ひきこもりの思惑
「間違い、か。ならなんでナナは俺と寝たわけ?」
有志の言葉に奈々枝は重いため息を吐いた。
「聞きたくもないくせに、聞くな。そうやって聞きたい言葉だけを引き出そうとするから引きずるんだ」
「手厳しいね」
奈々枝は有志をちらりとにらむと、部屋の一角を占領している本棚から一冊だけ抜き出すと、読まずに机の上に置いた。
そうして思い出すのは、過去だ。まだ有志も奈々枝も高校生だった頃。奈々枝が有志と寝たのはしとしとと雨の降る六月のことだった。
あの日だけでなく、それ以前から有志は精神的に参っていた。
有志は兄真樹の彼女である由梨絵にずっと片思いをしていた。由梨絵と真樹、それに有志は幼馴染のようなもので、真樹と由梨絵は高校に入ったのをきっかけに付き合い始めたらしかった。
いつから有志が由梨絵を好きだったのかはわからない。奈々枝には興味もないし、付き合いもなかったからだ。奈々枝が由梨絵を直で知ったのは、高校に入ってのことだった。
当時から、どちらかというとインドア派な奈々枝だったが、体を動かすこと自体は嫌いではなかったし、中学時代からずっと陸上をやっていたので、高校でも迷わず陸上部に入った。そして陸上部のマネージャーだった由梨絵と仲良くなったのである。
有志としては相談できるのは奈々枝しかいなかったのだろう。真樹や由梨絵のことをよく知っていて、かつ有志を甘やかしてくれる年下のいとこ。当時すでにピアニストとして注目され始めていた有志は、友人が少なかった。音高に進めばよかったのに、かたくなにそれは嫌だと言い張った有志は、真樹のいる進学校、つまり奈々枝と同じ高校に入っていた。有志が高校を決めたとき、不思議に思わないわけでもなかったけれど、思春期らしいなにか理由があるんだろうと勝手に納得していた。実際のところ、その理由は正しかったのだけれども。
有志は、由梨絵が真樹と付き合い始めたのを知っていた。それはそうだ。三人は幼馴染な上に、真樹は有志の兄だ。わからないはずがない。それでも、近くにいたい、と有志はそう考えたらしい。
繊細なエゴイスト。
それが有志だ。奈々枝とは全く違う精神構造を持つひと。
あの日、奈々枝は有志の愚痴を聞いていた。由梨絵がどれほど素晴らしくて、どれほど有志が由梨絵を好きなのか、など。奈々枝は相槌も打たず、外を見ていた。相槌なんて有志が求めていないことなんてとっくに知っていたからだ。むしろ、奈々枝はなぜ、こうも自分が有志の愚痴を律儀に聞いてやっているのだろうか、と疑問に思っていた。ボランティア精神にあふれているとは思ってなかったけれど、案外、自分は懐が深いのかもしれない、そんなことを堂々と考えていたのである。奈々枝も若かったのだ。
奈々枝は有志のベッドに座って、外を見ていた。
有志の部屋の窓からは、家の裏手にある雑木林が見える。雑木林が近いせいで、夏場などは多くの虫に遭遇するが、それを除けば、雑木林が部屋の窓から見えるというのは魅力的だった。緑というものは落ち着くものだ。
と、有志は話しているうちに感極まってきたのか、いつの間にか泣いていた。
さすがにこれには驚かざるを得ない。奈々枝にしてみれば、恋愛ごとで泣くなんてことは本や映画のなかの話で、実際に泣く人がいるなんて思ってもみなかったのである。
とりあえず、サイドテーブルにあったティッシュの箱を渡し、顔を洗ってくるように告げると、有志はこくん、と頷いて部屋の外へと出て行った。なんとなくそのことに安堵する。
部屋に有志が再び戻ってきたとき、幾分かさっぱりした顔をしていたので、涙を流すというのも有効な手段なんだな、と奈々枝は思ったものだ。なのに、押し倒されるとは。
押し倒されて反撃行為に出なかったのは、ひとえに面倒だったし、別にいいか、と思ったからだ。奈々枝はよく人とずれていると言われるが、貞操観念についても彼女はちょっとずれていた。
一度寝てしまえばずるずるいくものだ。
有志が高校を卒業し、本格的な活動拠点をヨーロッパに移すまでの二年、二人の関係は続いた。
「で、結局お前はどうしたいんだ?」
「どう、とは?」
「さっさと由梨絵さんをあきらめるのか、それともあきらめないのか。どっちでも別にわたしは構わんが。うちに来た理由もさっさと話せ」
「久しぶりに会いたかったから、じゃダメなのかな?」
「駄目に決まっているだろう。本心でもないくせにそういうことをほいほい言うからいかんのだ」
「じゃあどうしろと?」
「逆ギレするな。鬱陶しい」
まるで虫けらを見るかのような目つきに、有志はひるむ。昔からこの年下のいとこには勝てたことがない。相談相手が年下なんてなんだか微妙だけれど、有志のことをよくわかってくれ、かつ、無限ループする愚痴を相槌一つ打たず、静かに聞いてくれるのは、この年下のいとこしかいないのだ。
「あきらめるにはどうしたらいい?」
「新しい恋でもすればいいんじゃないか?そもそもそれをわたしに聞くのは間違っていると思うぞ。初恋もまだなんだから」