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何かがふわりと舞い降りる気配。背後だ。振り返れない。でもそこにいる。私のすぐ後ろに。どこからか現れて。動け、動け、と言い聞かせるのに視線すら後ろにやれない。
恐ろしくておぞましい何かが体温が伝わるくらい近くにいるのに、感知できたのは衣擦れの音と纏う雰囲気だけだった。
「そのまま振り向くでないぞ」
女の声だ。妖艶で、しっとりとしていて、落ち着いている。
私の後ろに女が立っている。それだけしか分からない。
『わしを見るな。ただ受け入れればそれでよい』
右肩に触れたのは彼女の指か。そのまま腕をつーっと撫でていく。感触を確かめるように。
『……相も変わらずこのわしに相応しい器じゃ。今年で16になるのだろう、もう充分じゃて。なに、そう身構えるな。ぬしには何も求めておらぬ』
輪郭を捉えられないような、ぼんやりとした言葉が続く。彼女の言うことが何一つ理解できない。
けれどその声は今までに聞いた誰のものよりも澄んでいて、脳を直接揺さぶるようだった。妖艶な美女を思わせる声色だが、鈴の音に似た妙な清廉さも感じさせる。
(……この声、少し、好き)
状況整理が追いつかず、もう何もかもがどうでもよくなってきた。語りかけてくる声にうっとり身を任せながら、周囲に意識を張り巡らせる。
(ああ、誰かがこっちに来るな)
前方に影。ゆっくりと接近してくる。しかし思考を外にやることなど、彼女が許してくれるはずがない。
――突然、身体中を襲う熱。
まるで火の中に放り込まれたかのように全身が燃え盛っていた。熱さを通り越し、皮膚に突き刺さるのは痛みだけ。身体が、何もかもが、ドロリと熔けてしまいそうだ。指先から脳天まで貫く熱。地獄の苦しみに耐えかねて、絶叫する。しそうになる。
(あ、ああ。ああ……)
それでも声にならない叫び。のたうちまわることすらできない。棒立ちのまま、なすすべもなく私の身体は焼かれていく。このままでは焼け死んでしまう――。これほどまでに苦しみを感じているのに、しかし炎など見当たらない。
私の中で何かが弾けとんだ。
『……やっと、やっと』
頭の中に響いてきたのはやはり女の声。恨めがましく、地の果てから憎むような、そんな声。両耳を塞ぎたかったが駄目だ、この期におよんでも指先一つ動かない。
『主のおらぬ数百年は、万年よりも長うように思えた……しかし全てこれで終いじゃ』
尚も私にかけられる恨み言。甘く、苦く、おどろおどろしく。ぞくり、と背筋に悪寒が走る。この声から逃げなければならない、なのに離れられない、動けない。本能が拒否する。引きずり込むような声に必死で抗う。
『我が姫、我が器。あの日の約束を果たそうではないか。今度こそ誤らぬ。もう何一つ失わせぬ』
女は牙を剥いた。足の指まで固まっていたはずの私の身体を操る。先ほどまでが嘘のようだ。自分では指も動かせなかったはずなのに、簡単に腕はあがった。不備がないかを確かめるように、首を回し、腕をふり、歩む。
身体が動くようにはなったものの、今度は見知らぬ何者かにそっくりそのまま奪われてしまった。意思とは正反対の動作を行う。
「わしが永遠に――寄り添うてやる」
これは夢なんだ、言い聞かせた。夢であってくれと、悪夢であってくれと、懇願した。心の底から湧きあきあがってくるような恐怖から、現実逃避をするかのごとく。
「そこまでです」
夢だ、これは悪い夢なのだ。
ああ頼むから――目を覚まして。
「今すぐその少女の身体を返しなさい」
正面に立ち塞がったのはそれはそれは端正な顔立ちをした男だった。先ほどの人影だとすぐに分かった。もしこの世に救世主がいるとすれば、きっとこの人なのだろう。
男は驚きもせずに、ただ微笑を浮かべた。しかしそれは誰もを凍りつかせるような冷たい表情だった。笑っているはずなのにかえって恐ろしく感じる。鋭い瞳に光がないからだ。全身からは殺意さえ漂っている。
美しく整った顔が、美しく笑っていて、それが何よりも恐ろしい。
「我が姫は、わしだけのものじゃ」
私の声帯が震えて、勝手に声がでる。
「黙りなさい。彼女はただの人間です。何も知らない人に手を出さないでもらえますか」
「知らないことの何が悪い」
「知らないほうが幸せなこともあります。知ったが最後、こちらに巻き込まれる」
「巻き込まれるも何も……我が姫こそ全ての根源。巻きこまれたのはむしろ小僧、主の方じゃわ」
「……どういう意味ですか。言いたいことがあるならハッキリ言ってもらえますか? 僕は長話につきあえるほど暇ではないし――気長でもありませんよ」
男の姿はいつのまにか変化していた。白いシャツが雅な袴姿に。当然のように腰に携えているのは代物は刀だろうか。状況が分からない。何一つ理解できない。どうして。脳内はこの言葉で溢れかえっている。頭がおかしくなりそうだ。助けて、と叫びを上げることもできないままやり取りを眺める。
男は私に刀を向けた。切っ先は鋭く尖っている。あれに肌を切り裂かれれば一たまりもないことなど、考えるまでもない。
ああ、と心の中で声を漏らす。
夢なのに怖い。
あの刃が私を貫くのを想像すると、子供のように泣き出しそうになるほど恐ろしくて、這いずってでも逃げたいのに、やはり身体は動いてくれなくて。これは夢なのだと理解していても恐怖は底なしで、ますます膨れ上がっていくだけだ。
男は恐怖する私をなだめるように呟く。
「……大丈夫です、安心してください。あなたはじっとしているだけでいい。あなたを脅かす鬼は僕が斬り伏せます」
大胆に、横一文字。
刀が三日月の軌道を描く。銀色がひらめいた。
私の身体はとっさに後ろに飛んだ。すれすれで避ける。追撃もまたかわした。ステップを踏むようにリズムカル。しかし余裕は感じられない。自分とは、ましてや人間の身体とは思えない跳躍力だが、どこかぎこちない動きであった。
「くそ、身体がまだ馴染んでおらぬか」
「なるほど……では今のうちに1度斬ってみますか」
「はっ、やめておけ。この器ごと葬ることになるぞ。――それとも同族殺しが得意か?」
「馬鹿なことを。加減くらいしますよ」
とある月が綺麗な夜だった。
私の身体は乗っ取られ、見知らぬ男に斬りつけられた。