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もう誰もいないのををいいことに、小さなため息をついた。私が休息を取ることに私自身異論はないが、今日一日をベッドで過ごすことになれば、終わるはずだった用事はすべて先送りになる。諦めきれずまた机の上に目をやるが、積もったものの量は変わらない。まだ見ぬ明日が思いやられ気が重くなる。やはり寝ている暇などないのでは――とそわそわし始めた頃に、真由が再び部屋にやって来た。
「お嬢様、失礼します」
「どうぞ」
差し出されたお盆の上には、軽食と薬。食欲はほとんどないが、これを食べなければ薬が飲めない。仕方なく手を付けた。……美味しい。
「そういえばお嬢様。お尋ねしてもよろしいですか?」
「ん、何だ?」
空腹感は皆無だったはずなのに、思わず完食してしまった。木のスプーンを手放す。真由は薬と水の注がれたコップを差し出した。
「早朝はどちらにお出かけだったのでしょうか」
一瞬、ポカンと口を開ける。
「お出かけって……私が? 何を言っているんだ、今の今まで普通に寝ていたじゃないか」
と返事をしつつも、何故か動揺してしまって鼓動が早まる。足元から地面が崩れ去っていくような、高い場所から突き飛ばされそうな、恐怖にも似た不安だった。そんな私の異常を嗅ぎとった真由は、続きを口にするか迷ったのか数秒間うつむいたが、ぱっと顔を上げて私と目を合わす。
「ですがお嬢様。他の使用人の話によると、とある男の方がお嬢様を連れ帰ってくださったそうですよ?」
「……えっと、それは?」
「彼女は倒れていた、とだけ言って帰ってしまったそうです。親切な方……なのでしょうか」
心当たりがあるような、ないような、できればあってほしくないような――しばらく黙り込んでいると、真由は静かに立ち上がった。いつもと変わらず小さく頭を下げる。
「お嬢様はお疲れのようですし、この土日の間にゆっくりお身体を休めてください。昨晩のことはまた後ほど。身の回りのお世話は私にお任せ下さい」
私が散らかしてしまった服やら小物やらに手を伸ばしながら彼女は言う。どうやら私はまた彼女に面倒と心配をかけてしまったらしい。いたたまれなくなって、話題を彼女中心にすり替えようと試みる。
「真由、君は今からどうするんだ。確か3年生は夕方から補習があるんだろう? 早く家を出ないと授業に遅れるぞ」
どうやら企みは成功したらしく、真由も話題を乗り換える。
「ええ、ご存知でしたのね。ですが本日はお嬢様のお側におります。問題ありません」
「君の学力にケチを付けるつもりは毛頭ないが、受験生がそんなことでどうするんだ……」
「あらお嬢様、受験に真面目な態度は必要ありませんわ。面接でもない限り紙数枚で決するものですから、結局は学力です」
強気の発言。真由は理想の優等生に見えて、こういうところが極めて現実的である。それとも、と真由はくすりと笑った。
「私に万が一があるとでも?」
その言葉に滲み出ているのは絶対の自信だ。結局私も彼女自身も勝利を疑ってはいないのだ。完全に叩きのめされた私は「……ずるい」と負け惜しみを言うことくらいしかできなかった。
そんな会話の間にも真由は大方の片付けを終えていて、今度はクローゼットの整理に手を出している。
「ああ真由、それはもういいぞ。それよりも机の上から紙を数枚……」
「丁重にお断りいたします。お嬢様、本日はお休みになると決めたばかりですよ」
「だって! 委員会の仕事とか、先生から任された企画とか、先生から押し付けられた雑用とか、やることがたまっているんだよ! 間に合うか心配で眠れない!」
「でしたら真由が代わりに終わらせておきますから心置き無くお休みください。……それから雑用はお断りするようにと何度も」
「分かってるよ……」
説教が始まりそうな予感がしたので、先を言わせまいと早々に白旗を上げる。さすがに病人の降参には効果があったのか、飲み込んでくれる。真由は机の上にあった紙の山をごっそり抱えて部屋の外に出た。
「お邪魔になってはいけないので、真由は隣へ移動します。何かありましたら内線で」
会釈し、肩で扉を閉める。心配そうな表情は最後まで変わらなかった。ただの体調不良くらいでそんなに気を使う必要はないのに、ともやもやするが嬉しくもあった。しかし――真由のことだから、側に置いておけばきっと、大袈裟なまでに手厚く看病するに違いない。想像するだけでも恐ろしい光景で、寒気がする。早く回復するに越したことはなさそうだ。
「……寝よ」
布団に潜り込み、あらゆる面倒事から逃げるように、ぎゅっと目を閉じた。意識がフェードアウトし始めるのに、そう時間はかからなかった。