3.衝突-獣-血
この空気、肌を切り裂くような気配。飛来する矢の如き鋭い気配。
人、人、人。この人ごみの中から一つの影が勢いよく飛び出してくるのが見えた。
アカナが見た。と思った次の瞬間、影は彼の眼前まで迫っていた。
これは、殺気。
アカナは自分の目の鼻の先で、影がニヤリと笑うのを見た。攻撃型の術での迎撃は不可能。素の体術で回避などもってのほか。
アカナは反射的に両腕を交差させ、防護魔術で体を覆う。
瞬く間も与えられずに衝撃はアカナの側頭部を襲った。骨の芯まで響くその上段蹴り。脳みそがぐらぐら揺れる感覚。しかし、防御魔術のおかげもあり、何とかその場に踏みとどまる。
まさか、参加者の一人か。
蹴りの勢いのまま、腰を深く落とし、次の行動へと移ろうとする人影を見ながらアカナは思う。
駄目だ。相手も事もよく分からないと言うのに、むやみやたらに交戦する必要はない。揺れる脳みそで、ジリジリと焦りに焦がさせる頭で、何とか結論を出す。
「待……」
足元にしゃがみ込んだ影に呼びかけようと口を開く、しかし、その時にはすでに影はそこには存在しない。
隠そうともしない殺気はアカナのすぐ後ろに回っていた。
速い。俺よりもはるかに。
舌打ちをしながら振り返るアカナ。すぐそばまで迫りくる拳。このタイミングでは体は反応しようがない。しかし、頭は別だ。奇襲直後であるのならともかく、すでに魔術の式は組みあがっている。
――斑の紐、緋色の紐。
呪文が出来上がっていれば、わざわざ口に出す必要はない。発音し、自分の耳に届かせることによって想像力は上昇し、魔術の精度は上がるものだ。しかし、今のような突然の襲撃の際には精度になど拘ってはいられない。
アカナが脳内で呪術を唱えたとたん、彼の腕に一筋の亀裂が入る。そしてそこから数本の血で出来た赤い紐状の何かが這い出る。
これは人影の攻撃で出来た傷ではない。アカナは自分の体の中に流れる血を操り、紐状に変化させることで影を拘束しようとしているのだ。
迫りくる拳へ、その腕へ、はじけ飛ぶように血の荒縄は向かっていく。
「んなっ」
予想外の展開。驚きの声。獣じみた影に初めて感情じみたものが見えた。
不思議な話だが、アカナはここに来て目の前の相手が狂った野獣の類ではなく、体術を極めた人間だと言う事を認識した。
影が驚いている間に荒縄は拳から腕へ、腕から上半身へ、上半身から下半身へと次々に縛りあげていく。
よし、なんとか間に合……
「カア!」
息もつかせぬ攻防も終わったかと、文字通り一息ついたアカナの安堵した顔が苦痛にゆがんだ。獣めいた叫び声と共にアカナの呪縛は振りほどかれてしまう。その怪力に驚く間もなく、影の拳はアカナの腹部に見事にめり込んでいる。あまりの痛みに耐えられず、アカナはそのまま後方へと倒れてしまう。
「カカカ。最初の一撃で決まると思っていたがな。どうにもこうにも、攻撃は決まってるのにクッション越しに殴ってる感覚しかしねえ。お宅、何もんだ。って言うか創庭会の参加者だよな」
影の正体は少年だった。まだ十五、六といった所の幼い少年。健康的に焼けた肌。碌に手が入れられていないだろうぼさぼさに伸びた髪。獣じみた行動パターンと、熟練のそれを感じさせる体術。少年の姿からはそのどれも感じられない。ただのやんちゃな学生といった所が妥当だろう。
また、服装は黒いシャツにジーンズと言ったこの世界ではごくありふれたものを使っているものの、その言葉からまた別の世界から来たのであろうことは確実だ。
さらに。
アカナははっきりと理解する。
少年の姿には一つはっきりとした違和感、異変のようなものがあった。
「間違ってたら謝るが、まともな人間が俺の攻撃に耐えられるわけがねえ」
そう言って軽やかに笑う少年の姿は、周りの背景から微妙にずれていた。少なくともアカナの目にははっきりとそう映っていた。
まるでレベルの低い合成映像のように、コラージュ作品の様に、少年自体の存在感が視覚的にぶれている。
本来この世界の住人でないのだから、当然と言えば当然か。あるいはあのスーツの男が参加者同士の目印にするために施した設定なのかもしれない。手を取り合い、あるいは争いあうあてが誰なのかがすぐに分かるように。祭りが停滞してしまわないように。
やはり、この少年は異世界から来た祭りの参加者。
風が吹くかのような突然の襲撃、一瞬場に沈黙が流れた。しかし、その沈黙はすぐさま破られる。蜘蛛の子を散らすように辺りにいた人々は足早々に少年から離れていく。あからさまな大声を上げるわけでもなく、何も見なかったかのように自然な足取りで、しかし誰もが厄介ごとに巻き込まれたくないと思っているのだろう、皆一生懸命この場を離れようと足を動かしている。
そして残されたのはアカナ、少年、そして驚くべきことに、先ほどまでアカナと話をしていた少女もこの場にとどまっていた。
「えっと、お姉さんは違うよな。うん。そんな匂いはしねえ。お家帰ったら?」
「警察……」
「え、何?」
「警察、呼んだから」
少女は携帯電話を片手に震えながら、それでも気丈に叫ぶ。
「ん?」
「待、て。俺に敵意はない」
ゆらゆらとアカナはその場に立ち上がる。と言ってもすでに立っているのも精々な様子だったが、それでも頭の中では様々な魔術の式を組み立ててある。
「やっぱり、足りなかったか。まあいいや、続けようぜ。先の紐みたいな奴と言い、もっといろんなことできるんだろ?」
「戦う意思はない。聞かなかったのか。これは勝者が一人しか出ない物ではない。むやみやたらに戦っても消耗するだけだ」
少年は目をつむり、うんうんと大げさに首を縦に振っているが、やがて鋭い犬歯を剥き出しにして笑った。
「馬鹿かよお宅。こんな場所に来て戦わずにいてどうするんだ。お宅も男なら分かるだろう。己があって敵がいる。これつまり戦いは必然なのさ」
少年は一歩踏み出す。
「それに、今の言葉お宅が優位に立っている時だったらまだ聞けるが、今の状況を見ろよ。どう贔屓目に見ても命乞いにしか聞こえないぜ。お宅も男なら覚悟を決めて拳を固めろ!」
叫ぶが早いか、少年が跳ぶ。それは先ほどの奇襲の時にも増した鋭さでアカナに迫っていく。
「俺の拳は絶対無敵! 盾があるなら盾ごとぶち抜くのみ」
アカナはコンマ数秒の猶予で考える。どのようにすればこの状況を打破できるか。この少年に対話は通じない。文字通り住む世界が違うのだ。せめて共通の目的でもないと横に並ぶことは不可能に近いだろう。
では、どうする。真剣を込めて迎え撃つか。この距離であれば詠唱省略呪術の発動は可能。
ギリギリまでひきつけて至近距離から喰らわせる。
もはや迷う事はない。以前の世界では黒魔術師としていくつもの命を奪ってきた。話し合いが通じないとなれば、躊躇などしない。
アカナは心に決め、右腕に力を込める。その手が魔力を帯び淡く光る。
少年は殺気をまき散らしながらコンクリートの大地を駆けていく。その右拳は岩のように固められている。
「――斑の鋼、血の貫き」
先に動いたのはアカナだった。彼は口の中で小さく呪文を唱え、右腕を軽く前へ突き出す。だらりと垂れた指先からまたもや血が滴り、一本の線を形作っていく。先ほどの呪縛と同じように思えたが、こんどのそれは切っ先が鋭く加工されている。
先は自ら意志を持っているかのように、迫りくる獣を突き刺そうとうねった。
血の鞭を見据え、この上なく嬉しそうに笑う少年。
空気を切り裂くような鋭い音。
一瞬の静寂。
全ては紙一重だった。少年の頬には一筋の血が流れている。アカナの攻撃が直撃することはなかったのだ。
対して少年の一撃はどうだったのだろうか。
「カカカ」
少年は犬歯を剥き出しにして笑う。アカナの胸にめり込んだ自身の右腕を引き抜いて。
「肋骨と背骨、心臓を粉砕した」
アカナの体がぐらりと揺れ、そのまま力なく倒れる。彼の腕から這い出る血の鞭もパラパラと乾き、やがては消えてしまった。血の主。彼の眼にもはや光は映っていない。
「まずは一人。もっと骨のあるやつがいりゃあいんだがな」
戦いに満足したのか。少年は落ち着いた面持ちで辺りを見回す。色とりどりの人々がざわめきながら、しかし、決して大声は出さずに彼のことを見ている。真正面から彼を見据えるものはただの一人として存在しせず、皆揃って斜めからそれこそ路地裏のネズミの様にこそこそと様子をうかがっている。
「どうした? 勝負はついたぜ。喜ぶなり残念がるなりしろよ。それともこの世界では野良死合は流行っていないのか? 俺の世界では息をするように行われてたんだがな。肉を喰らいあう、骨を砕きあう、殺し合い。渦巻く熱気。血と汗と泥。お宅ら、そういうの、嫌いか?」
一瞬、ザワザワと音が立つのだが、それでも我こそはと発言をする者はいない。少年の好意を咎めるでもなく、嬉しく思うでもなく、一人、また一人とその場から姿を消していく。
消え行く人々の背中を少年はただただ無言で見つめていた。その眼には侮蔑と憤りが半々で混じっているように見える。
彼には理解できないのだ。目の前にいる人間がなぜ戦わないのかを。女子供であればわかる。戦う意思があろうともその力がないことが大半だからだ。しかしあの観客の中には大の男が何人もいた。その中で何人、この自分に勝負を挑んできた?
衝撃的だった。自分が元いた世界では、こんなことはなかった。成長していくためには、悦びを得るためには、己を知るためには、そしてなにより生きていくためには力が必要だった。獣じみた暴力がなければその日の食糧にすらありつけない。拳を振るうごとに心臓は高鳴り、地を蹴るたびに肉は踊った。目に映るのは常に打倒すべき敵で、乗り越えるべき壁だった。
しかし、この世界の何とつまらない事か。
少年はすっかり冷めてしまった心で、立ち並ぶビルを眺める。そしてすぐそこに転がっている神父の格好をした男を。敵意も悪意もほとんど持っていなかった男を。その為に死ぬことになってしまった哀れな男を。
「……つまんねえところに来ちまったのかもな」
誰が決めたのかは知らないが、破壊予定地としては納得だ。そう最後に呟いて少年は路地裏の闇へと消えて行った。