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本来ならばここで私も名乗り返すのが礼儀だが、どうやら私の素性は把握されているらしいので割愛した。ちらりと伺うように目を合わせるが、江崎蓮もあえて何も求めてこないから、やはり必要ないのだろう。
「それはそれとして話の続きなんだが……そもそも私がここで縛られていた理由はなんだ?」
「それやっぱり気になります?」
「当たり前だ! 目覚めたら家が違うなんて気にならない方がおかしいだろう!?」
力いっぱい叫んでしまう。
おどけているのか、からかっているのか。彼の言動はどうにも捉えどころがなくて、反応の仕方が分からない。一つ一つにまともに取り合っていっていたら、私の精神が参ってしまうのは目に見えている。これからは全て流していこう、とひっそり決意した。
その決意を実行すべくじっと白い目で江崎蓮を睨めば、「冗談です」と軽く返され、面食らってしまった。どうやらこの男に勝負を挑むことから間違っていたらしい。江崎蓮は「先に確認ですが」と話を核心へと近づける。
「あなたは昨日の夜、何をしていたか覚えていますか」
これはつまり昨日の予定を問われていると考えていいのだろうか。プライベートな領域を晒すのはいささか不愉快だが、話を進めるためには仕方がない。日が沈んだあたりから指折り順番に上げていく。
「帰宅、英会話、食事会、それからピアノのレッスン、あとは――」
「そうではなくて」
まだもう少し残っているが遮られてしまう。私の回答は的を外していたようだ。
「具体的には深夜2時から朝の5時の間、何をしていたかを聞いているんです」
「普通に寝ていたが……?」
「違いますね。あなたは寝てなどいない」
訂正する。ものすごく不愉快だ。
「いや絶対に寝ていた。しっかり覚えている。23時には布団の中に入っていたはずだ、間違いない」
「僕が聞いているのは、その後のことです」
「そんなもの知るか! 就寝後の記憶なんてあるわけがないだろ!? あったら逆に怖いわ!」
思わず声を荒らげてしまったことを反省し、握り締めた両拳から力を抜く。とは言え、この男の「何も分かっていないな」とでも言いたげな態度に心底腹が立つのもまた事実だった。
こいつは一体何者だ――?
「……これ以上は無意味ですね。ややこしい話はまたの機会にしましょう」
解けるはずもない難問に悩み続けている私を見兼ねたのか、江崎蓮はポツリと呟いた。心情を見透かしているかのように彼は笑う。小さく唇を噛んだ。敗北感が身体中を駆け巡る。何だ、あの余裕だらけの表情は。
「それに、そろそろ家にお返ししないとまずいことになりそうですし……」
「そりゃあそうだ、誘拐されれば誰だって騒ぐにきまっているだろ!」
「いえですから、別に誘拐事件じゃありませんって」
「またそれか……。あのな、これを世間一般では誘拐ないし監禁と呼ぶんだ。いい機会だ、あなたの脳内辞書を書き換えておくといい」
「残念ながら僕の辞書に載っているのは有効利用という言葉だけですね。ああ、それから端の方にリサイクルとも」
「その流れでリサイクルはあまりにも怖い」
分かりやすく顔をしかめた私を見て、江崎蓮は少しだけ笑った。
「あなたが僕をとことん信用していないことは分かりましたが、大丈夫ですよ、五体満足で送り届けますから」
「ここで五体満足とかいうワードを出すあたり、安心感がマイナスに振り切っているんだよ……」
手をついてゆっくりと立ち上がった江崎蓮は「こちらです」と手招きをした。導かれて、部屋の外に足を踏み出した。胡散臭い男ではあるが、ここがどこかも分からない私だから、黙って着いていくしかなさそうだ。いっそどうとでもなれと心の中で叫んで背中を追う。
縁側を歩く。すぐ横に庭が見えるが、春の草木は丁寧に整えられていて美しい。吹き抜ける柔らかな風も心地いい。しばらく木の廊下を踏みしめる足音だけが響くが、無言の空間を破るように江崎蓮は言葉を投げかけてきた。
「念押ししておきますが、あなたはすでに人間ではない」
彼がこんなことを言うのは何度目だろう。その度に首を傾げ、よく分からないと首を降ったが、それ以上のことは何も教えてくれなかった。
「じきに分かります」
やっと玄関までたどり着いて、引き戸を横に。建物の外には、砂利が敷き詰められていた。漂う厳粛な空気――神聖さが身も心も削る。自分がここに相応しくないと直感してしまったからか、居心地は良くない。
この雰囲気はどこかで体感した覚えがある。さて何だったかなと悩みつつ、ふと上を見上げてみると、朱色の鳥居が目に入った。途端に巡る思考。記憶を掘り返していく。ああ思い出した。そうだ、この独特の光景は――。
「神社……?」
その瞬間、首筋にかすかな衝撃が走った。込み上げてくるのは嗚咽。しかしすぐに掻き消され、すーっと意識が遠退いていく感覚。くらりと目眩がした。体勢を立て直そうと力んだが、抵抗は無駄に終わり、膝がガクリと折れる。荒がうように右手を伸ばす。しかしどうにも力が入らない。何も掴めないまま落ちていった。
「な、にを」
江崎蓮は微笑んでいるだけだった。
「おま……え」
声を絞り出したと同時に、ぐらりと大きく傾いた身体。彼はすかさず支える。突き飛ばそうとしても、できない。このままでは気絶してしまう。駄目だ、意識を失ってはいけない。この油断ならない男の前で眠るなど愚策以外の何物でもない。そう脳は必死に訴えているのに、身体はすっかり無視をした。欠片も信用できない人間の腕に抱かれたまま、強烈な衝動に耐え切れなくなった私は目を閉じる。
「それではまた今晩、お会いしましょう」
意識はここで途切れ――。