第二話 刃の向こうで、きみに出会う。
氷を裂く音が、低く響く。
刃が沈む。
踏み込み。
沈み。
跳躍。
三回転。
氷のほうが、息を止める。
着氷は、遅れて届く。
長い銀の髪が弧を描く。
紅い瞳は、揺れない。
月羽雪花。
十六歳。
今日も、真っ白なリンクを滑っている。
背丈は伸びた。
指先は細く、長くなった。
それでも胸の奥にあるものは変わらない。
―――好き。
ただそれだけで、雪花は立っている。
ガラス越しに、リンクを見つめる二つの影。
「氷姫たちは?」
鉄のような声。
「順調です」
短い答え。
「親善試合は三か月後だ。
あの氷姫が我が国の代表か?」
「はい」
向けられる、切っ先のような眼差し。
「……月羽雪花。現在のシンクロ率は?」
「九十二です」
沈黙。
「百を目指せ」
空気が氷になる。
「待ってください。それでは彼女は……」
「百を恐れるな」
それだけが、命令だった。
リンクで、雪花が舞う。
無垢な背中。
衣の奥で、紗雪の想いが揺れる。
――また、同じ道を。
止めたい。
けれど止められない。
❄ ❄ ❄
ヴェルドニア帝国。
冬を抱いた街。
赤レンガが、整然と並び。
大河は凍らず、光だけを砕いて流れる。
中央広場には、巨大な独裁者の像。
片手を掲げ、未来を指す。
その影が、横切る街。
雪花は敵地のリンクに立った。
リンクと、初めての会話。
他人行儀な態度。
それでも、十分に楽しい。
ふと、金色の竜巻が視界をかすめる。
「リリア・ユシャキナ」
ヴェルドニア帝国の代表。
氷上に細い線が走る。
外エッジ。
小さな踏み込み。
無音の跳躍。
回転は澄み、着氷は消える。
まるで、研ぎ澄まされた刃だ。
それでいて―――儚い。
雪花は息を吸うのを忘れた。
(……きれい)
像の影がリンクの壁に落ちる。
理想を掲げる国と、
氷の上の少女。
少女は止まり、雪花に振り向く。
白金の髪。
眠たげな瞳。
薔薇色の頬。
やわらかな口元。
舞い踊る姿とは、
まるで別人のような穏やかさ。
天才と誉れ高い少女は、
同じ年頃の、ただの女の子の笑顔を見せた。
❄ ❄ ❄
”コンコン”
夜。
扉を開けると、彼女がそこに立っていた。
「こんばんはぁ」
やわらかな声。
ゆれるプラチナブロンド。
「ユキカだよね?」
彼女は微笑んだ。
雪花は、こくりとうなずく。
「ちょっとだけ、出よ?」
思わず、うなずいてしまう。
外へ。
灯りに揺れるレンガの家々。
昼間を少し残す石畳。
夜風にほどける、沈丁花の香り。
広場の中央で、像が街を見下ろしている。
「この街、すきなんだぁ」
リリアは街を見つめる。
「キレイ……です」
雪花も同じ街を見つめる。
「……うん。でもね、ちょっとだけ、こわい」
ぽつり。
笑ったままの声。
それ以上は言わない。
「ユキカの街は、どんな街?」
唐突な質問。
浮かんだのは、
真っ白なリンクと、白い雪原。
「……真っ白な街です」
次に、浮かんだのは。
「雪がとけると、桜がキレイです」
雪解けと共に咲き誇る、
―――満開の桜の花たち。
「……いいなぁ」
誘われるまま訪ねた、小さな喫茶店。
「十三歳のときね……きみを見たの」
ことりと、スプーンが鳴る。
「胸が、きゅってなった」
カップの中で、湯気が笑う。
「それまで、義務だった。でも、きみは楽しそうだった」
雪花は、まばたきを忘れる。
「だから、好きになったの。……氷舞」
穏やかで、まっすぐな告白。
そんなふうに……言われたことはなかった。
あどけなさが残る笑顔に、
晴れ空と、菜の花畑が見えた。
店を出る。
雑貨屋の灯りが、石畳に滲む。
橋の上。
川面に、ゆらぐ月。
ただ、歩幅が少しだけ揃う。
「……ユキカって呼ぶの、ちょっとかたいね」
「え?」
「ユッコ、どう?」
雪花は、一瞬だけ迷った。
「……じゃあ、リリア」
名前を返す。
そのとき。
並んだ手が触れ、
心臓が小さく跳ねる。
ほんの少し。
ほんの一瞬。
すぐに離れる。
言葉は出ない。
けれど、あたたかい。
少し歩いてから、リリアが言った。
「……氷舞、好き?」
声が、近くなった。
「はい。リンクに立つと……ちゃんと自分になれる気がして」
「うん。……わかる」
リリアは、うなずく。
「ねえ、ユッコ」
「はい?」
「……ううん。なんでもない」
今はまだ、やわらかい距離。
友人より少し近くて、
でも、まだ触れきらない距離。
風が吹く。
銀と金の髪が、夜に溶ける。
像の影は、二人の背後まで伸びていた。
けれど今は、届かない。
―――好きが、同じだった。
それだけで、
夜はやわらかい。




