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第4話 : 国立競技場



 ――十二月二十八日、東京。

国立競技場を埋め尽くす数万人の熱狂は、

今の私にとってはただの不快な耳鳴りだった。



相手の鹿鳥学園は、茨城県代表。

歴史ある強豪校の一つだ。

 

私の予想を泥臭い執念で上書きしてくる。


一人が剥がされても、

すぐさま二人目が死に物狂いで食らいつく。


全員が歯車となって連動するその「熱」の前に、

紡の美しいプレーがじりじりと押し戻されていた。


 

(……なんで、通らないの)


 

私はベンチの縁を、指先が白くなるほど強く握りしめる。



私が昨日まで動画を擦り切れるほど見て、

紡と共有したはずの「隙」が、生まれない。


鹿鳥の組織的なハードワークによって、

物理的に埋められていく。



自分の読みが外れていく感覚。

最適解と思っていた軌道が、泥にまみれて汚されていく。


その事実に、私は吐き気がするほどの屈辱を感じていた。



――前半二十分。紡が敵陣で囲まれる。



鹿鳥の選手たちが、

刺し違えるような覚悟でパスコースを限定し、

紡の自由を奪っていく。


 

「……紡くん、大丈夫かな。あんなに囲まれて……」



隣で美樹が、祈るように両手を組んでいる。


震える指先。彼女はただ、

ピッチで繰り返される激しい接触に怯えていた。



私の中にあるのは、

そんな健気な心配とは似ても似つかない、

もっと尖った焦燥だった。



(しっかりしてよ、紡――。

私が信じたのは、こんなレベルじゃない)



前半三十五分。均衡が、突如崩れる。

中央でボールを受けた紡に対し、鹿鳥の選手二人が、

岩を砕くような勢いでクローズした。

 

激しい肉体の衝突音。紡の身体が宙に浮き、

ピッチの固い芝の上に叩きつけられた。



「っ、紡くん!!」



美樹の悲鳴がスタジアムを揺らす。



審判のホイッスルが響く――。


誰もが倒れ込んだまま動かない紡の様子を、

固唾を呑んで見守っていた。



静まり返る国立。


その一瞬の空白に、私の喉を、

抑えきれない憤りが突き破った。



「――何やってんだ、紡ッ!!」


「立てよ! お前は、岩手の神童なんだろッ!

こんなところで、負けていいわけ……ないだろッ!」


自分でも驚くほどの怒号。

美樹が、弾かれたようにこちらを振り向く。


 

周囲の部員たちも、

見たこともない私の形相に凍りついているのが分かった。



それは激励というより、

自分の理想を裏切られたことへの、

悲鳴に近い督促だった。



ピッチの紡が、泥に汚れた顔をゆっくりと上げる。

数万人の観客席の中で、

彼は私という、たった一人の「期待」を、

その目に焼き付けたようだった。


 

立ち上がった紡が、

荒い呼吸を繰り返しながら、ベンチの私を睨みつける。



その瞳に宿ったのは、私への「恐怖」と、それに抗うための、剥き出しの執念だった。



「……すごい、彩華。

……そうだよね、今のは彩華にしか言えないよ」



美樹が、震える手で涙を拭いながら、

私をすがるように見つめてくる。



彼女には、この怒号が「親友としての熱い信頼」に

都合よく見えているのだろうか。



私は、自分が否定されるのが怖くて、

紡を無理やり奮い立たせただけだ。

 


再び走り出した紡の背中を見つめながら、

私はようやく呼吸を整えた。



美樹の信頼も、紡の執念も、

すべてが私の抱く答えへと吸い込まれていく。



(そうだよ、紡。もっと、国立の景色を私に見せて)



国立の冬空の下、

私は自分の指先がまだ震えていることに気づいた。



それは恐怖ではなく、何かが壊れる前触れのような、

ひどく冷ややかな充足感だった。



再起動した紡のプレーは、

凄惨なほどに研ぎ澄まされていた。


彼は情緒を捨て、

呼吸の数すら切り詰めるように、

ただ眼前の事象を処理するためだけの機構に徹している。



後半二十分。


決定的なパスを供給した直後の着地だった。



紡の右足首が、

不自然な角度で芝を噛むのを私は見逃さなかった。



(あ、今……)



心の中で、乾いた音を立てて折れた気がした。


紡は顔色一つ変えずに走り続けているけれど、

そのステップには明らかな淀みが生じていた。



「ねえ、彩華! 見た!? 今のパス、完璧だったよね!

紡くん、やっぱりすごいよ!」


 

美樹が興奮で頬を染め、私の肩を揺さぶってくる。



その、何も知らない無垢な瞳があまりに透明で、

私はわざと、氷のような事実を突きつけた。


 

「……何喜んでるの。

もう、役目は終わったよ。あいつ」


 美樹の動きが、ぴたりと止まる。

「え……、何が……?」

 

「右足。さっきの着地でやったね。……軽い捻挫かな。

走るのがやっとで、多分、もうまともに蹴れやしないよ」



美樹の顔から、みるみる血の気が引いていく。

彼女が慌ててピッチに視線を戻すと、痛みを押し殺し、

引きずるような足取りでボールを追う紡の姿があった。

 

「嘘……そんな、嘘でしょ!?

やめて、紡くん! もういいよ、戻ってきて!」

 

美樹が声を上げようとするのを、

私はその細い手首を掴んで止めた。



「……今あいつを下げたら、この試合、負けるよ」



「でも、怪我してるんでしょ!? だったら、止めてあげなきゃ……!」



美樹は震える手で私に縋り付いてくる。


「……それに、あいつの夢を止めるの?」

 


希望から絶望へ。

一瞬で色を変えた彼女の瞳から、

ボロボロと涙が溢れ出した。

 

 

私を頼り、私の言葉に一喜一憂し、

用意された車輪の中を全力で走り抜けた果てに、

こうして行き止まりにぶつかって私を求めている。



その脆弱で、ひたむきな震えが、

たまらなく、愛おしかった。

 


 

ピッチでは、

紡が再び激しいチャージを受けて転倒していた。


今度は、すぐには立ち上がれない。


審判が駆け寄り、腕を交差させ、合図をベンチに送る。


交代のボードが掲げられ、

紡がスタッフに肩を貸されてピッチを去っていく。

 


美樹は、まるで自分の半分を失ったような顔で、

その光景を凝視していた。



ふと、解放された自分の手を見つめると、震えていた。


私の最高傑作が不慮の事故で「故障」させられ、

紡がこの日のために積み上げてきた夢が、

国立の芝に吸い込まれて消えていくことへの屈辱。


この行き場のない憤りをどこへぶつければいいのか、

暗い衝動に突き動かされるような、深い飢餓感だった。




――後半四十五分。

長い沈黙を破り、

三度目のホイッスルが国立の空に空虚に響き渡った。


 

 鹿鳥学園 3 ー 1 岩手北本

 

 

電光掲示板に刻まれたその数字は、

私たちの「全国」が完膚なきまでに、

叩き潰されたことを示していた。


 

紡が負傷し、一本の芯を失ったチームに対し、

鹿鳥は組織の質量で、退屈なまでに蹂躙した。



夢の終わりを告げる無機質な数字を見上げながら、


私はスタンドの最前列で、

ゆっくりと、力強く両手を打ち鳴らした。



「――お疲れ様。みんな、最高だったよ」



その声に嘘はない。

 

私の指針を聞き、限界まで走り抜いた紡を信じた、

彼らへのリスペクトは本物だ。



整列し、相手チームと握手を交わす彼らの姿は、

美しい絵画のように完結していた。



私の視界の端で、蹲ったまま動けない美樹だけは、

その美しい絵画から完全にはみ出していた。

 

「ひ、ぐっ……あ、ああ……っ」

 

美樹は、絞り出すような嗚咽を漏らしながら、

自分の膝に顔を埋めている。



他の部員たちが、

「敗北」という共通の感情で繋がっている中で、



彼女だけが、恋した者の夢が砕け、

その肉体が壊れていく様を間近で見せつけられた

「恐怖」と「喪失」に、取り残されていた。



私は、拍手を止めた。

沸き上がる周囲の歓声も、選手たちの涙も、

すべてが急激に色を失っていく。



私の意識は今、この広いスタジアムの中で、

美樹が流すその一滴の涙の純度にだけ、

異様なほど鋭くフォーカスしていた。


 

(……ああ、これだ)


 

私の胸を焼いていたあの苛立ちが、

すうっと静かな熱へと形を変える。

 

私の、いや――

紡の夢が砕けたことは、耐えがたい損失だ。

 

けれど、その副産物として今、私の目の前で、

この世の終わりを嘆くように震えているこの子。



私が突きつけた事実によって、

希望を完膚なきまでに磨り潰され、

逃げ場のない車輪の真ん中で立ち尽くしている彼女。



この、誰にも共有できない、彼女だけの深い絶望。


それを今、一番近くで見つめ、独占しているのは私だ。



彼女が私に縋り、私を頼り、

私の言葉に崩された結果、生まれたこの「色彩」は、

かつて見た事のない美しさを放っていた。



――これを、誰にも渡したくない。



今まで観察すべき対象として愛でていたはずの彼女が、

決定的な欠落を抱えた瞬間、

それは私にとって、保管すべき「宝物」へと変質する。

 

他の部員たちが彼女を慰めにくる前に、

私は一歩、彼女の隣へ歩み寄った。



そして、震えるその肩を、

壊れ物を扱うような手つきで、強く抱き寄せた。



「……頑張ったね、辛かったよね、美樹」


 

私の声は、自分でも驚くほど優しく、

湿り気のない、冬の風のように清廉だった。

――少なくとも、彼女の耳には、そう聞こえたはず。



美樹が、縋るように私の制服の袖を掴む。


その体温の伝わり方が、今の私には、

どんな勝利の美酒よりも心地よかった。


この絶望を、この震えを、

私だけが共有し続け、痛みを分かち合ってあげよう。


 

美樹の涙でぐしゃぐしゃになった顔、

不自然に強張ったままの指先、


そして、肺の空気をすべて吐き出した後のように

力なく落ちた肩。


 

彼女が流す涙の一滴一滴が、私の制服に染み込み。

冬の乾いた風にさらされて蒸発していく。



「……う、うう……っ」


美樹の嗚咽が、私の耳元で小さく震える。


その声を聞くたび、私の胸の内で二つの矛盾した欲求が、火花を散らしてせめぎ合っていた。



この震える肩を抱き寄せ、

優しい言葉をかけて救い出してあげたいという、

飼い主のような庇護欲。

 


――もっと、彼女の心をかき乱して、

取り返しのつかないところまで

壊してしまいたいという、昏い加害欲。



優しい親友の顔をして、

彼女の絶望が深まれば深まるほど、

私は、奇妙な程にまで、充足感を得ていく。



救いたいなんて、きっと嘘だ。


私は、彼女が私なしでは息もできないほど、

その心を「私」で塗りつぶしてしまいたいだけなのだ。

 


国立競技場を後にする私たちの影は、

夕暮れに長く伸びていた。



救護室から出てきた紡は、右足に痛々しい固定具をつけ、

松葉杖を突いて前を見据えていた。


かつて「神童」と呼ばれたその少年の背中には、

もうあの圧倒的な光はない。


ただ、自分の無力さを噛みしめるような、

乾いた静寂だけを纏っていた。


 

その隣で、腫らした目を伏せ、

彼の歩幅に合わせておぼつかない足取りで歩く美樹。



夢を砕かれた少年と、その姿に自らの心を砕かれた少女。



二人の間に漂う、重苦しく、

それでいて甘美な「欠落」の空気。


それが今の私にとって、

国立のどんな華やかな景色よりも美しく、

私の網膜に焼き付いていた。


もう、これでいい。

栄光も、歓喜も、この国立に置いていけばいい。



私たちが岩手の、あの静かな街に戻った時、

彼らに残されているのは、

私という唯一の「理解者」だけだ。



美樹が、ふと立ち止まって、

不安げに私の顔を覗き込んだ。



「……彩華、私たち、これからどうなるのかな」

私は、彼女の手を優しく、包み込んだ。

 

「大丈夫だよ。……私が、ずっとそばにいてあげるから」


国立の冬空は、どこまでも高く、

そして残酷なまでに澄み渡っていた。

 

 

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