2.鉄の街-出会い-柘榴石
自分の立っている場所を眺め、アカナは深くため息をついた。
予想はしていた。心構えが出来ていれば、何も驚くことではない。ないのだが。
そこは音で溢れていた。
多くの人の話し声。右から左へ左から右へと流れていく足音。そこらかしこにたちならぶビルから流れる広告の音。コンクリートの上を走っていく車の走行音。出所さえ分からないミュージック。すぐそこでは場所からは大きく口を開けた若者が甲高い声で笑っている。
先の裁判所も含め、そのどれもこれもがアカナの知らない物だった。彼のいた世界には機械や科学の類は殆ど発展していなかった。その代わりとして発展したのが魔術学なのだが。
この世にある世界は一つだけではない。自分たちのいた世界はその他大勢の一つ。半信半疑だったのだが、今いるこの世界は明らかに彼のいたそれとは違っていた。
信じるしかないか。ある程度は。
この世界が壊されてしまうのか。そしてその更地に新しい世界が創られる。しかし、この騒音や暴力的な色彩の景色を考えれば、失敗作と言うのもあながち間違ってはいないのかもしれない。こんなにうるさいと鳥や虫の鳴き声や、木々が風に揺れる音などがかき消されてしまう。
まあ、成功失敗を決める権利は自分にはない。この世界ではこれが通常なのだろう。それについて自分があれこれ口出しするべきではない。それよりも確認をしなければ。
「……血が出る。俺の体から血が出る」
アカナは周りの人間に気づかれないようにこっそりと呪文を唱える。式自体は単純なもので、アカナ自身何度も何度も繰り返し行ってきたもの。出来て当たり前といったものだったのだが、何分世界が違うのだ。魔術が正常に機能しない可能性もある。
アカナの言葉に反応するように、彼の人差し指からじんわりと赤い血が滲んでくる。
大丈夫だ。式の組み立て、呪文の発声を通しての発現。どれも今までの物と変わりない。この調子であれば呪文省略型の魔術も使えるだろう。
安心したのと同時に、わずかばかり残念に思う。もしもこの世界で今までの世界の魔術が使用できないのであれば、アイリスもまた同じく無力なはず、となれば『ホヤウカムイの書』も無効化されるだろう。そうなれば戦いも楽になったはずだ。
いや、考えても仕方がない。
自身の力も確認できた。次に行う事は自分の他にいるであろう七人の行方だな。たしかあの黒い服を着た男は「この祭りは一人が残るまで殺しあう残酷なものではない」と言っていた。ならば目標はあくまでもアイリスただ一人。そのほかの連中とむやみに争う事はあまりしたくない。早い段階で接触したいものだ。そしてアイリスのデータも集め、出来るのであれば協力も仰ぎたい。
しかし、こうも人が多いと探そうにも探すことは出来ないな。知らない土地でうろうろするのも問題になりかねない。かと言って何もせずにここに立ったきりと言うのも。
そこまで考えた瞬間、彼の腹から間抜けな音が漏れてきた。人であれば誰でも聞く空腹を知らせる音を耳にし、彼はしばらくの間食事をとっていなかったことを思い出す。
これから過酷な戦いが待っているのだろう。エネルギーは出来る限り蓄えておかなければならないな。
さて、そこで問題になるのは食料の調達方法だ。アカナのいた世界では基本的に食事処と言うものはどこにでもある施設で、ここにあるシステムとそう差はなかったのだが、それを彼は知らない。
一か八か。
「すまない。聞きたいことがあるのだが」
アカナはすぐ近くで暇そうにしていた二人組の女子学生へ声をかける。
「え、な、なんですか」
赤毛、赤い瞳、それだけでなく、まるで宗教者のような黒いローブを身にまとったアカナの姿は彼女たちには異形に映ったらしく、見るからに動揺していたが、それでも返事はしてくれた。
よし、言葉は伝わるし、聞き取れる。言語面の問題はなさそうだ。
「どこか近くで食事をとれるところを探している。出来る限り安価なものが良いんだが、どこか知らないか」
二人は身を縮込めながらも興味深めにアカナを見ている。ただ外国人じみた風貌と言うだけで珍しいのに、今の彼はどこか堅気の者ではない雰囲気を身にまとっている。彼女たちがこうなってしまうのも無理のない事だった。
「質には拘らない。本当に何でもいいんだ」
「えっと、そこのハンバーガーショップとか、どうですか五百円あれば大抵……」
「五百円? それはいくらほどになる?」
「いやあ、五百円は五百円ですよ。百円玉五枚分です。もしかして、日本円持っていないんですか?」
「……恐らく、そうだろう、な」
これは困ったことになった。多少の貨幣は持っているが、ここでは使えない。
「あ、あの私達これで、用事有るんで」
あまり長く関わるべきではないと踏んだのか二人は逃げるようにこの場を去っていった。
去りゆく少女たちの背中を眺めながらアカナは思う。
まさか、あの男。この世界の住人から無理やり奪えと言いたいのではないだろうな。やがて滅ぶ世界。参加者がどうしようが関係ない。と。
そうであれば、ふざけた話だ。そんなことをする位であればゴミでも漁ったほうがまだましと言える。
「あの、お腹空いてるんですか?」
すぐ横に少女が立っていた。線の細い娘だった。年は十八を行くか行かないかといった所だろう、健康的な顔色。ニキビ一つない肌。肩まで伸びた艶やかで綺麗な黒髪は、この世界に栄養ある食料が隅々にまで満ちている事を何よりも如実に物語っている。少女期特有の脆さと美しさが同居した目。それは誰でもないアカナを真っ直ぐに捉えていた。
貴族の娘か何かだろうか。
アカナはふと思う。
「いや、そんなことは……」
「ここに一つ、ハンバーガーがあります」
少女は紙袋から何かを取り出す。わずかながら調味料や肉の匂いが辺りに流れるのをアカナは感じた。
「お腹、空いてないんですか?」
「……実のところ、困っている」
「じゃ、どうぞ」
ずい、と少女は一切物怖じせずにアカナに手を差し出す。
変な娘だ。アカナは一瞬躊躇する。しかし、この厚意を無下にする理由はないだろう。深く礼をして、受け取ることにする。
包み紙を取ると見たこともない食べ物が姿をあらわす。アカナは一瞬面食らうが、この世界に来た以上、この世界の食べ物を食べるのは当たり前のことだ。悩んでいても仕方がない。思い切ってかぶりつく。
匂いの割に味は薄いんだな。これは、青野菜とパン、そしてひき肉だろうか。どれにしても柔らかい。歯ごたえがなさ過ぎてあまり物を食べている感覚がしない。この世界の人はあごか、あるいは消化器官が弱いのだろうか。
「その顔、微妙ですか」
「そんなことはない。助かった」
胃の中に物が流れ、体が温まる気配がする。力が満ちてくる。
「お兄さん、それ、キリスト教じゃないですよね、どこの宗教ですか」
アカナは自分の胸元を見る。黒魔術師の共通制服である、黒を基調としたローブ。獅子をモチーフとしたペンダント。なるほどこの世界でこの格好をしていると宗教者に見られるのか。彼のいた世界でも宗教や神学は存在し、信者や教徒も当然存在していたが、その手の視線を浴びたことはなかった。
「恐らく、言っても分からないような所だ」
「ふうん、じゃあ、どこから来たんですか」
「ああ、恐らく言っても分からないような遠い所から来た」
「また」
少女は愉快そうに笑う。その横顔は年相応に愛おしい。
「もしかして、私のこと何も知らないアホだと思ってませんか? 北の方からとか?」
「いや、その、少し違うな」
少女の言う「北」の意味が掴めず、曖昧な返事を返すアカナ。
「残念、私アイルランドと日本のハーフなんですよ。父がアイルランドでちょうどお兄さんみたいな赤毛」
「ほう」
「母から、困っているアイルランド人には優しく接しろ。って強く言われているんです」
またもや少女が笑う。冗談なのだろう。アカナも意味が分からないなりに口元をゆるませる。その無垢な笑顔に、故郷の妹を思った。
「よく困っているとわかったな」
「分かりますよ。と言うかお兄さんすごい目立ってますから、気づいていますか? 皆見てますよ」
そう言われてアカナは視線だけで周りを軽く見まわしてみるも、道行く人たちは皆忙しそうに足を動かすばかりで、アカナのことなど眼中にないように思える。
「正面から堂々と眺めるようなことはしません。皆斜めから見るんです。ばれないようにばれないように、一瞬だけチラッとね。自分が見ていると言う事を隠しながら、でも自分だけは確実に見るんです」
「全然分からないな、まあ、それよりも礼だ」
アカナはそう言って少女に何かを投げ渡す。少女が手のひらの中を見ると、そこには小さな宝石が優雅に輝いている。深く沈んだ赤い光。アカナがお守り代わりに持ち歩いている宝石だった。
「柘榴石、大したものではないが受け取ってほしい」
ニコリともせずにアカナは言う。しかしその視線はまっすぐに少女を捉えていた。なぜだろうか、彼女を斜めから見るのは失礼にあたる。アカナは明確な根拠もなしにそう信じていた。
「いや、でも」
少女は何か言いたげな顔をしていたが、アカナは既に彼女を見ていなかった。
アカナはもといた世界では公的組織に所属する黒魔術師だった。黒魔術師の仕事は主に魔術研究と治安維持活動に分かれる。
その中、アカナは治安維持活動を主として自身の黒魔術を活用していた。彼は大抵の黒魔術師が持っているはずの、黒魔術の秘密に対する知的好奇心を持っていなかったし、また、それに見合うだけの頭脳があるとも思っていなかった。周りには優秀な魔術師がいくらでもいたし、研究は彼らに任せておけばよいと考えていた。その分、自分は秩序を守る。彼はその為に黒魔術を使う事をためらったことはなかった。それどころか誇りにしていた節すらある。
様々な敵と戦った。野生の獣、野党や盗賊、悪鬼や魔女の類、はたまた同じ黒魔術師と戦ったことも一度や二度ではない。
アカナの肌にその時の感覚が伝わってきた。戦いを知らせる気配を。敵意を。殺意を。シグナルを受けてアカナの意識が戦闘態勢に入る。
そこにいる。
アカナは人ごみの中にある一つの敵意を察し、スーツの男が言う所の「祭り」が始まったことを理解した。