攻防戦 その3
よし、今日はこのネタでいこう、と奈々枝はほくそえんだ。
いつも通り、15時過ぎ。心臓に悪い呼び鈴がなり、藤堂が顔を出した。
そうして晩御飯やあれこれちょっとした世間話をするのもいつものこと。
それがひと段落してから、朝から仕込んでおいた水出しアイスティーを飲み、奈々枝はよし、と切り出した。
「ところで、だ。毎日、藤堂はここにきてるだろ?」
「巽でいいってば」
「呼び方はともかく、わたしはひきこもりたい。ひきこもることで健康で文化的な最低限度の生活を送りたいと考えている。ところが、だ。藤堂はそれを邪魔している状態だ。ということはつまり、藤堂の行動は憲法違反、というやつだな」
うん、我ながらなかなかいいことを言った、と奈々枝は思ったが、そもそもひきこもることが健康で文化的な最低限度の生活といえるのかどうか不明である。
「憲法は我が国の最高法規だから、国民はそれを遵守する義務がある。しかし、藤堂は今のところそれを守っていない状態だから、ここに来ることは許されないというべきだ」
「うーん、奈々枝さん。話を難しくしたいのかもしれないけれど、そもそもその健康で文化的な最低限度の生活は憲法25条でしょ?あれってプログラム規定説とかで具体的権利性を持たないんじゃなかったっけ?ついでにいうと、僕と奈々枝さんはどっちも私人だから、憲法の適用はないと思うよ。確か私人間効力とかいう問題だよね」
「むっ」
若干、旗色が悪くなるのを感じたが奈々枝はひるみそうになった自分を叱咤して、なお言葉を紡いだ。
「確かに、わたしと藤堂は互いに私人であるから憲法が直接適用されるわけではないが、間接的に適用されることは間違いない。とすると、私人間で適用される一般法は民法だから、民法の一般条項に基づいて憲法適合性は判断されるということだ。民法90条によると、公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする行為はしてはならん、と規定してあるから、藤堂がここに来るのもいかん、というわけだな」
「奈々枝さん、条文は正しく理解しようよ。民法90条は公序良俗に反する事項を目的とする法律行為が無効なだけで、僕が奈々枝さん家に来るのは別に法律行為じゃないでしょ?だったら無効も何もそもそも90条の適用はないよ。それに」
と、そこで藤堂は一度言葉を切って、にこりと笑った。
「私人間において憲法が適用されるか、について間接適用説だと今までいわれてきたけど、本当は無効力説なんじゃないか、っていう説が今は有力なんじゃなかったっけ?」
「うっ」
今度こそ、奈々枝は何も言い返すことができなかった。
頭のなかはパニックである。
なんで高校生が私人間効力とか間接適用説とか知ってるんだ!無効力説が台頭してきたのはここ最近のことだし、憲法学会だぞ?普通の高校生は憲法の学説なんぞ知らないだろ!
さらに追い打ちをかけるように、藤堂は続ける。
「奈々枝さんが参考にしてるのって三菱樹脂事件判決だよね?結構古いよね」
なんでおのれは事件名まで知ってるんだ、と奈々枝は激しく心の中だけで突っ込んだ。
私人間における憲法の適用について激しく争われたのは確かに、三菱樹脂事件と言われている事件で、下手すると藤堂が生まれる前の判決だ。
大学生らしく、難しい言葉だとか理論を出して煙に巻いてやろうと思っていたのに、これでは台無しではないか。というか藤堂は本当に高校生なのだろうか?高校生で私人間効力が、なんていう人間胡散臭くてたまらない。
奈々枝の胡散臭いものを見るかのようなまなざしに気付いたらしい藤堂は、何を疑っているのか知らないけど、と言った。
「何を疑っているのか知らないけど、僕はれっきとした高校生だよ。私人間効力とかはちょっと憲法で調べたいことがあって、それでつい最近読んだことがあっただけ。私人間効力ときたら三菱樹脂事件は絶対出てくるでしょ?」
「それはそうだが。というか、高校生が憲法を調べるとかいうのがまず信じられん!」
「そこからなの?いや、僕だって調べたくて調べたんじゃなくて、授業でそういうのがあったんだよ?」
「憲法とかいう授業はないだろう」
「ないけど。そういうのじゃなくて、奈々枝さんのときはなかった?総合学習とかいうやつ。あれだよ、あれ」
「そういわれてみれば、なんかよくわからない調べもの学習というやつがあったかもしれん。でも憲法とかそんな難しいのではなかったぞ?」
「うちは一応進学校ですから。そういう難しいことだってやってますよー、ってアピールしてるわけ」
ね、と藤堂は笑うがいまいち信用ならない。それに、仮に高校でそういう授業をやっていたとしても、私人間効力なんてマニアックな問題は取り上げないのではないだろうか。
そういう問題を取り上げるには教師陣がある程度、知識があるか、下準備をしておかなければ、生徒たちが調べたことが正しいとはわからない。さすがに間違いがあるような場合は教師陣はそれを訂正する必要だってあるだろう。
なおも不信の目で藤堂を見る奈々枝に、藤堂はそんなことより、と言った。
「とりあえず、僕らが私人間効力とかについて学んだかどうかは置いといて、結局さ、奈々枝さんは憲法25条が云々というけれど、僕と奈々枝さんは私人同士だから憲法の適用はちょっと難しいし、ひきこもりが健康で文化的な生活だ、っていうのは難しいと思うんだよね。そうなると、別に僕のやってることは憲法違反でもなんでもないってことだよね?」
にっこりと笑う藤堂。その笑顔が胡散臭いのだと奈々枝は思うけれど、藤堂の言うことはもっともでもある。
しぶしぶ奈々枝がそうだな、と返すと、ふふ、と藤堂は嬉しそうに笑った。
「嬉しそうだな」
「うん。そりゃ嬉しいよ。偏差値とか模試とか関係ない話ができるのも面白いけど、これでまた奈々枝さん家に来ることができるんだなー、って思ったら喜ぶでしょ?」
「そういうもんか?」
「そういうもんです」
「ふむ」
とにもかくも、またもや藤堂の勝ち。
芦部信喜『憲法』第四版(高橋和之補訂版、岩波書店)と憲法判例百選(ジュリスト、有斐閣)を参照しました。
なんか最後がぶった切った感じで終わってますが、もしかしたら書き直すかもしれません。
ついでに、三菱樹脂事件判決は高校生だと現代社会の資料集なんかには載ってるっぽいです。