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第2話 : 甘い濁り



後半残り十五分――

掲示板に刻まれているのは、『北本高 1 - 1 盛岡東高』。


全国高校選手権大会 岩手県大会決勝。

 

グラウンドを包む熱気と、

冬の乾いた風がぶつかり合って、

肌を刺すような緊張感が漂っている。


相手の盛岡東高は、

執拗なプレスと強靭なフィジカルで、

こちらの司令塔である紡を潰しにかかっていた。


 

「……紡」

 

 

ベンチに座る私の視界の中で、

紡が激しい接触に耐え、泥にまみれながら立ち上がる。



周囲の観客はその、緑のユニフォームの戦士たちに、

「頑張れ!」と無責任な声援を送る。



美樹は隣で祈るように手を握りしめているけれど、

私はただ、紡の「視線」の動きだけを追っていた。



盛岡東のボランチが二人、連動してコースを消しに来る。紡は背後からの圧力を感じ、安全なバックパスに逃げようとする。



――逃げるな。ラインが下がる。

 

私は心の中で、

自分の脳内にあるフィールドの駒を動かした。

 

首を振って。

右に視線を飛ばして、一瞬体重を乗せて。

相手の重心を動かして……。

 

その瞬間、紡が私の思考をなぞるように顔を右へ振り、

相手のボランチを釣りだした。


直後、彼は踏み込む。

 

彼が放ったのは、密集する敵陣の、わずかな隙間――

針の穴に糸を通すような、低く鋭く強いスルーパス。


一見、誰もいない空間に放たれたように見える。

 

ちがう、そこは何百回と練習をした、

北本高の得点へのビジョンの再現。


ウチのストライカー、進藤くんなら、

紡の問いかけに対して、必ず走り込んでくる。


盛岡北高のディフェンス陣が反応するよりも少し速く、

ボールは敵の背後を突き抜ける。


走り込んでいた、

エースストライカー進藤の目の前へ、

吸い込まれるように転がる。



「……っ!」



そのストライカーは、右足をダイレクトに振り抜く。

 

ボールの芯を捉えた強烈なシュートは、

ディフェンス陣の足元の少し奥を掠め、

ゴールネットの左隅にボールをねじ込んだ。

 


ネットが揺れる。



スタジアムが爆発的な歓喜に包まれる。



けれど、私だけは見ていた。

そのパスが放たれた瞬間、ボールに込められた強さが、

かつて私が男子をねじ伏せていた「私の視界」そのものだったことを。



「ナイシュー! 進藤!」

「綾瀬! パス良かったぞ!!」

 


監督が叫ぶ。

けれど、それは彼らだけの手柄じゃない。



彼が私の視界を借り、

私の計算通りに世界を切り裂いた結果だ。



「紡! サンキュー! パスえぐいわ!」

「おう、走るの見えてたわ」



歓喜の輪の中心で、紡がこちらを向く。

泥だらけの顔で、彼は私の方を見た。

 

周囲には、マネージャーへの感謝に見えるだろう。



けれど私にはわかる。


彼は今、「これで正解か?」と、

自分の『視覚』の共犯者に確認しているのだ。


 

胃の奥が、昨日よりもずっと深く、濃い熱を帯びる。

自分で走るよりも、ずっと純度の高い優越感。


 

私の目に映る景色を、彼がなぞる。

私の思考を、彼が筋肉に変える。



この完全な共依存関係を確認できたとき、

私はこの試合で初めて、満足な呼吸ができた気がした。



「……彩華、勝ったよ!

紡くんのあのパス、神業みたいだったね!」


 

美樹が涙を浮かべて私の肩を揺らす。


私は一瞬で「優しい親友」の微笑みを作り、

彼女の手を握った。



「そうだね、美樹。美樹の応援、届いたんだよ」


――嘘だ。

 

届いたのは、応援なんていう安っぽい熱量じゃない。

 

私の「視点」という名の、逃れられない支配に似た呪い。

 

乾燥した空の下、私は歓喜に沸くピッチを眺めた。

 

自分のなかに一滴、また一滴と、

より深く鮮明な濃紫の毒が溜まっていくのを感じていた。



◆◇◆



駅近くのファミレスは、

大会帰りの他校の生徒や一般の客で賑わっていた。



ドリンクバーの氷がカラン、と乾いた音を立てる。



「……あのパスさー、本当はもっと横回転を殺せたはずだよ。」

 

「進藤くんがダイレクトで打つとき、ボールが少し外側に逃げてたんじゃない?」


 

私はデザートに頼んだチョコレートケーキの、

一番上に載っている薄い板チョコを、

フォークの先で弄びながら、事も無げに言い放つ。


 

紡は食べていた手を止め、

少しだけ眉を寄せて私を真っ直ぐに見返した。



「いや、それは結果論だろ。

あの瞬間、相手のボランチの足が届く軌道だった。」



「あえて逃がして、進藤が一番力強く振り抜ける

『外側のポイント』に置いたんだよ。

あの回転がなきゃ、ブロックされてた」

 


紡が淀みなく言い返す。

そ彼はただ言われた通りに動いているわけじゃない。


私と視界を共有しながらも、

彼の先鋭的なセンスで、その場の最適を叩き出している。


「……ふーん。

ボランチのリーチをそこまで高く見積もってたんだ。

相変わらず、リスクヘッジだけは過剰だね」



「最悪を想定して、

最高の結果を出すのがトップ下の俺の仕事だからな」


紡は、何かを飲み込む様に水を流し込んだ。


「まあ……でも、確かにあそこまで逃がす必要はなかったかもな。もっとエグい角度で通せたのは認めるよ」



紡は少し悔しそうに口角を上げ、また箸を動かした。

私と紡の間だけで完結する、火花が散る「結果」の対話。



そこには感情が介在する余地なんて一ミリもない。

ただ、精度と、戦略と、互いの才能への信頼があるだけ。


 

「……二人とも、すごいね」

ポツリと、美樹が呟いた。


 

彼女はコップの縁をなぞりながら、少しだけ寂しそうに、でも、熱烈な憧れを込めて私たちを見ていた。



「私には、今の話全然わからなかったけど……

でも、二人がそうやって、誰にも見えないところで

話し合ってるの、なんだかいいなって」


 

美樹は、この鋭利なやり取りを「絆」や「友情」といった

美しい言葉で解釈しようとしている。



彼女が必死に紡に近づこうとすればするほど、

彼女の知らない「フィールドの解像度」という壁が、

彼女を遠ざけていく。



その、置いてけぼりにされた彼女の表情が、

照明に照らされてひどく綺麗に見えた。



私はフォークを押し当て、板チョコを静かに、

パキリと二つに割った。


 

美樹のなかの「好き」という熱が、

私たちの共有する「冷徹さ」に触れて、

じりじりと焼かれている。



その崩れかけの微笑みを、私は半分になったチョコを、

ゆっくりと口に運ぶような感覚で、じっと観察していた。


 

「そんなことないよ。私が理屈っぽいだけ。ね、紡?」



私が同意を求めると、

紡は「そうだな、お前の目は相変わらず怖いわ」と

笑いながら、また私の顔を見た。



彼は無意識に、美樹ではなく私に、

自分のプレーの「真価」を問いかけてきている。



「……でも、あのパス! 本当にかっこよかった!

 私、あんなに綺麗なの、初めて見たっ」



美樹が、震える熱を隠しきれない声でそう言った。


紡の視線が、私から美樹の方へと移る。



「マジ? ……いや、そう言ってもらえると助かるわ。

進藤が走るのも信じてたけど、あそこを通せたのは正直、自分でもちょっと『来たわ』って思ったし」



いやー青山分かってるわー、と紡が照れくさそうに、

けれど誇らしげに鼻先を掻く。



(――バーカ。)



私は頬杖をついて窓の外を見る。


十一月の初旬、この甘い空気を味わうには、

まだひと月以上早く、辟易していた。



練習中の鉄仮面が剥がれ、高校生らしい、

年相応の青色の自信が顔を覗かせる。



美樹はそんな彼の表情の変化を、

宝物を見つけるような瞳で追いかけていた。



「うん! 紡くんが蹴った瞬間、

スタジアム中の空気が止まったみたいだった。

……私、ずっと見てたんだからね」


 

(――しんど。)


 

「……そっか。いつも一番前で声出してくれてるもんな。

青山のあの声、ピッチまで届いてるよ」

 

紡がふっと、いつになく柔らかい笑みを美樹に向ける。



それは、私と共有している「技術的な同意」ではなく、

もっと暖かくて、人間らしい「心のやり取り」に見えた。



美樹の頬が、冬の寒さを忘れたかのように、

ふわりと、彼女の手元にある苺のように染まる。


彼女は嬉しさを噛みしめるようにコップを両手で包み込み、期待に満ちた瞳を伏せた。



(――ああ、本当に。)



私はその光景を、スマホの画面を眺めているような、

奇妙な青白い無機質さを、見つめていた。



美樹は今、紡と同じ体温を共有できていると信じている。



自分の「好き」という熱が、

彼の「誇り」に触れたことに、最高の充足を感じている。



けれど、彼女が恋焦がれる

その紡の「神業」の芯を形作っているのは、

私という、彼女にとっての不純物だ。



二人が見つめ合い、

青い恋心を滲ませれば滲ませるほど、私という存在が二人を隔てる、透明で頑丈な壁として機能し始める。



(もっと期待すればいいよ、美樹)

 

美樹のなかの憧れが、

いつか取り返しのつかない絶望に変わる瞬間。


それを想像するだけで、私の心にはまた一滴、

甘いチョコレートのような濁りが滴り落ちた。


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