第五話 境界を越えて
白い廊下。
ストレッチャーが通る。
氷の粒が、まだ床に落ちている。
担架の上、彼女は目を閉じたまま動かない。
医師の声。
足音。
扉が閉まる音。
赤いランプが灯る。
立ち尽くす雪花。
無音。
―――生きている。
分かっても、胸の奥の震えは消えない。
わたし――は、一部始終を見守っていた。
控え室。
鏡の前。
照明は白く、容赦はない。
雪花は、じっと立っている。
――ユキカ。
呼びかけた。
返事は無い。
まだ何も纏っていない身体は、どこか懐かしい。
静かに立つ姿は、あの子に似ていた。
指先が、震えている。
寒さではない。
彼女の舞が、この子の胸の奥で鳴っている。
あの拒絶。
あの意志。
生きるという選択。
雪花は、まだ目を閉じている。
母の背。
リンクの光。
氷の匂い。
触れられなかった温もり。
――あなたは、何を望むの?
瞼を開いた。
震えは、消えていない。
けれど、逃げてはいない。
「紗雪」
声はもう揺れていなかった。
「―――わたしに、纏って」
この子は、行く。
もう、止められない。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
それから私は輝く純白の衣装になって、
―――この子と、一つになった。
❆ ❆ ❆
静かな旋律。
薄明のリンク。
―――満たしていく。
氷は夜ではない。
夜を越えたあとの、やわらかな境界。
白と青のあわいに、ふたりは向かい合う。
触れれば届く距離。
けれど、まだ触れない。
一歩踏み出す。
足元の氷が淡く光を変える。
回転は柔らかい。
重なり合う息のように。
互いの軌道が、ゆるやかな円を描く。
リンクの上に浮かぶ幾何学模様は、二人だけの言語のよう。
白い光が、少しずつ増えていく。
旋律は上向きに揺れ、氷はきらめき、温度を帯びる。
腕を伸ばす。
躊躇はない。
抱き寄せる。
触れ合った瞬間、世界が静かに息を吐いた。
芽生える。
胸の奥で、小さな灯がともる。
一緒に居たい、と願う。
一緒に、生み出したい、と願う。
この胸を満たすものの名を、まだ知らない。
そう思った瞬間だった。
音が、削られ。
ひとりが消える。
唐突に。
旋律の半分が、刃物で切り取られたように消える。
光の半分が、ふっと失われる。
乱れはない。
悲鳴もない。
ただ、静かに――消えた。
伸ばした手は、空を掴み。
温もりの残滓すら、すべり落ちた。
テンポが落ちる。
残されたひとりの滑走。
円は崩れ、軌道は直線になる。
まっすぐで、しかし迷いを含んだ線。
ここで、初めて肩が震える。
ジャンプは高くない。
低く、鋭い。
空へ逃げるのではなく、氷を刺すような跳躍。
何度も、何度も。
着氷は乱れない。
けれど、氷が削られていく。
振り返らない。
視線は前へ。
それでも、刃が氷に沈んでいく。
耐える。
叫びはしない。
だが、呼吸は荒い。
速度が上がる。
手放してなるものか―――あのぬくもりを、迎えに行く。
迷いのない滑走。
速度がぐんぐん上がる。
シャッ!
跳躍。
高く。
回転。
速く。
極限は―――世界を超える。
闇が、世界を覆う。
真っ暗闇。
ぽつり……とひとり。
それでも止まらない。
もっと深い闇を、知っているから。
辿り着く。
影。
だが、光は宿らない。
手を引く。
その手は、離される。
来た道を戻れ、と。
振り向くな、と。
ひとり、出口へと向かう。
細い光。
後ろには彼女の影。
滑走は、揺れる。
―――振り向く。
闇が、真っ赤に染まる。
乱れ。
転倒。
それでも止まらない。
影が、迫る。
逃げる。
高速スピン。
氷がはじけ、桃色の結晶が舞う。
闇が、薄れる。
気が付けば、光は世界に戻っていた。
その場にへたり込む。
……さらさら。
涙。
流した涙が、凍り付いていく。
両手を広げて―――幕が、静かにおりる。
完全停止。
音が消える。
白が広がる。
―――到達する。
リンク中央。
雪花は、まぶたを開けた。
続き。
あるはずの、物語の続きを。
何度でも。
もう、振り返らない。
静寂。
辺りは真っ白で、何も見えない。
立ち上がる。
もう逃げない。
怖くはない。
願いの軌道。
祈りの回転。
氷は透明のまま、優しかった。
光。
桜が咲く。
花の下に母が立っていた。
境界を踏み越える。
物語の続きを、舞うために。
「……おかあさん」
握った手は―――あたたかかった。




