第三話 九十九と、その先
話は尽きなかった。
好き―――が、
街の赤レンガに、ゆっくり沈んでいく。
石畳を抜け、二人は静かな公園のベンチに腰を落ち着かせた。
夜風が、金と銀の髪をほどく。
リリアが、小さく息を吐いた。
「……ねえ。ユッコは、なんで氷舞を始めたの?」
たわいない質問。
けれど、その晴色の瞳に期待と不安が入り混ざる。
雪花は、少しだけ視線を落とす。
「母が踊っていました」
思い出すのは、胸の奥にある小さな温もり。
「リンクに立つと……まるで別人みたいで」
遠くで、葉が擦れる音。
間。
「母は……」
言葉は、静かに落ち。
「氷像に、なりました」
夜が少しだけ深くなる。
「だから……私も見てみたいなって」
だが、声は揺らがない。
「―――母が見た世界を」
沈黙。
わずかに軋む空気。
刹那―――
鏡の中の自分と同じ、真っ直ぐな瞳。
そこに、もう花畑は無い。
心の奥が、震えた。
「百は、勝ちじゃない」
低く、静かに。
「……終わりだよ?」
胸が、きゅっと狭くなり、
言葉にできない気持ちが、手のひらに広がる。
……違う?
リリアは視線を落とす。
雪花は肩を細くする。
「……ごめん」
小さく彼女は言った。
息を整える。
でも、埋まらない何か―――
「……氷舞は好き。
でも……時々……怖くなるの」
声に滲むのは、苦しみと切なさ。
ちらつく、母の背中。
氷に閉ざされた、想い。
その時、
空気が、わずかに張り詰めた。
視線を感じる。
一つではない。
それでも……彼女は正直さを置いた。
「ねえ……ユッコ。
私と一緒に……南の国に……逃げよっか?」
かすかに笑う瞳、
その奥には悲壮感。
雪花の指先が、わずかに揺れた。
触れられない距離。
触れたら崩れそうな距離。
「……冗談よ」
笑い声は、風に溶け。
夜風が、もう一度二人の髪をなでた。
悲しみは、消えない。
けれど、
胸の奥に彼女の体温が残った。
冗談なのは、知っている。
街灯の下に伸びるいくつもの影。
もう……囲まれている。
「……明日、会場で」
「……うん」
立ち上がり、赤レンガに溶ける。
距離はある。
でも、思いは確かに残っている。
触れ合った瞬間を、忘れはしないから。
夜は静かに、
二人の時間を隠してくれた。
❆ ❆ ❆
鏡の前に立つ。
生まれたままの姿。
静か。
肌に、まだ氷の匂いが残っている。
昨日の夜。
ユッコの瞳。
まっすぐで、揺れない光。
百は、終わり―――
自分の言葉が……たゆたっている。
わたし……
迷っているの?
――違う
背後の空気が、わずかに冷える。
振り返らなくても分かる。
イリア。
光の粒子が集まり、ゆっくりと人の形をとる。
長身。
氷色の髪。
冷たい瞳。
無駄のない輪郭。
透き通る白い肌。
感情を削ぎ落とした横顔。
その視線は、常にこちらを見ている。
――今回も、そこまででいい。
低く、静かな声。
「……うん」
九九、九。
あと、ほんのわずか。
届く距離。
届かせない意思。
イリアは一歩、近づく。
――怖いか。
「……生きていたい」
全ての答えではない。
けれど、嘘でもない。
正直な、気持ち。
――それで、いい。
冷たい瞳が、わずかに揺れる。
それは、記憶。
凍りついた、幾人もの少女たち。
笑顔と、ぬくもり。
――もし、百になろうとしているなら止めておけ。
声色は変わらない。
冷たいまま。
――そうなる前に、俺が止める。
――もう絶対に、失わせたりするものか。
リリアは小さく息を吐く。
「あいかわらず……過保護」
――当然だ。
短い返答。
揺るがぬ意思。
人間より、人間らしい……とリリアは思う。
「―――イリア、私を包んで」
光がほどける。
氷の粒が、肩へ、腕へ、胸へと降りる。
衣装が形を成す。
冷たいはずはない。
これは、彼の心。
鎖を解き放ち、
選び、生きるための装い―――。
鏡の中に映るのは。
舞うための身体。
生きるための心。
これから「狼」になる。
牙をむく。
イリアが静かに語りかけてくる。
――揺れるのは悪いことじゃない。
間。
――だが、止まるな。それだけでいい。
家族のような声。
近すぎない。
けれど、確かに繋がっている。
リリアは、鏡の中の自分に視線を戻す。
百は終わり。
でも、好きは終わらせない。
―――まだ、終わらせてなるものか。
生に、しがみつけ。




