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男はみっともなく俯せになっている私のすぐ側にしゃがみ込み、そっと顎を上げさせた。私の顔は自然と上を向き、彼と視線が交わった。目は笑っていない。やはり彼は上機嫌などではなく、空気を読まずへらへらしてる脳天気でもなくて――。男の頭の中では、いかに私を有効利用するかについて議論されているに違いない。
「そうですね、強いて言えば僕は――世界平和が欲しいです」
触れてはいけない気がする。これ以上彼に近づけば私の存在ごと消されてしまいそうで、身震いをした。ああ駄目だ、もうここには居たくない。にこりと優しげに笑うこの男が恐ろしくて仕方がない。しかし私の気持ちなど欠片も知らない男は、なおも言葉を続ける。
「協力してください、東堂小春さん」
一度も教えた覚えのない私のフルネームを、男は薄っぺらい笑顔と共に呟いた。それが私の心臓を握りしめられたかのようで――ぞくりと悪寒が走る。だがこの恐怖を悟られるわけにはいかず、あくまでも強気な態度を取り続けた。
「……もし断ったら?」
「賢いとは言えませんね」
「具体的にはどうなるんだ」
「それは難しいですが困ったことになります。僕も、そしてあなたも」
緊張が肌を刺す。改めて自分の立場を見直し、選択を間違えれば死が待っていることを理解した。男は「すみませんが、もう決まったことですから」と小声で零す。だがそのような理不尽極まりない説明ではとても納得できない。こんなものはただの脅迫だ。閉めきられた和室の中で2人、見つめ合う。
「……何をすればいい」
心を支配するのはひとまずの諦め。拘束されている以上私に勝ち目はない。さすがに命が惜しいから、ここは大人しく要求を飲んだ方が身のためだ。このようなところで訳も分からず臨終するのだけは御免だった。
それに――“東堂小春”はここで殺されるわけにはいかない。
まだ東堂として成さなければならないことが山積みの今、そのすべてを放り投げて天国もしくは地獄に旅立つわけにはいかないのだ。意地でも生還してやる、と心の奥底で再燃する闘志。