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第1話 : 走る幻影



私は、彼女の世界を狭くした。

彼女は今、私だけに微笑み、私だけに涙を見せる。


『バレンタインデー』の、浮いた心がそうさせた……。






「もっとプレスー!」

(つむぐ)ーっ、左サイドフリー! ちゃんと見て!」


ピッチに向かって投げかけた声は、

冬の乾燥した空気に白く溶けていった。



私は、岩手北本高等学校

サッカー部のマネージャー、和泉(いずみ) 彩︎華(さいか)


北本高は東北のサッカー部強豪校のひとつ。


 

私はこのチームの“目”として、

今日も食い入るように紡の動きを見守っている。


 

夜間照明が、湿った雪の混じるグラウンドを照らす。

 

吸い込まれるような闇のなか、

人工芝の上に落ちる光の粒は、

まるで夜空からこぼれた星屑のようだった。


 

「紡ーっ! 加藤くんフリー!! 周り見て!!」


 

彼は、綾瀬(あやせ)紡。



この北本高の心臓。

トップ下で、チームの司令塔を担っている。



練習の終盤。



心拍数の上がったチームメイトたちのなかで、

紡だけが私の言葉に過剰に反応する。



彼は一瞬だけこちらを向き、

短く頷くと、言われた通りに首を振る。


 

その動きを、私はベンチの特等席から眺める。


 

彼が左サイドへ展開するロングパスを放つ。

放物線の軌道、ボールの回転数は完璧。



周囲の部員たちは「ナイスパス!」と声を上げるけれど、

私の瞳はそれを少しだけズレたものとして捉えていた。



パスの強度が足りない。


受け手がトラップした瞬間、

相手のボランチに詰められる隙を与えている。



もし私があの場所に立っていたら、

受け手の利き足の、さらに先。


相手が触れることすら諦めるような速度のボールを、

そこに置いていたはずだ。


……なんて、言葉ではどうとでもなる。




私が、サッカーを辞めた理由は、

拍子抜けするほど簡単だった。


『髪を切りたくなかったから』。

それと、『日焼けしたくなかった』から、なんて冗談で。


本当は、楽しくなくなったから――


中学までは、

地方のサッカースクールで、男女混合のチーム。



私は誰よりもフィールドを支配していたつもりだった。

幼かったよね。



広い視野を持つように教わり、

誰よりも真面目に練習し、首を振った。



「彩︎華ー!いいぞー!」なんて褒められるのは当たり前で

それだけの時間を使ってきた。


 

けれど、高校に上がれば道は分かれる。



フィジカルという、頭脳ではどうしようもない現実に、

女子である私は勝てなくなる。



仮に、私がコンマ一秒先の未来を計算していたとしても、

一歩の歩幅、一瞬の当たりで、

その予測を力ずくで書き換えられてしまう。



女子サッカーなんて道もあるけども、

私は男子を、いいえ……『紡』をねじ伏せたかった。


 

それが、どうしようもなく理不尽で、馬鹿らしくなった。



だったら、フィールドに立つ必要なんてない。



まあ本当に、髪を切りたくなかったし、肌を焼いてまで、

分かりきった敗北の物語をなぞる義理もないし。



「……紡」



私は、自分の代わりにそこに立っている幻影を見つめる。



紡は私の指示を聞き、私の代わりにパスを出し、

私の代わりに勝利を掴んで持ってくる。



彼が首を振るその角度一つ、情報の拾い方一つまで、

私の視野で上書きしてあげているような感覚。


 

彼が私の思い描く通りに動けば動くほど、

私のなかで何かが静かに満たされていく。


 

自分で走らなくても、声を上げれば、

彼の体を通じて私はフィールドを操ることができる。



まるで、

最高級の『ドローン』を動かしているときのような、

静かで無機質な高揚感だった。




「彩華、寒いのにごめんね。

いつも最後まで付き合ってくれて」



不意に隣からかかった声に、

私は一瞬で「マネージャー」の顔を張り付け直した。


 

声の主は、親友の青山 美樹。


 

彼女は温かいココアのボトルを握りしめ、

ひどく頼りない顔をしていた。


 

「……いいよ。どうせ部活だし、マネージャーだし」



私が微笑んで答えると、美樹は少しだけ顔を赤らめた。


 

その視線の先には、

汗を拭いながらこちらへ歩いてくる紡がいる。



美樹の指先が、ココアのボトルをきつく締め直す。

その指がわずかに震えているのを、私は瞳の端で捉えた。


 

彼女は、驚いたことに、紡が好き――。


 

そして私は、彼女の恋を応援すると約束している。



「……私、やっぱり紡くんに、ちゃんと伝えようと思う」



美樹の絞り出すような声が、雪の夜に落ちた。


 

その瞬間、胸の奥に、針の先ほどの、

本当に小さな「引っかかり」が生まれた気がした。

 


私の視線の先で、

ようやく納得のいく動きを見せ始めた紡。



――その彼に、美樹が手を伸ばそうとしている。



二人の輪郭が重なろうとする光景に、

私はどうしようもない「違和感」を覚えた。



ずっと私の目の前にあって、私がただ眺めてきたもの。



そこに、自分以外の誰かが、

自分とは違う「好き」なんていう、

得体の知れない熱量で触れようとしている。


 

その事実が、ただ純粋に、不快だった。



自分だけが知っているはずの風景を、

他人が勝手に塗り潰し始めたときのような、

静かな苛立ちに似ていた。



「……そっか。応援してるよ、美樹」


 

自分の声が、どこか遠くから聞こえる。



親友として彼女の恋を肯定しながら、私の内側では、

その言葉とは裏腹に冷たい拒絶が結晶化していく。



雪はいつの間にか強まり、照明の光を乱反射させている。



白く塗りつぶされていくグラウンドを見つめながら、

私は自分のなかに生まれた、

この静かで歪な予感の正体を、ただ静かに眺めていた。




練習終了を告げるホイッスルが鳴る。


静まり返ったグラウンドに、

部員たちの荒い吐息だけが白く残る。



「――彩華」



声をかけてきたのは、やはり紡だった。



彼は首にタオルをかけたまま、

私のもとへ迷いなく歩み寄ってくる。


冬の湿気を吸った彼の髪から、

微かに熱を帯びた匂いが立ち上った。



「お疲れ。さっきの左サイド、言われて気づいたわ。

……あそこまで見えてるの、たぶんチームでお前だけだ」



紡の瞳には、私への純粋な信頼。

そして、わずかな「依存」が滲んでいた。



彼は無意識のうちに、

私の視界を借りてフィールドを見ることに依存している。


そんな風に感じてしまう。

確認はしていないけど。


きっとそう。



その欠落を、私は冷ややかに、

けれども、どこかで心地よく眺めていた。



「私はベンチで見てるから、見えてるだけ」



「……それに、紡は視野を広げるんじゃなくて、

情報を整理するスピードが遅い。足りない」



「……ああ。まあ、確かに」


紡は短く笑って、私の顔をじっと見つめる。



その視線は、

さっき美樹が向けていた「恋愛感情」という熱量とは、

全く質の違うものだ。



彼にとって私は、

自分のプレーを完成させるためのパーツの一つ。


『ドローン』用の高性能なセンサーだとか、

レーダーだとか、そういう類の物。



それなのに――。

あろうことか、美樹はここへ、

別の色を落とそうとしている。



「……ねえ、紡。美樹が、さっきあなたのこと見てたよ」



あえてその名前を出したとき、

私の中に暗い好奇心が微笑みかけてきた。



紡は、私と共有しているこの「景色」を、

美樹に明け渡すつもりがあるのだろうか。



「青山が? ……ああ、カイロくれたな。

あいつも熱心だよな、マネージャーでもないのに」



紡の反応は、拍子抜けするほど淡白だった。


彼の中に美樹の存在は、

まだ「風景」の一部としてすら組み込まれていない。



そのことに、私はほんのわずかな安堵と、

それを上回るさらなる不快感を覚えた。


『ドローン』のコントローラーは、まだ私の手元にある。



けれど、その『機体』に触れようとする指が、

すぐそばまで来ている事実は変わらない。



「ふーん。……美樹、紡に優しいもんね」



私は、自分でも驚くほど穏やかな声でそう言った。

美樹の震える指先。紡の無関心。



その二つを秤にかけ、どうすればこの「風景」が、

私にとって最も納得のいく形に収まるのか。



まだ答えは出ない。

――だが、それでいい。すぐに出すつもりもない。



けれど、紡の隣を歩く私の影が、

雪の上に長く、濃く伸びているのを、

ただ、ここから輪郭を視線でなぞることしかできなかった。




グラウンドを後にし、

駅へと続く緩やかな坂道を二人で歩く。



美樹は「先に帰ってるね」と、

所在なさげに小走りで去っていった。



結局、彼女は今日も紡に何も言えなかったらしい。



街灯に照らされた雪の結晶が、紡の肩に落ちては消える。


「――なあ、彩華」

「んー?」


不意に、紡が前を見つめたまま口を開いた。



「俺、絶対に行くから。国立」

「おう、頑張れ。言ったからには連れてけよ」



その声には、練習中とは違う、

ひどく重たい熱がこもっていた。



「忘れてない。小学校の卒業式の日に言ったこと」



――ああ、『あれ』か。



『俺がサッカーで一番になったら、彩華と結婚してやる』



夕暮れの公園。

幼かった紡が、顔を真っ赤にして叫んだ言葉。



当時の私は、それを聞いてどう思ったんだっけ。

たぶん、「いいよ」とだけ答えて、

すぐにボールタッチの練習してたっけ……。


私はため息をひとつ。

「……お前さ。まだそんなこと言ってるの? 何歳だよ」


その言葉は、ため息を巻き込んで、

白い霧になって寒空に消えた。



私が少し呆れたように笑うと、

紡は立ち止まって私を真っ直ぐに見た。



「いや本気。俺がここまで走ってこれたのは、

あの約束があったから」



「お前をフィールドに連れ戻すことはできなかったけど、

お前が見ている景色のなかで、俺が一番になれば……」



紡の言葉が、夜の静寂に突き刺さる。


――彼は信じている。


大昔の『呪文』のような約束が、

今も私と彼を繋ぐ唯一の鎖だと。



けれど、今の私にとってその言葉は、

彼という優秀な『ドローン』の機体を動かし続けるための、

便利な『電力』以上の価値はない。



彼のいう一番を目指してもがくほど、

彼のプレーは鋭くなり、

私の視界はより鮮やかに満たされる。



それだけで十分だった。



「……まあ。頑張れよ」



私は、彼の期待に応えるような、

けれど本質的には、空っぽな微笑みを向けた。



彼は満足げに頷き、また歩き出す。



紡が大事に握りしめている約束という名の鎖の端を、

私はもう、とっくに手放している。



彼は知らない。


自分が一番になったその先に、

私が用意している「正解」なんて、どこにもないことを。



ただ、今のこの「私に従順な司令塔」という

完成された形が続いてくれれば、それでいい。



背後で、美樹が去っていった足跡が、

新しく降る雪に埋もれていく。



紡のなかにある「約束」という熱と、

美樹のなかにある「好き」という熱。



二つの異なる温度が私の周りで渦を巻いている。


残念なことに、そのどちらもが、

私にとっては理解不能だった。


だからこそ少しだけ……そう、本当に少しだけ、

――面白くなってしまった。




翌朝、教室の窓の外は昨日からの雪がうっすらと積もり、

世界を白く塗りつぶしていた。



始業前の喧騒のなか、

私の席の隣で美樹が小さく肩を震わせていた。



「彩華……私、昨日は結局、何も言えなくて、

カイロしか渡してない……」


机に伏せられた美樹の指先は、微かに赤みを帯びている。


――カイロ喜んでたよ。


なんて耳触りの良い嘘をついた日には、

勘違いで飛び跳ねそうな気がしたので、飲み込んだ。



彼女が大事に抱えていたココアの温もりも、

紡に向けた切実な勇気も、

昨日の雪のなかに置き去りにされてしまったらしい。



……まあ、察してはいた。



「いいんだよ、美樹。昨日は寒かったし、

紡も練習でいっぱいいっぱいだったから」



私は、自分でも惚れ惚れするほど、

優しい手つきで、彼女の背中を撫でた。



手のひらを通じて伝わってくるのは、

彼女の情けないほどの脆弱さと、行き場を失った熱。



その熱が、私のなかの「何か」を静かに刺激した。



もし私がここで美樹を焚きつけ、

彼女の「好き」をさらに加速させたら……。



そして、彼女が紡に拒絶され、赤くなった美しい指先が、

絶望に染まる瞬間を間近で見ることができたら。



それは、完璧なサッカーの戦術を組み立てるよりも、

私の好奇心を満たしてくれるのではないだろうか。


ああ……ゾクゾクする。


……いやいや、そんな『人の心とか無いんか』

と聞かれかねない思考は振り切った。



「まだチャンスあるからさ。私も、紡が一番集中できる

タイミング、コッソリ教えてあげるからさ」



「……ありがとう、彩華。

本当に、お前がいなかったら私……」



美樹が顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめる。



彼女は、滑稽なことに、私を「救い」だと思っている。


けれど、私の胸の奥に灯っているのは、

救済とは程遠い、もっと冷たくて暗い輝きだ。



私は窓の外に視線を移す。

グラウンドでは、朝練に励むサッカー部の姿が見えた。



私の視界のなかで、私の思い描く通りに走り続ける紡。


そして、私の手のひらの下で、

私の言葉一つで形を変えていく美樹。


二つの「小さな生命体」が、

私の目の前で複雑に絡み合おうとしている。



それは、中学の頃に感じていたあの「退屈な勝利」とは、

全く違う質の予感だった。



まだ、インクはたったの一滴。

けれど、その一滴が波紋のように広がり、

私の世界をゆっくりと、確実に染め変えていく。



「――楽しみだね、美樹」



私は、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。

美樹はただ、心強そうに私の手を握り返した。



その手の冷たさが、今の私には、何よりも心地よかった。

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