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「馬の面倒を見るだけの女は王宮にふさわしくない」——騎士団の軍馬が、一頭残らず戦場で倒れた

作者: 歩人
掲載日:2026/04/29

 これは、後から聞いた話だ。


 なぜ馬が動かない。

 カスパル様は手綱を引き、愛馬の腹を蹴った。三度、四度。だが馬は前脚を震わせるばかりで、一歩も進まなかった。

 国境の平野に土煙が立ち上っていた。隣国ヴェステンラントの騎兵隊が突進してくるのが見えたという。数にして五百。対するグランヴァルト王国の近衛騎士団は三百——いや、馬上に残っていたのは、もう五十にも満たなかった。

 残りの馬は、膝を折って倒れていた。


「副団長! 馬が立ちません!」

「こちらも……蹄がぐらついて!」


 悲鳴のような報告が次々と上がる。

 三百頭の軍馬のうち、まともに走れる馬がほとんどいなかった。蹄鉄は緩み、脚は腫れ、痩せ細った体は鎧の重さに耐えられなくなっていた。

 カスパル様は馬の首を叩いたそうだ。


「立て……立てっ!」


 馬は震える鼻息を吐いただけだった。濁った目がカスパル様を見上げていた。かつてはもっと力強い眼をしていたはずだ。毛並みも、もっと艶やかだった。

 ——答えはもう、この城にはいない。

 そのとき、カスパル様はようやく気づいたのだという。

 あの女が——わたしが、何をしていたのか。




 二年前のことだ。

 わたしが王都を追われた日のことを、今でもよく覚えている。


 近衛騎士団の厩舎きゅうしゃで、わたしはいつも通り朝の巡回をしていた。三百頭の軍馬、一頭ずつ脚を持ち上げてひづめの状態を確認し、目の輝き、毛並みの艶、呼吸の深さを見る。わたしにとってはそれが朝の挨拶のようなものだった。

 六番厩舎のゼフィール——気性が荒くて誰にも懐かない黒馬——の右前脚が、わずかに熱を持っていた。蹄鉄のミリ単位の狂いが、関節に負担をかけ始めている。放っておけば三日後には跛行はこうが出る。

 わたしは道具箱から蹄鉄鋏ていてつばさみを取り出し、ゼフィールの脚を膝に載せた。


「おはよう、ゼフィール。ちょっとだけ我慢してね」


 馬はわたしの声に耳を傾け、大人しく脚を預けてくれた。この子は誰にも触らせないのに、わたしにだけは例外だった。二年前、ゼフィールが新馬として厩舎に来た日から、毎朝わたしが最初に声をかけてきた。馬にとって「最初の声」は母馬と同じだ。だからゼフィールはわたしの手を母の舌のように信じている。

 蹄鉄を外し、蹄底を削り、新しい蹄鉄を焼いて合わせる。ミリ単位の調整を、指先の感覚だけで行う。蹄の形は一頭ずつ違う。左右でも違う。季節によっても変わる。冬は蹄が硬くなるから鉄は少し広めに。夏は湿気で膨らむから気持ち締めて。だから既製品では駄目なのだ。一頭ずつ、その日の蹄に合わせて焼き直す。

 この作業を三百頭分、わたしは一人でやっていた。


「——おい」


 背後から声がした。振り向くと、カスパル様が厩舎の入口に立っていた。磨き上げた鎧が朝日を反射して眩しい。その鎧に藁の一本もついていないのが、この人がどれだけ厩舎から遠い場所にいるかを示していた。

 その隣に、見知らぬ女性がいた。柔らかな巻き毛に花の髪飾り。甘い香水の匂い。社交界の令嬢だとすぐにわかった。


「カスパル様、おはようございます。ゼフィールの蹄鉄を——」

「やめろ」


 カスパル様の声は冷たかった。隣の女性の手前、いつもより声を張っている。


「馬小屋臭い女を連れて夜会に出られるか。俺は近衛騎士だぞ。婚約者がこんな……馬の糞まみれの女だと知れたら、笑い者だ」


 隣の女性がくすりと笑った。口元を扇子で隠しながら、わたしの泥だらけのエプロンを見下ろしていた。

 わたしは手を止めた。確かに、わたしの指先には薬草と馬の匂いが染みついている。爪の間には蹄を削った粉が残っている。髪には藁が絡まっていることもある。朝から晩まで厩舎にいるのだから当然だ。

 でも、それが何だというのだろう。


「馬の面倒を見るだけの女は、近衛騎士の妻にふさわしくない」


 カスパル様はそう言い切った。


「婚約は破棄する。今日中に荷物をまとめて出ていけ」


 カスパル様の家は子爵家で、わたしの実家は騎士爵——格上の家から破棄を宣告されれば、異を唱える立場にはない。

 わたしは何も言い返さなかった。言い返す言葉を持っていなかったのではない。ただ——カスパル様に何を言っても届かないと、とうに気づいていたからだ。

 この人はゼフィールの蹄鉄が何ミリずれているかを知らない。飼料に混ぜる薬草の配合が季節ごとに変わることを知らない。三百頭の軍馬の名前すら、半分も覚えていない。

 知ろうとしなかった。わたしが何度、馬の話をしようとしても、「そういう話は食事の席でするな」と遮られた。


「……わかりました」


 わたしはゼフィールの蹄鉄だけは仕上げてから、道具箱を持って厩舎を出た。

 振り返ると、ゼフィールがわたしを見ていた。柵から首を伸ばして、わたしの背中を追っていた。黒い瞳が、行くなと言っているように見えた。

 隣の厩舎でも馬たちが騒ぎ始めた。蹄を鳴らし、鼻を鳴らし、落ち着きなく首を振っている。毎朝わたしの足音で目を覚ましていた馬たちが、その足音が遠ざかっていくことに気づいたのだ。

 三百頭の馬たちに、さよならを言えなかった。それだけが、心残りだった。




 馬医というのは、見えない仕事の塊だ。


 わたしが毎日やっていたことを書き出すと、たぶん誰も信じないだろう。

 まず朝の巡回。六つの厩舎を順に回り、三百頭の中から異常のありそうな馬を選び出す。全頭を毎日精密に診るのは物理的に無理だ。だから歩き方、目の輝き、呼吸音——通り過ぎるだけで異変を察知する目を、父に叩き込まれた。週に一度は全頭の脚を持ち上げて蹄鉄を確認する。蹄鉄の交換だけでも一頭あたり半刻かかる。異常が見つかれば即座に処置する。これだけで朝から昼過ぎまでかかる。

 昼からは飼料の仕事だ。季節、気温、湿度、各馬の運動量、体重の増減——それに応じて、飼料に混ぜる添加物を変える。夏場は脱水を防ぐ塩と鉄分を増やし、冬場は脂肪分を多くして体温を維持させる。行軍前には持久力を高めるために燕麦の比率を上げ、訓練後には筋肉の回復を促す薬草を加える。

 さらに疫病予防のために、父から受け継いだ秘伝の薬草配合を加える。七種の薬草を季節ごとの比率で混合するのだが、この配合は門外不出だ。わたしの父が軍馬管理官として半生をかけて完成させ、わたしに口伝で受け継がせた。

 帳簿には残していない。頭の中にしかない。

 なぜ書き残さないのかと聞かれたことがある。答えは簡単だ——配合は生き物だからだ。今年の夏と去年の夏では気候が違う。馬の体調も違う。帳簿に書いた数字は固まってしまう。わたしの頭の中にある配合は、毎日少しずつ変わる。馬を見て、空を見て、水を触って決める。それが口伝の意味だ。


 そして出産介助。軍馬の繁殖は騎士団の存続に直結する。良い軍馬を育てるには、母馬の体調管理から始まる。交配の時期の見極め、妊娠中の飼料調整、難産への対応——真夜中に厩舎に駆けつけることも珍しくなかった。

 仔馬が逆子で出てこない時、腕を差し入れて向きを変える。母馬の体温と仔馬の心臓の鼓動が、わたしの腕に直接伝わってくる。あの温かさと、無事に生まれた仔馬が最初に立ち上がった瞬間の震えは、何度経験しても胸が詰まる。

 三百頭の軍馬のうち、わたしが取り上げた仔馬は百二十頭を超える。その全ての顔を覚えている。


 こうした仕事は、馬が健康に走っている限り、誰の目にも見えない。

 蹄鉄が完璧に合っていれば、騎士は「馬がよく走る」としか思わない。飼料配合が正しければ、馬は疫病にかからないから、誰も予防の苦労を知らない。仔馬が無事に生まれれば、「今年も良い馬が揃った」で終わる。

 見えない。だから、「馬の面倒を見るだけ」と言われる。

 面倒を見るだけ——その「だけ」が止まった時に何が起きるか、カスパル様は想像したことがなかったのだろう。




 王都を追われたわたしは、当てもなく東へ向かった。

 馬車も雇えなかった。父は三年前に亡くなっている。実家の領地は遠縁に引き継がれていた。頼れる人はいなかった。

 辺境のリンデン地方に着いたのは、徒歩で三日後のことだ。街道沿いの宿で最後の銅貨を使って一晩休み、翌朝、牧場を探して歩いた。馬のいるところでしか、わたしは生きていけない。

 クラウスさんの牧場を見つけたのは、偶然だった。

 柵の向こうで、一頭の栗毛馬が横たわっていた。呼吸が浅い。腹部が膨張している。疝痛せんつうだ。放っておけば数時間で死ぬ。

 わたしの体は、考えるより先に動いていた。


「——すみません!」


 柵を乗り越えて駆け寄った。

 大柄な男が馬の傍に膝をついていた。日焼けした肌に、栗色の無造作な髪。深い緑色の目が、驚いたようにわたしを見た。大きな手が、馬の首を撫でていた。なすすべもなく、ただ寄り添うことしかできない——そんな手だった。


「誰だ、あんた」

「馬医です。この子、疝痛を起こしています。今すぐ処置しないと——」


 説明している暇はなかった。わたしは道具箱を開き、腹部の聴診を始めた。耳を腹壁に当てる。腸音が消失している。腸が捻れている。時間がない。

 わたしはクラウスさんに指示を出した。馬の体位を変えること。温かい布で腹部を包むこと。薬草を煎じる水を用意すること。

 初対面の、名前も知らない男だ。それでも、わたしの声は馬の前では迷わない。

 クラウスさんは一瞬だけわたしを見つめた。道具箱を開く手つきと、馬の腹に耳を当てる所作——それだけで、わたしが素人ではないと察したのだろう。何も聞かず、黙って従ってくれた。わたしが「左に転がして」と言えば力強い腕で馬の体を支え、「ここを温めて」と言えば即座に布を持ってきた。余計な質問はしなかった。馬が苦しんでいる時に、言葉は要らないと知っている人の動き方だった。

 二時間の処置の末、栗毛馬は静かに立ち上がった。鼻先でわたしの手を嗅ぎ、ふうっと温かい息を吹きかけてきた。

 助かった。


「……助かったのか」


 クラウスさんの声が震えていた。あんなに大きな体の人が、声を震わせている。この人にとって、この馬がどれだけ大切な存在かがわかった。


「はい。ただ、三日は安静にしてください。飼料も変える必要があります。繊維質を増やして、穀類を減らしてください」

「あんた……名前は」

「ブリギッテです」

「ブリギッテ……か」


 クラウスさんは大きな手で栗毛馬の首を撫でた。それから、ぽつりと言った。


「行くところがないなら、ここにいればいい。馬も、あんたも」


 不器用な言葉だった。でも、温かかった。

 カスパル様の「ふさわしくない」とは、正反対の言葉だった。




 クラウスさんの牧場には、十二頭の馬がいた。

 王都の三百頭に比べれば小さな群れだ。けれど、一頭ずつの顔がすぐに覚えられる。名前も、癖も、好きな飼料も。ルッツは人参を丸呑みにする癖があるから小さく切ってやる。グレーテルは右後脚をかばう癖があるから蹄鉄を少し厚めにする。フリッツは臆病で雷が鳴ると暴れるから、嵐の夜は傍にいてやる。

 わたしは牧場の馬の健康管理を任せてもらった。報酬として、納屋の二階の小さな部屋をもらった。窓から牧場が一望できる、朝日が差し込む良い部屋だった。


 最初の仕事は、全頭の蹄鉄の調整だった。辺境では蹄鉄を作れる鍛冶師が少なく、どの馬も既製品の蹄鉄を無理に履かされていた。合わない靴を履き続けているようなものだ。関節を痛めている馬が三頭もいた。

 わたしは一頭ずつ蹄の型を取り、鍛冶場を借りて蹄鉄を作った。クラウスさんが炉の火を起こすのを手伝ってくれた。火加減を見ながら、わたしは鉄を叩いた。


「そんな細かい調整、いるのか」

「ミリの違いで、馬の歩き方が変わるんです。合わない蹄鉄は、膝を壊します」

「……そうか」


 クラウスさんは寡黙な人だった。でも、わたしが馬の話をすると、黙って聞いてくれた。時々、短く相槌を打って。それが心地よかった。

 人間相手だと言葉が出てこないわたしだけれど、馬の話なら何時間でも喋れる。蹄の構造がいかに精密か、飼料の配合がどう馬の体に影響するか、季節の変わり目に気をつけるべき病気は何か——話し出すと止まらない。

 クラウスさんはそのことを笑わなかった。むしろ、真剣な目で聞いてくれた。


 牧場の馬たちの体調は、二ヶ月で見違えるほど良くなった。毛並みに艶が出て、走りに力強さが戻った。関節を痛めていた三頭も、蹄鉄を変えてからは跛行が消えた。

 噂は辺境に広がった。リンデン地方の領主から、脚を引きずっている愛馬の治療を依頼された。診察すると蹄鉄が合っていないだけだった。調整してやると、翌日には普通に歩けるようになった。領主は目を丸くしていた。

 隣の村からも依頼が来た。その隣の村からも。荷馬車の馬が痩せていく原因がわからないという農夫には、飼料の配合を教えた。難産で母馬が弱っているという牧場主には、夜通し付き添って仔馬を取り上げた。

 行く先々で、馬が元気になった。


「すごい馬医がいる」


 そう言われるようになった頃、わたしは初めて、自分の居場所を見つけたのかもしれないと思った。王都では「馬の面倒を見るだけの女」だった。ここでは「すごい馬医」だった。やっていることは同じなのに、見る人が違うだけで、こんなにも違う。


 ただ、順風満帆というわけでもなかった。

 ある時、隣村の農夫が怒鳴り込んできたことがある。わたしが飼料の配合を変えるよう助言した馬が、翌日に下痢をしたというのだ。


「女の医者なんか信用するんじゃなかった!」


 農夫の顔は赤く、唾を飛ばしながら叫んでいた。

 わたしは黙って馬を診察した。下痢の原因は飼料の変更ではなく、古い井戸水だった。水に混じった泥が腸を刺激していた。

 それを説明しても、農夫はしばらく信じてくれなかった。井戸水を新しい水源に変えてもらうまで三日かかった。水を変えて二日で下痢は止まった。

 農夫は謝ってくれた。次の月には、わたしに二頭目の馬も診てほしいと頼んできた。

 信頼は、一度の失敗で崩れるけれど、一度の証明で戻ることもある。大切なのは、結果で示し続けることだ。

 クラウスさんは、農夫が怒鳴り込んできた時も、何も言わずにわたしの隣に立っていてくれた。割って入ることもなく、ただ、そこにいた。それだけで十分だった。


 ある晩のことだ。

 牧場の母馬が出産を控えていた。予定日を三日過ぎても陣痛が来ない。わたしは厩舎で夜通し付き添った。藁の上に毛布を敷いて、母馬の呼吸を聞きながら横になった。

 深夜、母馬の息が変わった。ようやく陣痛が始まった。だが、仔馬の脚が出てこない。逆子だ。

 わたしは腕を差し入れ、仔馬の向きを変えた。母馬が苦しそうにいななく。大丈夫、大丈夫だからね——わたしは声をかけ続けた。腕に、仔馬の小さな心臓の鼓動が伝わってきた。生きている。この子は生きたがっている。

 長い、長い時間に感じた。実際には数分だったのかもしれない。

 仔馬がするりと滑り出てきた。

 藁の上で濡れた体が震えている。小さな鼻が空気を吸って、初めての呼吸をした。母馬が起き上がって仔馬を舐め始めた。毛についた羊水を丁寧に拭うように、何度も何度も舐めていた。

 仔馬は震える脚で立ち上がろうとしている。何度も倒れて、何度も立ち上がって。前脚を踏ん張って、後ろ脚を伸ばして。


「……生まれた」


 いつの間にか、クラウスさんが隣にいた。いつ来たのだろう。厩舎の灯りに照らされた横顔は、穏やかで、少し泣きそうだった。

 二人で並んで、仔馬が初めて立った瞬間を見た。

 細い脚が、震えながらも、大地を踏みしめた。


「あんたのおかげだ」

「いいえ、この子が頑張ったんです」

「……あんたもな」


 クラウスさんの大きな手が、わたしの手に触れた。薬草と馬の匂いが染みついた、わたしの手に。

 その手を、汚いとは言わなかった。

 仔馬は翌朝には母馬の乳を飲み、三日目には厩舎の中を歩き回り、一週間後には牧場を駆け回っていた。


「名前、どうする」


 クラウスさんが聞いた。わたしたちは柵にもたれて、仔馬が走り回るのを眺めていた。


「……ホルン」


 わたしが言うと、クラウスさんは少し考えてから頷いた。


角笛ホルンか。いい名だ」

「父が最初に取り上げた仔馬の名前なんです。父の口癖でした——『初めて取り上げた馬の名前だけは、一生忘れるな』って」

「……いい親父さんだったんだな」


 そうだ。いい父だった。馬の世話ばかりで不器用で、わたしに花の名前の一つも教えてくれなかったけれど、馬の病気の見分け方と、薬草の配合と、蹄鉄の打ち方を教えてくれた。

 それが、わたしの全てだった。




 わたしが辺境で穏やかに暮らしている間、王都では何が起きていたのか。

 後から聞いた話だ。


 わたしが去った翌月、最初の異変が起きた。

 新しく雇われた馬医——と言っても、街の獣医で馬の世話をしたことがある程度の男だった——が、飼料の配合を変えた。わたしの配合表は頭の中にしかなかったから、彼は自己流でやるしかなかった。

 疫病予防の薬草を入れなかった。そもそも、どの薬草を混ぜていたのかすら知らなかったのだ。わたしが何年もかけて調合してきた七種の薬草——その名前すら、誰にも伝えていなかった。伝える暇もなく追い出されたのだから。


 二ヶ月後、厩舎で下痢が蔓延した。

 最初は五番厩舎の数頭だった。それが隣の四番に移り、六番に移り、二週間で百頭を超えた。馬は痩せ、毛並みは荒れ、目から光が消えた。訓練に耐えられる馬が半減した。

 原因は飼料だった。わたしが混ぜていた七種の薬草のうち、特に三種——ノコギリ草と甘草とヨモギの配合が、腸内の病原菌の増殖を抑えていた。それが止まったことで、常在菌のバランスが崩壊したのだ。

 だが、新しい馬医にはそれがわからなかった。「原因不明の消化器疾患」として処理された。治療のために投薬したが、予防と治療は違う。腸内環境が壊れた後では、手遅れだった。


 次に、蹄鉄の問題が表面化した。

 わたしは三百頭全ての蹄を把握していた。どの馬の右前脚が少し外に開いているか、どの馬の蹄が乾燥しやすいか、どの馬が冬場に蹄底を傷めやすいか。一頭ずつ違う蹄鉄を焼いて合わせていた。

 新しい馬医は、既製品の蹄鉄を全頭に使い回した。「効率化だ」と胸を張ったらしい。

 半年で、脚を痛める馬が続出した。跛行、膝の炎症、蹄叉腐爛ていさふらん。一頭が跛行を始めると、その馬の分の訓練負荷が他の馬にかかる。他の馬も疲弊する。悪循環だった。まともに走れない馬が百頭を超えた。


 騎士団長が激怒したらしい。原因を追及した。

 だが、カスパル様は言ったそうだ。


「馬の世話くらい、誰にでもできる。代わりはいくらでもいる」


 代わりはいなかった。


 三番目の問題は、出産だった。

 春の繁殖期に五頭の母馬が出産を迎えた。新しい馬医は出産介助の経験がなかった。一頭目は無事に生まれたが、二頭目で逆子が出た。腕を差し入れて向きを変える技術がなく、仔馬は死んだ。母馬も衰弱して、三日後に息を引き取った。

 残りの三頭のうち、もう一頭が難産で仔馬を亡くした。

 軍馬の補充ができない。馬は一年で大人にはならない。育てるには三年かかる。失われた命は、金では買い戻せない。


 代わりがいないことに、誰も気づかなかった。わたしの仕事が見えなかったのと同じように、わたしの不在もまた、しばらくの間は見えなかった。見えた時には、もう手遅れだった。




 そして建国暦三一四年の秋、隣国ヴェステンラントが国境を越えた。


 グランヴァルト王国の近衛騎士団は三百騎で出陣した。王都を発って国境まで五日の行軍。かつてなら軍馬は何の問題もなく走り続けられた距離だ。

 だが、三日目で最初の馬が倒れた。四日目にさらに十頭。五日目には百頭以上が脚を引きずっていた。

 長距離の行軍に耐えられるだけの体力が残っていなかったのだ。疫病で痩せた体は鎧と騎士の重さに悲鳴を上げた。合わない蹄鉄は行軍の振動で蹄をすり減らし、血を滲ませた。飼料が適切でないから、走るための筋肉が育っていなかった。

 戦場に着いた時、まともに戦える馬は五十頭に満たなかった。

 カスパル様の馬も、敵の騎兵が見えた瞬間に膝を折った。

 騎士が馬から降りれば、ただの歩兵だ。重い鎧を着た歩兵は、走ることも逃げることもできない。軽騎兵の突撃を止められるわけがなかった。

 近衛騎士団は壊滅した。


 その報せを聞いた王宮は、慌ててわたしを探したらしい。

 使者が辺境のリンデン地方にやって来たのは、敗戦から一ヶ月後のことだった。


 わたしは牧場で仔馬の世話をしていた。あの夜生まれた仔馬——クラウスさんと一緒に「ホルン」と名付けた——が、元気に駆け回っている。脚が長くて、走り方に母馬の面影がある。

 王都からの使者は、丁寧に頭を下げた。


「ブリギッテ殿、王都にお戻りいただきたい。騎士団の軍馬が壊滅的な状況にあり——」

「存じております」


 わたしは仔馬の背中を撫でながら答えた。


「馬は、自分を世話してくれた人を忘れません」


 使者が息を呑んだ。


「忘れるのは、人間だけです」


 あの三百頭の馬たちの顔を、わたしは全て覚えている。名前も、癖も、好きな飼料の味も。ゼフィールは元気だろうか。きっと、わたし以外の人間には触らせていないだろう。新しい馬医の手を噛んで、問題馬扱いされているかもしれない。

 でも。


「わたしは、もう戻りません」


 使者は食い下がった。報酬は望むだけ出す。地位も名誉も。騎士団がブリギッテ殿を必要としている、と。

 報酬。地位。名誉。

 わたしが欲しかったのは、そんなものではなかった。ただ、馬と一緒にいさせてほしかっただけだ。「ふさわしくない」と言わずに、わたしの手を見てほしかっただけだ。


「あの厩舎の馬たちは、わたしがいなくなった時に助けてもらえなかった。わたしを追い出した人たちが、馬を守れなかった。それは、わたしの責任ではありません」


 使者は黙り込んだ。


「蹄鉄のミリの狂いが、戦場では命取りになるのです。それを『馬の面倒を見るだけ』と呼んだ方に、お伝えください」


 わたしはそれだけ言って、厩舎に戻った。

 ホルンが寄ってきて、わたしの手を舐めた。薬草と馬の匂いが染みついた、わたしの手を。




 後日談がある。


 カスパル様は敗戦の責任を問われた。

 いや、正確に言えば、軍馬の管理不行き届きの責任だ。馬医を追放したのはカスパル様の判断だった。「馬の面倒を見るだけの女は要らぬ」——その一言が、騎士団を壊滅に導いた。

 近衛騎士の地位を剥奪され、辺境の砦に左遷されたと聞いた。あの磨き上げた鎧を脱いで、泥にまみれる日々を送っているのだろう。社交界の夜会も、甘い香水の令嬢も、もう隣にはいないはずだ。

 聞いた話では、左遷先の砦でカスパル様は馬の世話を命じられたそうだ。蹄鉄の打ち方も知らない、飼料の配合も知らない男が、馬の世話を。皮肉なものだ。

 ようやく気づいたのだろうか。「馬の面倒を見るだけ」が、どれほど大変なことか。

 わたしには、もうどうでもいいことだ。


 辺境の牧場は、今日も穏やかだった。

 朝靄あさもやの中で馬たちが草を食んでいる。風が牧草の匂いを運んでくる。王都の厩舎とは違う、広い空の下の匂いだ。

 ホルンは一歳になった。脚が長くて、母馬に似た美しい栗毛をしている。走り方にはもう力強さが出てきた。クラウスさんは「王国一の馬に育つ」と目を細めている。

 わたしの評判は辺境中に広がって、リンデン領主から正式に「領地馬医」の称号をいただいた。辺境の馬たちが元気になると、農地の開墾も進み、交易路の輸送も改善された。荷馬車が壊れなくなれば商人が増える。商人が増えれば市場が賑わう。馬が健康であることは、領地の豊かさに直結するのだ。

 わたしの仕事は、ここでもやはり見えない。でも、それでいい。馬が元気に走っていれば、それがわたしの仕事の証だ。


 ある晩、クラウスさんと厩舎の前に並んで座っていた。星が綺麗な夜だった。牧場の馬たちは穏やかに眠っている。ホルンだけが時々首を上げて、わたしたちの方を見ていた。

 クラウスさんが、ぽつりと言った。


「あんた——いや、ブリギッテ」


 名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「馬が懐いてる。馬は嘘をつかないからな」


 不器用な言葉だった。でも、それはわたしが今まで聞いた中で一番嬉しい言葉だった。

 カスパル様は「馬小屋臭い」と蔑んだ。クラウスさんは「馬が懐いてる」と言ってくれた。同じ匂いを嗅いで、真逆のことを思う人がいる。人間の価値は、何を見るかではなく、何を見ようとするかで決まるのだと思った。

 わたしの手を取ったクラウスさんの掌は、大きくて温かくて、わたしと同じ馬の匂いがした。


「……ありがとうございます」

「何がだ」

「ここにいていいと、言ってくれたこと」

「……ああ」


 それだけの会話だった。寡黙な二人の、精一杯の言葉だった。

 でも、伝わった。馬に言葉が伝わるように、ちゃんと伝わった。


 目の奥がじわりと熱くなった。

 泣いたのは、追放された時ではなかった。

 安堵した時だった。

 ——ここが、わたしの居場所だ。


 翌朝、わたしはいつも通り牧場の馬たちの巡回を始めた。ホルンの蹄を確認し、母馬の体調を見て、新しく預かった仔馬に飼料を配合する。

 窓の外では朝日が牧場を金色に染めている。馬たちが柵の中で首を伸ばし、わたしの姿を見つけて嘶いた。おはよう、と一頭ずつに声をかける。ルッツ、グレーテル、フリッツ——名前を呼ぶと、耳をぴんと立ててこちらを見る。

 わたしの指先には、今日も薬草と馬の匂いが染みついている。

 それを誇りに思える場所で、わたしは生きている。


 振り返らなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「薬師型(専門職)× 発覚型」の王道ストーリーです。追放された専門家がいなくなって組織が崩壊する——令嬢ザまぁの中でも最もカタルシスの高い構造のひとつだと思います。ベタですが、だからこそ気持ちいい。




 こだわったのは「見えない仕事」の手触りです。蹄鉄のミリ単位の調整、季節ごとに変わる飼料配合、門外不出の薬草の配合比——全て「止まると困るけれど、動いている時は誰にも見えない」仕事です。こういう仕事をしている人は、現実世界にもたくさんいます。見えない労働の価値に気づけるかどうか——それが、人の器を測る物差しなのかもしれません。




 クラウスとブリギッテの厩舎シーンが、書いていて一番好きでした。寡黙な二人が馬を介して心を通わせる。言葉が少ない分、一言一言が重い。「馬は嘘をつかない」——これは馬を知っている人なら誰でも頷く真実です。




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 → https://ncode.syosetu.com/N3383LV/

・嘘をつくたびに頭上の数字が増える世界で〜【知略型】

 → https://ncode.syosetu.com/N3384LV/

・「お前のことは忘れる」〜【静かな離脱型 / 記憶消去】

 → https://ncode.syosetu.com/N3386LV/

・「お前の針仕事など誰でもできる」〜【裏方型 + 知略型】

 → https://ncode.syosetu.com/N3387LV/

・「教育係など誰でもできる」〜【発覚型 + 数値可視化】

 → https://ncode.syosetu.com/N3389LV/

・「本音で話せる唯一の場所」〜【知略型 + 独自設定】

 → https://ncode.syosetu.com/N3391LV/

・追放された宮廷花師が辺境の荒野に花を咲かせたら〜【実力証明型】

 → https://ncode.syosetu.com/N3394LV/

・「通訳など辞書で足りる」〜【職業特化型/通訳型】

 → https://ncode.syosetu.com/n9295lv/

・「お前がいると息が詰まる」〜【静かな離脱型×裏方型】

 → https://ncode.syosetu.com/n9299lv/

・「子守唄しか能がない女は要らぬ」〜【独自設定/睡眠管理型】

 → https://ncode.syosetu.com/N9321LV/

・辺境の食堂が王都一番の行列店になりました【実力証明型/料理型】

 → https://ncode.syosetu.com/n9325lv/

・「帳簿しか見えぬ女は要らぬ」〜【知略型×独自設定】

 → https://ncode.syosetu.com/N9406LV/

・「余計なこと」〜【静かな離脱型 × 看護型】

 → https://ncode.syosetu.com/N4574LY/

・「僕たちはフィオナ先生を選びます」〜【発覚型 × 保育型】

 → https://ncode.syosetu.com/N4577LY/

・「泣く子を黙らせるだけの女」〜【実力証明型 × NICU看護型】

 → https://ncode.syosetu.com/N4578LY/

・王立学院の入試首席は、鬼ごっこで育った辺境令嬢〜【裏方型 × 知略型】

 → https://ncode.syosetu.com/N4581LY/

・「お前のような愚鈍な女は要らない」〜【実力証明型】

 → https://ncode.syosetu.com/N7473LW/

・地図は嘘をつきません——落書きと呼ばれた測量師〜【静かな離脱型 × 職業特化型】

 → https://ncode.syosetu.com/N4586LY/

・「香水係など犬でもできる」〜【断罪型 × 嗅覚×嘘検知】

 → https://ncode.syosetu.com/n0526lx/

・「お前の演奏は雑音だ」〜【実力証明型 × 音楽型】

 → https://ncode.syosetu.com/n0689lx/

・「お前の仕事は終わった」〜【知略型 × 発覚型】

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・「お前の絵は壁の染みだ」〜【実力証明型 × 絵画型】

 → https://ncode.syosetu.com/N5317LY/

・「お前のためを思って言っている」〜【断罪型 × モラハラ記録】

 → https://ncode.syosetu.com/N5772LY/

・「病弱な幼馴染を優先してください」〜【静かな離脱型 × 知略型】

 → https://ncode.syosetu.com/N8015LY/

・「お母様のような完璧な妻になれない女は要らない」〜【断罪型 × マザコン型】

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・「脇役のお前には用がない」〜【発覚型 × 乙女ゲーム型】

 → https://ncode.syosetu.com/N8234LY/




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恋愛要素どこでしょう
馬医というアイディアはすごく心惹かれましたし、ヒロインが馬を世話している描写からうかがい知れる献身は魅力的でした。 だからこそ余計に、ラストで「私の責任ではない」と過去に世話してきた馬たちが苦しんでい…
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