08.ミレナのお願い
「どうぞ」
と差し出されたそれを、カミラは短い礼と共に受け取った。
渡されたのは木製の小さなマグだ。中には冷たい水がなみなみと注がれていて、カミラはほっと息をつきながら遠慮なくマグに口をつける。
そこは昨夜カミラが助けた少女、ミレナの家だった。なかなか大きな二階建ての民家だが、ミレナ以外の住人の姿はない。家族はいないのかと尋ねると、両親は健在だが近頃は郷守──複数の集落からなる小地域の統治者だ──による税の取り立てが厳しいので、共に働きに出ているとの答えが返った。
「ぷはっ……はー、生き返ったぁ。ありがとう、ミレナ。助かったわ」
「いえ、お礼を言うのはこちらの方です。昨夜カミラさんが通りかかって下さらなかったら、わたしもどうなっていたことか……」
あっという間に空になったマグへ新たな水を注いでから、ミレナはカミラの向かいに腰を下ろす。カミラが通されたのは一階奥にある食堂で、四人がけの食卓の隣にはでんと鎮座した煮炊き炉があり、向こうが台所になっているようだった。
「ああ、昨日のことなら気にしないで。私が勝手に首を突っ込んだだけだから」
「いえ、でも……そのせいでカミラさんが地方軍に追われる羽目に……」
「平気平気。黄皇国軍に喧嘩を売るのは初めてじゃないし、私、この国の人間じゃないから。ミレナはルミジャフタ郷って知ってる?」
「ルミジャフタ……?」
「えっと、黄皇国では〝太陽の村〟って言った方が通じるんだっけ?」
「あっ……それなら知ってます! トラモント黄皇国をお創りになった最初の黄帝フラヴィオ様が、太陽神シェメッシュの神託を受けたっていう伝説の村ですよね? カミラさん、そこの出身なんですか!?」
「伝説の村、は大袈裟だけど……」
胸の前で手を合わせ、にわかに目を輝かせ始めたミレナを前にカミラは思わず苦笑した。トラモント人に「太陽の村の出身だ」と告げると大抵こういう反応が返ってくるが、実際にルミジャフタ郷を訪れてみれば何のことはない、息苦しいほど密生した木々の間にぽつねんと佇む小さな郷だ。
ここトラモント黄皇国の始祖はフラヴィオといい、彼は黄皇国の北に聳える竜牙山脈──その山中にあるというツァンナーラ竜騎士領の竜騎士だった。
それが当時、この地に布かれていたエレツエル神領国の暴政を見るに見かねてカミラの故郷であるルミジャフタに降り立ち、そこに眠っていた太陽神シェメッシュの神託を受けた……というのが黄皇国に伝わる伝説らしい。
太陽神シェメッシュはエマニュエルでも特に信仰を集める二十二大神のひと柱だ。ルミジャフタ郷でも古くからかの神を郷の守り神と崇めていて、かつてはコリ・ワカと呼ばれる郷の至聖所に太陽神シェメッシュの魂の結晶である《金神刻》が眠っていた。竜騎士フラヴィオはこの《金神刻》という強大な力を宿した神刻を使い、神領国を退けトラモント黄皇国を築いたのだ。だから黄皇国の人間はルミジャフタ郷をやけに神聖視しているところがあり、かの郷の出身であるカミラたちは神の御使いのように扱われる。それがカミラには少しこそばゆい。
「とにかくあの郷はトラモント黄皇国じゃそういう扱いだから、ええと、なんて言うんだっけ……チガイホーケン? みたいな感じで、あそこに逃げこんじゃえば黄皇国軍なんて怖くないのよ。だから私のことは心配しなくて大丈夫。昨日だって三人の黄皇国兵を相手に大立ち回りしたの、見てたでしょ?」
「はい……そう、そうですよね。わたし、最初にカミラさんが女の人だって気がついたときびっくりしたんです。女性であんな風に戦える人もいるんだって」
「ウチの郷は昔から血の気が多くてね。男は郷を守るために小さい頃からみんな戦士に育てられるの。そういう環境で育ったから、私も物心ついた頃にはお兄ちゃんの真似をして剣を習い始めて……」
「お兄さん、ですか?」
「ああ、うん、えっと……実は私、そのお兄ちゃんを探してこの町に来たんだけど、ミレナは知らない? 私とおんなじ髪の色をしたエリクって名前の剣士。ついでに神術使いで、左手に雷刻を刻んでるんだけど」
話の流れが何となくそちらへ向いたので、カミラは駄目もとでそう尋ねてみた。ら、案の定駄目だった。ミレナはカミラの赤い髪を見ながらしばらく記憶を探ってくれたが、やはりそれらしい人物に覚えはないらしい。カミラも期待はしていなかったものの、改めて「知らない」と言われると自然、落胆のため息が漏れた。
「お兄さん、行方不明なんですか?」
「うん……もう三年郷に帰ってこないの。もともと郷の古い儀式のために旅立って、一年くらいは帰ってこれないかもしれないって言われてたんだけど……」
それがもう三年だ。いくら何でも遅すぎる。兄のエリクが旅立ったクィンヌムの儀というのは郷に古くから伝わる儀式で、成人を迎えた男子が一人前の戦士として認められるためにしばらく郷を離れて修行するというものだった。
当然ながら郷の大人たちは皆その儀式を受けている。中には数年郷に戻らず世界中を旅したという者もいるし、郷の外に家庭を築いて戻らなかった者もいる。
だがそういう者はいずれも一度は郷に報せを寄越しており、報せもないまま三年が過ぎた者は〝脱落した〟と見なされるのが通例だった。
脱落した、ということは即ち──死。
しかしカミラは認められなかった。あの強くて優しくて賢かった兄が儀式の途中で脱落したなんてありえないと信じていた。だから族長の強硬な反対を振り切って、家出するように郷を飛び出してきたのだ。幼くして両親を失ったカミラにとって兄は唯一の肉親であり、憧れであり、生きる理由だったから。
(でも、だったらお兄ちゃんはどうして……)
と考えかけてカミラはやめた。郷では珍しく字も書けるエリクが、何故旅立ってから一度も報せを寄越さないのか。そこにはきっとカミラには思いも寄らないような理由がある。絶対にある。そうでなくてはならない。
だからそんなことはいま考えるべきことじゃない。
理由を知りたいのなら兄と再会してから尋ねればいいことだ。
カミラはどんどん暗がりへ引き込まれようとする思考を引きずり戻した。
そうして気を取り直すべく首を振ると、思い切って話題を変える。
「それはそうと、ミレナ。あなたはどうして地方軍に追われてるのが私だって分かったの? あそこに現れたのだって偶然じゃないでしょう?」
カミラがそう尋ねるとミレナは素直に頷いた。何でも彼女は今朝の礼拝から帰る途中、たまたまカミラが黄皇国兵に呼び止められている現場を目撃し、あれは昨晩自分を助けてくれた人だと確信していてもたってもいられなくなったのだという。
「だけど地方軍より先にカミラさんを見つけられて良かったです。自分のせいでカミラさんにもしものことがあったらって、探してる間中ずっと不安で……」
「ありがとう。おかげで助かったけど、そう言うミレナは大丈夫なの? 地方軍に目をつけられた私を家に上げたりして、バレたらひどい目に遭わない?」
もしそんなことになるくらいなら今すぐ暇を告げて家を出る。
それくらいの気持ちでカミラは尋ねた。何せ昨夜自らの手で助けた相手が、自らの落ち度によって再び危険に晒されたのでは本末転倒だ。
カミラだって兄探しの旅に出てから既に何度も修羅場──ほとんどはカミラが自分で招いたものだが──を潜り抜けているし、この程度の騒ぎならどうってことない。多少苦労はするだろうが、切り抜けられる自信がある。けれど、
「……ミレナ?」
刹那、カミラは急にうつむいて黙り込んでしまったミレナに異変を感じた。彼女は何か思い詰めたように唇を引き結んでいるが、同時に何か言いたげでもある。
「……あの、実は……」
と、ややあってミレナが重い口を開いた。
「実は、わたし……カミラさんにひとつお願いがあるんです」
「お願い?」
「カミラさんは最近噂になっている〝救世軍〟って知ってますか?」
──救世軍。その名を口の中で繰り返し、カミラは神妙に頷いた。他でもない、近年トラモント黄皇国を騒がせている革命軍の名だ。まあ、もっと実態に沿うように形容するならば〝反乱軍〟という呼び名が一番しっくりくるだろう。
当然ながらカミラも噂は聞いていた。何でも自らを救世軍と呼ばわる彼らは、腐敗したトラモント黄皇国から民を救済するとの名目で武力蜂起し、多くの人々がその理念に賛同し始めているのだという。だからトラモント黄皇国は現在混乱のさなかにある。国はうるさい蝿のように各地を飛び回る救世軍を叩き潰そうと躍起になり、しかし神出鬼没の彼らにいいように振り回されていた。
そうした救世軍の活躍は近頃ますます民衆の支持を集め、一種の熱狂を生みつつある。カミラが聞き囓ったところによれば、今や彼らのもとには昼夜を問わず志願兵が殺到しているとかいないとか──
「その救世軍に、ジーノが……わたしの幼馴染みが参加するって言ってるんです」
「え?」
「ジーノはこの町で一番人気だった靴屋の息子で、今は別の工房に弟子入りしてるんですけど。家族はお母さんと妹がひとりいて……お父さんは二年前、工房を郷守に潰されて首を吊りました」
ぎくり、と心臓が嫌な音を立て、カミラは思わず硬直する。
工房を郷守に潰された、というのは果たしてどういうことなのか。カミラがそこを気にしていると、おりしもミレナがぽつぽつと詳しい事情を話し始めた。
「すべてはあの日……おじさんの工房に郷守が突然押しかけてきたのが始まりでした。郷守は何の前触れもなく、おじさんの工房があった場所に地方軍の鍛冶場を造ると言って、タダで土地を取り上げてしまったんです。おじさんはもちろん抗議しましたが、全然聞き入れてもらえませんでした。それどころか次に住む場所も決まらないうちに工房を潰されてしまって……」
「ひどい……でも、どうして?」
「これはあとになって分かったことなんですが、どうも同じギルドに所属していた職人さんのひとりが、おじさんの店の評判をずっと妬んでいたそうです。だから裏で大量に、郷守に賄賂を贈ったと──」
そんな馬鹿な、とカミラは耳を疑った。けれどそんな馬鹿みたいなことが罷り通るのが今のトラモント黄皇国という国だ。ミレナの話によれば問題の職人は以前からジェッソの郷守とつながっており、たびたび郷守に献身的な態度を示していた。郷守はその見返りとして職人の要望を叶え、そうして叶えられた要望のひとつがこの町で一番人気だった靴屋の取り潰しだった。
結果、親方であったジーノの父は失意のうちに自殺。
住む家と職と大黒柱とを一遍に失ったジーノ一家は非常に貧しい生活を余儀なくされ、今は古くてボロボロの長屋を借りて何とか露命をつないでいるのだという。
「そんなことがあったせいで、ジーノは郷守のことをひどく恨んでいて……だから自分も救世軍に入って国を正すために戦いたいって言うんです。だけどジーノは靴屋の息子で、鎚を握ったことはあっても武器を握ったことなんてありません。だいたいジーノがいなくなったらおばさんたちだって……」
「この先食べていけなくなる?」
「そうです。ふたりの内職だけじゃどうやったって生活は持ちません。なのにジーノはおばさんたちを置いてでも救世軍に入るって言い張るんです。だからわたし、彼を説得するために昨日──」
──日が落ち、町が寝静まるのを待ってジーノの家へ行った。そこで彼を呼び出し、何とか思い留まるように説得した。危険と承知で深夜帯を選んだのは反乱軍に入る、入らないなどという話を余人に聞かれるわけにはいかないと思ったからだ。
そんな話をしているだけで、今のトラモント黄皇国では反逆罪の汚名を着せられかねない。そうなればいくらジーノを改心させたところで水の泡だ。
しかしミレナの苦慮も虚しくジーノの説得は失敗に終わった。
その事実にうちひしがれながら帰路へ就こうと思ったらあの事件だ。
カミラは話を聞いて、ようやくすべてがつながったと大いに納得した。
「それでもわたし、やっぱりジーノを止めたいんです。腐敗した国を変えたいっていうジーノの気持ちは分かります。だけど……だけど救世軍に入ったら、武器を握ったことなんかなくたって戦わなくちゃいけないんです。そうなったらジーノは……彼にもしものことがあったら、わたし……」
ミレナは次第に涙声になり、最後は顔を覆って泣いた。カミラはそんなミレナに何も言わない。ただじっと黙って彼女の言葉の続きを待つ。
「だから……だからわたし、カミラさんにお願いしたいんです。会ったばかりで、しかも危ないところを助けてもらっておきながら、さらにお願いだなんて図々しいって分かってます。でも……」
「いいわ。言って」
「もし……もしカミラさんさえ迷惑じゃなかったら、ジーノと一度剣の勝負をしてみてほしいんです。その、つまり、本物の剣でやるんじゃなくて……」
「棒きれみたいなもので、ってこと?」
「はい……こんな言い方は失礼ですけど、いくらジーノでも女の人と勝負して負けたとなれば、ショックを受けて考え直してくれるんじゃないかって思うんです。昨日、カミラさんと会ったあとにふとそう思って……」
自分が襲われかけたあとだというのに、助かった次の瞬間には幼馴染みのことを考えていたのか。そう思うとカミラはさすがに苦笑した。
けれどそのことからも分かる。
ミレナはジーノという幼馴染みに友人以上の特別な感情を抱いているのだ。
だから彼を引き留めたがっている。彼を守りたいと心から願っている──
「──分かった。じゃあ早速ジーノをここに呼んでちょうだい」
「えっ」
「靴屋の息子さんが相手なら、これくらいの広さがあれば十分でしょ。大丈夫よ、ミレナ。そのジーノって子、私が立ち直れなくしてあげる」