言ってるでしょ!?」
「私の、死は……救世軍が……立ち直る、その日まで……隠さなければ……せっかく、生まれた……革命の火が……吹き消されて……しまわない……ように……」
「やめて!! そんな話聞きたくない……!!」
「いいえ……あなたは、必ず……聞き届けてくれる……そうでしょう、カミラ?」
「フィロ、」
「ねえ、カミラ……私が……死んだら……どうか……あなたの炎で……私を、燃やして――」
カミラは茫然と座り込んだ。もはや泣き喚く気力もなかった。
だって、意味が分からない。私の炎でフィロを燃やす?
なんでそんなことしなきゃいけないの?
そう思いながら振り向いた先で、フィロメーナは、微笑んでいる。
「カミラ……あなたと過ごした、半年間は……夢のように……楽しかった……私……幸せだったの……本当よ……」
「フィロ」
「どんなに……つらい……ことが、あっても……あなたの……おかげで……生きようと……思えた……こんな……私を……愛してくれて……ありがとう……」
フィロメーナの微笑みが滲んだ。
何もかもが輪郭を失って、もう何も見えなかった。
言いたいことはたくさんあるのに、声を放って泣くことしかできない。
カミラはフィロメーナに縋りついた。
フィロメーナは、震える手で抱き締めてくれた。
「ねえ……もし……イークに……会えたら……伝えてくれる……? あなたの……優しさは……いつも……いつでも……私を……救ってくれた、って……」
カミラは頷いた。
泣きじゃくりながら、けれど確かに。
フィロメーナは愛おしそうに、そんなカミラの髪を撫でた。
それから長い息を吐き、不意に何もない天井を仰ぎ見る。
「ジャン」
その口から漏れた名に、カミラははっと顔を上げた。
フィロメーナは泣きながら、満たされたように微笑んでいる。
「ねえ、ジャン。私は――」
彼女の言葉は、そこで途切れた。
カミラの頭から白い手が滑り落ち、ゆっくりと瞼も閉じていく。
最後の一雫が彼女の頬を伝った。
それきり地下には肌を刺すような静寂が垂れ込める。
「……フィロ?」
ややあって、カミラは彼女の名前を呼んだ。
けれどもう二度と、答えが返ることはなかった。
「ねえ、フィロ……嫌だよ……返事して……置いていかないで……フィロ……!」
何度も、何度も、何度も。
繰り返しフィロメーナの名を呼びながら、カミラは泣いた。
その泣き声が延々と、誰もいない町に響き渡る。
後世の歴史書に、人々はこう綴った。
通暦一四八○年、豊神の月、美神の日。
救世軍第二代総帥フィロメーナ・オーロリー、ロカンダにて死す、と。
◯ ● ◯
青き星は二つに分かたれ、その片割れが地に墜ちた。




