北の森
一夜を宿で過ごし、空が白みかけた頃。私はアイラーの背に跨ると、昨日の賑々しさが嘘みたいにひっそりとした王都を後にした。寺院からの始業の鐘も鳴らないうちに頑丈な街門をくぐり、野を駆けてゆく。
目指すは、北の森。
道は知らずともアイラーの足が示す場所がきっと、私の望む場所だと信じてる。時を待たずして陽も目を覚ます。山並みの向こうに、世界の光を見た。
体を冷やす風も幾分かは和らぎ、アイラーの白銀の鬣を踊らせて、ただ綺麗だった。揺れて流れていく景色。草原を越えて、まるで時を駆けていくような、そんな感覚さえ抱くのは秀でて俊足の黒馬の力なんだろうか。
進もう。彼の背に、私のすべてを託して。
太陽が昇りきって頭上で輝きだした頃にはアイラーは走りを歩みへと移し、激しかった上下の揺れも緩やかなものになった。
同時に視界も変化をみせ、原っぱを駆けていたはずなのに……いつの間にか鬱蒼とした森に私とアイラーは囲まれていた。
「ここ……?」
そうだ、きっと。
ここが、この森が、宿屋のおじさんが言ってた“北の森”だ。今までとは空気が段違いだもの。
私よりも遙かに背丈の高い木々が、無限とも思えるほどに森の奥まで続いている。まるで鏡の中に迷い込んだみたいだと、思った。
なんだか少し肌寒いような気もするし、昼間だというのに暗い……感じがするのは、人っ子一人いなくてアイラーの蹄の音しかしない静寂の空間がそう錯覚させてるだけなんだろうか。
時折吹く風に葉が擦れ合って立てる音が悪魔の笑い声のように聞こえて、本当に不気味な森だ。奇妙な噂がたつのも、誰も立ち入りたがらないのもわかる気がした。
森全体が生きてるというか、意志を持ってる。そんな印象を受けた。正直ここにいたくないし、できれば引き返したい。
だけどアイラーは立ち止まらないし、進めば進むほど“彼”に近づいていってるのは確かだと思う。
弱音を吐くのは早すぎる。怖くても逃げちゃいけない。まだ、会ってもいないんだ。私には守らなきゃいけない、大事な命があるんだから。
それに……この賢い馬が指す道が間違ってるとも思えない。大丈夫、悪魔や魔物なんてこの世にはいない。そうでしょ?大丈夫よリズ!
と自分で自分を励ましてると、不意に黒い物体が右手の茂みから飛び出してきた。
「ぎ、ぎょえええええええええええ!!!」
森に響き渡る、大絶叫。さらには山びこみたいになってぐわんぐわん共鳴してるけど、そんなことはどうでもいい。
とにかく唐突すぎてしかも気味悪い場所に一人きりでいる不安感から、乙女らしからぬ悲鳴をあげてしまった!
「ん?……猫?」
しばらくパニくっていたものの、よくよく目をこらしてみれば。
「あれ、もしかしてキミ、二日前に私の家に来た猫ちゃんじゃないの?」
私とアイラーの行く手を阻むかのように真ん前でちょこんと座っているのは、一匹の黒猫だった。鋭い目付きに、瞳は黄金の月を嵌め込んだような琥珀色。毛も黒く光沢を放ち、艶々だ。
どことなく高貴さを漂わせるその黒猫こそ、私が故郷の村を出てはるばる遠方の地であるここまでやってきた“理由”。
一昨日の夜この猫が一枚の紙をくわえ、私の生まれ育ったフルール村に現れたのだ。その紙に記されていた内容は、誰かが奉公人を必要としているというものだった。字がある程度しか読めない私には、それ以上詳しいことはわからなかった。
奉公人を雇うということは裕福な人物に違いないし、貴族だと勝手に思い込んでいた。何だって良かったんだ、生きていくためのお金が手に入るなら。貧しい我が家にはどうしても必要な物。
だから、その時頭の中で聞こえた『誰かの声』に導かれるまま、私はフルール村を旅立った。
「ねえキミ、“彼”はやっぱりこの森にいるのね?」
一昨日の黒猫がいるのだから、きっとそうだ。だって雇い主の使者だもの。
じっと私の顔を品定めするみたいに見つめてくる黒猫に、少し身を固くしてしまう。可愛いんだけど目力が凄いわ。
やがて猫は私からアイラーへと眼差しを向け、まるで彼と目で会話をしているようだった。
何やら確認し終わったのか黒猫は私達に背を見せ、歩き出したのだ。ついてこいと言わんばかりに。アイラーもそれに続く。
いよいよ“彼”との対面の時が、迫ってきた。