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第5話 : 執着の果て


雪化粧した岩手山は、

柔らかな日光を無数の欠片に砕いて乱反射させていた。


冬の冷たい空気が、頰を刺すように吹き抜ける。



全国大会の初戦で味わった悔しさの残り香を、

そっと連れ去ってくれるようだった。


国立の熱狂的な喧騒は遠ざかり、

穏やかな日常の輪郭が浮かび上がってくる。


雪景色が、余韻を優しく包み込んでいた。


そんな白銀の世界を、私は体育館の窓から眺めていた。

 

体育館では、紡が軽いジョギングを再開している。


 

右足の固定具は外れ、

その足取りは以前のキレを取り戻そうと、

慎重に床を蹴っていた。


 

私は、その光景を冷徹に観測する。



隣には、祈るように両手を組んだ美樹がいる。

「紡くん、もう走れるようになったんだね……よかった」


安堵に震える美樹の声。



大会での敗北、紡の負傷。

それらは美樹の心を深く抉って、

私たちを絶望の淵へと突き落とした。



そして、美樹の傷口を、

「優しさ」という名の包帯で丁寧に、

巻き上げてやったのは、私だ。



「そうだね。美樹がずっと見守っていたから、

紡も頑張れたんだと思うよ」



私は美樹の細い肩に手を置き、

ゆっくりと引き寄せ、指で髪を梳いてやる。


彼女は疑いもせず、私の体温に身を委ねる。


この柔らかな重みを感じるたび、

私の内側では濃紫の充足感が一滴、静かに波紋を広げる。



駅前のコンビニは、いつの間にか赤やピンクの

華やかな色彩に塗り替えられていた。


――バレンタイン。


SNSを眺める美樹の指先が、

チョコレートの広告で止まるのを私は見逃さなかった。

 

 

「……ねえ、彩華。私、今年のバレンタインこそ、

紡くんにちゃんと気持ちを伝えたいんだ」



美樹が、意を決したように私を見上げる。

その瞳に宿る健気な光は、とても愛らしい。


 

私は、それを「阻止すべき悲劇」ではなく、

「観測すべき美」として愛でることにした。



「いいと思うよ。美樹の気持ち、紡に届くといいね」



――本心だ、心の底からそう思った。

 

美樹が、紡に恋い焦がれれば焦がれるほど、

彼女は上手くいかない現実に傷つく。


そして、私の腕の中へと戻ってくるのだから。



数日後。

 

 

私の家には、チョコレートの、甘い匂いが充満していた。


美樹は慣れない手つきで、

ボウルの中の赤褐色の液体と格闘している。

 

 

「あ……。また、うまく形にならない。

彩華、どうしよう。私、やっぱり不器用なのかな」

 

 

困り果てた顔で、美樹が私を仰ぎ見る。

 

私は無言で美樹に歩み寄り、彼女の背後に立つ。

逃げ場を塞ぐように、私の両腕で彼女を囲う。

 

美樹の震える手の上に、自分の手を重ねた。


 

「いいよ、ゆっくりで。一緒にやろうよ、美樹」


 

私の喉から滑り出た声は、自分でも驚くほど甘く、

湯煎したチョコレートのように滑らかだった。


 

美樹の体温が、掌を通じて私の中に流れ込んでくる。



美樹は、私なしでは、紡に贈るためのチョコレート一つ、

完成させることさえできない。



その事実が、

私の脳を心地よい快感で満たしていく。


やがて、 不格好で、不揃いだが、トリュフのような物が、

クッキングシートの上に並んでいく。


「……彩︎華、できたっ」


美樹は満足げに、花が綻ぶような笑顔を見せた。


その無防備な笑顔を、私は脳内の標本箱に、

針で刺して固定するように記録する。


「うんっ、美樹はよく頑張ってるよ」

私はその標本を、一つ一つ指でなぞるように愛でていく。



「チョコ、余っちゃったね。……はい、あーん」


美樹が、余ったチョコの一片を私の口元に運んでくる。


 

私はその指先ごと、ゆっくりと口に含む。


「ちょ……、彩︎華っ」


 

濃厚な甘みの奥に、美樹の指の微かな体温を感じる。

 

「……ふふ、甘くて美味しいっ」

 

クスリと笑いながら放つ、私の言葉に、

美樹は顔を赤らめて「もう、彩華っ」と笑う。

 

この、純粋な親愛の情は、彼女を外部から遮断し、

私だけの「領域」へと甘く閉じ込めていくための、

静かなテンパリングの過程だった。



翌日も、空からは絶え間なく雪が降り注いでいた。

 

軽く外を走って、紡の様子でも見に行こうか。

 

そう誘うつもりだったけれど、

窓の外に広がる銀世界を見て、私は考えを改める。


視界を埋め尽くすほどの、重く、湿った大雪。



「……これじゃあ、紡も外は走れないね。

多分、室内か市営のジムにでも行ってるだろうな」

 

私の呟きに、隣にいた美樹は少しだけ残念そうに、

けれど、どこか安堵したような表情で頷いた。

 

紡に会えない寂しさよりも、

こうして私と二人きりでいられる現状に、

無意識のうちに小さな安堵を感じている。


美樹の心に、私たちが長年築き上げ、

確実に積み上げてきた「私の場所」がそこにあった。



「練習、休みになっちゃったね」


「まあ、その分、チョコ作りに集中できるよ」


私は美樹を促し、再び自宅のキッチンへと向かわせる。


美樹が紡のために用意した、

最高級のクーベルチュールのビター。


それを刻む彼女の隣で、私はさりげなく彼女の好みに、

そして紡の「虚像」に干渉していく。

 

「紡はさ、きっと甘くない方が好きなんじゃないかな。

アイツ、ストイックだよね、そういう所も」

 

「あ……やっぱりそうなんだ。

彩華は本当に、なんでも知ってるね」


感心したように、

そして少しだけ羨むように私を見上げる美樹。


「まあ、付き合いだけは長いから」


私は微笑みながら、彼女の髪に触れ、

そのまま、耳たぶを指先で優しくなぞった。

 

紡を一番知っている私。

そして、私の知識を借りなければ、

彼の像を捕捉することもできない美樹。



私は彼女の中に、

憧憬という名の「楔」を打ち込みながら、


同時に「私なしではいられない」という甘美の鎖を、

一重ずつ丁寧に、執拗に巻き付けていく。


 

「あ……」

 

不意に、美樹が声を漏らした。

指先に付いた、高価なチョコレートを、

どうしていいか分からず戸惑っている。


 

「そのまま味見、しちゃえば?」

 


美樹は少し顔を赤らめて「うん」と頷き、

指先を自分の唇へ運ぼうとした。


 

「――待って」

私はその手首を掴み、動きを止める。


 

「……やっぱり、味見、させて?」



私が静かにそう問うと、

美樹は一瞬、戸惑ったように瞬きをした。

 

 

私は彼女の返事を待たず、

掴んでいた彼女の手首を自分の口元へと引き寄せる。


 

そこで、私はゆっくりと目を瞑る。

視界を閉ざし、無防備を装ったまま、

唇をわずかに開いて彼女を待った。


 

自分の汚れた指を親友の口内に差し入れるか、

この手を振り払うか。



彼女に、二つに一つを、

今すぐ選ばなければならない状況を押し付ける。



「……えと、彩華っ?」

美樹の、震えるような吐息が間近に迫る。


 

――少しの沈黙。

やがて、迷いながらも、美樹の指先が私の唇に触れた。


……いい子。

彼女は自らの意思で、私という深い淵に足を踏み入れた。

私は彼女の指先を、ゆっくりと、口腔へと招き入れる。

 

「んっ……」

美樹の喉が小さく鳴る。


濃厚なカカオの苦味と、その奥にある美樹の体温が、

私との境界線を曖昧にしていく。


美樹の体の一部が、私の内側に触れているという事実。

 

どんな甘い菓子よりも私の脳を痺れさせた。



「……ふふ。やっぱり少し苦いかな」



指先を解放し、私は瞼を開いて、

何も無かったかのようにクスリと微笑んでみせる。


美樹は顔を真っ赤に染め、

力が抜けたように私の腕の中へ寄りかかってきた。


自らの指を差し出したという事実と、

それを受け入れられてしまったという羞恥。

 

それらから、解放されるために、

奇しくも、また私に頼ってしまっている。


手綱を明け渡す、愛くるしい小動物のように――。


私はそのまま、彼女の頬を包み込むようにして引き寄せ、額と額を合わせた。

 

美樹の吐息が熱く、私の肌を叩く。


「紡、喜んでくれるといいね」

 

恍惚とした表情を浮かべて、美樹の肩が、震える。

外の大雪は、私たちの密室を世界から切り離した。




――二月十四日。

積もった雪は、大雪の日を忘れさせるほどに固まり、

冷たい空気の中で静まり返っている。

 

美樹は、丁寧にラッピングされた箱を抱え、

登校中もずっと落ち着かない様子だった。


「……ねえ、彩華。変じゃないかな。

リボンの形とか、崩れてない?」

 

 

「大丈夫だよ、美樹、可愛いよ」

 

「それにさ、あんなに一生懸命作ったんだもん。

……私が保証する」

 

私は美樹の襟元を直し、

冷えた頬を温めるように両手で包み込んだ。



美樹は、私の手のひらに、縋るようにして微笑んだ。

 

その健気な表情が、これから砕け散る予感を含んでいて、私の胸を心地よく疼かせた。



――放課後。

 

私は、独り、

美樹が紡を呼び出した体育館の裏へと続く廊下で、

窓の外を眺めていた。



直接その場を見る必要はない。

正直、見たくもない。


 

他の女子からもチョコを受け取り、

困ったように笑う紡の様子や、

周囲の浮ついた空気を感じるだけで十分だった。



美樹の問いかけに、紡は何と答えるだろうか。


 

怪我から復帰し、ストイックにサッカーへと

意識を向けている今の紡にとって、


美樹の純粋すぎる好意は、今の彼には「重い」はずだ。



私はポケットの中で、

美樹の指先の感触を思い出していた。

 

数日前、私の口内で震えていたあの指。

 


紡に触れることさえ許されないまま、

ただ私の毒を受け入れた、あの指先。

 

 

やがて、遠くで校舎の影が伸び、

冷え込みが厳しさを増していく。

 

 

私はゆっくりと歩き出す。

美樹が泣きながら戻ってくるであろう、その場所へと。

 


――さあ、おいで。


 

あなたの「世界」が壊れたあと、最後に残るのは、

両手を広げ、慈しむために待っている。


 

――この私だけだよ、美樹っ。



校舎の影が長く伸び、

放課後の喧騒が静まり返った頃。

 

冷え切った廊下の向こうから、

聞き慣れた足音が近づいてくる。


 

力なく、引きずるような、拒絶された者の足音。

 

 

角を曲がってきた美樹は、

マフラーに顔を半分うずめ、肩を小さく震わせていた。


 

その手には、朝あれほど大切に抱えていた、

ラッピングの箱が、無造作に握られている。


 

「……さ、いか……」


 

私と目が合った瞬間、

美樹の瞳から大粒の涙が溢れ出した。



彼女は言葉にならない声を漏らしながら、

私の胸に飛び込んでくる。



伝わってくる鼓動の速さ、指先の冷たさ、

――そして、期待が裏切られたことへの絶望の熱。


 

「……ダメ、だった。紡くん、

今は……サッカーのことしか、考えられないって……」



美樹の泣き声が、私の制服に吸い込まれていく。

 

私は、彼女の細い背中にゆっくりと腕を回した。



「……そう。辛かったね、美樹」



口では優しい言葉をかけながら、

私の内側では歓喜の鐘が鳴り響いていた。

 

紡に拒絶され、

世界から見放されたような顔をして私に縋る美樹。


 

――ああ、そうだよ美樹。

 

 

この絶望こそが、私が欲していたものだ。


 

誰にも見せたくない。

この涙も、

この震えも、

全部私だけが知っていればいい。



私は美樹の頭を、あやすように優しく撫でる。


彼女の顔を覆うマフラーを少しだけ下げ、

露わになった白い首筋に指先を這わせた。

 

「大丈夫だよ。紡が分かってくれなくても」

 

「私は分かってるから。……美樹がどれだけ頑張ったか、

どれだけアイツを想っていたか」

 

 

美樹が、潤んだ瞳で私を見上げる。

 


その視線は、もはや私という光なしでは、

何も見ることができない、依存の深淵に沈んでいる。



「私だけは、ずっと美樹の味方だよ。

……ね、そうでしょう?」


 

私は指先で、彼女の目尻に溜まった涙を掬い取る。

そのまま、その湿った指を自分の唇でなぞった。

 

ビターチョコレートとは違う、純度の高い絶望の味。

 

「っ……あ……」

美樹の吐息が、絞りでるように漏れる。

 

彼女の絶望が深まれば深まるほど、

私の輪郭が彼女の中で鮮明になっていく。

 

美樹はもう、自分以外の支えを必要としなくなる。

その確信が、私の胸を心地よく焼き焦がした。

 


「……もう、紡くんの隣にはいられない。

私、どうしたらいいの……っ」


 

美樹の嗚咽が、無人の廊下に虚しく響く。


彼女の指先は、

私の制服の袖を千切れんばかりに強く掴んでいた。

 

光に拒絶され、寄る辺をなくした哀れな体温。


その震えを肌で感じるたび、

私の中の渇きが、滲むように潤されていく。


 

「大丈夫だよ、美樹。私がいるよ」


 

私は、彼女を包み込む腕に力を込めた。


美樹が紡のために用意した純粋な愛は、行き場を失って、

ドロドロとした暗い情念へと変質している。


それを「救ってあげる」必要なんてない。


私はただ、この美しい闇に私の色を混ぜ、

私だけのモノとして完成させたいだけだ。



「ねえ、美樹。こっちを向いて」



耳元で囁くと、彼女は縋るような瞳で、

ゆっくりと顔を上げた。


涙に濡れた長い睫毛。

赤く腫れた瞼。

 

絶望に染まったその表情は、

どんなに笑い合っていた日々よりも、

鮮烈に私の胸を打った。



「彩、華……?」

 

私は、彼女の頬を両手で優しく挟み込む。

 

親指で彼女の唇をなぞり、

あのチョコ作りの日の記憶を呼び覚ます。

 

自らの意思で、

私の口内に指を差し出したあの時の、無意識の服従。



その延長線上に、今、私たちは立っている。



「アイツが美樹を見ないなら……

私が、見てあげる。私が、あなたを愛してあげるよ」



美樹の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。


けれど、彼女は逃げようとはしなかった。


いや、逃げる場所など、もう私の腕の中にしか残されていないことを、彼女が自身が理解していた。



私はゆっくりと、顔を近づける。

 

彼女の熱い吐息が、私の肌を焦がす。

 

この一線を越えれば、もう後戻りはできない。

 

紡との「健全な日常」も、眩しい「光」の世界も、

すべてが毒の沼に沈んでいく。

 

――それでいい。

 

壊れてしまえばいい、何もかも。


 

私は、美樹の震える唇に、

自分の唇を重ねた――

 

「っ……ん……」

 

柔らかな拒絶のない接触。

 

美樹の涙と、彼女の奥底から溢れ出す絶望の味が、

私との境界線を滲ませる。

 

美樹は小さく身を震わせたあと、

力尽きたように私の肩に手を回し、

その不器用な口付けを受け入れた。


 

私たちの間に、

めりめりと音を立て、毒の百合が咲く――。

 

それは、純潔な白ではなく、侵食された濃紫の色。

 

唇を離し、恍惚とした表情の美樹を見つめながら、

私は艶然と微笑む。



彼女の瞳の中には、もう紡の姿はない。


ただ、私という深い「愛情」だけが、

彼女のすべてを上から塗り替えていた。

 

美樹はもう、私なしでは呼吸することさえ叶わない。

 

私は甘えるように彼女の首筋に顔を埋め、

冷たい冬の夜へと、視線を投げた。


 


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