102.行かせるべきじゃなかった
一行は適度に馬を急がせながら、救世軍の拠点である宿屋チッタ・エテルナを目指した。
いくら人気がないとは言え、町中で馬を駆けさせるわけにもいかない。だから当面は速足だ。焦れったいが、急いては事を仕損じると言う。この状況で焦りは禁物だ。
ジェロディたちが町に突入した地点からチッタ・エテルナまでは、およそ半刻(三十分)ほどの距離だった。
途中、少し先の道を松明が慌ただしく横切っていくのが見えたりしたが、こちらは明かりを持たずに行動していたおかげで見つからずに済む。
やがて道の先に見えてきた小さな広場。その向こうがチッタ・エテルナだった。
しかし目的地まであと少しというところで先頭のウォルドが手を挙げる。それを見て全員が馬を止めた。一同の間に緊張が走る。
「宿の前に敵兵がいる。どうやらアジトも押さえられたあとらしい」
「そ、そんな……!」
「人数は?」
「ざっと十人程度か。他にも中にいるかもしれねえ」
「問題ない。お前たちはここで待っていろ」
何が問題ないというのか。むしろこの状況は問題しかないのでは?とジェロディが思っているうちに、ヴィルヘルムがやおら馬を下りた。
かと思えば彼はつかつかと歩き出し、黒い外套を翻して物陰から離れていく。「お、おい……!」とウォルドが呼び止めたが、既に聞こえていないようだ。彼はまっすぐ、急がず焦らずの足取りで、正面から宿へと向かっていく。
「止まれ! 貴様、何者だ!?」
案の定、すぐに誰何する声が聞こえた。ジェロディも馬を下り、物陰から顔を覗かせてみると、早くもヴィルヘルムが武器を抜いた兵士に囲まれている。
「客だ。ここは宿だろう?」
「馬鹿を言うな。貴様、事前の触れを聞かなかったのか? 我々は現在反乱軍と交戦中である。無関係の者はただちに立ち去れ!」
「それとも、お前――反乱軍の仲間か?」
険のあるその声が皮切りとなった。兵士たちは素早く目配せすると、だんまりを決め込んだヴィルヘルムへ八方から攻めかかっていく。
勝負は一瞬でついた。
ヴィルヘルムが長剣を振り抜きざま黒い竜巻のように体を回転させると、本当に旋風が巻き起こり、敵兵が全員吹き飛んだ。
いや、あるいはそれはジェロディの目の錯覚だったのかもしれない。しかしヴィルヘルムが再び剣を鞘へ戻しても、起き上がる者は一人もいない。
「つ……強い……」
彼の強さを目の当たりにしたカミラたちが、茫然と立ち竦んでいるのが見えた。……さすがは〝伝説の傭兵〟と呼ばれる男だ。ヴィルヘルムの剣捌きは本物で、あの父でさえ彼と一対一で戦り合って勝つのは難しいと言っていた。
剣術の天才と呼ばれたギディオンならあるいは渡り合えるかもしれないが、今の年齢を考えると勝敗は闇の中だ。他に彼と互角に戦えそうな剣士と言ったら、現近衛軍団長のセレスタや同じく剣の達人であるシグムンドくらいしか、ジェロディには思いつかない。
「……あの人って神術使いなのかしら」
「え?」
「普通にしてると何も感じないんだけど。剣を抜いたときだけ、神気の流れみたいなものを感じるの」
と呟いたのはカミラだった。その間にもヴィルヘルムは宿の中を確認し、敵が飛び出してこないことを確かめてからこちらへ向けて合図する。
特に打ち合わせはしていないが、あれは恐らく〝来い〟の合図だろう。ジェロディたちは馬をつないで駆け出した。そして宿の入り口を潜ったところで絶句する。
「こ、れは……」
茫然と呟いたフィロメーナの隣で、マリステアが口を押さえた。それからじりじりとあとずさり、駆け出して、宿の外で嘔吐している。
昼間はあんなに華やかだったチッタ・エテルナのロビーには、酸鼻極まる光景が広がっていた。
壁に掛かっていた花の鉢は落ち崩れ、あちこちに血飛沫が飛び、床には足の踏み場もないほど多くの死体が転がっている。
折り重なるようにして倒れているのは救世軍兵と黄皇国兵、両方だ。けれども数は圧倒的に前者が多い。しかも皆、武器こそ持っているがほとんど非武装で、本当に不意を衝かれたのだということが一目で分かる。
「……状況は最悪だな。地上でこの有り様じゃ、地下のアジトはもう……」
呻きに似たウォルドの声を聞いて、ジェロディは体から力が抜けていくのを感じた。体温も冷たい床へ滴り落ちて、膝をついてしまいそうだ。
けれどそのとき、
「――フィ……ロ……メーナ……さま……」
声が、聞こえた。
それは普通の聴力ならば聞き逃してしまうであろう、掠れた小さな声だったが、神の耳を得たジェロディにははっきりと聞き取れた。
はっと顔を上げ、走り出す。ジェロディ、と後ろから誰かが呼んだ。けれど構わず死体の山を掻き分ける。聞こえる。聞こえるのだ。今にも消え入りそうな、しかし確かな――誰かの鼓動。
「カールさん……!」
やがてジェロディが掘り当てたのは、鎧を着た男の下敷きとなったこの宿の亭主だった。
彼はジェロディの呼び声を聞きつけると、辛うじて薄目を開ける。顔色は土気色。額には大粒の汗。更に呼吸が浅く、半身は血の池に沈んでいたが、とにもかくにもジェロディは渾身の力で鎧兵をどかそうとする。
「カール……!」
そんなジェロディの様子を見て、彼が生きていると分かったのだろう。フィロメーナたちもすぐさま駆け寄ってきた。
カールに覆い被さっていた黄皇国兵の死体は、ジェロディに代わってウォルドが放り投げてくれる。跪いたカミラが火を灯した。途端に血だらけになったカールの腹部が露わになる――刺されたのか。
「カール、カール! しっかりしてちょうだい。私よ、フィロメーナよ! あなたたちを助けに来たわ……!」
「……フィロ……メー……さま……ああ……良かった……ご無事で……」
「カミラやウォルドもいるわ。もう大丈夫、大丈夫だから……お願い、目を開けて……!」
「マリー! すぐにカールさんの治療を!」
ケリーに支えられ、外から戻ったマリステアが泣きながら駆け寄ってきた。彼女はカミラの隣に腰を下ろし、カールの傷に手を当てて祈りの言葉を紡ぎ出す。
青白い光がマリステアの右手を包んだ。血が止まるまで傷を圧迫するつもりなのだろう、彼女はそこに左手も添える。
少しすると、苦痛がやわらいだのだろうか。カールの表情がいくらか穏やかになった。それでもまだ苦しそうであることには変わりないのだが、ジェロディもマリステアと共に傷を押さえ、血が止まるのをひたすらに待つ。
「おいカール、気をしっかり持て。マリーに任せりゃ傷はもう大丈夫だ。意識が飛ばねえように何か喋ってろ。そうだ、他の連中はどうした?」
「……申し訳……ありま、せん……我々は……ここで……官軍を、足止め……するので……精一杯で……詳しい……ことは、何も……」
「イークとギディオンは? 彼らはどうしたの?」
「あの……お二人、なら……恐らく……兵を連れて……別の出口から……」
「脱出したのね?」
「はい……私から……そう……お願い……しました、ので……」
何となくそんな気はしていたが、あの地下遺跡には恐らく、この宿以外にも出入りできる場所が存在するのだろう。イークたちは生き残った兵を連れてそちらから脱出したということか。
だが見たところカールは明らかに非戦闘員だ。体つきも鍛えているようには見えないし武器も帯びていない。
そのカールが入口を守り、地下にいたイークたちを逃がした。それだけで彼の覚悟が窺い知れた。
ジェロディは図らずも喉が締め上げられるような感覚を覚える。イークたちはどんな思いで彼を置き去りにしたのだろうと思うと、なおさら。
「黄皇国軍の、やつら……いきなり……大軍で、押し寄せてきて……私たちには……どうする、ことも……申し訳……ありません……フィロメーナさま……」
「いいのよ、カール。あなたは自分にできる限りのことをしてくれたわ。それよりロザンナとジョンはどうしたの? 無事でいるのよね?」
フィロメーナは白くなったカールの手を握り、祈るようにそう尋ねた。
ロザンナという名前は初めて聞くが、ジョンというのは確かカールの息子の名前だったはずだ。ということはロザンナは妻の名か。フィロメーナは彼の妻子の身を案じているようだった。
けれど途端に、何故かカールは口を閉ざす。代わりに彼の瞳の端から、一雫の涙が滑り落ちた。
「……分かり……ません……」
「え?」
「ロザンナ、の……行方が……分からない……最後に、ここから……逃げる姿を……見たきりで……」
「カール」
「それに、息子も……あの子は……黄皇国軍の、急襲を……イークさんたちに……知らせるために……だけど……地下には……黄皇国兵が――」
誰かが息を飲む音が聞こえた。カールが震える腕で目元を覆ったのを見て、マリステアが顔をくしゃくしゃにしている。
「守って……やれなかった……行かせるべきじゃ……なかった……私は……あの子の……父親なのに――」
夜が震えた。
いや、実際に震えたのは空気だ。
けれどジェロディには、視界が揺らぐほどの衝撃に思えた。
フィロメーナ。
カールの言葉を聞いた彼女は弾かれたように立ち上がり、身を翻して、宿の奥へと駆けていく。
「おいフィロ、待て!」
すかさずウォルドの怒号が飛んだ。しかしフィロメーナは止まらない。
明かりも持たず、窓から射し込む蒼い月光だけを頼りに、奥の闇へと呑まれてゆく。
「フィロ……!」
「くそっ、あの馬鹿……! カミラ、来い! 追うぞ!」
「う、うん……!」
「僕も行く! マリー、君はそのままカールさんの治療を。ケリーは二人の傍にいて!」
「お任せ下さい」
ケリーの返事を聞くと同時に、ジェロディは駆け出した。あくまでカミラの護衛という立場を貫くつもりなのだろう、ヴィルヘルムも無言でついてくる。
一行はひとかたまりになって022号室へと飛び込んだ。
フィロメーナの姿は既にない。代わりにジェロディたちを待ち受けていたのは、ぽっかりと口を開けた地下への入り口だけ。
「フィロ、待って……!」
その穴に向かって、カミラが叫んだ。
甲高い声が反響し、階段の上を何度も跳ねる。
けれどそれに答えるフィロメーナの声は、ついに返らなかった。
低い風の唸りだけが、闇の底で蜷局を巻いている。




